傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

2024-01-01から1年間の記事一覧

「いろいろ」を生やす

年始はあんまり人気ないんですよ。だから年明けの日程が最速ですね。 そう言われた。簡単な手術を受けることになり、その予約を取ったときのことである。 簡単でも手術は手術なので、前後に生活の制限が発生する。年末年始は帰省や旅行で遠方に行ったり、つ…

わけわかんなくなりたいの

海外旅行がお好きなんですよね、どんな風に楽しむのですか。 そのように訊かれることがある。たいていの相手は話のつなぎにしたくて言っている。実際にわたしがどのように海外旅行を楽しんでいるのかを知りたいわけではない。だからわたしも「美術が好きなの…

信仰への介入に関する個人的な基準

わたしが近ごろ信仰について考えているのは、他人の信仰にどの程度介入するかに悩んでいるからである。この場合の「信仰」は伝統宗教や新宗教にかぎらず、科学的根拠なしに人に何かをさせる、超越的存在を(暗黙理にでも)想定した言動をさす。 典型的なもの…

わたしのいくらかの信仰

伝統宗教にも新宗教にも属していないという意味では無宗教だが、だからといって自分に信仰心に類するものがないとは思わない。たとえば和室のある家に入ったら畳の縁は踏まないし、自宅の箸や茶碗はメンバーごとに専用のものを使うという感覚がある。 わたし…

効率の領域

ふだん行かない部署を訪ねて、タスク管理ツールの使い方を教えてもらう。わたしの親しい同期の現在の配属部署で取り入れられて、「他部署の人でも、仕事で使わなくても、タダで教えてもらえるよ」と聞いたからである。 本を読んでひとりで勉強するのも良いし…

きみはラリらずに生きていけるか

二十代前半くらいまではいろんな経験が少ないから、何をやってもテンションが上がった。大学生のころなど、今にして思えば些細なことで脳内麻薬がばんばん出ていた。 旅先の景色はいつも新鮮で、恋愛は比喩でなく「死んでもいい」ほどのもので、友情は永遠の…

愛の純粋さを希求する

僕はしみじみとした気持ちで、「ぜったいに損をしたくないんだね」と言う。相変わらずだなあ、と思う。 この後輩は、「結婚は民法上の契約で、愛とはまったく関係のないものだ」と思っている。そうして「民事契約のごときものに、自分の愛が影響を受けていい…

絶対に損をしたくないんだね

法律婚という制度が嫌いで使用していなかった。しかし、一年ほど前に、現実的な利点に敗北して籍を入れた。具体的にはマンションを買うにあたって金利が有利なペアローンを組みたく、パートナーから「これはもうしょうがないんじゃない?」と言われて合意し…

それは装置として埋め込まれている

それはわたしの内面の底ちかくに装置として埋め込まれている。 その上に乗っかるようにしてわたしの人格が形成されている。それを取り除くことは、だからほとんど不可能である。それは時に煙のような憂鬱を吐き、時に極端な行動力をもたらす。 その装置とは…

ほうれん草の下ゆで、いつ覚えた?

三十近くまで知らなかったんすよ、ほうれん草は基本、下ゆでが必要だって。みんなどこで習うんすか。おかげでおれはほうれん草があんまり好きじゃなかったんすよ。そのまんま炒めてシュウ酸ごと食ったら、そりゃ好きにはならない。いやだなと思ったら、外で…

大学院進学ってどうですか

卒業生が研究室訪問にやってきた。大学院進学を考えているというのである。 わたしが勤めているのはいわゆる研究大学ではなく、大学院進学者は少ない。たいていの院生は資格取得のために進学して、修士号を取って出ていく。 そんなだから、一度就職してから…

ラベルのないときの顔

うちの人と一緒になろうと思ったきっかけ? きっかけは、ある。うん、だいぶはっきりしたやつが。 あの人が若いとき、勤めていた会社が倒産したの。それもだいぶたちの悪いつぶしかたで、従業員は何も知らなくて、ある日突然「会社がなくなります」と言われ…

生き物ではない者として

ちょっと自慢話を聞いてもらえませんか。 このあいだ、○○さんと仕事したんです。ええそうです、よくご存知ですね、そんなに知名度はないんだけど、僕は昔からとても好きで、彼の書いたものはすべて読んでいます。雑誌に少し書いただけのものも追っている。若…

アイデンティティの明細

ミッドライフ、いつクライシスしそう? 友人がそのように尋ねる。 中年期は長い。寿命が延びたら老年期ばかりが延びるというのではなくて、どうやら中年期も長くなっている。そりゃそうだ、人生わずか五十年なら四十すぎは年寄りだが、八十九十まで生きるな…

気の合うところ

若いころ、頻繁に引っ越しをしていた。「絵心ゼロの北斎」と言われたこともある。なんと役に立たぬ北斎か。 引っ越しを重ねると、そのうち旅行先などでも「住める/住めない」を判定する能力が身についた。 その町の環境や成り立ちや住民の需要が渦をなして…

ヒマだから死について考える

年に二回、わたしがいる意味がほぼない会議に出る。わたしには何の役割もなく、しかし一応は出るのである。直属の上司と一緒に出るのだが、上司にだって発言の機会はほぼない。別の人たちが準備してきた書面を読み上げ、皆で承認する。しかし実際には先に各…

特別でない人の選ばれかた

先だって中古のマンションを購入した。紹介者は飼い犬である。 わたしの犬は四歳の柴犬で、和犬のわりにお調子者の社交家である。朝によく行く公園と夜によく行く別の公園に、それぞれ顔見知りの犬たちがいる。子犬のころはとっくみあって遊んだものだが、も…

プリキュア・メカニカルハートのこと

夏の休暇は旅行するの。あらいいわね。いつ戻るの。そしたら一日二日ヒマな日があるでしょう。帰っていらっしゃい。 母が珍しく強くわたしの帰省を要求した。その意図するところは明らかで、わたしが延々と物置がわりに使っている昔の子ども部屋を片づけろ、…

伯父の役割

僕の生家では、盆正月に親戚の集まりがある。僕はそのどちらかには行くことにしている。東京に出て三十年、いくつかの試行を経てできた習慣である。行きたくて行くのではない。後ろめたいから行くのである。 両親は僕を適切に養育したと思う。弟とも悪くない…

芸術家逃げ

だから排斥用語としての「芸術家」は禁止したほうがいい。 会社員兼美術家の友人が言う。 わけのわからない存在をとりあえず保留するためのラベルとしての「芸術家だから」は、百歩譲ってよしとする。それは「見たことないタイプの人間に遭遇してどう振る舞…

ちゃんとしているとはどのようなことか

わたし、ちゃんとしてないのが恥ずかしくてさあ。 友人が言う。わたしはとても驚く。 この友人はわたしと同じ芸術の大学を出て新卒で正社員になり、三十代の現在は立派な中間管理職であって、そのうえ作家としての活動も続けていて(いわゆる美術家である)…

身も蓋もない家事の話

家事分担って、揉めるんだってさ。 わたしがそのように言うと、夫は完全に他人事の顔で、なるほど、インターネットでもよく話題になるね、などと言った。うち、揉めないじゃん、なんでかなと思って。わたしが訊くと夫は戯画化された西洋人のように肩をすくめ…

タマのこと

タマは近所の猫である。ムギとクロという二匹の同居猫と一緒に暮らしている。緑がかった灰色の目の、非対称のハチワレの、小柄で静かな猫である。夕刻になると、白髪をゆるやかに編んだ、緑がかった琥珀の瞳の、どことなくタマに似た女性が、猫たちに家の中…

男女の友情

「男女の友情はありえるか」という議論があるのだそうだ。 ふーん。ないと思う人にはないんじゃないですか。 僕はそのように思う。 というのも、僕には高校生のときから仲の良い、同い年の異性の友人がいて、僕もその友人も恋愛対象は異性で、いずれも性愛を…

飛行機の夢

空港へ行く。半日ほど空を飛ぶために行く。そのあと現地の国内便に乗り換えるので、まる一日移動している勘定である。 チェックインカウンターへ行く。オンラインチェックインのシステムがダウンしていて、何度ためしてもできなかったので、久しぶりのカウン…

壁を塗りに来ないか

壁を塗りに来ないか。 そのように誘われたので行くとこたえた。変わった誘いにはとりえあず乗っかるたちである。中古の一軒家を買って自分で壁を塗っているからやってみないかと、そういう話だった。 往路の電車で友人が作成した作業解説動画を閲覧する。大…

改姓とわたし

パートナーから法律婚の話を詰められたとき、サブ議題として提出されたのが改姓の話だった。 彼は自分の姓に愛着があり、しかし自分の感情以外に「変えてくれ」と依頼する根拠を持たなかった。そして彼は、「カップル間での完全なイーブンはまぼろしだが、そ…

納豆とわたし

わたしが納豆を食べるようになったのは二十八歳のときである。 食べ物の好き嫌いの少ない子どもだったのに、納豆だけはどうしてか強く拒否していたらしい。生家は関東だが、納豆を常食する家ではなく、食べなくてもよかった。しかし、小学校の給食で年に一度…

解剖されるシンデレラの夢

友人の壮行会のような集まりに参加した。配偶者の海外赴任にあわせて職場を辞め、子を連れてついてくのだそうである。なにしろ人づきあいの多いカップルなので、集まれる人は集まってくれたほうがラク、とのことだった。 そんな場なので、出席者の半分は顔見…

光る丘の向こうに消える

皆で草原を歩く。彼も皆と話しながら楽しそうに歩く。それから、ふとそこを離れて、草原の向こうに何かを見つける。いくらか離れる。わたしはその姿に声をかける。強い陽の光が邪魔をして、彼の姿がいくらか抽象的な彫像のように見える。 彼はわたしより少し…