張良は、戦国時代末期~前漢の人物。韓の人物で後に漢の留侯。姓は張、名は良、字(あざな)は子房。
漢王朝を興した高祖・劉邦の功臣であり、その中でも最も著名な三傑[1]挙げられる。
軍師として帷幄に控え、政戦両略の首謀を為した。
祖父である張開地と父である張平は韓の宰相を務め、五代の王に仕えた重鎮であり、召使は三百を数えた。また、淮陽というところで礼を学んだことがあった。
そんな名門の嫡子として生まれた張良は、草莽から立身した劉邦の家臣では屈指の出自である。
韓が滅亡した時、張良はまだ年若く官には就いていなかった。祖国を滅ぼした秦の始皇帝に対する恨みは深く、全財産を費やして刺客を捜し求め、弟の葬式も出さない程であった。 やがて東の倉海君に会い、力に優れた士を紹介されたので雇い、百二十斤の鉄槌を手に入れる。
士を連れて、東方の地に遊幸していた始皇帝を博浪沙の地で狙撃するが、槌は副車に当たり暗殺は失敗。張良は天下のお尋ね者となり、一時は姓を変えて逃亡生活を送る事となった。
下邳の地で、兵書を諳んじながら遊侠の道に入り、世の情勢の変化を待つ。その間に楚の名門出身の項伯(纏)という人物が殺人を犯してしまい逃亡、張良に庇護を求めて来た事もあった。
やがて時は十年経ち、天下は始皇帝の死と奸臣の跋扈で混迷。陳勝・呉広の乱を契機に反秦の決起が世を覆う事となる。張良も再び志を遂げようと、百人の同志を連れて楚の地で自立した景駒という有力者の所に身を寄せようとした。
その途中の留の地で劉邦と出会う。劉邦は張良を厚く遇し厩将とし、張良の説く兵法を上策とし、常に聞き入れた。
今まで自身の策が世の人に受け要れられなかった張良は、劉邦を天授の英傑だと感銘しこれに従うことに決めた。景駒の所には参加しなかった。
劉邦もまた、出身地である豊の地を守っていた雍歯が寝返り、取り返すことができずに苦しんでいた。景駒に兵を借りに行ったのもそのためであったが、張良の参加の後に戦略を転換して碭の地を攻めて降伏させる。数千規模の勢力から一万人規模の勢力へと躍進した劉邦軍はようやく豊を奪還することが出来た。
楚の大将、項梁が楚の懐王を擁立すると、張良は項梁に韓の公子である横陽君・韓成を立てて韓を復興させ、楚と連合させる事を進言した。項梁はこれを採り入れて成を韓王とし、張良を司徒に任じた。これで宿願のひとつである韓の再興に着手する事ができるようになる。
韓王との韓土の奪還戦は数城を得てはすぐに秦に取り戻されるなど思わしいものではなかった。張良は潁川地方を遊撃することにしたが、項梁が秦の章邯に討たれると、韓王成は楚の懐王のいる彭城に逃げていってしまう。
楚の懐王は秦の主力には宋義と項羽を派遣して攻撃させ、劉邦には彼らを支援しながら、咸陽を目指させることにした。項羽は途上で宋義を斬り、章邯・王離率いる秦の主力軍を鉅鹿において破る。
この頃に張良は秦の咸陽を目指してきた劉邦と合流して、韓の旧領である十数城を降伏させる。一段落すると、劉邦は韓王成には韓の地の守備を任せ、張良を客将として受け入れて従軍させ、秦の経略の為に帷幕に詰めさせた。
張良のその後の献策は功を奏し、劉邦が宛城を陥落させずに撤退するところを説得して引き返して急襲させて宛城を陥落させる。さらに関中を守る南の関所である武関を突破し、嶢関を守る秦軍の将も偽兵の計で兵力を増やして見せた上で、酈食其を派遣して贈賄して将軍を油断させた。その上で「将軍は従っても兵は従わないかもしれません。油断したところを攻撃しましょう」嶢[2]と進言する。中に入った劉邦は不意打ちで秦軍を破った。
張良の策略は秦滅亡の一助を成し、遂に劉邦は秦都咸陽を落とす事に成功したのであった。秦王子嬰は劉邦に降った。
咸陽の秦宮は天下の贅が結集した楽土であった。劉邦はここに留まって、おおいに逸楽したいと思ったが、まずいと感じた古参の義弟・樊噲は、劉邦を諌め、ここを去るべきだとしたが、女と財宝に目がくらんだ劉邦は聞き入れない。張良は樊噲の諫言を是とし、彼の言葉を理非を揃えて補完し、劉邦を翻意させた。そこで劉邦は覇上に宿営する。
時に劉邦は張良の意見を聞き入れずに失策を犯す事もあった。秦を落としたのは良いが、その後、関中を支配しようとして、函谷関を閉じて、項羽をはじめとする他の諸侯が関中に入ることを阻止する処置を取ってしまう。秦の領土を私物化すると捉えかねない処置は、当然項羽の逆鱗に触れる。
項羽は歴戦の名将である。その兵も多く精強であり、40万人の兵力を有していた。劉邦の軍勢は10万人程度であり精強であるとも言えず、とても及ぶものではなかった。
項羽は劉邦に対する殺意に燃えた、劉邦に討秦を先んじられた事も不愉快であり、劉邦が門を閉じて自身に叛意を見せている事も不愉快であった。軍師范増も項羽の考えを支持した、むしろ項羽より熱心であった。
こうして天下の耳目が項羽と劉邦に集められる中、ただ一人、張良を見ている男がいた。かつて張良に命を救われた項伯である。彼は項羽の叔父であり、項羽の軍中にいたのだ。このままでは旧友が劉邦と束ねられて、処斬されてしまう。彼は夜中に劉邦軍の陣地にやってくると、全てを捨てて張良に共に逃げようと提案した。
項伯の義に対して、張良は劉邦に味方することで義を返して欲しいと頼む。項伯は承知し、劉邦と義兄弟の契りを交わし、助力を約束した。そして両雄の落とし所を決めるべき会見が設けられた。
鴻門の会である。表面は宴の体裁をとっていたが、その実、被告である劉邦の罪を鳴らす裁判であり、即死刑を執行する準備が整えられた窮地の席であった。
だが、張良の機転、樊噲の乱入と雄弁、項伯の義侠、項羽の不断もあって范増の謀は不首尾に終わり、張良は最後まで会に残って項羽と范増への釈明に務め、遂に劉邦は項羽の鋭鋒をかわしきる事に成功したのであった。この会見を機に、項羽と劉邦の緊張は一時緩和した。
劉邦は漢王となり、巴と蜀の地を得る。張良に財を下賜し労を労ったが、張良はほとんどを項伯に献じた。張良は項伯を通じて、劉邦を漢中に封国させる事を打診し、項羽もこれを認めた。[3][4]
劉邦は漢中に赴任する事となり、張良は韓に戻る事となった。別れる前に劉邦に、桟道を焼いて東上する意思を無くしたと見せかけて、項羽の警戒を解くようにと献策を残した。
だが韓王成は、項羽に殺されていた。韓王成の司徒である張良が劉邦と懇意である事を疑っていたとする説もある[5]。なお、主君を殺された張良の態度については史書は触れていない。そのため、張良の、後の劉邦を助け、項羽を討つための活動が韓王成の復讐のためかどうかは、史書には記されていない。
こうして張良は劉邦の元へ奔った。すでに劉邦も決起しており、韓信を大将に迎え、三秦の地(関中)を平定していた。劉邦は張良を成信侯に取り立てた。
その後、彼がした事は、項羽に書簡を送り、劉邦に野心は無い事、斉と趙が謀反を企てている事を知らせ、項羽の眼を劉邦から逸らさせる事であった。項羽はこの策略により、斉を討伐することに決めた。
項羽が斉討伐を行っている時に、義帝(楚の懐王)を殺害した項羽を覇王とする楚の非をならし、不満を持っていた諸侯を率いて項羽の本拠地である彭城を落とした劉邦だったが、斉から引き返してきた項羽は強く、よく打ち破られた。
劉邦は再編の為に、東方を放棄し、そこを第三者に棄て与えようとして張良に人選を尋ねた。張良は楚の黥布(英布)を裏切らせる事と、梁の彭越の名を挙げた。さらに漢では韓信のみが当たる事が出来るとし、この三人に、かの地を与えるべきと答えた。こうして彼らをもって、燕、代、斉、趙の地を経略させた。
張良は生来病弱な身で、将軍となったことがなく、常に参謀として、ときおり劉邦に従軍しただけであった。
だがやはり楚は強く、滎陽において、劉邦は項羽に城を包囲され、焦った劉邦は酈食其の策を採り入れる。それは滅ばされた六国を再興させて、漢の威信を高める事であった。その気になりかけた劉邦は印を造り、彼に授けた。所用から戻ってきた張良はこの話を聞くと、劉邦に七つの問いかけをした。かいつまめば、六国を再興させて御しきれる実力と徳を備えているのでしょうか?と。劉邦は自信がないを七連発し、酈食其を呼び戻し、印を回収すると壊したのであった。
韓信は斉の経略に成功し、自身を仮王に封じて、斉の安定を図るべきだと伝えた。使者に対し劉邦は怒ったが、楚打倒には韓信の力が不可欠であると考えた張良と陳平は劉邦の足を踏みつけて、これを認めさせた。張良は使者として韓信のもとへおもむき、斉王を授ける使いとなった。
楚漢戦争は、約五年間行われるものの決着は容易に着かず、両雄の疲弊を招き、やがて和平が結ばれた。東を楚、西を漢の領土にして天下を中分するというものである。
これを容れた項羽は、楚軍を率いて帰還し始めるが、張良と陳平はその背後を騙し撃つ事を献策した。項楚の強さは尋常ではない。和平を受け入れる程に弱っている今が天の機会だと。
しかし、追撃した漢軍は楚軍の逆撃を被る。当初、連合を約束した韓信と彭越の両軍が来なかったからである。
次善を問うた劉邦に、張良は、東を韓信に、北を彭越に気前良く分封してしまう事を提言。これが当たり、韓信と彭越をはじめとして、各地でも反楚の出師が起り、遂に項羽は垓下に大敗し、楚は滅びてしまった。
楚を滅ぼし、漢王から漢皇帝となった劉邦は功臣の褒賞に取り掛かった。
張良には、野戦の功績はないが、帷幄の謀を巡らし、勝利を千里の外に決したとして、斉の三万戸を好きに選べと下賜した。しかし張良は、天命が劉邦に味方して、張良を劉邦に授けたものであり、またたまたま劉邦が採用してくれた策略が当たったのは運が良かっただけだとして、劉邦と出会った留の地を貰えれば十分だと返答した。
こうして同じく三傑と呼ばれる蕭何と同時に留侯に封じられた。それでも張良の所領は一万戸であり、トップの曹参より600戸少ないだけであった。
第一次の分封は済んだものの、大功臣級の二十人余が封じられたのに過ぎず、未だ恩賞に与れぬ者達の間に不穏が起ち込め始める。彼らは徒党を組んで、劉邦の膝元でもはばかる事なく、密談に勤しんだ。これを察知した張良は、反乱が起きかねない事を忠告する。驚く劉邦に、最も憎んでいる功臣を表彰して彼らの不安をなだめる事を献策した。功績もあるが、劉邦が憎んでいる事を群臣が知る雍歯が顕彰されて、人々は胸を撫で下ろした。
漢の帝都を決めるべく左右の臣の間で、洛陽か長安かで議論が起った。張良は長安を金城千里、天府の国として推した、劉邦は長安を都に定める。
多病であった張良は、道家の導引(健康養生法)に従い、穀物を食べないようにして、門を閉ざして外出しないようにした。[6]
天下は定まったとはいえ、暫定的で、特に楚の韓信、梁の彭越、淮南の英布は王と将の力を備えている上に、劉邦とのつながりは利害でつなぎとめられたものであり弱い。劉邦も次第に老い、二世皇帝の話題が朝廷に上る事も多くなってきた。候補者は、皇后・呂雉の生まれの皇太子劉盈と、側室・戚夫人の生まれの劉如意の二皇子である。戚夫人に対する劉邦の寵愛は深く、劉如意は恩恵を存分にあずかった。また、皇太子は嫡子ながらも、如意に比べて惰弱と映り、劉邦は本気で廃嫡を考え始めていた。
皇太子の母である呂皇后(呂雉、りょち)は危惧を抱いて、張良に入れ知恵を求めた。
最初は、臣が百人居てもどうにもならないと断ったが、性急に責められたので、やむを得ずひとつの策を献じた。かつて劉邦が招いたものの、逃げられてしまった四人の老賢人を皇太子の下に招くという内容である。招かれた老賢人達は皇太子の参謀となり、この時、反乱を起こしていた黥布を鎮圧する司令官を受けるべきでない等、有用な言を授けて皇太子の身辺を固めた。
皇太子の代わりに黥布を撃つ事となった劉邦に、病身であった張良は、無理に劉邦に会見して皇太子の関中を監督させる事を説いた。劉邦は彼を太子の少傅としての業務を行わせた。(あくまで、「少傅としての業務を行わせた」のであり、少傅としての官爵をうけたわけではない)
黥布を討った劉邦であったが、戦傷を負い、次世代の事を確実にせんとして、太子の取換えを行おうとした。しかし、ある時、宴で太子の側に控える老賢人たちを見出し、彼らが太子の徳を讃えた為、廃嫡を断念した。皇太子は後の恵帝となる。
陳豨の反乱に対しても、張良は劉邦に従い、代や馬邑を討ち、その時に奇策をたてた。
後も劉邦の側に控え、蕭何を相国に立てるなど、天下の大事について、劉邦にはなはだ多くの進言を行ったが、存亡に至る事ではなかったので記録されていないと史記に記されている。張良が行った進言や策略、計略は司馬遷の時代に残っているものだけでも、史記に記載されるものが全てでもない。
張良は、「舌先だけで万戸の領有を封じられ、列侯となり、庶民として俗世での栄達を極めた今では、俗事から離れて赤松子(仙人)に従って遊びたいと思うだけだ」と自ら語り、穀物を食べず、導引の術を行い続け、仙人の道に足を踏み入れかける。だが、劉邦も崩御し、張良に恩義を感じていた呂皇后は、強いて食事をとらせた。やむを得ず、張良は食事をとり、九年後に没する。諡は文成侯。
享年は不明だが、韓の滅亡時が父の死後20年で、その年紀元前230年に20才とすれば、没年186年で64才となりこれが最年少のラインとなる。
留侯は子の張不疑が継いだ、後に不敬の罪を犯し国は除かれた。末子に張辟彊があり侍中に登っている。以後、蜀漢まで、史書に名を残した子孫が数名確認される。
韓の再興はならなかったが、司徒時代に韓の傍系の王族である韓王信(漢の韓信とは別人)を将軍に引き立てている。後に韓王信は漢の将として活躍するものの、匈奴に降って裏切り敗北の後に斬られる。
友人の項伯は、功績もあって厚く遇され、射陽侯に封じられて劉姓を賜った。張良より六年前に逝去した。
始皇帝暗殺未遂事件後の逃亡者生活の中、ある時、一人の老父に出会ったという。最初は、老父の傍若無人な態度を腹に据えかねるも、考え直し、腹を据えて付き合い、老父の歓心を得る。老父は済北の黄石の化身と名乗り、張良に太公望の兵書を授け、十三年後にまた会おうと言った。
果たして十三年後、斉北の地で黄石を発見し持ち帰り、家宝として祀った。黄石は張良が死んだ際に併せて葬られ、六月と十二月の塚祭りの日に祀られた。
『史記』において、司馬遷は「高祖(劉邦)はしばしば困苦にあったが、そのたびに留侯(張良)は力量を発揮し、功績をあげた。まさに、天が高祖に留侯を授けたというべきである。高祖も「計略を帷幄の中でめぐらし、勝利を千里の外で決することに関しては、子房(張良)に及ばない」と話している」と評している。
史記では、諸侯として世家に立てられ、曹参の下、陳平の上に位置し、漢書では、陳平、王陵と同位で三者では筆頭に立てられる。
張良、韓信、蕭何の三傑の語源は、宴席にて劉邦が参謀、元帥、政治家として自身を上回る代表的人物として言及している者達で、兵権、封土、官職上での最高の三人というわけではない。
功臣として王となった韓信は別格であり、張良は蕭何に比べては一枚落ちる[7]
また、唐代には武成王廟(太公望)の名将十哲の一人に選ばれている。十哲は左側に白起、韓信、諸葛亮、李靖、李勣。右側に張良、田穣苴、孫武、呉起、楽毅であり、孫武・呉起よりも上位となっている。
ただ、中国では、嶢関を守る秦軍や講和を結んだ項羽軍の攻撃を進言したことに対する非難や、朱子のように「劉邦を利用して秦や項羽に復讐した」という評価も存在する。
創作における張良は、多くは女性のような容貌をした美形として描かれ、復讐者としての影を持つとともに、すぐれた智謀を有して戦略・謀略にすぐれ、劉邦のために貢献する忠実な参謀とされることが多い。また、史実では年齢は劉邦より年上か同世代の可能性が高いが、比較的、若い姿で描写されることが多い。
張良は知性に優れたが、儒学的な知識人ではなく、矯激な侠客的な性格を帯びていた。始皇帝の暗殺に成功していれば、もしくはその時に闘死していれば、刺客列伝に名を連ねたであろう。その行動原理は義侠の行いに傾いており、功を成し遂げた後の身の処し方を知っており、明快である。
張良の義侠の精神は、鴻門の会の直前において、劉邦が張良への相談なしに勝手に函谷関を封鎖して苦境におちいったにも関わらず、韓の臣であった張良は脱出を勧めた項伯の誘いを断り、劉邦への個人的な関係のためだけに項伯にとりなしを依頼し、鴻門の会に出席したことで証明される。劉邦を無事帰還させた後も、ただ一人とどまり劉邦とその部下たちを守った。張良はあくまで韓の臣であり、劉邦のために項羽や范増に斬られる危険を犯す必要はなかったにも関わらずである。
また、劉邦からの三万戸という恩賞を辞退する無欲さもあった。これには、将来の危険を察知する保身にも長けていたという評価もある。
なお、復讐については、始皇帝への復讐を図り、秦への反乱を起こした時には韓の復興を企画しており、秦への復讐の意図があったことは本人も明言している。しかし、劉邦の咸陽進出に反対するなど、その復讐は秦への民に対する無差別なものではなかった。
また、劉邦の参謀となり、項羽を倒すことを図ったことについては、韓王成の報復の意図であったかは史書に明記されていない。韓は韓王成の死後、韓王信が韓王となったが、史書には張良と韓王信が会話する場面はなく、親密さは窺えない。
また、いつも部下に対して傲慢無礼である劉邦すら、張良を「子房」と字呼びにし、敬意を払っていた。三傑の評価の時ですら、蕭何・韓信は名前呼びなのに対して、張良だけは字呼びをしている。また、終始、劉邦の味方であるとともに、呂雉からも深い信頼を得ており、多くの功臣が疑われたにも関わらず、張良はそのような疑惑をもたれることはなかった。
「張良經一卷」、「張氏七篇七卷」という兵法書を著したというが詳細は不明。
特に機警の才に富み、劉邦に危機が差し迫った時、もつれた糸を解くように対処した。多くの困難な問題を簡単な対処で済むように計らい、大事なことを些細なうちに処理した。
おおよそ物事に動じる事はなく、体は弱いが、胆力に秀でた漢であり、史家の司馬遷は彼を壮大魁偉な姿と予想した。
しかし、面貌は美しい女性のように優しげであったと伝わる。これにより後世の作家の筆致が冴え渡る事となった。
張良は韓の復興を願っていた頃に、劉邦から一時的に厩将に任じられた時以外は、実は劉邦から官職を受けたことがなく、劉邦の天下平定後の留侯という爵位と封地を得ただけであり、本文の通り、少傅の業務を行うだけで官職にはついていない。
これは彼に無欲さ、病身、仙人修行へのあこがれもあるが、基本的に張良は、太公望がそうであったように王者の「師」であることを自認していたようである。
「師」は、太公望を祖とする君主のために軍事的、戦略的な策略を進言する補佐役であり、君主からも尊称される存在である。「師」は、春秋戦国時代にも存在し、爵位を受けることはあったが、官職は受けることはなかった。
「師」の概念は後世にも残り、講談小説における「軍師」の役割は、後漢時代から登場した「軍師」という名称の官職の実際の役割と異なり、この「師」の役割に近い存在である。
張良は劉邦の「師」であることを自認しており、自らを「帝たるものの師」と呼んでおり、そのため官職につかなかったものと考えられる。
なお、「師」は前漢時代の中頃から官職がついているものが選ばれるようになり、張良は史実上の「師」の存在では、最後の有名人物ともいえる。
将帥や官僚の資質よりも、王者の師として君側に侍り、中原に指図することに優れ、東洋の軍師の一典型として最もシャープな形を取った。太公望と彼が、東洋における軍師の「テンプレ」になったとも言われる。後世、彼の名は、智者に対する褒め言葉として用いられた。曹操の参謀である荀彧も曹操に「我が子房」と呼んでおり、これは最上級の誉め言葉である。
劉邦も、「謀(はかりごと)を帳の中でめぐらし、勝ちを千里の外で決することでは、わしは子房に及ばない」と評している。
史書には触れられていないが、韓の貴族の子弟であったことと遊侠であったことを利用して、非常に正確で緻密な情報収集網を作りあげていたのではと推測される。景駒や項梁の動きを把握していたり、嶢関を守る秦軍の将軍が商人の子弟であることを知っていたりした上に、中国全土の情勢を把握し、戦略を組み立てていた。
また、劉邦の部下が恩賞目当てであることを把握して劉邦に伝えて進言し、嶢関を守る秦軍や講和を結んだ項羽軍の攻撃を進言するなど、その策略は現実的なものであった。
張良の献策は、到底、机上の空論から生み出されるものではなく、相当根拠が確かなものである。
病身で将軍として指揮したことがないと史書に伝えられており、劉邦から離れて、韓の司徒として韓のために戦った時も、別に将軍となる人物がいたと考えられる。韓での戦歴も数城奪っては数城奪われ、その後は遊撃を行っていたというものであり、用兵が本領でもなかったことが推測できる。
しかし、劉邦と合流した時は、張良の助けによって韓の地にあった十数城を奪っており、守勢は不得手でも、攻勢と遊撃にはそれなりに強かったと考えられる。また、張良が戦った韓の土地は項羽や劉邦の戦った楚の地より西側であり、秦の勢力が強い場所であった。
さらに、張良加入後の劉邦が率いる軍は、項羽との戦いを除けば基本的に勝利を重ねており、戦略家としてだけではなく、太公望の兵法について劉邦に語ったとされる通り、軍事関係の参謀としても優れていると考えられる。
劉邦が当初、張良に与えようとした恩賞は三万戸であり、これは最終的に一位となった曹参の一万六百戸、蕭何の八千戸を圧倒的に上回るほどのものである。しかも、劉邦の功臣たちからの不満は記録されておらず、その功績が莫大なものと評価されていたことが立証される。
なお、彼に比肩する知略家である陳平は丞相として天下の権を掌握したが、張良は上記の通り、君主の「師」あることを目指したため、実権のある官職には就いておらず、政治顧問としては重んじられたが、政治や行政の実務能力は不明なところが多い。
本人も病身で仙人修行の方に興味をもっており、政争に加わるのを避けていたようである。
張良が主導し、漢軍が採用したと考えられる楚漢戦争のおける戦略は史書では明確な記述はないが、実際に行った漢軍の軍事行動によって推測できる。その評価はかなり高い。
その戦略は、彭城の戦い以前は、武力と外交を使い分けて、諸国を楚から漢の味方にするというもので、項羽に助けられた趙すら、漢の味方となり、楚を攻める同盟国となった。そのため、項羽が封じた十八王のうち、燕(王は臧荼)・九江(王は黥布)・衡山(王は呉芮)・臨江(王は共敖)以外の国は漢に降伏するか、漢の同盟国となった。また、斉や趙の楚への反意を示すことで、項羽は斉攻撃を優先し、その間に各国から援軍を受けて、彭城を落とすことに成功している。この戦略は、項羽の有した高い戦術能力による彭城の戦いにおける敗北により破綻したが、項羽へ与えた打撃は大きく滎陽まで漢軍は領土を得ることに成功している。
また、彭城の戦い以後は、劉邦が、項羽を引き付けて防衛にあたっている間に、韓信が楚の同盟国を滅ぼし、兵力を補充しつつ、彭越に楚軍の補給を攻撃させ、後背を攻めさせるもので、後には黥布や盧綰・劉賈にもこれに当たらせ、楚軍を弱らせることに成功している。最終的には、弱らせた上で、盟約を結び背後を見せた楚軍を攻撃し、漢の全軍で項羽を包囲するように攻めることで、高い戦術能力を持つ項羽の討伐に成功している。
この戦略を打ち破るために楚軍がとりえる戦略はほとんど無かったと考えられる。
張良だけを扱った専門書ではないが、前漢についての研究論文の中の一つとして、「前漢高祖期における張良の位置」という論文が掲載されている。論文は35頁あり、かなり読み応えがある。
内容は、見る張良の劉邦陣営における立場を、『史記』や『漢書』を読んで分析したものである。
張良についての過去の学者の評論と事績をまとめ、『史記』や『漢書』にある劉邦の功臣表からその位置づけを分析し、劉邦の「師」としての張良について論じている。
張良が主導したと思われる劉邦陣営の全体の軍事活動について詳しく知りたいなら、こちらの書籍が大変おすすめである。
筆者は専門の学者ではないが、『支那古戦論』という戦前に旧日本軍の軍人に書かれ、石原莞爾が推薦した書籍をベースにして、筆者本人が日中戦争で軍人として転戦した経験を加えて、河川と山岳、湖、行軍路、都市の位置を記し、かつ分かりやすい地図が添付され、平易な文章で解説している。そのため、項羽が彭城の戦いにおいて西から攻めたこと、劉邦陣営が函谷関だけでなく、武関からの出撃も視野にいれて、戦略を考えていたことなども理解できる。
解説のベースとなる内容の研究そのものは、1982年のもので古いが、その軍事研究はいまだに色あせていない。なお、『通俗漢楚軍談』の解釈も歴史の一部としてあくまで補足的なものかもしれないが、とりいれているところもある。
掲示板
56 ななしのよっしん
2021/07/13(火) 18:49:48 ID: FJ8YHeb3gE
>>55
蘭陵王は仮面の逸話が史書ソースじゃなくて伝説だから違う
顔が良かったっていう話もあるけど北斉皇族はみんな顔がいいって逸話があるからな…
まあそもそも「顔がいい・美男」ってのと「なよなよしてる・女みたいな」っていうのはぜんぜん違うんだけど
57 ななしのよっしん
2021/10/10(日) 20:47:11 ID: 6xY3VJFkpP
58 ななしのよっしん
2022/10/07(金) 10:35:18 ID: smvUv5fc9O
韓信が王になりたいとの使者が来て劉邦が怒ろうとした時に、陳平と二人で劉邦の足を踏むとこ好き
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最終更新:2024/12/25(水) 14:00
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