傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

2011-01-01から1年間の記事一覧

悪意の不在と引けない椅子

擦過音に振りかえると私のデスクの後ろの棚が取り除かれていた。取り除いているのは総務の伊元さんだった。伊元さんは長身でしっかりとした骨格を持ち、ひと一倍の腕力があるように見えるけれども、棚にはまだものが入っているし、動かしているのがひとりな…

巨人たちの都市

大きな駅から新幹線に乗り在来線に乗りもっと大きな駅の西側に出ると建物が急に大きくなって私は不安になる。見知ったはずの青梅街道が急に広くなる。空がとても遠い。私は巨大なビルディングのあいだを縫って無力なこびとのように走る。巨人の都市、と私は…

肯定供給機の反乱

彼女のほほえみには抜群の安定感があった。誰かにうなずいてみせることに関してキャリアを積んでいる笑顔。ええ、そうね、でももう、いいの。そのせりふはいかにも彼女のものらしかった。彼女は許容する、彼女は寛容でいる、彼女は忘れてあげる、あの人はや…

架空の拳

彼は彼女がソファにごく浅く腰掛けていること、その脚はすぐにでも立ち上がる準備ができていることを見て取った。彼は苦笑し、それから少しかなしくなり、それらを冗談でくるんでしまうために両手を広げ、軽く挙げてみせた。何もしない。彼がそう言うと、そ…

憎しみを捨てる

うちの男の子がねと彼女は言う。彼女には三歳の男の子がいるけれど、その子のことはそう呼ばない。武生がね、と言う。うちの女の子、というときも同じだ。彼女に娘はいない。うちの男の子がね、同期が結婚しちゃってつらいみたいで、ああその同期の女の子を…

マテリアルガール2011

結婚はいつしたいと訊くと二十六と彼女はこたえる。微塵の迷いもない。あとね、したいんじゃなくって、するの。そうつけ加える。いいねと私は言う。いいね、相変わらず、西村さんは、とても。彼女は上品にほほえみを返す。私は大学生のときに彼女の中学受験…

帰れない子ども

ちょっと任せる、と塩谷さんが言った。はあいと私はこたえ、キッチンの山畑さんが少し遅れて唱和した。私たちは三人で深夜のファミリーレストランを守っていた。私は十八だった。山畑さんは大学生のアルバイトで、塩谷さんは深夜メインの副店長。私はお客が…

返しのある針の傷

私は口をきわめて見も知らないその人を罵った。彼女はひっそりと笑い、そこまで言うほどたいしたことじゃないよと言った。でもありがとう。 私はコーヒーをのむ。コーヒーはいい香りがするから気持ちがささくれだっているときにはお酒よりコーヒーを選んだほ…

あなたの図々しい質問

それ三回目ですよと私は言った。うそうそと森先輩は言った。嘘じゃないですと私はこたえた。私が二年生のとき、講座に出入りしはじめてすぐと、先輩が卒業する直前、それから、今です。先輩は私と羽鳥さんの顔を見て、執念深いと言って、笑った。覚えてない…

境界を監視する

私たちは落ちこんでいた。早く介入していればと私は言った。それは無理でしたよと林さんが言った。もっと遅れていたかもしれないんですからと石塚さんが言った。これでよかったんですと橋本さんが言った。そうしてうつむいた。私たちは誰も、いいことをした…

自分を探せない

はあ?もう一回説明してくんない?は?それ本気で言ってんの?違う?違うって何が? 部下を問い詰めるときの渡辺さんの物言いにはある種の人間に共通する特徴があった。まず蔑みの感情をこめたメッセージを発する。「はあ?」というのがその代表だ。私の席か…

ふらんすはあまりに遠し

そんなの四ツ股のばちがあたったんですよと誰かが言った。カトウくんはそちらを振りかえって声を出して笑った。なに?四人?同時に?まじで?とシライシさんがたたみかけ、まじっすとカトウくんでない誰かがこたえる。シライシさんはつくづくとカトウくんの…

周回遅れの証拠

現代の厄年なんじゃないと誰かが言った。その場に集まった人々の外見は無軌道に異なっていた。ふだんは接点のない者同士で、ただみんな本が好きなので、本の話をしようとして来たのだった。それぞれが初対面であったり、そうでなかったりした。 そうして誰か…

私の手を引いて

私たちはお行儀よく並んで天使の声を待っていた。いちばん前は教会の扉がひらくまでりんごをかじりガラス瓶に入った炭酸水を飲んでいた東欧系のカップル、そのうしろはドイツ語を話す団体。その後ろに日本人の私たち。私はウィーンに来てから知りあった留学…

荒野の端のキャッチャー

空いてないかなと友だちが訊く。空いてると私はこたえる。空いてるけど、勉強会かあ。小説の読書会とか、美術館ツアーとか、ホームパーティとか、トレッキングとか、そんなだったら、行くんだけど。サヤカには向上心というものがない、と友だちが言い、どう…

ヒーローの正体

遅くまで残業していると、ナミキさんがコーヒーを飲みにきた。お菓子を持っているので禁止令はどうしましたと訊くと、わかりゃしませんよとこたえて笑った。先だって来たとき、体重増加により彼女からオフィスグリコ禁止令が出ましたと言ってしょんぼりして…

日経平均株価が怖かったおばあさんの話

小さい、東京弁、指が長い、右手の小指の爪が黄色い、めがねはピンクのセルフレーム。彼女はそのおばあさんの特徴をおばあさんの名前とリンクして頭の中に列記した。新しくお年寄りが来ると彼女はいつもそのようにする。 彼女が相手を覚えるには、少し長い話…

蛙にしてはいけません

別の部署から顔見知りの同僚がやってきて、はちにいぜろの件で、と言った。後ろの席の後輩が立ち上がって、ヤマザキさんですねとこたえ、出ていった。 午後を少し回ってから給湯室に立ち寄って昼食を温めていると、後輩が通りかかって、マキノさんこれからで…

シャッタを切る指

夏の金曜の夜だからか、オフィスにはほとんど人がいなかった。集中力が切れて、雑念が浮いてきた。「なぜ私は仕事をしているのか」と思い、この仕事が好きだから、それからもちろん食いっぱぐれないため、あと、誰かに必要とされていたいから、とこたえを出…

被初恋の人

あんまり知らない人から、それもちょっと悪くない感じの人から好きですって言われたら、マキノどう思う。彼がそう訊くので私は少し考える。どうって、相手によるけど、嬉しいかな。でも相手のことよく知らないんだよね、それならまずはお話をしなくてはね。…

だからボストンに行かなかった

彼はそのとき十八で、半年前まで両親や妹と住んでいた家にひとりで残っていた。それはアメリカ合衆国の、メキシコにほど近い都市の郊外にあった。家族は日本での生活を再開し、彼は残って進学することになっていた。 彼は彼の境遇に満足していた。一人になる…

彼は何を詐取したか

渋滞は地の果てまで続くように思われた。地の果ては見渡すかぎりの断崖絶壁で(地動説なんて真っ赤な嘘だったのだ)、渋滞の先頭に達した車がざあざあ落ちていく。高速道路には逃げ道がない。この車を乗り捨てて逃げなくては。 私がそのような妄想に浸ってい…

僕は忙しくない

久しぶりに彼が参加するというので楽しみにしていた。その会合は仕事がらみで成立した集まりではあるけれど、参加者の年齢が近くて直接的な利害関係が薄いので、行って話すとなんとなく元気になる。 彼はずいぶんと多忙な職場にいて、子どもが生まれて一年く…

二重写しの視界

彼のあいさつを聞いて、堂々としている、と私は思った。とても、堂々としている、このひとはまるで、失敗したことがないみたいだ。 彼はずいぶんと名のある企業から、若いうちに裁量を与えられたくて転職してきたというのだった。いかにもさわやかな様子だ…

彼らの報酬

被災地入りの前日、夕食をともにした友人にそのことを話すと、友人は頬杖をついて彼女をじろじろ眺めまわし、それから、いいなあ、私も被災地、見たいなあ、と言った。 彼女は喉に上がってきたなにかをごくりと飲みくだし、なるべく平静な声をつくって、いい…

情熱の延命措置

なんだかデートみたいですねと私は言い、デートじゃいけませんかと彼は言った。私は彼と彼の背後にいる、物理的な背後ではなく観念としての背後にいる彼女を見た。彼女は私の古い友人であり、彼は彼女の恋人で、もう四年近く一緒にいるのだった。彼らはとも…

魔法使いの種類とその資格について

忘れたころに電話がかかってくるのはいつものことだ。最近どうと訊かれるのもいつものことだ。だから私もいつものように近況を報告する。私が先に話し、彼があとに話す。電話はいつも彼からであり、私はそれが取れなかったときは必ず折りかえす。 いつのまに…

女優と地蔵と冷蔵庫の中

また地蔵になってしまったと彼女は思い、そういうときに特有の、自分の中身がごっそり抜け落ちたような快さと後ろめたさを感じながら自宅の扉をひらいた。二日ぶりだ。まずは浴槽にお湯をため、待ちきれずそこに入り、半端な半身浴みたいなことをしながら全…

遭難のあと

夜中まで仕事をしていて手洗いに立ち眠気覚ましに歯を磨いてると、顔見知りの別の部署の社員が入ってきた。彼女はぱっと顔を輝かせて私の使っていた電動歯磨きの商品名を宣言した。うれしそうだった。かわいい人だなと私は思う。中年にさしかかった私よりさ…

恋愛的疑惑と少量の善良

ミエちゃんが俺とつきあえるとか思ってたらどうしようと彼は言い、本人に訊けばいいじゃんと私はこたる。彼は眉を歪め、野菜を鍋に放りこむ動作と同じ速度で言葉を投げる。マキノってなんでそんなに言語コミュニケーションを信じきってるわけ、この世がそん…