傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

2016-01-01から1年間の記事一覧

まず、ストレスを与えます

そうしてそれを解消します。あたかもその人が「自分で解消させた」かのように。 私はちょっと困惑し、一秒後にはすっかり感心して、口を半開きにしたまま、彼女のせりふの続きを待っていた。それから気づいた。あ、今のもですか。彼女はうっそりとほほえんで…

無駄のない生活

僕の生活には無駄がない。 朝は五時に起きる。ごく軽いストレッチと筋力トレーニングを済ませ、シャワーを浴び身支度をして部屋を出る。僕の住んでいるマンションでは二十四時間ゴミ出しを受け付けてくれるけれど、その恩恵にあずかっているのは僕というより…

親になったらわかること

親になったらわかるって、言われるんですけど。若い部下が言う。彼は名を山田といい、たいへん優秀であって、しかしかなり繊細であり、私はよく彼の悩みごとなどを聞く。夜の、人のすくなくなったオフィスで、なんとなく開始した休憩の途中、複雑な家庭の事…

私の職場の亡霊の話

帰ったふりしてオフィスにいちゃだめ。仕事の持ち帰りも禁止。社外でのメールチェックも控えるように。あと有給、最低でも三割は消化して。言うこと聞いてくれないと、僕、泣いちゃう。 上長がそう言った。私が言われたのではない。私は頼まれなくても有給休…

心めあて

忙しいのに来てくれてありがとうと僕は言う。それから、どうしてと訊く。こんな時間に来てもらうなんてあきらかに僕のわがままだよね。どうしてそんなに甘やかしてくれるの。 僕はそのようなせりふを、できるだけ軽く発する。あなたに気に入られようと思って…

夢の腐敗

わたし、夢がないんです。彼女はため息をついてそう言った。そうですかと私はこたえた。それは夜に見る夢ではなく、「きりんになりたい」とか「マラソンでサブスリーを達成したい」とか、そういう夢でもなく、「将来就きたい具体的な職業がない」という意味…

被差別売ります

もてるよねえと女たちは言う。可愛いものねえと私も言う。そんなことないですよおと彼女はこたえる。その回答はありふれているのにとても愛らしく、ちょうどいいタイミングで、ちょうどいい視線とともに発せられる。私は感心して、それから、言う。ねえ、も…

信じてなかった。愛してた。

信じてたのに。隣の部署で働いている社員が悲痛な顔をし、ため息をつく。その発言により、会社の飲み会の一角が「妻に裏切られた彼をなぐさめる会」としてセッティングされてしまい、私はどうやって離脱しようかと思案する。 妻は家事をするもの。育休中なら…

頭のなかの寄生虫

おめでたー?ね、そうでしょ、おなかちょっと大きくなってきたわね?はじめは辛いわよねー。気をつけなきゃいけないことも多いし! テーブルをはさんで対面している取引先から裏返った声が浴びせられて私はとっさに当たり障りのない表情をつくる。いいえ、と…

あなたに話しかける資格

これは、仕事ですか。 いい質問ですね。僕は仕事ではないと思っています。あなたは? わたしはわかりませんでした。言わずもがなでなんとなくお酒の席にいるのもいやでした。だから訊きました。 当然の質問です、「このあと時間ありますか」って訊いたの、僕…

邪悪

子の保護者と思われる女性が子の髪をつかみ強く揺さぶった。あんたは、あんたは、と女性は叫んだ。比較的すいた、平日昼間の電車のなかでのことだった。車内には私をふくめ、仕事中の移動と思われる格好をした大人、学生らしき若者、老夫婦などがいた。全員…

琥珀を削る仕事

学生時代にときどき、出版前の原稿に赤ペンを入れるアルバイトをしていた。最初は誤字脱字の修正を頼まれて、そのうち用語の統一や読みやすさに関する提案も入れるようになった。自分の専門に近い(いかにも売れなさそうな)書籍について、誤字脱字の修正を…

大人になれば世界は

目を閉じて、ひらいて、そうして同じものが見えることを、いつも不思議に思っていた。世界がなくなっていない。それはとてもおかしなことであるように思われた。私にとって世界は、またたきのあいだに反転していてもおかしくはないような、あやういものだっ…

恋愛前夜

その日はやけに酔った気がしたし、なにかしら不快にも感じられ、帰るなり浴槽に湯をためてじっくり浸かり睡眠導入剤を服んで眠った。いつも薬を使うのではない。眠れない予兆があるときに使う。自己管理というやつだ。 起床すると頭に煙が詰まっているようで…

手札を並べよ

なあ、焼豚。その場に集まっていた友人のひとりが言った。学生が「起業するから大学を辞めます、起業の内容はこれから考えます」って言ったら、どう回答する?つまり、教授として。教授じゃない、と焼豚は応えた。准教授。 焼豚というのはもちろんあだ名だ。…

愛することなく愛されるということ

連絡先を流し見る。しばらく連絡していない相手を選択し、定型文をコピー&ペーストする。さまざまなアプリケーションでそれを繰りかえす。一日程度のあいだに、ぽつりぽつりと返答がある。もちろん半分以上の連絡先は沈黙したままだ。 誰かが僕の近況を訊く…

ジェントルマンの憂鬱

新しいパターンですね、と私は言った。彼は小首をかしげ、コーヒーをのみ、それから、どういうこと、と訊いた。間を置いたのは訊かなくても勝手に解説するのを待っていたのだろう。 大量の同期がいるわけではないので、入社時期が近いと社内での距離感も近い…

僕のために泣いてくれ

ねえ、マキノさんは、唐突な恋って知っている?つまり、相手のことをよく知らないのに、風景から浮かび上がるように誰かを見つけてしまうようなこと。そうしてその人がわたしの手を取ってくれるようなこと。 私もそれなりの年月を生きているから、うん、そう…

幸福に帰る

重いでしょう、と彼女が言う。重いねと私はこたえる。ごめんねと彼女が言う。誰かに聞いてほしくて。ひとりじゃ受け止められなくて。 こういう会話は何度目だろう、と私は思う。何十回もしたと思う。私は、人の話を聞くのが好きだ。何を聞いてもおもしろがっ…

「尊い犠牲」候補の反乱

わたしはその映画、気が進まないな。評判がいいのは知ってるけどね、うん、できがいい悪いじゃなくて、おもしろいおもしろくないじゃなくて、わたし、なんていうか、パニックものの映画、観たくないの、あんまり。怖いんじゃなくて、えっと、怖いのかな、怖…

JR恵比寿駅23時36分の狼煙

どうしてこんなところにいるんだろう。そう思う。自分も、向かいの人も。どうしてもこうしても、仕事上の必要がない相手を食事しようと言って呼び出したんだから、当たり前に適当なものを食ってるんだけど、お食事をしませんかという誘い文句の目的が食い物…

わたしたちの不合理な取っ手

エスプレッソを考えたイタリア人は偉いですね。偉いですよね、こんなに美味しいんだものね。でもこのカップは最悪、あきらかに持ちにくい、とくに、取っ手の穴、圧倒的に、意味がない。たしかに、指は入らないですね。そう、指が入らないんだから、耳たぶみ…

僕の大嫌いなブス

僕があの人を好きだったのはあの人がブスだったからだ。当の本人が、あっけなく、「きゅうりはみどりいろ」と言うみたいに、「わたしはブスだ」と言っていた。 あの人は大学の先輩で、まわりにいつも誰かがいた。僕は馬鹿じゃない。趣味も悪くない。本だって…

わたしの仕事

夫の転勤にともなって会社員を辞めたあと、大学で専攻していた分野に関連するライターを始めた。独身のころに何度か書いたことがあって、運良く継続的な原稿の依頼をもらえたのだ。ありがたいことにその後、別の媒体からも同様のお話があったけれども、子ど…

愛のもたらす具体的な効用

痛み止めを使えばすべての痛みが取れるのだと、ぼんやり思っていた。市販薬ならいざしらず、入院して病院で入れてもらうような痛み止めが効けば、苦しくないのだろうと。でもそうじゃないみたいだった。考えてみれば当たり前のことだ。解熱剤があれば熱が出…

屋根裏の奥の箱

うん、今日は女子会だから、じゃあね。前を歩きながら夫と通話していた友人のせりふが私の横を過ぎ、雑踏に消えていく。私は首をかしげる。女ばかり三人で週末の夜を過ごすから女子会というのだろうけれど、そもそもどうして性別で区切るのかわからない。友…

1/103の人間

あの映画、観たよ、人工知能の、おもしろかった、チューリング・テストって教科書に載ってたよね、懐かしい。そうだっけ、学生時代とかよく覚えてるな、思えば遠くに来たもんだ。十数年後にもこうやってしゃべってるなんて、ねえ。まともに話す相手なんかそ…

線形の報酬に関する問題、あるいは努力の正しい報われかたについて

あの、わたしの、彼氏、マナブさんていうんですけど、サネヨシマナブさん。彼女がはにかんで言い、空中に文字を書く。サネヨシさん、と私は繰りかえす。ちかごろ私の部下の若い女性たちのあいだで交際している相手のフルネームを告げるという妙な流行があっ…

ごく普通の家族の話

そうだこないだわたし養子に入ったの。うん、母が、わたしと妹ふたりに、死んだら貯金とかくれるっていうからさあ。そう、父の再婚相手。正確には再々婚相手。あ、そのあたり話してなかったっけ。 わたし七歳で実母を亡くしてるの。わたしと上の妹を産んだ母…

成熟と腐敗のあいだ

中年の危機かな。そう言ってみると友人はなんとなし上を見る。中年男が若い女の子とつきあうのって、そう呼ばれるんじゃないの、と僕は尋ねる。俺まだいける、みたいな、そういう欲望。友人は、うぅん、というような、否定とも肯定とも取れない小声を返し、…