冒頓単于 単語

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バガトルテングリクトゼンウ

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冒頓単于とは、史上初めてモンゴル高原を統一した遊牧国家匈奴の支配者である。単(撐犁孤塗単の略)は当時の遊牧民の支配者の称号で、冒頓とは「勇士」を意味するバガトルの音写であると推定される。の高祖(劉邦)をボコったことで知られる楚戦争隠しボスである。

概要

バガトルは匈奴の支配者、頭曼単長男として生まれた。時にモンゴル高原では東方の東胡・中央部の匈奴西部氏が互いに覇を競う時代であり、バガトルも若くしてその抗争に巻き込まれることとなる。

また、この時代、匈奴の南にある中国が統一していた。前215年に、始皇帝将軍蒙恬に大軍を率いさせ匈奴を攻撃させる。匈奴蒙恬によって、豊かな原が存在するオルドス地方を奪われて、その万里の長城建築されるというような国難の時期でもあった。

単于となるまで

匈奴王子として生まれたバガトルだったが、決して順満帆な人生ではなかった。の頭曼(トゥメン)は後妻との子を気に入ってバガトルを亡き者にしようとするという暗君のテンプレ行動に出たからである。

によってバガトルは敵国に人質として送られ、挙げ句その直後にトゥメンは氏を攻撃した。論バガトルを殺すためである。しかしバガトルはその優れた資質を発揮し、氏の善を奪って自力での下に戻ってくることに成功する。

NDK?、NDK?と言わんばかりのバガトルに対し、さすがのトゥメンも息子の功績を認めざるを得ず、バガトルは万騎を率いる隊長に任命された。

初めて自分の部下を持つこととなったバガトルは、部下達をあくまで「自分」に忠実な軍隊に作り上げようとする。バガトルがまず部下に命したことは、自分が鳴鏑(めいてき、音を出して飛ぶ鏑矢(かぶらや))を放った方向にいる「もの」は何であろうと続けて射るということであった。

バガトルはまずを鳴鏑で射た。彼に続けて矢を射なかった者は斬首とされた。
次に彼は自分の鳴鏑で射た。彼に続けて矢を射なかった者は斬首とされた。
次に彼は自分の妻を鳴鏑で射た。彼に続けて矢を射なかった者は斬首とされた。
さらに彼はを鳴鏑で射た。彼に続けて矢を射なかったものはいなかった。          

…そして、彼がを鳴鏑で射た時、バガトルに従わない部下は一人いなかった。

時に前209年、始皇帝が亡くなった翌年にバガトルは匈奴の単の座と、自分に絶対従する軍隊を手に入れたのである。

 

匈奴単于国の拡大

匈奴の単となったバガトルだが、未だ周囲には東胡・氏という強が存在していた。

東胡の王はバガトルが単となったと聞き、使者を送ってトゥメンが所有していた「千里」を譲るよう申し入れた。臣民の反対にも関わらず、バガトルは

どうして人と隣でありながら、一頭の(おし)むのだ

といって千里を東胡の王に譲った。

東胡の王はバガトルが抜けの王だと考えるようになり、再び匈奴に使者を送って今度はバガトルの閼氏(えんし、単の妻をす)を譲るよう伝えた。バガトルは再び部下の反対を押し切って、

どうして人と隣でありながら、一人の女を(おし)むのだ

といって閼氏を東胡の王に譲った。

いよいよ増長した東胡の王は人の少ない匈奴と東胡の地帯を「棄地」であるとして、バガトルに譲るように伝えた。それまでバガトルに反対していた部下達の中にも、「棄地ならば、予(あた)えても予えなくても変わらないでしょう」という者がいた。しかし、バガトルはこれに怒って

地というものは、の本である。どうして予えようか。

予えるといった者は皆刑である。

(今から東胡を攻める。)じゅうで後(おく)れる者がいたら刑とするぞ

と言ってにまたがり、東胡を急襲した。匈奴を侮って全く戦いの準備をしていなかった東胡は匈奴軍になすすべもなく敗れ、東胡王は討ち取られ、東胡は匈奴によって征された。

宿敵東胡を滅ぼしたバガトルは返す氏を攻撃し、さらに南下して将軍蒙恬によって奪われたオルドス地方を奪還した。さらに、北に存在していた丁などの諸も征する。こうしてく間に匈奴帝国は拡大し、モンゴル高原はバガトルによって統一されることとなる。この時の匈奴の兵力は30万人を越えていた。

しも万里の長城以南では楚戦争の最中であり、匈奴という大の圧力が失せた隙を狙って拡大したといえる。そしてバガトルがモンゴル高原の大部分を手中に収めたとのと時を同じくして、劉邦もまた戦争を制して旧領を統一しつつあった。

東アジアで同時期に中国本土(チャイナプロパー)とモンゴル高原を統一した劉邦とバガトル。両者が対立を深めていったのは必然でもあった。両者はアジア東方覇権を巡って突することとなる。

白登山の戦い

匈奴戦争は南下したバガトルが王信を攻めたことから始まった。王信は匈奴に降し、匈奴軍は南下を続けた。前200年、この事態に対して、劉邦張良と陳を参謀に従えて自ら大軍を率いて北上するが…

         ,. -‐'''''""¨¨¨ヽ
         (.___,,,... -ァァフ|          あ…ありのまま 今 起こった事を話すぜ!
          |i i|    }! }} //|
         |l、{   j} /,,ィ//|       『おれは匈奴軍を追撃していたと
        i|:!ヾ、_ノ/ u {:}//ヘ        思ったらいつのまにか匈奴軍に包囲されていた』
        |リ u' }  ,ノ _,!V,ハ |
       /´fト、_{ル{,ィ'eラ , タ人        な… 何を言ってるのか わからねーと思うが
     /'  |宀| {´,)⌒`/ |<ヽトiゝ        おれも何をされたのかわからなかった…
    ,゙  / )ヽ iLレ  u' | | ヾlトハ〉
     |/_/  ハ !ニ⊇ '/:}  V:::::ヽ        頭がどうにかなりそうだった…
    // 二二二7'T'' /u' __ /:::::::/`ヽ
   /'´r -―一ァ‐゙T´ '"´ /::::/-‐      馬がいいだとか人材が違うだとか
   / //   广¨´  /'   /:::::/´ ̄`ヽ ⌒ヽ    そんなチャチなもんじゃあ 断じてねえ
  ノ ' /  ノ:::::`ー-、___/::::://       ヽ  }
_/`丶 /:::::::::::::::::::::::::: ̄`ー-{:::...       イ  遊牧民の恐ろしさの片鱗を味わったぜ…

劉邦は偽装退却を行うバガトルにホイホイついて行き、力の歩兵部隊から突出した所で反転した匈奴軍40万に包囲された。この時劉邦の周りにいたのは直属の騎部隊ばかりだったようでろくな食料もなく劉邦と部下は餓えとの寒さに苦しめられた。

追い詰められた劉邦は陳の献策に従ってバガトルの閼氏に贈り物をすることで包囲の一部を解かせ、ようやく包囲を抜け出た。

這々の体で長安まで戻った劉邦匈奴軍が軍事的に勝ることを認めざるを得ず、郎中の敬を使者として送って和を結ばせた。講和の条件は

  1. を単閼氏として差し出す。
  2. は毎年匈奴などを献上する。
  3. 匈奴として兄弟の盟約を交わす。

といったもので、匈奴への貢物は元より中華思想を持つにとって(形式上匈奴とはいえ)匈奴を対等な国家として認めることは屈辱的なことであった。これを後世「の恥」と呼び、これ匈奴を属扱いする時代は約70年ほど続くこととなる。

土深くに敵軍を誘い込み、敵軍の補給線が伸びきった所で包囲殲滅する」
この戦法はこの後も遊牧民の間で伝えられ、時に中華の軍を恐怖の底へと叩き落とした。この敗戦をそっくりそのまま1500年後に繰り返した皇帝がいるらしい。
いことに、遊牧国家の嚆矢であるスキタイもアケメネスペルシアとの戦争でも焦土戦術を行っている。

匈奴の軍では略奪したもの(人間を含む)はそのままその人に分け与えられたため、軍にいるものは自分の獲物をめて、誘い出して包囲することがうまかった。勝つ時は戦利品を得ようとむらがってきたが、負ける時はすぐに四散して逃げ去った。また、独自の文字は持たなかったが、木に刻みをいれた記号によって各部隊への伝達を行ったものと推測されている。

功績と死後

との戦いの後、バガトルは亡命してきた劉邦友であり、王となっていた盧綰を受け入れ、侵略を行うなど、に対して常に有利な立場を保った。

 前195年に劉邦が死去し、漢統治者となった劉邦の妻であった呂太后(呂雉、りょち)に「私は孤独な王であり、国行き、中国に遊びに行きたいと思っています。あなた(呂太后)も夫を亡くし孤独であります。心を慰めあいたいです。私の余ったところで、あなたのないところに代えたいと思いますがいかがでしょう(意味は「仲良し」の項目照)」といった無な手紙を送る。呂太后は激怒したが、臣下の季布(元は項羽の部下で項羽の死後に漢仕えた人物)に諌められ、友好を保つことにした。

 元々は漢土地の征服では考えておらず、匈奴の土地を交易によって豊かにしたいと考えていたバガドルは、漢の大きな戦いは起こさず、民間の交易の場である関市(互市を漢開かせた。関市は大いににぎわい、匈奴と、たまに匈奴が攻撃して民を略奪していく以外は平な関係となった。

 前176年頃、未だ西方に残っていた月を攻撃し決定的な打撃を与えた(以後月は西方へ移住する)。

前174年にバガトルは亡くなるが、バガトルの築き上げた「匈奴帝国」は以後も強勢を誇り、武帝が登場するまでアジア東方の最大の帝国であり続けた。

その征戦争ばかりが注されがちなバガトルであるが、匈奴国家整備にも実績を残している。バガトルは匈奴右翼・中央・左翼の三つに大きく分け、左右に王・蠡王・大将・大都尉・大当戸・都侯という官位を置いた。これらの官職は世襲であり、それぞれが領地を持つ軍団導者であって、「万騎」と呼ばれた。万騎は全部で24人おりそれぞれが十進法に基づく軍隊を持ち、その最大単位である万人隊を持っていた。有事の際には単は万騎24長に招集をかけることで大軍を動かす、というシステムであった。

このような政策の内、「国家右翼・中央・左翼分割して統治する」「十進法による軍事政治・社会組織である」といった部分はか後のモンゴル帝国の時代まで継承される遊牧国家の基本制度となる。

関連書籍

杉山 正明『遊牧民から見た世界史 増補版exit』 (日経ビジネス文庫

沢田 勲『冒頓単于―匈奴遊牧国家の創設者exit』 (世界史リブレット人)

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