『漢書』を注釈した顔師古先生などの容姿に関する諸注によると、顔立ちは彫りが深く、面長で眉と口ひげが美しかった。そのため呂后の父に気に入られ、よく働く美人(ただし中国史上でも随一のヤンデレ)嫁を得て、嫁に超働かせて小役人や山への立てこもりをやっていた。
つまり※ただしイケメンに限る。古代であってもそう。夢も希望もありゃしねえ。
彼の廟号は太祖であるが、『史記』では「高祖」と呼ばれている。これは高祖という廟号自体が夏王朝あるいは殷王朝からあるもので、司馬遷あるいは彼が引用した書物の著者または写本者が諡号の高皇帝から誤って類推あるいは転記してしまったものだろうが、このせいで日本ばかりでなく中国でも広く「高祖劉邦」と呼ばれることになってしまった。
かつては楚の国にあった豊邑(沛県に含まれる)の出身。農民出身であるが、兄が学問を行っており、劉邦自身も幼馴染の盧綰とともに文字を学んだとあるため、それなりに豊かな農家に生まれたと考えられる。
なお、魏において県令となっていた張耳の食客になっていたことや、豊邑が、戦乱において魏の国が秦の国に滅ぼされた後、人々が移住してきた土地であることから、劉邦一家の出身は魏の国であり、豊邑に移住してきたとみなす説もある。
龍を思わせる立派な顔つきで左股に72個のほくろがあった。他人にほどこすのが大好きで細かいところにこだわらない性格であり、遊侠の行いをして、家の仕事を手伝わず、女好きな上、つけで酒を飲んでいた。ただのごろつきじゃねえか、などと言ってはいけない。
壮年になって秦(始皇帝が統一して建てた王朝)の小役人となり、泗上というところの亭長(交番や出張所の責任者)となったが、豊や泗上を統括する沛県の役人からは軽蔑されていた。その中の一人に曹参がいたのかもしれない。
劉邦は秦の都である咸陽において労働する人間たちを率いて連れて行った時、たまたま始皇帝の行列を見ることがあった。この時、「ああ、男として生まれたからにはああなりたいものだ」とつぶやいたと伝えられる。
ある時、沛に移住してきた金持ちの呂公にそのすぐれた人相が見込まれて、呂公の娘の呂雉(りょち)と婚姻を結んだ。
また、幼馴染であり劉邦が罪を犯した時に一緒に逃げ隠れをしてくれた盧綰、沛県令の御者でありながら劉邦にけがを負わされながら牢獄につながれても劉邦をかばいつづけた夏侯嬰、犬の精肉と販売を生業としており、呂雉の妹の夫にもなった剛勇の樊噲といった友人・子分にも恵まれていた。
さらに、沛県の豪族である王陵も直言を好み、劉邦を弟分であると認めていた。
劉邦の人生はそれなりに順調に見えた。
しかし、再び、咸陽に労働する人間を送る際に大勢の脱走者が出てしまう。秦の法律ではこのまま到着しても全員死刑であった。劉邦は十数人とともに脱走する。
途中、大蛇を切って劉邦を先に進んだ。この時の大蛇が秦をあらわす白帝の子であり、これを斬った劉邦は赤帝の子であったとするおつげを大蛇の母が告げたという伝承が史書に記されている。
劉邦は芒と碭という地方にある山や沢に隠れ続けた。呂雉は劉邦をさがしあてて、劉邦はその支援を受けて、仲間の人数も増えていった。
秦の圧政に対し、ついに陳勝という人物が反乱を起こした。劉邦は蕭何のとりなしで、沛の県令に呼ばれたが、沛の県令は途中で心変わりする。劉邦が夏侯嬰を使者にして沛の人々に呼びかけると、沛の県令は殺害された。劉邦は秦に反乱を起こすために挙兵し、責任者となって失敗した時に家族が皆殺しになるのを恐れた蕭何・曹参ら沛の人物に挙げられ「沛公」を名乗る。
この時、夏侯嬰、樊噲、周勃、盧綰らも正式に部下となった。さらに呂雉の一族も加わり、二、三千の兵を集めた。旗は赤色を用いた。
劉邦は沛県の上位の役所である泗水郡の秦軍と戦う。泗水郡の秦軍はまず、劉邦の故郷である豊を攻めた。劉邦はこれを打ち破った。そこで劉邦は、豊を雍歯という人物に任せ、泗水郡を統治する郡守の軍を打ち破り、郡守を討ち取る。
しかし、陳勝の部下であった周巿(しゅうふつ)という人物が魏で自立を図り、雍歯を勧誘する。雍歯は魏に寝返り、豊は魏の領地となった。劉邦は豊を攻めたが落とすことができず、病気となり、沛に引き返した。
この頃、陳勝の反乱軍は秦の将軍である章邯に敗れ、陳勝は戦死していた。章邯はさらに反乱軍討伐のため、劉邦のいる沛を含めた東の地へ軍を進めていた。
一気に勢力を失った上に章邯からの侵攻を受けた劉邦は、楚王を名乗る景駒という人物に従属する。しかし、攻めてきた秦の章邯に対して、景駒からの援軍とともに戦うが敗北する。
この頃、景駒のところに行こうとしていた、秦に滅ぼされた韓の宰相の子であった張良と出会う。劉邦は張良の説く兵法に理解を示し、その策略に従う。張良も初めて己の兵法を理解する人物があらわれたことに感動し、劉邦のことを「天授の英傑」と評価する。
劉邦は章邯がいなくなった碭を攻めとり、さらに五、六千人の兵を集めた。劉邦は景駒から離れ、楚の名将・項燕の子である項梁に従属することに決める。項梁からさらに五千人の援軍を得て、劉邦はついに豊を奪回した。
項梁が楚の王族の子孫を探し、楚の懐王を立てると、張良は韓の復興のために劉邦のもとから離れていった。
項梁の武将に、項梁の甥(おい)にあたる項羽がいた。その項羽は剛勇無双の名将であった。劉邦は項羽とともに項梁の軍の武将として、章邯を敗走させた。
さらに、項羽とともに秦軍の李由(秦の宰相である李斯の長子)と戦い、打ち破る。李由は曹参が討ち取った。
劉邦は項羽と義兄弟の契りをかわす。後の宿敵となる運命を知らぬまま。
しかし、劉邦と項羽の勝利に気をよくした項梁は油断し、章邯の奇襲を受けて戦死する。劉邦はこのことを聞いて、項羽とともに彭城まで移動する。楚の懐王も彭城に移ってきた。劉邦は懐王によって、碭郡長、武安侯に任じられた。
章邯は楚が弱体化したものと思い、北の趙を攻めるために軍を進めた。楚に対し、趙から援軍の要請が行われた。
楚の懐王は軍を二つに分ける。主力軍は宋義・項羽・范増・黥布が率い、趙を攻めている秦軍を率いた章邯・王離に向かい、支援軍を劉邦が率いることになった。(史書には劉邦は秦の本拠地である西に関中に向かうことになったとされているが、研究によると、当初は明らかに主力軍の支援が目的である)。
楚の懐王が「まっさきに函谷関(関中の東を守る関所)を抜けて、関中を平定したものを関中王にしよう」と約束する(後世、「懐王の約」と呼ばれる)と、項羽は劉邦とともに支援軍を率いたいといったが、懐王の部下の反対があり、項羽は主力軍の副将となった。
劉邦は支援軍の役割を果たし、地方の秦軍と王離の別動隊を撃破した。一方、項羽は秦軍と戦おうとしない宋義を斬り、楚軍の主将になると趙に向かい、王離を打ち破り、章邯と対峙する。
劉邦は、先ほどの「懐王の約」を果たし、項羽より先に関中に入り、関中王になろうとして、関中に向かうため西へと進軍する。(劉邦の判断なのか、懐王の指示であるかは諸説分かれる。また、当初は章邯の後背を攻撃しようとしていた意図があったことも考えられる)
途中で独立勢力であった彭越と合流して共闘するが、なかなか前進できずに苦戦する。その苦境はたずねてきた儒者の酈食其(れきいき)に救われた。儒者嫌いの劉邦は横柄に対応するが、道理をさとされて、一転して酈食其を礼遇することにして、酈食其の弟である酈商(れきしょう)とともに重く用いることにした。酈食其の働きにより、秦が守る陳留は落ち、兵糧を得ることができた。
兵糧を得た劉邦は軍勢とともに進撃し、秦軍に苦戦しつつ、守りが固いところを避けながら、西へと進む。項羽の配下となっていた趙の武将である司馬卬(司馬懿の先祖)の進撃をとめるが、秦軍に洛陽で敗北する。そこで、函谷関から進むのをあきらめ、関中の南を守る武関を突破しようと南下する。韓の復興を目指していた張良とも合流した。
項羽と戦っていた章邯は降伏寸前であった。すでに時間の余裕はなかった。
しかし、項羽の奮戦により、秦軍の抵抗もまた弱まっていた。劉邦は宛を落とし、張良の計略と酈食其・陸賈の交渉能力により、武関と嶢関を突破し、関中に入ると、秦軍を壊滅させた。この時点の劉邦軍は二万人程度であったが、すでに、参謀に張良、補給と後方支援に蕭何、外交官に酈食其・陸賈、軍の指揮に曹参・樊噲・周勃・灌嬰・夏侯嬰・酈商と、テロリスト・田舎役場の管理職・田舎町の変人学者・刑務官・葬儀屋・肉売り・絹商人・馬車の運転手・変人学者の弟といった綺羅星のような多様な人材が集まり、歴戦を重ねた劉邦の指揮のもと勝利を重ねるようになっていた。劉邦は秦王・子嬰の降伏を受け入れて、略奪を禁じる。また、樊噲と張良の進言を受け入れて、秦の都である咸陽に入ることもせず、秦王朝の財物が入った蔵を封じておいた。
劉邦は秦の父老たちを集め、「お前たちは秦の過酷な法に長年苦しんできた。話し合うだけでさらし首になるような法はやめる。法は三章だけにする。人を殺すものは死罪、人を傷つけるものは罰する、人のものを盗むものも罰する、この三章だけにしよう。わしはお前たちの害毒を除くために来たわけであり、乱暴なことはしないから恐れることはない。今、軍営を構えているのは諸侯とこのことを約束するためである」と宣言する。秦の人々は歓喜して、劉邦軍の兵士たちを迎えようと肉や酒をもちよったが、劉邦は「民に負担をかけさせたくない」と言って断る。秦の人々は劉邦が関中王となることをこいねがうようになった。
しかし、項羽が降伏した章邯を雍王(雍は関中の古い名で、関中王と同じ)に封じており、諸侯の軍60万人を連れて関中に向かっていると聞き、項羽が来たら関中王になれないことが不安になった。劉邦は参謀の一人の進言に従い、函谷関を守らせ、項羽ら諸侯を関中にいれないようにして兵力を集めることに決める。(史書には項羽が章邯を雍王に封じたことの許可を懐王にとった記録もないが、劉邦が項羽たち諸侯を拒絶することの許可を懐王にとった記録もない。)
劉邦は10万人の兵を集めたが、項羽をはばんでいた函谷関は項羽の部下の黥布の奮戦により、すぐに陥落する。
項羽の軍は途中で降伏した秦兵を穴埋めにして、40万人に減っていたが、兵力差がある上に項羽は中国史上有数の軍事能力の持ち主である。勝ち目はなかった。
さらに劉邦の部下の曹無傷が裏切って劉邦に自立の意図があったことを項羽へ伝える。
劉邦は絶体絶命の窮地に追いやられた。
劉邦は事前に相談していなかった張良が項羽のおじ・項伯にとりなしたことにより、鴻門の会において項羽に謝罪を行う機会が与えられた。項羽の参謀である范増は劉邦を殺害しようとしたが、項伯の働きにより無事、生還する。劉邦は曹無傷を斬った。
項羽は咸陽を焼き払い、略奪を行った。
項羽は楚の懐王に報告すると、懐王は「懐王の約どおり、劉邦を関中王に封じるように」という返事を行う(「懐王の約」については後述)。項羽は懐王を義帝としてまつりあげるとともに、その命令に従わなかった。項羽が論功行賞を主導して、劉邦は漢中・巴蜀の王である「漢王」に封じられ、左遷させられてしまう。項羽は西楚の覇王を名乗り、章邯は雍王に封じられ、黥布も九江王に封じられた。韓王の臣下であった張良ともここで別れることとなった。
漢王となり、漢中におもむいた劉邦は、張良の進言によって通ってきた桟道を焼いて、項羽に東にもどる意思がないことを示した。劉邦の兵力は三万人にまで減少していた。また、当時の漢中は僻地であり、いくことを拒み、劉邦の傘下から逃げ出すものも多かった。劉邦は、中原への出口を雍王・章邯ら三秦(滅ぼされた秦の生き残りが封ぜられた国)と過酷な山道に塞がれてしまう。
しかし、項羽の配下の中から、劉邦の配下になるために新たに参加するものいた。その中の一人に韓信がいた。蕭何は韓信の天才的な軍略の才能を見抜き、全軍の大将に推薦する。劉邦は蕭何の進言に従い、韓信を軍の大将軍に任じる。韓信は劉邦に、劉邦の長所と項羽の短所を指摘し、東に帰りたがっている兵の士気を利用し、項羽と覇権を争うように進言する。劉邦の決意は固まり、ついに決起した。
劉邦は故道という使われていなかった古い桟道を使って関中に侵入する。韓信の進言通りになり、かつては敗北を喫した章邯を打ち破ることができた。また、かつて兄として仕えていた王陵も部下に加わわった。劉邦が関中を制覇すると、主君である韓王が項羽に殺されて王を失った張良も劉邦を頼ってきた。
ここに、劉邦のもとに、蕭何・張良・韓信という漢王朝の三傑が勢ぞろいした。元々は、田舎役場の管理職、テロリスト、無職という豪華なメンバーである。
勢いにのる劉邦は韓・魏・殷・河南王を捕らえるか、降伏させる。項羽配下であった陳平も新たに参謀に加わった。
この時、項羽によって義帝(元の楚の懐王)が殺害されていたことを地元の父老から告げられる。劉邦は、時期的にすでに間違いなく知っていたがおおげさに芝居して、片肌をぬいで大いに泣き、喪に服す。劉邦は項羽を大逆無道と呼び、天下の諸侯に項羽の支配する楚国の討伐を呼びかける。趙や斉も劉邦に賛同する。楚は孤立した。
ついに、劉邦の軍勢は56万人にたっした。さらに張良の策謀も功を奏し、項羽は北の斉の討伐に赴いていた。
劉邦は、関中を蕭何に任せ、張良・陳平を参謀に、韓信を大将軍に、曹参・樊噲・夏侯嬰・灌嬰・周勃・酈商らを将軍に、さらに魏王・河南王・殷王まで引き連れて、楚軍を撃破しながら、項羽の本拠地である彭城に進撃する。
これで敗れることはありえるはずはなかった。
だが、覇王・項羽の圧倒的大軍であった秦軍を撃破した実績は、決してまぐれでも奇跡でもなかった。
項羽は彭城が落とされたと聞くと、三万の軍勢で引き返す。劉邦は彭城の東と北に防衛線を張ってはいったが、項羽はこれをくぐりぬけて、西から劉邦を攻めた。防衛の薄いところから攻められた劉邦軍は大敗する。殷王・河南王は戦死し、20万以上の兵を失い、劉邦の父と妻・呂雉は捕らえられて人質となった。さらに、魏王・魏豹は離反し、斉と趙も自立をする。
劉邦は、呂雉との子である息子の劉盈(のちの恵帝)と娘とともに、夏侯嬰の馬車に乗って逃亡した。絶体絶命であったが、呂雉の兄である呂沢が率いた軍と合流し、西への逃亡に成功する。
さらに、随何という家臣を送り、項羽配下の猛将であった今は九江王となっていた黥布を離反させ、味方につける。
劉邦は滎陽(けいよう)に兵を集める。また、劉盈を太子にして、呂沢の協力を得た。関中では、漢軍が章邯を攻めて、章邯は自殺していた。足場を固めた劉邦は、韓信の力で京・索の間において楚軍を破り、項羽の快進撃をここでとめる。
劉邦はここで大きく軍を分けて、韓信と張耳(かつて劉邦が食客となっていた人物)を派遣し、曹参と灌嬰をつけて離反した魏と趙を討伐させた。韓信は劉邦の期待以上の働きを行い、魏・代・趙を滅ぼし、燕を降伏させる。韓信からは降伏してきた兵の精鋭が劉邦のもとに送られてきた。
また、黥布は項羽の武将である龍且に敗北し、劉邦を頼ってきた。劉邦は時間を充分にかせがせるとともに、新たに有力な猛将を手に入れることとなった。
劉邦は滎陽を固めたが、項羽の攻撃は激しく、兵糧を運ぶ甬道を破壊させ、食糧がとぼしくなり、滎陽は楚軍に包囲された。劉邦は講和を望んだが、項羽は拒絶する。劉邦は陳平の策略で、反間の計(項羽とその家臣の間の仲をさく計略)を用いて工作する。項羽は范増を疑い、范増は項羽のもとを去り、途中で死んだ。
劉邦はさらに紀信という配下を自分に扮して降伏させ、注意をひきつけている間に、滎陽から脱出する。紀信は項羽に殺害されたが、滎陽は周苛という部下が引き続き守った。
劉邦は函谷関にもどると兵を集めて、滎陽にもどらずに南の方、南陽の方に黥布とともに出撃する。項羽が攻めてきたが、劉邦は防衛して戦わず、滎陽への攻撃をゆるませることに成功する。
劉邦はかつてともに戦い、今は独立した勢力となっていた彭越を動かして、項羽の背後を撃たせ、補給を攻撃させた。項羽が東に移動して彭越を攻撃している間に、劉邦は成皐(せいこう)へと移動する。しかし、項羽は彭越を破るとすぐに西にもどる。項羽が滎陽を攻め落とすと周苛は捕らえられた。さらに項羽は劉邦のいる成皐を囲む。劉邦はふたたび夏侯嬰とともに脱出した。
劉邦は、蕭何から関中の兵、韓信からは魏・趙の兵を援軍として送られていたが、度重なる戦いで手持ちの兵力は尽きていた。そこで夜間に韓信と張耳の軍営を使者といつわって訪れ、彼らの軍を奪う。張耳は趙王に任じ、韓信には斉を討たせた。
劉邦は守備に徹し項羽と直接は戦わないようにして、彭越・盧綰・劉賈に楚国を襲わせる。また、酈食其に命じて斉を味方につけるように命じる。項羽はまた東に彭越を討ちにもどった。酈食其は斉を降伏させたが、韓信は劉邦から攻撃中止の命令がないことを理由に斉を攻撃する。斉は攻略したが、酈食其は斉王に殺害された。
劉邦は項羽が不在のうち、項羽の武将である曹咎を打ち破る。項羽がもどってきたため、広武山に退却した。韓信もまた項羽が斉の援軍に送った龍且を打ち破り、討ち取った。
形勢は次第に劉邦に傾いてきた。しかし、劉邦はさらに項羽と対峙せねばならなかった。
劉邦は項羽と広武山を挟んで対話する。劉邦が項羽の犯した10の罪を数えて責めると、項羽は伏せていた弩を放たせた。矢は劉邦の胸に刺さったが、劉邦は、足をさすって「足の指を射られた」と言って軍をねぎらい、兵士を安心させた。劉邦の傷は重く、成皐の城で休むことになった。傷がいえると、関中にもどり、父老たちと酒宴を行い、すぐに広武山にもどった。
劉邦のもとには、関中にいる蕭何から援軍と補給が送られてきた。しかし、斉を攻略した韓信から「斉を治めるために斉の仮王となりたい」という申し送りがあった。韓信の援軍を頼みにしていた劉邦は激怒するが、張良の進言により、自立されるよりはと、韓信を斉王に任じる。劉邦は韓信の援軍が期待できなくなった。
劉邦は黥布を淮南王に封じる。また、戦死した兵士に衣を着せ、棺桶に死体をいれて、家族のもとに返すことにした。このことにより、民からの支持が増した。
しかし、項羽の苦境はそれ以上であった。韓信は項羽との和議を拒否し、楚を攻撃してきた。彭越もまた楚軍の補給を攻撃してくる。項羽は劉邦からの勧めに応じて、劉邦との講和に同意する。中国の西を劉邦、東を項羽とするもので、劉邦の父と呂雉はこの時、返された。
一時的に平和がおとずれるかに見えた。
しかし、張良と陳平の進言により、劉邦は講和を一方的に破り、東に帰還する項羽率いる楚軍を背後から攻撃する。しかし、韓信と彭越の軍が来なかったため、劉邦はまた項羽に破られる。劉邦は守りを固めながら、張良の進言によって、韓信にさらに王の地位と領土を約束し、(斉王の地位の確約説、斉王に加えて楚王にも封じる約束した説がある)、彭越にも梁王の地位と領土を約束する。
韓信、彭越の軍は果たしてやってきた。さらに、黥布・劉賈の軍も来た。項羽の武将である周殷も項羽から寝返った。
追い詰められた項羽は垓下に軍を構えた。項羽の軍は10万程度であったのに対し、漢軍は韓信の軍だけでも30万人いた。戦いは一戦で決まった。項羽は大敗する。項羽にとっては生涯最初にして最後の敗北。劉邦にとっては、項羽に対する最初にして最後の勝利となった。
垓下にこもった楚軍は四面から楚の歌が聞こえたため、戦意を失った(四面楚歌)。項羽は江東に逃走しようとしたが、途中で断念して自害した。楚の地は平定され、最後に魯の地が降伏した。劉邦は韓信の軍を奪うと、盧綰と劉賈に命じて、(項羽に味方していた?)臨江王を攻撃して捕らえさせた。
ついに天下は統一された。劉邦は天下中の人の死罪以下の罪を赦免した。
項羽を下した劉邦は韓信・黥布・彭越ら諸侯王に認められ、皇帝に就任することになる。ここに漢王朝が成立し、以降一度は新によって断絶するもののその後復活する。劉邦は、400年にわたる統一王朝の太祖となった。
当初は洛陽(雒陽)を都とした。劉邦は、戦乱において逃亡して山や沢に逃れていた民はその故郷に帰れば、田や家を取り戻せるように、また、飢餓のために我が身を売って奴隷となった民は放免して庶民となるように、功績のある軍人たちに爵位と行賞を与えるように天下に命令する。
劉邦は宴席において、自分が天下をとった理由は、他人の功績に利益を与えただけでなく、張良・蕭何・韓信の3人の優れた能力を活用できたことがその理由としてあげる。後世にこの三人は「漢の三傑」と呼ばれるようになった。
その後、張良と劉敬の進言により、洛陽から遷都して、関中の地にある長安を都とすることに決める。
劉邦即位後は各地で反乱が起きる。元々は臣下ではなく、各地で力を有していた彼らを制御することは困難であった。反乱を起こした燕王・臧荼(ぞうと)や利畿を捕らえて処刑した。さらに、謀反の疑いがあった楚王となっていた韓信も捕らえて、淮陰侯に落とした。
劉邦は、はじめは親友の盧綰を燕王としたが、その後は親族を王とする方針にし、一族の劉賈を荊王、弟の劉交を楚王、長子の劉肥(劉盈の兄、母は呂雉ではなく、曹氏)を斉王とした。
劉邦はこの頃、やっと功臣たちに行賞を与えたが、それは主な二十余名にとどまるものであった。そのため、恩賞にあずかれない諸将は誅殺を恐れたこともあって、謀反を相談するようになった。劉邦は張良の進言によって、最も嫌っていた雍歯を諸侯に封じた。諸将はこれを知って安心した。
しかし、太原に封じられていた韓王信が匈奴に攻められて、降伏し、反乱を起こす。劉邦は、自ら討伐したが、平城において、冒頓単于には見事にボコられ、屈辱的な講和をした。一方で、韓王信の乱の方は平定している。後に、匈奴討伐におもむき、生き残った兵士は終身、労役を免除している。
都は長安に定めたが、帰ってみると、丞相となった蕭何が立派な未央宮を建築していたので、「天下の民が戦争で苦しんでいるのに、こんなものを建てるなんて」と怒るが、蕭何に「威光を重くして子孫にこれ以上立派なものを建てさせないようにするためです」と説得され、納得する。商人に贅沢と馬に乗ることを禁じ、農業を推奨する。また、関中に天下中の貴族を移住させ、地方に繁栄させないようにさせ、関中を強くする政策をとる。
また、趙の大臣による劉邦暗殺計画が発覚し、趙王であった張敖(張耳の息子)を侯に格下げした。
趙において、陳豨(ちんき)が反乱を起こす。劉邦は金をばらまき、陳豨の部下を切り崩した。劉邦は自ら、陳豨を討伐する。留守の間に、呂雉と蕭何から韓信が謀反を起こし、韓信とその三族を滅ぼしたという報告をうける。
劉邦は洛陽に帰還すると、民の過度な負担とならないように、諸侯王や諸侯が貢物を送ることを一年に一度とし、郡から中央に送られる税額を定めた。また、天下に中央に優秀な人材を送るように詔を出した。
今度は、彭越に謀反のうたがいがあり、呂雉の進言により、彭越の三族を滅ぼした。劉邦は各地の王に自分の息子を封じ続けた。
今までは諸侯王の反乱であったが、項羽討伐に大きな功績があった韓信と彭越を疑惑だけで処刑し、三族を滅ぼしている。劉邦に対する諸王の不信は吹き荒れた。
劉邦もまた、後継となる太子を、皇后となった呂雉との間の子である劉盈から、寵愛していた戚夫人との間の子である劉如意(劉盈の弟にあたる)に変えようとして、多くの臣下の反対にあい実行できず、その孤独を深めていた。一方で、劉邦は漢中にともに入った兵士たちの労役を終身、免除し、その労に報いていた。
続いて、黥布が反乱を起こした。劉賈は黥布と戦い戦死する。劉邦の弟であった楚王の劉交も黥布に敗北した。劉邦は病をおして天下の兵を率いて自ら出撃し、黥布を打ち破るが流れ矢が当たり、負傷した。
帰還の途中で、はじめて決起した土地である沛にもどり、沛の人間たちを集めて酒宴を開く。劉邦は「大風歌」を歌い、涙を流す。劉邦は沛と故郷の豊の今後の賦役(税と労役)を免じた。
黥布は斬られ、陳豨も樊噲に討たれたという報告があった。劉邦は長安にもどった。相国の蕭何が民から土地を安く強引に買い、その代金を払わないという訴えを聞く。劉邦は蕭何が商人から財物を受け取っているものと考えて獄にくだしたが、後に赦免して蕭何に謝罪した。(なお、この時の蕭何の行動はわざと名声を汚して保身を図ったもので、本当の意味で私益をはかったものではない)
しかし、燕王に封じていた幼馴染であり、劉邦の親友である盧綰に陳豨と共謀した謀反の疑いがあった。盧綰は劉邦の招きに応じず、矢傷がいえない劉邦は、樊噲と周勃に盧綰を討たせた。
反乱討伐のために長安を留守している間に、蕭何すらも完全に信用できる存在ではなくなり、太子の問題によって呂雉との間にも対立が生まれていた。しかし、呂雉と蕭何は漢王朝を支える重要な人物であり、その政治能力には劉邦は大きな信頼を寄せている。さらに、親友であった盧綰も反した。劉邦の孤独は深まっていった。劉邦は次の燕王に自分の子を封じた。
劉邦はさらに太子を劉如意に変えようとしたが、儒者の叔孫通の反対にあい、張良が推薦した四人の名声高い人物が太子の劉盈の側で仕えていることを知り、断念することにした。張良でさえも劉邦が自由に太子を変えることには賛成はしてくれなかった。
劉邦は、天下に「私は天下のすぐれた人物や功績のあるものに充分に報い、天下の期待にそむかなかった。不義があり、天子に反乱を起こして兵をあげたものに対しては、天下とともに討伐するだろう」と天下に布告した。一方で、劉邦が黥布の闘いで受けた矢傷は深く、その痛みは激しくなっていた。
一代の英雄である劉邦も死が近づいていた。死期間際の劉邦は、死後の戚夫人と劉如意の保全を気にかけていた。そのため、呂雉の妹を妻としていた樊噲の誅殺を命じたと伝えられる。陳平の判断により、樊噲の処刑は保留され、捕らえられるだけで済み、劉邦の死により樊噲の命は助かった。
死に間際に、劉邦は呂雉にたずねられた。
呂雉「陛下(劉邦)にもしものことがあり、相国(蕭何)が死去したら、誰を代わりにしたらいいでしょうか」。
劉邦「曹参がいいだろう」
呂雉「その次は誰を代わりにすればいいでしょう」
劉邦「王陵がいいが、少し愚直なところがあるから、陳平に補佐させるといい。陳平の知恵は有り余るほどだが、一人に任せるわけにはいかない。周勃は重厚で華やかな才能はないが、周勃を大尉にするといいだろう」
呂雉「さらに、その次は」
劉邦「これからはお前の知るところではない」
劉邦の言葉通りに漢王朝の政治を預かる人間は代わり、これにより、漢王朝は存続し続け、その後も発展をとげることになった。
ついに、劉邦は長安において死去する。群臣たちは、劉邦を「平民から身を起こして、乱世を平定して、漢の太祖とおなりになった。功績はもっとも高く、高皇帝と贈り名しよう」と尊号をたてまつった。
劉邦と呂雉の子である劉盈が次代の皇帝に即位する。これが後の恵帝となる。諸侯に劉邦の廟を立てさせ祀ることになった。
劉邦の建てた漢王朝は前漢・後漢あわせて400年続いた。漢の皇帝たちはみな、劉邦の受けた天命を受け継いだことを名目にして皇帝に即位し、天下を統治した。前漢は王莽によって滅ぼされたが、王莽に対して反乱を起こした勢力のほとんどが漢王朝の復興をスローガンとした。その一人である劉邦の子孫にあたる劉秀(光武帝)が漢王朝を復興し、後漢王朝を建国する。
漢王朝は文帝・景帝・武帝・宣帝・光武帝・明帝と続々と名皇帝が生まれた。三国志の劉備や諸葛亮も漢王朝の復興を名目にして蜀漢王朝を建てて戦い続け、後漢王朝の衰退後も多くの人々が漢王朝のさらなる存続を願った。漢の後を襲った魏や晋は漢ほどの勢威を誇ることはなかった。
さらに、蜀漢の滅亡後も匈奴である劉淵までもが漢王朝を受け継ぐことを名目にして皇帝に即位する。
現在でも劉邦の建国した国号である「漢」は漢民族をあらわす言葉として生き続けている。
中国の王朝の中でも特に重要とされる漢王朝の太祖であり、中国の歴史上でも皇帝のお手本とされる。
唐代などでは「漢高魏武」といわれて人材マニアでよく知られる曹操と同列かそれ以上の評価を受けている。
また、五胡十六時代の後趙を建国した石勒は、「高皇帝(劉邦)に出会ったならば仕え、韓信・彭越と功を争うだろう。光武帝(劉秀)に会ったら共に天下の覇権を取り合っただろう。曹操や司馬懿・司馬師・司馬昭のように、欺いて天下を取ったりはしない」と、
劉邦>石勒=劉秀>曹操・司馬懿、というような分かりやすい不等号であらわせる評価をしている。
また、劉邦が皇帝に即位した頃、劉邦に天下を支配する「天命」(天帝が天子に対して授ける天下を統治する命令)があるとは考えられておらず、乱世を終わらせた「功」と「徳」、および「天下」を私物化しないという諸侯王からの評価により皇帝として推戴されたことが実態である。これは後世の皇帝たちに比べると、「天命」思想の力をほとんど借りることができなかった時代に、純粋に実力が認められたものと評価できる。
劉邦の創業した漢は「郡国制」という直接、漢が支配する「郡」を設置した土地と、諸侯王が支配する「国」に分けた国家体制を布いていた。これは秦の全て直接、皇帝が統治する「郡県制」に比べると、過程に過ぎない後退であり、劉邦の皇帝としての権力は弱く、劉邦は後世の皇帝に比べると、諸侯王の盟主に過ぎないと評価されることもあった。
しかし、近年、漢は元々から「郡国制」を目指していたとする研究者が増えており、劉邦が行った「郡国制」の確立に向けた政策や実績は積極的に評価されるようになっている。
劉邦は、気性がはげしく、学問をおさめず、傲慢で、率直に過ぎて礼儀知らずなところが多かった。その反面、はっきりした性格であり、他人の言葉を聞き入れる、門番や兵士さえも昔馴染みのようにあつかった、皇帝としても親しみやすい性格であったと評価されている。さらに、『漢書』によると、謀略にすぐれていたとされる。
また、部下の進言を取り入れることが多く、そのため自分の才能を活かしたいという多くの人材を得ることに成功している。本人も自分よりも部下のほうが優秀であることは認めており、韓信・張良・蕭何と後に三傑と呼ばれる三名に対しては自ら言及して各方面において自分より優れていることを認めている。
天下平定の後は、蕭何に法律を、韓信に軍法を、張蒼に法令規則(暦や度量とする説もある)を、叔孫通に礼儀を、陸賈に自分たちの記録である『新語』をつくらせ、それぞれの特性を生かしている。
劉邦は部下の能力や特性、性格を理解し、それが生かせる地位に、軍事においても政治においても任命した。
この能力については、天下統一後も生かされ、政治や内政には軍功のあった武将たちよりも、法律や制度、儀礼に通じた人物を積極的に登用し、武将たちを抑え、官僚や地方官たちを統治能力に登用した。
死ぬ間際になっても自分の死後の人材の有効活用法を皇后の呂雉に言い残し、その通りになったという逸話も残っており、人材を見抜き、活かすことに長け、また、部下の意見が正しければ直に聞き入れる人物であったことが伺える。
部下の諫言や進言の内容に誤りがあったとしても、それを理由に罰したとする記録も残されていない。また、蒯通や欒布のように煮殺して処刑しようとするほどの怒りをおぼえた人物でも、その言葉に理屈があると認めた時はその罪を許し、欒布に至っては取り立てている。
また、田横の部下や張敖の部下のように、忠義の士を積極的に取り立てることも行っている。
劉邦については、天下統一後に疑心暗鬼からの粛清を行ったとよく言われるが、それは正確ではない。
劉邦が粛清した、もしくはしようとしたとされる人物は、
臧荼・利幾・韓信・韓王信・貫高・陳豨・彭越・黥布・盧綰・蕭何・樊噲の十一名である。
三傑と呼ばれた人物のうち、蕭何・韓信、王としての功績の大きい彭越・黥布、沛からの忠実な部下である盧綰・樊噲が含まれているため、多くは感じられる。
しかし、臧荼は理由が不明のまま反乱を起こしたものであり、粛清かどうかは不明である。利幾は項羽の部下であったものが洛陽に呼ばれて猜疑心を起こして反乱を起こしたもので、これも粛清とは呼び難い。
韓信については、楚王の時に捕らえて楚王の地位から落としたことは完全に疑惑だけから行ったものではあるが、粛清に関してはむしろ首謀者は呂雉と蕭何である。
韓王信については、匈奴との講和を独自ではかっていたら、内通していると疑われ、謀反を起こしたもので、善悪はともかく、粛清とは言い難い。
貫高は、劉邦が貫高の主君である張敖に対して無礼な態度に怒りをおぼえて暗殺を謀ったのが処刑の理由である。陳豨も劉邦から信任をうけながら、反乱を起こしている。この二人も粛清が理由ではない。(ただし、劉邦の行動に原因がある可能性が高いから、善悪から言えばこの二人を一方的に責めるのは難しい)
彭越は、劉邦の出撃要請に対して病気を理由に応えず、その後の出頭命令に対しても仮病をつかって出向かずに、謀反のたくらみがあることを部下から行われたもので、逮捕して調べたところ、その証拠があったとされたもので、劉邦が平民になることで許したものを、呂雉の進言により、処刑したものである。これは粛清とはいえるが、一方的に劉邦に非があるわけではない。
黥布は韓信と彭越が処刑されたことを知り、兵を集めていたところ、部下が謀反の罪を訴えたので、反乱を起こしたもので、当初は劉邦と蕭何は真偽を確かめようとしていた。黥布の義父で長沙王でもあった呉芮に至っては武帝時まで王号を保っている。これも粛清とは言い難い。
盧綰は、戦争を終息させないために、匈奴と陳豨に通じていたことが判明し、討伐したところ、盧綰が逃亡したためである。確実に罰する罪があり、粛清とはいえない。また、盧綰は劉邦が死ぬまで劉邦を信頼していた。
蕭何に対してだけは、実際に劉邦が史書上で誰かの進言や確実な証拠がないのに、疑心暗鬼を三度も示している。ただし、罰したのは最後の一度だけであり、この時は民衆から蕭何が不正を行っているという訴えがあったことは間違いなく、最終的には許している。これは元々、粛清の意図であったかは不明であり、その後も蕭何に対して政務を預けている。
樊噲に対しては、部下から『樊噲は呂雉の一党であるから(樊噲は呂雉の妹の夫)、劉邦の死後に、寵愛していた戚夫人や劉如意を殺害しようとしている』という進言があり、誅殺しようとしたものであり、疑心暗鬼であっても粛清とは異なる。
このため、実際に劉邦が直接的に行った粛清と言えるのは、彭越ただ独りであり、それも彭越にも罪があり、呂雉の進言があってのことである。(ただし、韓信が楚王の時に確かな証拠がなく、謀反の疑いだけで捕らえて降格した事件は殺害していないとはいえ、広義の意味での粛正とは言える。)
なお、樊噲の件から分かるように、劉邦晩年の疑惑の対象となった人物のうち、黥布を除いた韓信・彭越・盧綰・蕭何・樊噲については、劉邦と呂雉との政治関係の問題も同時に発生していたという背景に対しても注意を要する。
劉邦は軍事能力が低く、負けばかりというイメージが世間に流布している。これは、小説や漫画作品がそのようになっているためであり、また、項羽が劉邦と戦った回数が72回であり、最後の一戦を除いて全て敗れているという話が「平家物語」でも採用されている。(なお、1勝72敗か、1勝71敗かは作品により異なる)。
これは元は劉邦が黒子の数に合致した72戦して天下を定めたという伝承があり、これが項羽との戦いに限定されて、項羽の「七十数戦して負けなし」という発言との整合をとるためにそのような説話が生まれたものである。
実際の劉邦は、ろくに訓練を行っていなかったであろう沛の兵を率いて、泗水郡の秦軍を二度も破り、雍歯の反乱により豊を落とせず、秦軍を率いる章邯に敗れたものの、碭では章邯の秦軍の一部相手に勝利を挙げて兵力を増やしている。また、項梁の援軍を得て、豊を落とし、その後は項羽とともに項梁軍の主力として、章邯を撃退し、楚軍の一翼を担う人物の一人となっている。
当初の劉邦は城攻めを得意とはしなかったようではあるが、楚の支援軍として一万人程度の兵力で、王離軍の別動隊や秦の地方軍にも野戦では勝利している。咸陽進撃も、少しずつだが進んでおり、秦軍からの敗北時も致命的な打撃は受けていない。
張良を得てからは快進撃を続け、秦軍を破って、咸陽を落としている。この頃の劉邦軍は2万人程度であったが、鴻門の会直前には10万人に増えていたので、関中を守る秦軍は劉邦より圧倒的多数であったことが分かる。
楚漢戦争でも、雍王となった章邯や項羽の主要な武将である龍且や曹咎、鍾離昩に勝利しており、秦軍を壊滅させた項羽が余りにも強すぎただけだとわかる。その項羽にも、途中からは防衛姿勢をとることで次第に単身での逃亡にいたるほどの敗戦はしないようになっている。
その後も冒頓単于には大敗してはいるが、冒頓単于は、東西南北にいた敵を滅ぼして従属させ、匈奴を広大な土地を有する大国にし、騎馬民族の組織の基礎の創始者となる草原の英雄となるほどの稀有な軍事能力を有した人物である。
また、比較対象になりがちな配下の韓信もまた、中国史屈指の名将である。
中国史に詳しい人でも、項羽・韓信・冒頓単于を中国史十指や二十指の名将に誰か一人以上を挙げる人は多いであろう。時代ごとの比較は困難だが、これほどまで他の人物と圧倒的な差をつけた軍事能力を有する名将が同時代に三人も存在するのは稀有である。
また、劉邦が一度敗北した章邯も複数の人間の合意によって話し合われる場所で、中国史名将100選の一人に選ばれたことがある。 劉邦は天下統一後も反乱討伐に追われたが、韓信不在でも基本的に有利に反乱討伐を行い、臧荼、利機、韓王信、陳豨、黥布といった戦歴豊かな相手の反乱討伐に成功している。また、この時には城攻めは不得手としていない。
劉邦の軍事能力は、黥布が「劉邦は年だから自分で兵を率いてはこない。韓信と彭越はもういないから恐れるに足りない」と発言しており、黥布もかなり警戒していたことは分かる。少なくとも、黥布は曹参・樊噲・周勃・灌嬰・酈商よりも劉邦を高く評価していたようである。
また、劉邦は項羽相手に苦戦しているが、楚漢戦争自体は約5年間で終わっていることに留意すべきである。(光武帝は即位から天下統一まで約12年、李淵・李世民も決起から天下統一まで約12年間である)。
「懐王の約」とは、本文で述べた通り、楚軍を趙への援軍として送る際に、楚の懐王が「まっさきに函谷関(関中の東を守る関所)を抜けて、関中を平定したものを関中王にしよう」と諸将とした約束のことである。
このことについて、学説の中でも、「単なる楚の懐王の実効性のないスローガン」説と「秦を除く天下の諸侯の盟主となっていた楚の懐王が楚の諸将だけでなく、天下の諸侯に対して行った約束」説と大きく二つに分かれる。
前者の場合、劉邦と楚の懐王が「懐王の約」を後から大事な約束のように言い換えて、項羽を政治的に追い詰めるための道具にしたことになり、項羽の方に正当性が存在することになる。
後者の場合、天下の盟主となっていた楚の懐王が諸侯にした約束を、項羽が一方的にやぶり、劉邦に不当な扱いを行い、漢中に左遷したあげく、邪魔になった楚の懐王を殺害したことになり、劉邦の方に正当性が存在することになる。
もちろん、漢王朝のもとで書かれた史書は後者の考えで書かれており、項羽が「懐王の約」の履行を迫る懐王に対して苦慮し、諸侯を納得させるために様々な言い訳や理由をつけたとされ、かつ、劉邦に項羽を討伐する大きな大義が存在したとされる。
劉邦に正当性が存在すると仮定した場合、大義を説明せずに函谷関を封鎖するなど、劉邦側に不自然な動きも多いが、学説でも劉邦側により正当性が存在するという意見がかなり強いということは注意を要する。
劉邦は統一後、秦の制度や政治の多くを継承したが、秦のような代々の国家の形成や代々の忠実な家臣が存在しないため、秦の始皇帝のような絶対的な権力者になることはできなかった。
劉邦自身も劉邦の皇帝としての立場は、劉邦に対する個人的な人望と、地位と領土の保全を目的とした諸王や家臣が、自分を支持していることに支えられているに過ぎないことを自覚していたようである。
そのため、劉邦は漢王朝の運営への協力を諸王と家臣にも求め、漢王朝の存続を阻むものに対しては共同して討伐するように要請し、秦の失敗をかえりみつつ、秦王朝の政策との大きな転換を漢王朝において行っている。
一つ目は、官吏が民に対して厳しい法を適用して政治を行うことを警戒し、法治をゆるめ、民の安定を重視する政策を積極的に行ったことである。
二つ目は、各地のすぐれた人物を集めて、漢王朝の建国への積極的参加をうながし、取り込みをはかったことである。
三つ目は、「郡国制」の施行である。直轄地を天下の3分の1程度にして、各地をその土地に封じた諸王に任せる政策を行う。諸王には、劉邦に反抗的な人物が多かったが、次第に劉邦の親戚を封じ、より安定的に天下を運営することに成功している。
四つ目は、匈奴や南越など外国に対する柔軟な政策である。秦のような強引な討伐や戦争を行わず、外交によって、(時には屈辱的な手段を駆使してでも)、平和裏におさめるような政策をとっている。
三つ目と四つ目は、前漢の武帝の時代まで。一つ目と二つ目は、理念上では漢王朝が終わるまでその政策がとられている。
劉邦の皇帝即位時点で諸侯王に封じられていたのは、
楚王:韓信
梁王:彭越
長沙王:呉芮
である。
劉邦が死去した時には、諸侯王は全て、呉芮以外は全て(盧綰も含む)、劉邦の縁戚である劉氏に代わっている。
また、功臣の中で上位にあるものとしては、
功第
1位 蕭何、2位 曹参、3位 張敖(張耳の子)、4位 周勃、5位 樊噲、6位 酈商、7位 奚涓、8位 夏侯嬰、9位 灌嬰 10位 傅寛、11位 靳歙、12位 王陵、13位 柴武(陳武)、14位 王吸、15位 薛欧、16位 周昌、17位 丁復、18位 蠱央 があげられる。
奚涓や薛欧、丁復、蠱央のような、ほとんど史書にも事績が書かれていない人物も含まれる。
なお、陳平は47位、張良は62位と低く、この理由について様々な議論がされている。この功第の順は、呂后(呂雉)統治時代に再編されている可能性があることも注意する必要がある。
なお、劉邦が早い段階で功臣として封じた人物は、封じられた順に、曹参・陳平・樊噲・丁復・靳歙・陳嬰・灌嬰・呂青・王吸・呂沢・周昌・郭蒙.・夏侯嬰・呂釈之・武儒・傅寬・張良・董緤・召欧・項伯・孔聚・薛欧・蕭何・陳賀・陳濞・酈商・陳豨・周勃・周竈の29名である。
王に封じられた人物も含めて、以上に挙げられた人物が、劉邦の漢王朝建国における重要な功臣にあたる。
劉邦の年齢は、死去した時の年齢が62歳(沛公となった時点で48歳)説と53歳(沛公となった時点で39歳)説がある。前者とすれば、項羽より24歳年上、後者では15歳年上となる。
しかし、沛時代の劉邦の遊侠としての位置づけや劉邦の子供の年齢の幼さから、劉邦はもっと年齢が下であった説が存在する。この研究では、劉邦の年齢は死去した時の年齢が43歳(沛公となった時点で29歳)としている。この場合、項羽より5歳年上となる。
劉邦は若いころは家の手伝いをせず、せっかく得た役人の地位も、金持ちの娘と結婚しながらも失い、逃亡したため、呂雉も捕らえられるほどで、家族に多大な迷惑をかけたことは想像に難くない。その後も父である劉太公は彭城の戦いにおいて、項羽の人質となり、危うく煮殺されるところであった。
この時、劉邦は、「我々は義兄弟の契りを交わした間柄だから、私の父は、お前にとっても父である。釜茹でをやるなら、その煮汁を一杯分けてくれ」と言ったと伝えられる。項羽のおじである項伯が項羽にとりなしたため、実行させずに済んでいる。
人質生活は2年半にも渡ったが、劉邦と項羽の間で講和が成立し、なんとか帰還できた。(ただし、劉邦が人質を無視して講和を結ぶことを優先して、項羽を油断させた上で攻撃していないことには注意が必要である)
また、劉邦と仲が悪かった次兄の妻の子(劉太公の孫の一人)に侯を与えるのを、劉太公に与えるのをしぶっている。
しかし、劉邦は皇帝即位後も劉太公のもとに5日に一度、庶民と同じような礼を劉太公に行っていた。劉太公は執事の発言を聞いて、自主的に臣下の礼をとった。この時も劉邦はおどろいて車から降りて劉太公をいたわり支えたと伝えられる。劉太公が重ねて、父が臣下の礼をとることの重要性を聞いて、やっと同意している。
また、劉太公が長安に来てから鬱々としているのを見て、劉邦は劉太公が、故郷から離れてまた、『西京雑記』によると、無頼の若者たちと酒や餅を売買し、闘鶏と蹴鞠をすることができなくなったため、という理由をすると、長安に近くに新豊(劉邦の故郷である豊の新という意味)をつくって、劉太公のふるなじみを呼んで、劉太公を喜ばせた、という。(このことから、劉太公は遊び人気質であり、劉邦と元々から気があったのだろうと考える研究者もいる)
また、劉邦は劉太公の死の前年、酒宴の席で劉太公の長寿を祝い、「父上は、私のことを無頼で仕事をしない、劉仲(劉邦の次兄)に及ばないと言っていましたが、私と劉仲はどちらがなした事業が大きいでしょうか」と語った。群臣はみな、万歳をとなえ大いに笑ったという。
これは劉邦の多少の毒が入った冗談と解するべきであり、劉邦と劉太公の仲は良好であったと考えるのが自然である。
劉邦の名である「邦」は「兄い」の意味である「兄哥」を意味するという説が司馬遼太郎の『項羽と劉邦』で紹介されている。出典は、中国の清末にいた学者の意見であり、はなはだ頼りないものであるが、これが事実であった可能性があるとする研究者もいる。
現代では、発掘された当時の文献を調べたところ、劉邦の皇帝即位、あるいは死後から、「邦」の字は皇帝の諱(いみな)として扱われ、使われなくなったことから(なお、前漢の初期は厳格には守られていなかった可能性もある)、劉邦の「邦」は(「兄い」の意味ではなく)、実名であるとする説が圧倒している。
劉邦は一般的に戦国時代の七国のうち中国の南側に存在していた楚人のイメージが強い。沛は戦国時代に宋が滅ぼされていた時に楚の領土となっており、また、劉邦は一貫して「楚」を名乗る勢力の傘下となっている。
しかし、劉邦の生地である豊は、魏が滅ぼされた時に移住してきた人間たちの集まって生まれた邑であり、劉邦も遊侠時代に魏にいたはずの張耳の食客となっている。『漢書』でも劉邦の祖先は魏に移り住んだとされており、それ以前は晋(魏・趙・韓の前身)や秦に先祖が住んでいたとしている。
項羽があくまで「楚」にこだわったことに対して、各国に祖先が存在していた劉邦は、七国の枠組みによらない「漢」という国家を建国している。
72と いう数字は当時の一年である360日を五行説の5で割った数字で、古代中国において特別な数字とされており、偉大な存在の証拠といわれている。もっとも、このせいで「劉邦は項羽に72敗(あるいは71敗)した上で、最後に1勝して、項羽に勝った」という劉邦には不名誉な伝説が生まれてしまっている。
劉邦の母が沢で休んで、夢を見ていると、雷鳴と稲光がしてあたりが暗くなった。この時、劉邦の父(劉太公)が母の上に蛟龍がいるのが見えた。劉邦の母はやがてみごもり、劉邦を生んだ。(このため、劉邦は劉太公以外の男の子ではないかとする説があるが、少なくとも司馬遷はそのような意図では描いていない。あくまで、皇帝の特別な出生話の一種である)
また、酒をつけで飲んでいると、寝ている時に不思議なものが見て、劉邦が酒屋にい続けると酒が何倍も売れ、酒屋は劉邦の酒代はただにした。(創作ではこの話は劉邦の人気により酒が売れたことになっているが、司馬遷の意図はあくまで英雄にまつわる怪異話である)
劉邦が逃亡した時に、道中で大きな白い蛇がいたのを剣で斬った。その後で部下が近くで老婆が泣いているのを見つけ理由をたずねると、「私の白帝の子が蛇に変わっていたところを、赤帝の子に斬られた」と言って、消えていった。劉邦は喜んだ。
劉邦は後に「黒帝の子」を自称しただの、当時の漢王朝は火徳じゃないからなんで赤帝なんだよ、とか、言ってはいけない。研究者にも分からないのだ。こまけえこたぁいいんだよ!!
なお、みすぼらしかったはずの劉邦の白蛇を斬った剣は、真珠と玉で飾られて、瑠璃をちりばめた箱に納められ、漢王朝の皇帝に代々伝えられた。その剣は鞘に収まっていても、光り照らして、その刃は白く輝いていたと伝えられる。
上記と同じように、嘘くさい劉邦の伝説として、劉邦の持っていた特別な気(オーラ)がある。
始皇帝は中国の東南地方(劉邦がいた地域)に天子の気があるといって、巡幸してその気をしずめようとしたとされる。
劉邦が逃亡して隠れた時には、妻の呂雉は劉邦を探すと必ずその居場所を見つけた。劉邦が不思議に思うと、呂雉は「あなたのいるところには、いつも雲気がありから、探すことができます」と語った。この噂を聞いて劉邦に従うものが増えた。劉邦があらかじめ場所を伝えて、呂雉が偶然さがしあてたように見せて、劉邦に箔をつけたという研究者もいるし、その方が自然だけど、こまけえこたぁいいんだよ!!
また、「鴻門の会」の直前、項羽の参謀である范増は、「私が人に占わせたところ、劉邦の気は龍となり、五色あり、これは天子の気です。すぐに討つべきです」と主張している。しかし、項羽はこの進言を聞くことなく、劉邦を許している。范増の発言は逆効果だったような気がしないではない。
とにかく、劉邦はすさまじい「天子の気」を持っていたようである。と、特に漢王朝の皇帝となった子孫は言いたかっただろうとは、推測できる。
秦の首都である咸陽を落とした劉邦は民衆をがちがちに縛っていた秦の法律を撤廃し、「怪我をさせるな、殺すな、盗むな」という単純な法律のみを敷いた。
後には再びきちんとした法律が敷かれることになるが、この単純さが民衆には受けたといわれている。
なお、法三章では戦乱の世の統治ができず、蕭何が秦の法を基本として新しい法を制定している。また、天下統一後も、漢は秦と余り変わらない法律により天下をおさめている。
これは口約束で終わったただの人気取りだったのではないかなどと言ってはいけない。『漢書』では、劉邦は民をいたわる詔を何度も発しており、法律は運用が違えば実態は大きく違うのである。多分・・。
前述したとおり、劉邦は部下の進言をすぐに取り入れる。その進言が正しいものであればいいのであるが、時に誤った進言を取り入れてしまうことがあるため、失敗することもある。
関中を項羽に先駆けて制圧した際にも、部下の「関中は劉邦様のもの。項羽は関中に入れないほうがいいです」という進言を聞き入れて、項羽軍を関中に入れなかったため、項羽は激怒。項羽を阻むはずの函谷関は突破され、危うく項羽軍に撃破される寸前まで陥った。
また、項羽に苦しめられている時に、酈食其に進言を取り上げて、楚の力を弱め、漢の力を増すために、六国(楚・魏・趙・韓・燕・斉)の王の子孫を探して王としようとしたことがあった。劉邦は、六王の印綬をつくらせて、酈食其を出発させようとした。
しかし、張良が聞きつけて、「六国を復活させたら、漢王(劉邦)に従って恩賞を得ようと戦っている人物たちが故郷に帰ってしまいます。また、六国が項羽に従ったらどうするのですか。その策に従ったら天下の大事は去ってしまいます」と進言すると、劉邦は六国の印をつぶしてしまった。
結局、劉邦は張良だよりであることが分かる。ただし、その後も、劉邦は意外に全ての判断を張良や陳平にゆだねているわけではなく、部下の進言を聞いてから、自分で判断している。
劉邦が漢中に入るにあたって、中原に至るための木でできた桟道をすべて焼いてしまった。
これは張良の進言によるものであり、すでに中原には興味がないというアピールをするためのものである。
ところが、その後も劉邦陣営は韓信のような脱走が相次いでいるため、少人数では自立で帰ることができたようである。
項羽に敗れ、道中で息子の劉盈(後の恵帝)、娘(後の魯元公主)(なお、どちらも呂雉との間の子)に会い、馬車に載せて逃げることになった際に、楚軍に追われて、馬車を軽くするために自らの子供を次々に馬車から押して落とした。御者となっていた夏侯嬰は、「どうして、危険であり、馬車が遅くなるからと言って、捨てることができようか!」と言って、そのたびに馬車に拾い上げて馬車に乗せた。このループは三度にもわたって行われ、劉邦は十数回も夏侯嬰を斬ろうとしたといわれている。
この件について、劉邦に対する非難が強い。劉邦への弁護も「子供たちより夏侯嬰を大事にしたかった(あるいはするように見せたかった)」、「中国では孝はなによりも大事であり、それをしない子供たちに実行させた」、「実は表現に誤りがあり、子供たちが自分たちから馬車を降りた」というものがあるが、どれもとても苦しい。呂雉はこの件について、夏侯嬰にとても感謝しており、上記の弁護は不可能でないとはいえ、かなり難しい。
ただ、この件については、戦時の非常時であるにも関わらず、劉邦は道中で子供たちはわざわざ救い上げており、子供たちともども逃げのびて、結局は救っていることは注意すべきである。
また、呂雉の後の行動が、この件について劉邦を恨んでいたことが原因であるとは、史書に記載されていない。
劉邦の死の間際、黥布との戦いで受けた矢傷が痛み、劉邦が受けた痛みはまし、病はますます悪くなっていた。呂雉は良医を探して、劉邦の治療をさせた。医者は劉邦の病状を見て、「病を治せます」と言った。
しかし、劉邦は「わしは平民の身分でありながら、剣をひっさげて天下を取った。これは天命ではないか。命運が天に定まっている以上、どんな名医でもどうにもでもならないだろう」と言って、黄金50斤を与えてひきさがらせた。
劉邦も籍孺(せきじゅ。孺は少年の意味)という評判の悪い佞臣を寵愛していた。
籍孺は、へつらいと顔の良さだけで引き立てられ、劉邦と常に寝起きをともにし、大臣の進言は彼の口を通さねば、劉邦に伝わらなかったと伝わっている。
籍孺は、服を着飾り、紅やおしろいをしていたようであるため、いわゆる「寵童」であった。
しかし、それはともかく、「籍」などという項羽の名と同じ名の人物をわざわざ近くに置くとは、劉邦が本当に好きだったのはひょっとして、などと想像もわいてしまう。
劉邦は皇帝に即位後、黥布の討伐の後、帰路に故郷の沛にもどっている。その時に沛の住民を集め、宴会を行った際に歌ったのが「大風歌」である。
安得猛士兮守四方(安にか猛士を得て四方を守らしめん)
どうにか勇猛な人物を得て、四方を守らせたいものだ。
劉邦が歌った後、沛の子供たちは和して習わせ、劉邦は立って舞った。劉邦は涙を流し、それは頬と伝った。
この詩で歌われた猛士とは、誅殺した韓信や彭越らのことを指すとする説もある。
また、劉邦は太子を戚夫人との子である劉如意に代えようと考えている時、太子であった劉盈(呂雉との間の子)に見知らず立派な容貌の老人が四人、従っていたのを見た。劉邦が問うと、四人はそれぞれの名を名乗った。全て、劉邦の招きに応じず隠れていた名声の高い人物であった。四人は、傲慢な劉邦のもとで働く恥辱に耐えられずに隠れていたが、太子の劉盈の仁愛ある人格という評判を聞いて、その下で仕えようと出てきたと答えた。劉邦はおどろいて、「最後まで太子を補佐して欲しい」と伝えた。
劉邦は戚夫人を呼んで、「もう、あの四人が劉盈を助け、羽翼(劉盈を助ける羽や翼のような存在)ができてしまったからには、太子を代えることはできない。呂后(呂雉)を主人として仕えるように」と伝える。戚夫人が泣くと、劉邦は「わしのために楚の舞を舞ってくれ。わしはそのために歌おう」と言い、歌った。
羽翮已就横絶四海(羽翮(うかく)已(すで)に就(な)り 四海を横絶す)
横絶四海當可奈何(四海を横絶す 当(まさ)に奈何(いかん)すべき)
雖有矰繳尚安所施(矰繳(そうしゃく)有りといえども尚(な)ほ安(いずく)にか施すところあらん)
天下を横断して、越えていくものを、一体、どうすることができようか。
弓矢があったとしても、一体、どうにかする手段がありはずもない。
劉邦が何度か歌うと、戚夫人は涙を流し、すすり泣いた。劉邦は太子を代えることをあきらめた。この歌は、後世に、「鴻鵲歌」と呼ばれた。
しかし、劉邦の死後、太子の地位を奪おうとした戚夫人と劉如意は許されることはなく、呂雉によって殺害されている。
天下統一後、劉邦はかつて無礼を働いた趙王の部下に暗殺をはかられていた。劉邦は趙において宿泊しようとしたが、県の名前が「栢人県」と聞いて、「人に迫られることだ」と言って、宿泊しなかった。
また、兄の子である劉濞(りゅうび)を呉王に封じる時、その面相に謀反の相があると指摘し、「50年後に東南に乱が起きるが、同じ一族なのだから決してそむくな」と注意していた。しかし、劉濞は結局、呉楚七国の乱を起こすことになる。
「そんな予言能力があるなら、逃亡することも、豊が落ちて苦戦することも、鴻門の会も、彭城の戦いも、広武山で射られることも、その後の反乱も起きなかったんじゃ?」とは(何度も言うが)言ってはいけない。
中国の講談を江戸時代に翻訳した講談小説。横山光輝『項羽と劉邦』はこれをベースにした作品である。
劉邦は当初は史実通り、家業を助けない酒色を好む人物であったが反乱を起こしてから、天運のオーラをまとうようになり、范増のように劉邦に仕えなかったことを後悔し、陳平のように劉邦側に寝返るものも出てくるほどの人的魅力を有するようになる。
劉邦自身も項羽と対比する意味で、史実通り、傲慢で儒者嫌いで態度は横柄なところはあるが、史実以上に民をいたわり、略奪を禁じ、善政に心がけている。また、進言についても、誤った進言や自身の判断により判断誤りをすることは多いが、誤りをすぐに受け入れて部下に伝えて、素直に助言を求める名君ぶりを発揮している。
韓信たちの謀反についても、韓信たちに非があり、劉邦に対してはかなり擁護した描写がなされている。
その反面、劉邦自身は一度も一騎打ちを行わず、戦闘においても部下に任せきりであり、矢で負傷するなど、「人間的魅力は多大であるが、能力そのものは低い」というイメージの元となった作品である。
人から指摘されたり馬鹿にされた時、まるで空虚のように己を無くしてしまい、その者に教えを乞う。そんな姿勢が張良や韓信など参謀の心を惹きつけていく。またよくある君主とは違って、常に最前線で危険に晒されながら戦っていく姿が兵士や武将たちの心を掴んでいく。劉邦という人物の魅力が常に具体的に表現される。
時に淫行にふけり、愚者として振る舞うときもあるが決してその本性まで愚者ではなく、時に非常に冷徹な目で人を観察することがある。これは若い時に地元民からチンピラ扱いされて迫害されていたことからとする。項羽の死でこの作品は終わるが、余談として統一後の劉邦の忠臣粛清についてもわずかに書かれている。
上記の司馬遼太郎『項羽と劉邦』と『史記』、久松文雄の『史記』(原作:久保田千太郎)のうち『項羽と劉邦』をベースとした漫画作品。
北斗の拳やドラゴンボールが連載中であった週刊少年ジャンプにおいて連載される。作品自体は打ち切りではあったが、劉邦は主役であり、青年であり、項羽よりさほど年が変わらない容貌で描かれた。
劉邦は豪快で度量が大きい反面、下品でだらしなく描かれるが、史実や上記の『項羽と劉邦』よりは強く優しく、前線で敵兵を斬り、普段の態度とは裏腹な部下思いな人物に描かれる。また、劉邦の配下も全てそんな劉邦を心から慕っている。子捨てもカットはされてはおらず、夏侯嬰を救うために子供を捨てたこととされている(陳舜臣『小説十八史略』と同じ解釈)。
愛する虞美人を始皇帝・項羽に奪われ、臆病さと愛情の薄さを虞美人から指摘され、その愛を失い、呂雉からは病的な愛を受けるという悲哀のある人物に描かれるが、その虞美人を項羽から奪い返して人質にしたことから状況は好転し、劉邦を慕う家臣たちのチームプレイによって項羽を倒す。
作品の最後は、その後、(文字と背景だけによる)劉邦が韓信たちを誅殺したという内容の見開きという衝撃の終わり方をする。
んもう…わしをこんなに心配させおって…。
ちなみに横山光輝「項羽と劉邦」の作中では中心人物という都合からか、子捨て事件がカットされている。
「土竜の唄」の作者による楚漢漫画。2020年3月時点で連載中。劉邦の逃亡前について丁寧に描かれ、蕭何が上司であったり、呂雉の前に曹氏という恋人がいたり、兄貴分として劉邦をよくは思っていない王陵が登場する。
劉邦は武芸ができず、いい加減な性格ではあるが、機転が利きかつ朗らかで、義侠心があり、とても魅力的に描かれている。
全武将最高の統率力99を持つ。実際彼自身は兵士の統率力はそれほど高くないのだが、このゲームは魅力というステータスが無いのでこのような能力で落ち着いている。その他の能力も戦闘56、用兵67、体力67とまずまずである。
「いにしえ武将」という隠し武将として三国志Ⅵより登場。魅力は他のどの三国志武将も持っていない100を誇る。ただし他の能力は史実の能力よろしく40~50台とイマイチ。三国志11では特技「強運」を持つ。これは戦争で絶対に死亡・捕縛にならないという、何度も負け戦で死線をかいくぐった劉邦とよくマッチするものである。
「もっと詳しく知りたいけど、漫画は読んだことはあるけど、史記の翻訳や長い小説はちょっと・・」という人におすすめしたい一冊。この本の翻訳部分だけを読めば、短い内容で大体のことは理解できる。
『史記』について、歴史の流れを追う重要な部分を、原文、読み下し文、翻訳、注釈、寸評をくわえて、時系列に並べた解説書。歴史の流れをとらえて内容を理解するのが、とても分かりやすい。また、歴史の流れの道筋から外れる部分は、テーマごとに分けて同じように解説しており、故事成語となった有名なエピソードも把握できる。
劉邦の活躍と戦いについて、関連する本紀・世家・列伝を時系列でとらえることができる。
また、冒頭にある「解題」によって、(古典的な説明ではあるが)楚漢戦争や統一後の劉邦の『史記』における特徴が、短く分かりやすく解説されている。
文庫は中古で安く購入できるし、図書館にどちらかを置いている可能性が高い。
秦の滅亡までの闘いや劉邦に関係する人物の列伝までを調べたい人は、あわせて3巻を読んで欲しい。
「文字だけでなく、イラストや簡略な地図もある書籍で劉邦たちについて調べたいなあ・・」とか、「小説的な掛け合いを含めた、人物についてもっと知りたい」という人にはこの書籍がおすすめ。
無双シリーズや歴史シミュレーションゲームで知られるコーエーテクモゲームスの前身である光栄がつくった歴史シミュレーションゲーム『項劉記』のコンピューターゲームの攻略本。
ゲーム自体の評価は高くなく、余り売れなかったようであるが、基本的な歴史解説とともに第五章の簡略な年表とゲームに登場する92名の人物解説がされている。また、ゲーム解説部分についても人物の掛け合い形式で書かれているため、そこをゲームをプレイしなくても楽しんで読める人なら、なんとなく地理や形勢についても理解が深まるのでおすすめである。
こちらは劉邦関係の小説や『小説十八史略』を読んだ人におすすめの一冊。
値段が割高だけど、金銭に余裕がある人や図書館で見つけた人は読んでみよう。
劉邦に関連する史実について解説した概説書であるが、楚漢戦争や項羽と劉邦の見方については、通説であった貴族と庶民の争いと見ており、そのため、小説では人徳の人とされることが多い劉邦像からは大きくかけ離れた捉え方はしていない。
内容も史記や漢書の史料の内容を比較的、かきくだいた文章で書いており、歴史解説を最小限にした上で、注釈として巻末にして書く形式としており、途中の歴史解説でつまずかないように工夫されている。
近年の発掘文献の内容も反映されており、かなり詳しい人でも巻末の注釈にある他の研究者への厳しい批判は楽しめるであろう。
文字ばかりでは、分かりづらいけど、ネットの記事は説明が充実していないという人におすすめの雑誌。歴史雑誌ではあるが、図解や地図も豊富であり、楚漢を専門にしただけはあって、コラム類も充実している。
特に、あまり創作では描写されない劉邦の咸陽行きの道中ルートが地図に記載されている。地図で劉邦軍のあちこちでルートを変更ながら咸陽への進んでいったことを確認することができる。
楚漢戦争については、続編である『項羽と劉邦 下巻 楚漢激突と“国士”韓信 (歴史群像シリーズ 33)』が存在する。
史料について歴史的書き換えが行われたことを前提として、今までの通説を大きくかけ離れて大胆に楚漢戦争をとらえなおした一冊。学術研究書であり、内容は難しいから、史記の本紀・世家・列伝の翻訳を読んでから読むことおすすめする。
著者自身も項羽や韓信により心理的に同情を寄せていることもあって、劉邦はかなりずる賢い、謀略に長けた「ワル」というとらえかたがされている。また、学説として劉邦が項羽よりそれほど年上ではない「青年説」もとなえている。
著者としても、劉邦をおとしめるつもりではなく、奸策詭言(ずる賢い策略、相手をあざむく言葉)で勝利するのは、当時の英雄の条件であり、その成功こそが劉邦たちの誇りであったろう、それゆえに(他の時代に比べて)真実に迫れる歴史書が多く残ったであろうと考えている。
人徳の人・劉邦ではなく、「ごろつき出身のワル」劉邦像について知りたい人におすすめの一冊である。
なお、続編に『項羽』がある。
2018年に発行された学術専門書。近年に刊行され、最近の研究が反映されており、また、専門書にしては安価で手に入りやすい。
内容はかなり難しく理解がとても大変だが、劉邦や楚漢戦争時代マニアを自称するなら、読んでおきたい一冊。
読んで難しい場合は、上記の書籍のみならず、藤田勝久『項羽と劉邦の時代 秦漢帝国興亡史』 (講談社選書メチエ)、柴田昇『漢帝国成立前史』(白帝社)や李開元『漢帝国の成立と劉邦集団―軍功受益階層の研究』 (汲古叢書)もあわせて読んでみよう。また、ciniiで手に入る「劉邦」や「漢 高祖」のキーワードで見つかるただで読めるPDFの論文を読んでみてもいい。
この書籍の内容が理解できて、面白く感じることができれば、さらなる学問としての歴史研究の面白さや深さを知ることができるだろう。
掲示板
327 ななしのよっしん
2024/06/06(木) 07:56:09 ID: nYMw6yetYQ
生年も血筋も名前もよく分からない社会の下層から身を起こし、傲慢で狡猾で無礼で人を罵りまくり、儒者から冠を奪ってそこに放尿することを趣味とし、酒と女が大好きで、自分が生き延びるために実の子さえ躊躇わず見殺しにしようとした上に、英雄項羽と対峙しては敗れ続けたものの、ついに騙し討ちで勝利を勝ち取った稀代の大皇帝
328 ななしのよっしん
2024/08/13(火) 12:04:29 ID: 1YVDMepOjO
劉邦の実年齢は項羽よりも五歳上で、病没時の年齢は42歳位だったという説をウィキペディアで見た。
この説だと劉邦の子供達が幼かった理由などが挙げられている。
そう考えたら、劉邦は40歳前後で病没はあり得ると思うんだよね。
329 ななしのよっしん
2024/10/25(金) 20:47:11 ID: VfZPuIthit
偉大な人物であり最終勝者なんだけど、韓信だ英布だと反乱起こす奴を殺してふと周りを見たら蕭何に曹参に樊噲にと呂雉の手先ばかり
最愛の女(戚)と最愛の子(劉如意)が自分の死後に何されるか完全に分かり切ったうえで何もできずに死んでいった劉邦の晩年には、ただ無力感しかなかっただろう
急上昇ワード改
最終更新:2024/12/26(木) 03:00
最終更新:2024/12/26(木) 03:00
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