項伯 単語

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項伯(こう・はく)、?紀元前192年)とは、戦国時代末期代の人物。楚の名将・項燕(こうえん)の子であり、に反乱を起こした項梁(こうりょう)の兄弟をほろぼし「西楚の覇王」の項羽叔父。 

漢文教科書でよく取り上げられる「鴻門(こうもん)の会」において、劉邦りゅうほう)を守ったことで知られる。項羽が敗れた後、劉邦に仕えた。 

「項伯」の「伯」は字(あざな)であり、「項(こうてん)」が、名にあたる。 

はっきりと裏切ったわけではないが、項羽叔父でありながら、劉邦を助けることを何度も行い、項羽の敗因をつくるとともに、項氏を存続させ、一族の中からは、漢王朝丞相(宰相)となる人物まで生まれている。 

この項では、項梁の子である項睢(こうすい)、項梁と「鴻門の会」で相対した一族の項荘(こうそう)、項梁ととともに漢王朝に仕えた一族の項こうた)、項襄(こうじょう)、舎(りゅうしゃ)、その他の一族である、項(こうせい)、項(こうえい)、項悍(こうかん)、項冠(こうかん)についても、あわせて紹介する。

概要

張良に命を救われる 

本名は、「項コウテン)」であり、字を「伯」といい、史書では「項伯」の名で書かれる。 

は楚の将軍であった項燕コウエン)であり、兄弟には項梁コウリョウ)がいた。 

項梁と「兄弟」と書いたのは、項伯は、甥にあたる項羽コウウ)の「季(きふ、「末のおじ」という意味)」と記されているが、項梁もまた項羽の「季」とあるため、どちらがであるか分からないためである。また、項伯のには、項羽にあたる人物もいたものと考えられる。 

項伯の名の「伯」は中国では、通常は長男の「名」や「字」につけられることが多い漢字であり、「項伯は実は、項羽項梁にあたる、項燕の長子であったのではないか?」と推測する説もあるが、この項では史書に従い、項羽の「」(項羽から見れば、「叔父」)とする。 

紀元前223年、項伯のである項燕コウエン)が楚軍を率い、楚へ侵攻してきた軍を率いた王翦(オウセン)の大軍と戦うが、戦死し、楚王も捕らえられ、楚のも滅びてしまった。 

項伯は、と故をこの時、一気に失ってしまう(項燕が戦死したのは、紀元前224年とする史書の記述もある)。 

紀元前221年には、下を統一し、始皇帝が統治するようになった。 

この時、項伯は、兄弟である項梁コウリョウ)や項一族とともに行動していたか、別れていたかは、分からない。だが、ある時、項伯は殺人を犯してしまい、逃亡した。 

この時、下邳(カヒ)の地で任侠の行いで知られていた張良チョウリョウ)のところへ逃げ、かくまわれる。張良の宰相の息子であり、かつて始皇帝の暗殺を謀ったことでも知られていた。 

項伯はこの時に張良と知り合い、張良に命を救われた。項伯は、張良しい関係となり、張良に対して、一生涯にわたるほどの、多大な恩義を感じていた。 

楚軍における活躍 

では始皇帝の死去し、反乱が多発するようになった。紀元前209年には、兄弟である項梁も会稽(カイケイ)において、決起して、に対して反乱を起こした。 

項伯がどの段階で、項梁の反乱に加わったか分からないが(「兵初起」とあるため、項梁の決起時にはいた?)、この反乱に加わることになった。やがて、項梁は懐王・心(ビシン)を王に立てて、楚のを復させる。 

項伯の具体的な事績は伝わらないが、項梁の戦死後も、楚のに仕えて、甥にあたる項羽に従って、その参謀や武将として働いており、項羽が楚の上将軍である義(ソウギ)をり、上将軍に任じられた時もその軍にいたようである。 

項伯は、紀元前207年の「鉅鹿キョロク)の戦い」(項羽率いる楚軍と王離(オウリ)率いる軍との戦い)や「原(キョクゲン)の戦い」(項羽率いる諸国連合軍と章邯ショウカン)率いる軍との戦い)などの楚ととの決戦において、功績をあげた。 

そのため、項伯は楚の左尹(されいいん)に任じられる。「左尹」は楚のの宰相にあたる地位であった。 

勝利した項羽の力と名は楚のを圧するほどであり、項伯は項羽の近くにいながら、楚の政治つかさどる最高大臣となった。 

なお、「将軍」ではなく、「左尹」ということは、項伯は軍を率いるのではなく、項羽の相談役や参謀、内務を行うことを中心とした活躍をしていたようである。 

恩人の危機に駆け付ける 

紀元前206年、軍を破った項羽は諸国連合軍を率いて、の本拠地である関中(カンチュウ)にはいろうとしたが、関中に入る関所である関(カンコクカン)で、同じ楚軍の武将である劉邦リュウホウ)の軍にはばまれた。 

先に関中に入り、王を降させていた劉邦であったが、項羽が関中に入ったら、自分が関中王になれないのではないかと考えて、自立しようとはかったのだ。 

これに怒った項羽は、楚の大将軍の范増※(ハンゾウ)と将軍黥布ゲイフ)に命じて、関を落とした。 

※ 范増項羽の参謀のイメージが強いが、史書では少なくとも役職は「大将軍」である。 

范増の進言もあり、項羽はそのまま、劉邦の軍と戦うことに決めた。項羽の軍は圧倒的大軍な上に、項羽天才的な軍略の才の持ちである。敗北する可性はほとんどなかった。 

しかし、項伯は劉邦の軍に、その参謀として張良がいることを知った。張良はあくまでもに仕えており、劉邦の客人に過ぎないが、劉邦の参謀として重要な活躍をしていた。 

項伯は、深夜に乗って劉邦の軍に入り、個人的に張良を訪ね、項羽劉邦の軍を攻撃することを決めたことを告げる。項伯は、恩人の張良を救うために、その地位を捨て、一緒に逃亡するつもりであった。 

項伯は、張良と話した。 

項伯「(劉邦に)したがって、一緒に死んではいけません」

張良「私は、王の命で、沛劉邦のこと)に従っているのです。沛危機におちいったことを知って、義として逃げることはできません。こうなった以上、沛にこのこと(項羽からの攻撃)を告げないわけにはいきません」

項伯は、張良に、劉邦へ「項羽からの攻撃を告げてくる」ために、待たされる。甥の項羽への「利敵行為」となったわけだが、項伯にとっては命の恩人の張良を救うことが大事であった。 

項羽と戦っても勝ちがない」と張良に告げられた劉邦は、その言葉に同意し、張良に相談をめた。張良劉邦に、「この営に来ている項伯を通じて、項羽に逆らったわけでないと伝えるように」と進言する。 

劉邦は、「張良と項伯どちらが年上か」と質問する。張良は「項伯の方が年上である」と答えると、劉邦は「わしのために彼(項伯)を呼び入れてくれ。わしは、彼にとして仕えたい」と告げる。 

※ これを読むと、創作作品では若く設定されがちな張良であるが、張良劉邦より年上であり、少なくとも項羽より一つ上の世代であるようである。 

待たされていた項伯は張良に呼び出され、劉邦に会うこととなった。劉邦は項伯のために、ささげて、長寿を祈り、項伯と婚姻関係となることを約束した。劉邦には、息子が二人とが一人いるため、その子と項伯の息子婚姻させるつもりだったと思われる。 

劉邦は、「将軍項羽のこと)に逆らうつもりはありませんでした。どうか、項伯どのにおかれては、私のために(項羽に)逆らったわけではないことを口添えしていただきたいのです」は、項伯に依頼してきた。 

項伯が本心か劉邦の話を信じたかは定かではないが、項伯は承諾した。 

項伯「明日に、自らおいでになり、項王(項羽)に謝罪していただきたい」

劉邦承知しました

項伯はすぐに、項羽のこのことを報告した。本来なら、項羽の軍の情報を漏らしたことは大きな問題ではあるが、叔父にあたる項伯は、項羽に相当に重んじられていた。 

項伯「沛劉邦のこと)が先に関中を破っていなければ、あなたがこれほど簡単に関中に入ることができたでしょうか? (関中を破り、を滅ぼすという)大きな功績をあげた人物(劉邦)を攻撃するのは、義に反します。大事に扱われるのがいいでしょう」 

項羽は、項伯の発言に同意した(項伯がこのように進言し、項羽が同意したことについては、後述、「項伯は、劉邦張良のためだけに、項羽への利敵行為を行ったのか?」参照)。 

ただ、項羽劉邦の対応次第では、范増の言葉通り、劉邦を殺するつもりだったようである。 

「鴻門(こうもん)の会」で劉邦を救う 

劉邦張良と、樊噲ハンカイ)、夏侯嬰カコエイ)、紀信(キシン)らを連れて、100余りでやってきて、項羽を構えている鴻門(コウモン)の地にやってきた。 

劉邦が謝罪すると、項羽はすぐに受け入れた。項羽は、謝罪する劉邦を見て、項伯の言葉に従い、劉邦を許す方に傾いていた。 

項羽と項伯は並んで、東に向かって座り、范増は南に向かって座っていた。劉邦は、北に向かって座り、張良は西に向かって座り、宴会がはじまった。 

しかし、おさまらないのは、楚軍の大将軍であり、項羽の参謀であった范増である。項羽范増とは劉邦を殺する約束をしていた。 

范増は、項羽に何度もめくばせして、「玦(けつ)」という佩玉(はいぎょく)を示して、劉邦を殺するように、項羽に決断を迫ったが、項羽はこれを無視した(「玦」を見せて、決断を迫る習慣がこの時代にあったようである)。 

やがて、范増宴会から出て、項羽従弟にあたる項荘(コウソウ)を呼んで、舞(けんぶ)に見せて、劉邦を殺するように命じる。 

項荘が宴会に入り、舞を行うと、事態を察した項伯は、を抜いて、立ち上がって同じように舞を行い、身をもって、劉邦をかばった。項荘は思い切って攻撃できず、そのために劉邦は助かった。 

やがて、張良宴会を出て樊噲を呼んでくる。樊噲宴会乱入し、項羽弁明したため、劉邦たちは逃れることができた(「鴻門の会」)。 

范増は悔しがったが、項伯の念願どおり、劉邦張良助かることができた。 

※ただし、劉邦約束していた項伯との婚姻関係については実現したかは不明である。劉邦である魯元(ろげんこうしゅう)は他の人物(※)と婚姻関係を結んでおり、劉邦男子の夫人に、項伯のがいたかは不明である。 

※ 王となった張耳チョウジ)の子である敖(チョウゴウ)と婚姻している。 

漢中の地を劉邦に与える 

やがて、論功行賞が行われ、劉邦は関中を落とした功績はあったが、抵抗を行った罰と范増の進言により、項羽によって、関中の南側にあたるへき地の(ハ)と(ショク)の地の王に封じられる。この土地は異民族が多く、統治も困難で、しかも、山間部の地にあった。 

この時、項伯は、張良から金100溢(いつ)と珠二斗を贈られる。これは、劉邦から(鴻門の会で救った功績で)張良に与えられていたものであり、さらに項伯は、張良を通じて、劉邦から様々な物を贈られてきた。 

もちろん、劉邦張良の狙いは項伯への報恩というだけではない。項伯は、張良から、劉邦中(カンチュウ)に地も与えてくれるようにとも依頼されていた。 

中の地は、よりは北側にあたり、まだ、中国の人も多かった。そればかりではない。のみを領有した場合は、関中の土地により、中国の他の地方から全に遮断されるが、中からはカンスイ)を路でくだれば、南陽ナンヨウ)に地に入り、「中原(チュウゲン)」と呼ばれる中国の中心部に入ることができる。 

また、中からは、山にかけられた桟(さんどう)を越えれば、関中の中心部を一気に攻めることができる。劉邦を封じ込めるためには、中の地がかなり重要であった。 

つまり、劉邦中を手に入れれば、また、下をのぞむ性が生まれることになる。 

項伯が、

・「利益につられた」か、

・「さらなる恩を返したくなった」か、

・「劉邦張良に友誼(ゆうぎ)を感じていた」か、

・「項羽のために劉邦との友好を考えた」か、

・「その他の理由」か、

 は、不明であるが、項伯は、項羽に「劉邦にの地を与えるように」進言する。 

項羽は、范増から「劉邦を警して封じるように」諫められていたが、項伯の言葉を聞き入れる。劉邦中の地を得て、「王(かんおう)」に封じられた。 

項羽は後に、この時は項羽に仕えていた陳チンヘイ)によって、項羽が信任し、する人物は、項羽の一族か、その妻の一族ばかり」と評されるが、項伯こそが、その項羽が「信任し、する項羽の一族」の代表であった。 

この范増の意見をしりぞけ、項伯の進言を聞いたことにより、やがて、項羽は追い詰められていくことになる。 

楚漢戦争における項伯 

同年、王に封じられていた劉邦は、くも反乱を起こし、また、乱世となった。いわゆる「楚戦争」のはじまりである。 

項伯は、そのまま項羽に仕え続けた。この時の項伯の役職は不明であるが、「左尹」のままであるとすれば、「西楚の覇王」となった項羽政治に関する補佐を行っていたと考えられる。 

紀元前204年、項羽により「九江王(きゅうこうおう)」に封じられていた黥布が、劉邦について、反乱を起こしたため、項羽の武将である項コウセイ)と且(リュウショ)により討伐された。黥布は破れ、逃亡した。 

項羽に命じられた項伯は、黥布がいなくなった九江の地を制圧し、その兵をおさめた。さらに、黥布の妻子を捕らえて全て処刑している。 

紀元前203年(紀元前204年の可性もある)、項羽劉邦と広武(コウブ)の地において対決していた時、項羽は、劉邦に挑発され、人質にとっていた劉邦父親リュウタイコウ))を煮殺そうとした。 

項伯は、項羽を諫めた。 

下の事はどうなるか分かりません。そのうえ、下を取ろうとするものは家族を顧みません。(劉邦父親を)殺しても利益はなく、わざわいが増すだけです」

 項羽は、(ここでもまた)項伯に従い、劉殺害なかった。 

この二つのエピソードを見ると、項伯が項羽を諫め、劉邦劉邦父親を助けたのは、あくまで「義理」や「恩」、「友誼」そして、「利益」によるものであり、項伯が博精神に満ちていた人物だからではなかったからのようである。 

劉邦に仕える 

紀元前202年、やがて、項羽劉邦に敗れ、自害する。 

項伯は、項羽の生前か、死後かは不明であるが、劉邦に降し、許される。 

項伯は、「鴻門の会」における劉邦を助命したことや劉邦父親を助けたという、「項羽を打ち破る功績」をあげたことにより、「射陽侯(しゃようこう)」に封じられた。 

劉邦父親を助けた時の「(劉邦父親を)殺しても利益はなく、わざわいが増すだけ」という項伯の言葉は、項羽はともかく、項伯自身には正解であった。 

ただし、項伯だけではなく、他の降した項氏である 

・項コウタ、後述)は「皋侯(へいこうこう)」に

・項襄(コウジョウ、後述)は、「侯(とうこう)」に

・他の項氏の人物(姓名は不明)は、「玄武侯(げんぶこう)」に

 封じられている。 

紀元前201正月、項伯は、項・項襄・玄武侯とともに、」という姓を与えられ、元の名である「項」から「」に名をかえる。 

紀元前192年に死去している。 

評価 

項伯については、歴史による評論は少ないが、中国では、「君に背いたが、先見の明がある人物」という評価があるようである。 

その反面、日本においては、君に不利益な進言を行い、そのくせ、甥である項羽を見捨てて、劉邦に仕えた「恥を知らない人物」であるという批判もある。 

しかし、同じ日本人が書いた小説である、司馬遼太郎項羽劉邦』では、項伯は、義侠の精神により、行動した人物とされる。 

このように、項伯は後世からの評価は分かれるが、現在でも項羽の子孫を名乗る人物は現存しており、これが真実であるとして、項羽の子も助命されたとすれば、項伯は項氏だけではなく、項羽に対しても子孫の存続に関して、大きな功績をあげたことになる。 

戦争を題材とした創作作品では、項伯は、項羽悪役となりやすいためか、義侠心あつく、実な人物として描かれることが多い。また、そのお人よしを張良劉邦の部下に利用され、劉邦に勝機を与える人物として描かれることもある。

創作物における項伯 

『通俗漢楚軍談』

中国講談『西演義』を江戸時代翻訳した講談小説横山光輝項羽劉邦』はこれをベースにした作品である。 

項伯は史実通り、張良に命を救われたことがあり、「鴻門の会」で劉邦を救う。 

項伯は、「覇王」を名乗った項羽によって、楚の「尚書」に任じられ、政治つかさどることになる。しかし、劉邦のために項羽の部下となった張良に利用されることが多かった。 

范増の死後は、項羽の参謀となり、その「大司馬」として軍を預かるが、「智謀深きもの」と評されるものの、その計略は范増に及ばなかった。また、張良手紙により、劉邦父親を殺するのをとめるなど、劉邦のために活動することも多かった。 

そのうえ、劉邦の間者としてきた李左車リサシャ)を推薦するなど、致命的な失敗を行う。 

最終的には、項氏の名を絶やさないようにと、張良のもとを訪れ、劉邦に仕えることになった。 

日本語翻訳版では「財をむさぼり、生を盗む小人である」と、厳しい批判を加えられている。 

項伯について 

項伯は、劉邦と張良のためだけに、項羽への利敵行為を行ったのか? 

本文で書いた通り、項伯は、甥の項羽と敵対し、最終的に項羽を滅ぼした劉邦への利敵行為を何度も行ったうえに、項羽に降して、「侯」にまで封じられているため、彼に対する批判も(特に日本において)存在する。 

しかし、項伯が張良との友誼のためや、劉邦に恩を売られ、(あるいはだまされ、もしくは劉邦に裏切ろうとして)、利敵行為を行ったとは言い入れない部分も存在する。 

項伯の劉邦への利敵行為は以下の3つがあげられる。 

1.「鴻門の会」において、劉邦に対して弁護を行い、范増や項荘の手から劉邦を救ったこと。

2.張良から贈与を受けた上で、劉邦中を与える進言を項羽に行ったこと。

3.項羽劉邦父親)を処刑しないように進言したこと。

 1については、本文に記した通り、「大きな功績をあげた劉邦を攻撃するのは、義に反する。大事に扱うのがいい」と項羽に進言しており、言葉通りに項伯が元々から考えていた可能もありえる。確かに、劉邦は滅ぼすことに大きな功績をあげており、それを重視して、劉邦が自立しようとして項羽に抗したことについては、それほど考慮しないという考えもあるだろう。 

また、劉邦は元々、項羽義兄弟であり、同じ「楚」に仕えていた人物であり、「鴻門の会」段階で項羽が率いていた軍は、諸連合軍であり、今後のことを考えると、「楚勢力」を温存していた方が項羽のためにも利益になるという考えがあってもおかしくはない。 

このように項伯が考えていたとしたら、項伯の献策は、裏に出たとはいえ、この時、そのように考えても、さほどおかしくはない。 

2についても、同様である。劉邦項羽義兄弟であり、同じ「楚勢力」を温存していた方がよいと考えていても、おかしくはない。 

また、に仕えていた章邯は、部下であった兵士たちを項羽に殺されており、必ずしも項羽に対して、よい感情を持っていたと限らず、劉邦に背後から牽制させた方がよいと考えていた可性もある。 

3については、劉邦が元々から父親を殺される覚悟があるなら、意味がないことで、劉邦義兄弟である項羽の人望も低下させることになる。項羽劉邦勝利した場合、下を治めることになるため、これは得策ではないと考えられる。 

また、この時には、項羽の不利は明らかであり、項伯としては、項氏を存続させるため、劉邦への降も想定にいれなければならない。劉邦父親を殺すれば、それは許されない可性は高い。 

本文で書いた通り、項羽の子が救われたとすれば、項伯の項羽への功績もまた、大きいことになる。 

このように、項伯の項羽への献策は必ずしも劉邦張良への利敵行為と言い切れない部分も存在する。 

また、項氏の代表的な存在であった項伯としては、項羽の「亜」である范増とは、なんらかの対立が発生していた可性も存在している。 

当時の遊侠の考えについて 

中国歴史書である『史記』には、「遊侠列伝」がもうけられ、当時、名が高かった歴史上にいた遊侠のための人物伝がもうけられている。 

遊侠とは、「正業につかず、各地を歩き回りながら、武勇などで生計をたて、己の感情を大事にする人物たち」のことである。彼らは、春秋戦国時代から盛んに存在し、役人や族に客人として養われて、あるいは、屋を生業として、武術や博打を好み、中で活動を行っていた。 

遊侠は法(ほうか、法律を重視する思想)の非子(かんぴし)からは、「法律やきまりごとを破り、武勇で、生計を立てているもの」と厳しい評価を得ている。 

その一方で、『史記』の作者である司馬遷シバセン)のように、「遊侠は正義法律道徳)を踏み外すことがあっても、その言葉は信義を重んじ、その行いは果たすことを重んじ、引き受けたことはが身を惜しまず、必ず実行し、他人の難儀には命をかけて救い出そうとする。しかも、その手柄を誇らず、恩に着せることを恥じる。評価に値する人物たちである」と遊侠を高く評するものもいた。 

遊侠は、史書に余り名を残すことはなかったが、その評判が下にまで伝わる人物も存在した。 

史記』では、司馬遷の考えから、このような遊侠のような生き方を大事にする人物たちを高く評価し、「遊侠列伝」だけではなく、「刺客列伝」やその他の様々な箇所に、そのようなエピソードが多く記されている。 

彼らの多くが、恩義や正義感、義侠心から、命を捨て、あるいは己の財産を投げてまで、約束を守り、他人に尽くした人物たちである。 

殺人を行い、各地を逃亡して、張良のもとに身を寄せた項伯もまた、遊侠の精神を重んじる人物であったと思われる。項伯は、劉邦張良からの依頼を断ったり、約束を破ったりはできなかったものと考えられる。 

ただし、項伯の例で分かる通り、遊侠の行動により、その家族や一族、友人などが犠牲になることもあった。また、遊侠は必ずしも正義感で動く人物ばかりではなく、盗賊も同然のものも多かったことは注意すべきである。 

※遊侠については、彭越の項彭越について」の「当時の遊侠について」も参照

項伯に関係する人物たち 

項睢(こうすい) 

項伯の子。劉邦婚姻約束が、劉邦と項伯の間でされていたという説があるが、婚姻は行われなかったようである。 

である項伯の死後、その侯を継ぐことなく、罪があって、領地を奪われている。 

その罪については具体的には記載されていないが、すでに項伯の生前から大きな罪があっていたのかもしれない。 

なお、項羽である「睢(スイ)」とは、同じ名である。 

先述した『通俗楚軍談』では、項伯の子として、項東(コウトウ)という人物が登場する。項東は、劉邦である少(しょうかこうしゅ)と婚姻し、「昭信侯(しょうしんこう)」に封じられているが、これは創作であり、少も史書では存在しない。 

項東は、項伯の劉邦を救った多大な功績に報いるように訴え、それがかなえられて、少婚姻したものであり、(『通俗楚軍談』の原作にあたる)『西演義』の作者は、相当に項伯の功績を評価していたものと思われる。 

上述した日本語翻訳版における「財をむさぼり、生を盗む小人である」とする項伯評価とべると、「明代の中国」と「江戸時代日本」における感覚の差が興味深い。 

項荘(こうそう) 

項羽従弟にあたる。の名は分からないため、項梁や項伯の子である可性もある(ただし、項伯の子であるとは余り考えにくい)。 

本文で記した通り、「鴻門の会」において、范増に命じられ、劉邦を殺しようとした。 

項荘は、宴会に入って、項羽の前に進んで寿を祝い、終わってから、 

「君王(項羽)は沛劉邦)と一緒にお酒をお飲みですが、軍中では何の楽しみもありません。どうか、を舞わせてください」と話した。 

項羽が承諾すると、項荘はを抜いて立ち上がって舞を舞った。しかし、本文の通り、劉邦をかばった項伯に阻止される。 

また、項荘の劉邦を殺しようとした意図は、張良に見破られ、張良に呼ばれた樊噲宴会乱入し、劉邦暗殺は失敗している。 

范増がこの失敗を嘆き、 

「ああ、子はともに謀るに足らず(小僧とは計略をあわせて謀ることはできないものだ)。項王の下を奪うものは必ず沛劉邦)であろう。々は今にも、(劉邦の)捕虜となってしまうだろう」と嘆いた。 

この范増の語った子とは、項羽ではなく、項荘のことをす説がある。 

その後の事績は不明である。 

史書には、ほとんど記載のない人物であるが、「鴻門の会」で重要な役割を果たすため、知名度は高い。 

司馬遼太郎項羽劉邦』では、統率はさほどではないが、武勇にはすぐれ、項羽の「隊長」の立場にある人物とされるが、史書ではそのようには記されていない。 

項它(こうた) 

史書では、「項」以外にも、「項佗」、「項他」と記される。 

項羽従兄の子。ただし、項羽はかなり若く、項もかなりい段階から武将として活躍しているため、項羽の「従兄の子」なのは、年代から見ても、不思議に思われる。項羽の遠い族か、「従兄」の間違いかもしれない。 

紀元前2084月に対して反乱を起こしていたの都である臨済(リンサイ)が、軍を率いた章邯に攻められる。 

危急が迫った王の咎(ギキュウ)は宰相の周巿シュウフツ)を派遣して、援軍を楚に請うてきた。 

は、楚の実権と軍を握っていた項梁に命じられ、援軍を率いて、を救援する。項は、周巿と斉の武将である田(デンハ)とともにを救援して、章邯と戦うが、敗北する。この戦いで、周巿は戦死した。 

もまた敗走して、項梁のもとに帰還したものと思われるが、同年8月には、項梁章邯勝利しており、項の働きも必ずしも駄ではなかった可性がある。 

紀元前206正月項羽が「西楚の覇王」に称する前後に、項もまた、因縁のあるの相(宰相)に任じられていたようである。 

紀元前2053月頃、劉邦が関中を制圧した後、楚まで攻めこんできた時に、項項羽の重要な武将であった且とともに、軍の曹参と定陶(テイトウ)やその南で戦うが、敗北する。 

同年8、項は、の王に封じられていた(ギヒョウ、「彭越」の項彭越に関連する人物たち」参照)の歩卒将(歩兵を率いる武将)となっていた。 

しかし、配下の酈食其(レキイキ)が劉邦にこのことを報告すると、「(軍の歩兵を率いる)曹参に対抗することはできまい。私が心配することはない」と評したと伝えられる。 

同年9軍を率いる韓信曹参によって敗北し、は捕らえられ、の土地はによって定された。項もまた、敗走し、項羽のもとに帰還したものとして見られる。 

紀元前20410頃、韓信が斉を攻略して、楚を攻撃しようとしていた。項項羽によって大将に命じられ、且を裨(副将)として、斉への援軍を率いて、斉の救援に赴く。 

司馬遼太郎項羽劉邦』では、鍾離眜ショウリバツ)や且の副将に項羽の一族が任じられていたとされているが、実際は逆のようである。 

同年11、濰イスイ)において、韓信によって、楚軍は敗北し、且は戦死する。韓信はさらに追撃して、楚軍の兵士全員、捕らえられたとされるが、項は逃走には成功したようである。 

紀元前2032、斉を定した韓信は斉王を名乗ると、に命じて、楚を攻撃してきた。 

この時、項は楚の柱(ちゅうこく、楚の大臣)に任じられて、楚の都である彭(ホウジョウ)を守っていたものと思われるが、によって陽(ヘイヨウ)の地で、楚軍の騎兵を破られる。続いて、彭も落とされ、項も捕らえられた。彭周辺の諸県もに降した。 

都が落とされ、重臣である項を失った項羽営の打撃を大きいものであった。 

紀元前20212項羽劉邦に敗れ自害する。 

紀元前201年、項は、劉邦によって、の碭守に任じられる。この時から劉邦に仕えることとなった。 

同年正月、同族の項伯・項襄・玄武侯(名は不明)らとともに、劉邦から「」姓をたまわり、「」に改姓している。 

紀元前20010の功績は彭祖(ホウソ、「盧綰」の項「沛から劉邦に従って功績をあげた人物たち」参照)に匹敵するものであり、功臣の順位は121位にあたると評価される。「皋侯(へいこうこう)」となり、580戸をから与えられている。 

紀元前198年、死去する。「煬侯(ようこう)」と贈り名された。 

「項」、「項佗」、「項他」と記述も微妙に異なるため(『史記』と『書』で同じ個所を書くのに別字になっていることも多い)、「彭で捕らえられた人物」と「皋侯」は別人と考える説もある。 

項襄(こうじょう) 

史書では後に、劉邦から「」姓をたまわったため、襄(リュウジョウ)と記される。 

項羽の一族ではあるが、項羽とどのような血縁であるかは、史書に記されていない。 

紀元前205年、劉邦が関中を制圧した後、項羽の治める楚を討伐した頃、定陶(テイトウ)の地において、劉邦に降し、その「客」になる。 

その後、劉邦項羽に大敗する「彭の戦い」など楚戦争が行われていたが、項襄はそのまま、劉邦に仕え続けたようである。 

紀元前202年、劉邦項羽勝利し、皇帝に即位する。 

紀元前201正月、項襄は、劉邦から「」姓をたまわり、「襄」に改姓している。 

紀元前196年、劉邦によって、南(わいなん)王に封じられていた黥布劉邦に反乱を起こす。 

この時、大謁者に任じられていた項襄は、黥布討伐で功績をあげて、侯(こう)に封じられ、千戸を与えられる。さらに、南(ワイナン)の守(ぐんしゅ、の長官)に任じられる。 

紀元前195年、改めて、「侯(とうこう)」に封じられる(功臣の順位は135位とされる)。 

紀元前187年、呂雉(リョチ)が全に政権を握ると、なぜか、侯を剥奪される。だが、翌年にあたる紀元前186年に、侯にもどされる(こちらも理由は不明)。 

紀元前170年、死去する。「安侯(あんこう)」と贈り名された。 

劉舎(りゅうしゃ) 

項襄(襄)の子。劉邦から「」姓をたまわったため、舎と記される(生まれた時から、「舎」であり、「項舎」の時期はなかった可性もある)。 

紀元前170年、である項襄(襄)が死去し、「侯」の地位を継ぐ。 

紀元前152年、(けいてい、劉邦の孫にあたる。紀元前157年に即位)の時に、太(たいぼく、監督する大臣、九卿の一人)に任じられる。 

紀元前150年、「三」にあたる御史大夫(ぎょしたいふ、丞相に次ぐ地位の大臣)に任じられる。 

紀元前1473月丞相に任じられる。 

紀元前1437月丞相をやめさせられる。 

紀元前140年、武帝(紀元前141年に即位)時代に、死去する。「哀侯」と贈り名された。 

項羽の一族の出身でありながら、最上位の大臣である丞相まで至った人物である。

項声(こうせい) 

項羽の一族(史書には明記はないが、研究者もそのようにみなしている)。 

紀元前2055月頃、項羽が九江(キュウコウ)王に封じていた黥布が反乱を起こした。 

しばらくして、項は、項羽の重要な武将である且とともに、黥布が治める南(ワイナン)の地を攻める。数か攻めたところで、紀元前20412且が黥布との戦いに勝利して、南を打ち破り、黥布は逃亡した。黥布は、殺されることを恐れ、間(かんどう)を伝って、劉邦のもとへ亡命している。 

同年8月頃、楚軍と敵対していた彭越が、(項羽の本拠地である彭近くにある)下邳(カヒ)を攻めてきた時、薛せつこう)とともに、彭越を迎え撃ったが、大敗している。 

このため、項羽みずから東にもどり、彭越を打ち破っている。 

紀元前203年、劉邦の武将であるカンエイ)が、斉王となった韓信の命で、北(ワイホク)地方を楚軍から奪った。 

は、項羽に命じられ、薛(先の薛とは別人)、郯(たんこう)とともに、北を奪い返す。 

しかし、河を渡って攻めてきて、下邳において、項は薛・郯ととともに、と戦ったが敗北する。薛は戦死し、下邳は奪われた。 

その後は、史書には記されていない。 

項羽戦争における重要な戦いにおいて、軍の揮を行っているため、項項羽の一族を代表する人物の一人だったのではないかと考える研究者もいる。 

項嬰(こうえい) 

項羽の一族(史書には明記はないが、研究者もそのようにみなしている)。 

紀元前206年に、項羽に命じられ、常山(ジョウザン)王に封じられた張耳チョウジ)を補佐もしくは監視するために常山派遣されていたものと考えられる。 

紀元前20510頃、陳余チンヨ)に敗れた張耳は、迷った末、項羽ではなく、劉邦に降することを決める。この時に、項張耳によって殺され、その首は張耳が持っていき、劉邦ささげられた。 

なお、ここの『史記』にかかれた「項」という言葉は、「人名をすのではない」とする説もある。 

また、創作では、「項」は、項羽父親の姓名とされることが多い。中国に現存する項羽の子孫(と称する一族)が持つ系図に、そのように記述されているものが存在するようである。 

項悍(こうかん) 

項羽の一族(史書には明記はないが、研究者もそのようにみなしている)。 

紀元前205年、劉邦が関中を制圧して、東への出兵した時、(劉邦から攻撃されそうになった)殷王・司馬卬(シバゴウ)が項羽に反して、劉邦に降した。 

項羽は、配下の陳チンヘイ)に命じて、司馬卬を説得して、司馬卬を降させる。陳が説得に成功して帰還する。 

この時、項悍は項羽の使者として、陳を都尉(とい)に任じ、金二十溢(いつ)を与えている。しかし、同年3月司馬卬は項羽に反し、劉邦に降し、項羽の怒りをおそれた陳は逃亡して、劉邦に仕えることとなった。 

紀元前20210頃、済陽(セイヨウ)において、軍の靳歙(キンキュウ)に攻撃を受けている。同年12には、項羽は、劉邦韓信に破れて、自害している。 

その後は、史書には記されていない。 

項冠(こうかん) 

項羽の一族(史書には明記はないが、研究者もそのようにみなしている)。 

紀元前205年、敖(ゴウ)の地において、且と周とともに、劉邦とその武将である傅寛(フカン)と交戦している。 

同年、魯(ロ)に地において、劉邦の武将であるカンエイ)と靳歙(キンキュウ)と交戦して敗北し、配下の右司馬を一名、騎将を一名、に討ち取られている。 

その後は、史書には記されていない。

関連書籍 

司馬遼太郎『項羽と劉邦(上中下) 合本版exit』 (新潮社) 

日本における楚戦争ものの小説の中で最も世間で流通していると思われる作品である。 

確かに、これは小説であり、歴史について調べた歴史研究書ではない。また、著者の考えは「司馬史観」とも呼ばれ、現在、一般の歴史ファンへのの大きさもあって大きな批判を受けている(「司馬遼太郎」の項参照)。 

だが、この作品については較的、歴史ファンからの批判も少ない。 

また、この作品が書かれた当時は、史書である『史記』と小説『通俗楚軍談』(中国講談小説『西演義』の江戸時代翻訳)の話がまじった話が流通していたのに対し、できるだけ、『通俗楚軍談』のを外し、史書である『史記』とその当時の研究ベースとして、小説として書きあげ、『史記』の内容に近づいたものを紹介するにも成功している。 

※ ただし、『通俗楚軍談』のが全くないかというと、具体的な部分では軍が関中を攻撃した時に、「軍はを飛んできたのか」という表現にがあった可性はある。また、当時の研究もそう解釈しているが、「劉邦力が低い」、「項羽が略奪や虐殺ばかり」という解釈部分は踏襲している。 

そのため、項伯の人物像についても、「先見の明がある人物」や「恥知らずの裏切り者」というどちらの解釈もとられず、「遊侠の考えから、張良に恩を返そうとしたもの」と解釈しており、その考察は大変に鋭い。 

「楚戦争」や「項羽劉邦」に興味のある方は、「しょせんは小説だから」、「司馬史観は偏っているから」と食わず嫌いをされずに、「小説であることを前提で」一読することをおすすめする。

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