蘭陵王、姓名を高長恭は、中国南北朝時代(西暦5~6世紀)の人物。別名を羅陵王、高粛、高孝瓘とも。
北斉の皇族出身の武将。突厥や北周との戦いで勇名を馳せたが、後に主君に忌まれて死を賜った。勇猛かつ容姿にすぐれた貴公子。戦勝を記念して作られた楽曲が日本にも伝わり、「蘭陵王(陵王)」は雅楽の曲目として知られる。
当時の中国は南と北に分裂して抗争している南北朝時代であり、北には北魏という国があったが、やがて衰退して二人の実力者が台頭し、それぞれが北魏の皇帝を傀儡にして国政を壟断した。
一人は宇文泰という人物で、西方に割拠して西魏を建国。後に息子が簒奪して北周となる。
東方では高歓が割拠して東魏を建てた。蘭陵王は高歓の孫の一人である。
西 | 東 | |
北朝 | 西魏⇒北周 | 東魏⇒北斉 |
南朝 | 梁⇒陳 |
高歓の後を継いだ高澄は父のような英雄ではなかったが有能な実務家であり、侯景を筆頭とする危険分子を粛清して高一族による独裁政権を確立。相国・斉王となり、簒奪の準備を進めていたが若くして暗殺されてしまう。すると弟の高洋が暗殺者を殺して、即座に権力を掌握してしまった。高洋は斉王位を襲い、さらに魏帝から皇位を奪い、自身が皇帝となって新王朝を開いた。これが北斉の文宣帝である。
本来なら家督は高澄の系統に渡るはずだったのだが、叔父である高洋が実力を背景に奪ってしまう形となった。以後の皇位は叔父達や従兄弟達に渡ってしまい、高澄の息子達は本家筋でありながら一皇族から脱却できぬ微妙な立場に立たされる事となった。
北斉高氏 | |||||
一世 | 神武帝(高歓) | ||||
二世 | 文襄帝(高澄) | ①文宣帝(高洋) | ③考昭帝(高演) | ④武成帝(高湛) | |
三世 | 蘭陵王(高長恭) | ⑥?安徳王(高延宗) | ②廃帝(高殷) | 楽陵王(高百年) | ⑤後主(高緯) |
四世 | ⑥幼主(高恒) |
蘭陵王は高澄の第4子(第3子とする史料もあり)として生まれる。母の名や出自については伝わっておらず不明である。高澄には6人の男子があり、高澄の諡号である文襄帝から文襄六王と称される。
文宣帝は文武に優れていたが、酒乱の殺人鬼めいた狂人であり、亡兄である高澄との仲は相当悪かった。だが高澄の遺児達は幼い事もあってか比較的穏健に扱われ、蘭陵王の弟の安徳王は文宣帝に特に可愛がられた。
560年。廃帝となる高殷の時に、徐州蘭陵の地に封を得て、「蘭陵王」の王号を得る。次の孝昭帝は名君といっていい人物であり、蘭陵王の少年時代は平穏に送られた。
しかし、暴虐な性格である武成帝の代になると状況は変わり、武成帝は甥達を苛烈に迫害した。蘭陵王の2人の兄は武成帝に殺害され、それを非難した安徳王は200回も鞭を打たれて重傷を負った。
そんな中で蘭陵王は武成帝に忠実に仕え、軍功をあげたので重用された。武成帝の治世晩年の565年には開府儀同三司・尚書令に任じられており、朝廷の重鎮としての待遇を得ていた。ある時、褒美として武成帝は20人の女性を妾として与えたが、蘭陵王は1人を受け取ったのみだった。
北斉の皇族は軍事的才幹に優れた者が多く、高歓はもとより、文宣帝や武成帝といった放蕩者も、ひとたび戦場に立てば目覚ましく働いた。彼らと同じ血を引く蘭陵王もその1人である。武勇は三軍に冠した。王として与えられた領地だけではなく、自身の武功により鉅鹿・長楽・楽平・高陽の4つの郡公としての加封を得た。
蘭陵王が并州刺史の時、突厥(チュルク系の遊牧国家)が南下して別都の晋陽に攻めてきた。蘭陵王は存分に力を振るい、これを撃ち破っている。
564年に北周が攻めて来た時には斛律光、段韶といった宿将と共に、芒山で戦い敗走させた。さらに包囲された洛陽への援軍の為、中軍500人の騎兵を率いて突撃を行い、包囲を突破する。金墉城に到達したものの、城内ではあまりに急に包囲が崩れたので正体を疑って動けなかった、そこで蘭陵王が兜を脱いで素顔を見せたところ、援軍と分かり反撃が行われて北斉軍は大勝利をおさめた。
立役者である蘭陵王を讃える為、「蘭陵王入陣曲」という曲が作られて兵達がこれを歌った。この故事が後世に伝わり「蘭陵王は自身の優しげな面貌が士気に響くのを慮り、仮面をつけて戦場に立った」という伝説が生まれた。
さらに周軍が再来寇したが、段韶が右軍、蘭陵王が中軍、斛律光が右軍となって北周軍を叩き潰した。
571年の北周の侵攻にも斛律光、段韶と共に迎え撃って勝利している。
同年に段韶と共に北周へ攻めこむ時には栢谷を攻め、定陽へ兵を進めて城を囲った時に段韶は病で臥せってしまう。軍権を譲られた蘭陵王は作戦を立てて、地形を読み取り、城の東面から北周軍が打って出る事を見ぬいて伏兵を仕掛けた。策は功を奏して北周軍を壊滅させた。北周側の史料では名将宇文憲の奮闘もあって、北斉軍は敗退したという記録も記されている。
武成帝の息子の後主の代でも重んぜられて、太尉⇒録尚書事⇒大司馬⇒太保といった高官を歴任した。
しかし、後主は惰弱な暗君であった。武勲輝かしい従兄に対して後主は害意を抱き始める。それを察した蘭陵王は保身を図って戦利品を着服したり、病気の治療をしなかったり、引退しようともしたが許されなかった。結局、後主の猜疑を避しきる事ができず、服毒して死ぬように命じられる。観念した蘭陵王は後主に弁明するべきとする妻の鄭氏の提案を断り、鴆毒をあおった。
蘭陵王家は瀛州と青州といった実入りの良い司州牧も兼任していた事もあり裕福であった。多くの人々にお金を貸して債券は千金に値したが、死を前にして全ての債券を焼き払ってしまった。死後に太尉の位と、武という諡が送られた。諡と合せて蘭陵武王とも記される。
蘭陵王に自殺を命じた罪状は史書では明らかにされていない。かつて、後主が蘭陵王に戦場が怖くないのかを尋ねた時に「家事のようなもの」と答えた事が僭越と受け取られて、後主の不興を買ったと触れられている。
次々と功臣を粛清した北斉は弱体し、蘭陵王の死後4年に北周により滅ぼされた。後主を始めとする高一族は貴族として遇されたものの、後に謀反の嫌疑を着せられて殆どが処刑された。
没年は西暦573年。生年は不明で、享年は30歳前半と推測される(長兄河南王の生年が537年、弟安徳王は544年から逆算)。
『北斉書』、『北史』によれば「音容兼美」とあり、顔立ちと声が美しかったと伝わる。また『隋唐佳話』では「高斉蘭陵王長恭白類美婦人」とあり、色白で女とまがう美男子と形容された。蘭陵王にかぎらず、父親の高澄や、従弟の後主も美男子であり、高氏の家系は際立った容姿の持ち主が多かった。
外見こそ優美であったが内実は勇壮であり、武だけではなく文にも造詣があった。叔父の襄城王や、次兄の広寧王とともに文芸清識の士しても知られていた。
人格破綻者の多い北斉の皇族にあっては将兵にも心を配った数少ない良心的な人物。手に入れた物は瓜ひとつであっても惜しみなく彼らに分け与えた。細かい事に気がつく、まめな人柄だったという。
蘭陵王が率いた兵士の数は洛陽の戦闘での500人以外は記録されておらず、蘭陵王の北斉軍での実権は不明な点が多い(後主の時代には太尉・大司馬に任じられている)。斛律光、段韶といった国家の重鎮である名将と行動を共にした事が多かった。
『北斉書』では、斛律光亡き後の北斉の瓦解を、蘭陵王に任せていればどうなっていたか分からないとしている。
『隋書』の天文志には、
後主の天統4年、歳星(木星)が逆行し太微上将の星を覆った。4人の輔弼の臣が誅されて天下が驚く前兆とされた。果たして琅邪王、斛律光、蘭陵王といった名将が次々誅殺された。又、螢惑(火星)が右執法の星を犯す天変が起き、これは大将が誅される前兆とされた。果たして斛律光、蘭陵王が誅殺された。
とあり、天文学的に高い評価を得ている。
戦闘では勇者であったが宮廷貴族としての処世には腐心し、保身に窮して泣きながら膝を進めて他者の知恵を借りた事もある。死を命じられた時に「自分のような忠実で罪の無い者が毒を仰ぐのか」と嘆いた。
ただ、当時の北斉の朝廷は道理が通じず、私刑が横行する異常な状態であり、処刑されず、妻に手を出されなかったのがましというぐらい酷いものがあった。
一族で殺しあった北斉皇家にあっては文襄の6兄弟の仲は良く、蘭陵王が武勲をたてた時は兄弟皆感心した、しかし弟の安徳王だけはもっと攻めるべきと不満気だった。後に鄭氏が蘭陵王の死後に遺品を寺に寄進しようとしたところ、安徳王に諌められた。その際に送られた手紙は涙で濡れていたという。
投壷という矢を壷に入れる競技を嗜んでいたようで、鄴の蘭陵王邸に道具があったと『顔氏家訓』で言及されている。
唐の時代に、龍門石窟に仏像を納めた高元簡という人物が、蘭陵王の子孫とされるが詳細は不明。
蘭陵王入陣曲は唐の時代には散楽となり、日本に伝わって雅楽の演目となった。厳島神社のものが有名。その関係か、大河ドラマ義経のOPで仮面の演者が登場している。
真・女神転生シリーズでは、一部作品で「ラリョウオウ」という名の仲魔として登場している。種族は「猛将」と「英傑」。
コーエーの三國志シリーズでは、いにしえ武将として登場する(時代的には南北朝時代は三国時代より後)。
能力一覧 | 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 陸指 | 水指 | 身体 | 運勢 |
三國志Ⅸ | 93 | 93 | 79 | 44 | - | - | - | - | - |
三國志11 | 89 | 92 | 70 | 36 | 93 | - | - | - | - |
掲示板
25 ななしのよっしん
2021/07/08(木) 11:07:59 ID: 21L616K8aP
項羽に知性や品格がなかったとか失笑モン
生まれも育ちも良いところで下手すりゃ劉邦軍のだれよりもあったんだよなあ
安徳王こと高延宗が好きだわ
人格者だし最後まで戦うし
26 ななしのよっしん
2021/11/18(木) 15:36:11 ID: yGGDSQsdsN
斛律光ら名将には届かない一介の良将のはずが、史実のドラマチックな最期の過程を創作物で盛られまくって怪物になった人
今頃真田幸村あたりと仲良く地下で苦笑いをしてるかも
27 ななしのよっしん
2024/01/18(木) 21:37:41 ID: kHJ6WF4gbz
蘭陵王は北斉の皇族将軍、即ち皇帝家と一蓮托生の人物であったという点が重要なんだろうな。
それだけに後主の猜疑心や嫉妬を招いたんだろうけど、彼が健在で、清廉な人柄を保っていれば、北斉皇帝の近衛として活躍しぬいただろうに。
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最終更新:2025/01/13(月) 06:00
最終更新:2025/01/13(月) 06:00
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