奸臣 単語

2件

カンシン

9.8千文字の記事
  • twitter
  • facebook
  • はてな
  • LINE

奸臣とは、を傾けた臣下のこと。佞臣、獅子身中の虫とも。対義語は忠臣。

奸臣と呼ばれる理由

力もないのに高い地位についたもの、地位を賄賂で手に入れたもの、政を断したものなど様々だが、基本的には、

  • 権力を手にしたはいいが政治力がない、もしくは私服を肥やすことしか考えていなかった結果、仕えていた勢力やを衰退や滅亡に導いた。
  • 恩義を受けたにも関わらず裏切った。
  • に代わって専横した。のみならず簒奪を計ろうとしたが失敗した
  • 売国的な決定を下した。

 とりあえずはこの4点ではないだろうか。前者の場合は、そもそも有能であれば滅びないので必然的に敗者になってしまい、勝者側に好き勝手言われてしまう。権力闘争で負けた側も「君を惑わして、あわやや簒奪しかけた奸臣」として好き勝手に言われてしまうのではないないだろうか。
 簒奪関連については、成功すれば奸臣からした名君にクラスチェンジするので、必然として簒奪に失敗した人物に使われる。また、簒奪に失敗したというよりは、独裁した人物を排除する口実として使われる傾向にあり、特に、江戸時代お家騒動では改革が敗れて守旧一方的に相手を貶める例が散見される。
 宦は女性と同様に政治に関わっただけで悪とされることが多く、その功績完全に無視されていることも多い(歴史書の類は当然に彼らに反対した者によるものであり、功績自体も伝わらない)。それどころか、鄭衆や高力士、鄭和といった有な宦官が国のきっかけと言われてしまうほどである。
 中国の場合は客観的に見ても奸臣だと判断せざる人物が多い反面、日本については判断に困る傾向にある。これは中国は王統の断絶が相次いだのに対して、日本は未だに続いていること。中国では独裁が容易なのに対し、日本では難しいことが原因として上げられるかもしれない。

 君と違い、滅んだや勢力に所属していたことはそれほど低評価とはならない。三国志を見ても有能であれば外様臣でも大いに引き立てられていることが多く、魯粛は逆にこの傾向を利用してへ降ることをする臣と孫権との仲を裂いている。そもそも三国志の著者である陳寿本人がの旧臣なのである(もっとも陳寿への後世の中傷は相当なものだったが)。

 また、曹操明智光秀のような吏→奸雄、松永久秀斎藤道三のような下上系雄、趙括のようなやらかしい系のダメ臣は奸臣とはあまり言われない。ちょっぴり情けないエピソードが残っているならそれに越したことはない(ハズ)。

 日本においてはお家騒動に見られる歌舞伎もあり、実像以上にその悪辣ぶりが印付けられることも多い。

中国の奸臣

 多くの紀伝体の歴史書において佞臣・奸臣伝が設けられているほどの人材(?)の宝庫。ここではほんの一部。ちなみに歴史書の末尾には奸臣たちの伝記がめられており、を滅ぼしかけたのを「奸臣」、反乱を起こした者を「逆臣」君におべっかを使って出世したものを「佞幸」、法を自分の都合のいいように厳しく運用した者を「酷吏」とカテゴリー分けされている。


  • 時代の楚の臣。王の息子建のとして女を迎える使者となるが、美女であったので自身の野望のためにその女を王本人にがせてしまう。当然、建は費忌を恨むが先手を打って讒言により建を追放。その臣である一族も皆殺しにする。余談だが、この一族のうちへと逃亡した人物が名将子胥であり、数十年後に楚の首都を占領。王の屍を墓から暴いて打った。これが「死人に打つ」の語
  • 郭開
    戦国時代末期臣。刎頸の交わりで有名な老将廉頗老害と讒言して遠ざけ、防戦の名手李牧もついでに讒言で暗殺。滅亡の原因を作った。その悪事は司馬遷史記において余すことなく描かれており、ある意味では中国における奸臣像を作り上げた人物である。
  • 趙高
    代の宦官始皇帝秘書として辣腕を振るう。始皇帝死後は末子の胡を唆しての扶自害追い込み反対粛清。その権威は胡を上回り、ある日宮中に連れてきた鹿を彼はと呼び「鹿ではないか」と反論した胡に、後難を恐れる臣たちは「でございます」と趙高に賛同。また、房宮に代表される広大な宮殿建設を行い民力を疲弊させた。言うまでもなく、馬鹿保の語(ただし、諸説あり)である。あまりの酷さにの姓から「実はの皇族であり、を恨んでわざと獅子身中の虫となったのでは?」と言う噂が立った程。
  • 十常侍
    後漢宦官集団。実は十人ではないがまぁ四人じゃない四天王もいるのでその辺は適当。蹇碩がその代表格とされる。後漢は外戚の専横を宦官粛清して以来、伝統的に宦官政治断する余地が大きく常に清流と呼ばれた名士階級との対立を抱えていた。その点では最期にババをひかされた人たちと言えなくはない。
  • 黄皓
    宦官劉禅の寵を受け、姜維その他臣を遠ざけて政を断したとされる。の宮中の空気の悪さは使者を通じて他でも知れ渡っていた。彼の存在が劉禅の悪評の半分以上を占めていると言っても過言ではない。ただし、日本では40年に渡りを支えたことから内政では力があったのでは?と言う擁護論もある。あまりの憎さに、史実では賄賂を敵に送ったため殺されていないにも関わらず、演義では処刑されている。
  • 慕容評
    五胡十六国時代前政治家。軍需物質を横流しして私財を肥やす。40万の大軍を率いるも兵士の士気は当然に低下し、前の王猛6万に惨敗。君を捨てて高句麗に逃亡。その後、前に引き渡されたが、何故か前では厚遇され殺されることもなく寿を全う。後味の悪さでは黄皓以上。
  • 朱イ(朱异)
    中国の梁王政治家。東の降将である侯景を最初は重用していたが、敗北すると一転して東との和を進言。侯景激怒して反乱を起こし、首都建康が陥落してしまう。平家物語の冒頭で稀代の奸臣と挙げられているが、それより漢字が変なことで日本では有名(ただし「異」と同異字)

  • 唐代の政治家妃の又従兄妃の一族として宰相まで上り詰める。楽天の長恨歌に描かれている「一族全てが列士となった」「ついには世上でも男子より女子の誕生を喜ぶ」の一節はこの栄している。生来軽薄な性格であり、安山の乱を誘発。逃亡中に恨みを抱いた兵士に殺される。本人も暗い未来を予知していたのか「どうせ悲惨な結末なら今の内に栄を楽しむ」と言していたと言う。

  • 政治家。金の下に立つ和を結び、徹底抗戦を叫ぶ岳飛ら抗金粛清。以後19年間に及んで独裁体制を維持する。救英雄である岳飛実の罪で殺したことから、奸(売国奴)の典とされ岳飛像の前に膝を折って土下座させられ現在でもその像にを吐きつけられると言う屈辱を受けている。また、中国では棒状の揚げパン条と呼び、起は庶民が彼とその妻をパンに見立てて釜茹でにして憤をらしたことに由来すると言う。あまりの嫌われっぷりの反動か、金との力の差を見て現実路線を取ったのだと言う擁護論もあるが、近年の中国における愛国心の高まりから再評価は当分なさそう。ただし、岳飛が大活躍して土を回復してもそれはそれで問題なため、実は高宗が岳飛粛清したがっていて檜はそのダシとして使われたという見方もある(安務)
  • 賈似道
    政治家。大変な享楽で絵画・美術品収集やコオロギ相撲に熱中。特に後者世界初の昆虫育成本を成したほど。政治家としても無能ではなく、モンケの死に乗じたとは言えクビライモンゴル軍を一時撤退させ、以後20年に渡り南を延命させている。しかし、文祥らのちに英雄とされる人臣たちと折り合いが悪く、呂文煥ら前線の軍人に補給を送らないなどの嫌がらせを行う。耐えかねた呂文煥はモンゴルに降。自ら前線に赴くも大敗し、失脚。左遷先で殺された。上述の檜と並びの四悪人の一人。ただし、クビライは彼の悪口を言った南の降将を軽蔑するなど擁護したと言うエピソードがある。良くも悪くも文化的評価の高いを代表した政治家。陳臣はの後任足る人物だと称えており、「彼がいなかったら南期に滅亡していた」と断言している。
  • 王振
    明の悪徳宦官その1。明の4代皇帝英宗の家庭教師となったことから、英宗が即位すると絶大な権力を握り、私服を肥やしまくった。しかし、交易のトラブルからオイラトが侵入すると征を強行、従軍したがオイラト軍の強さと王振の揮の下手さによって土木で大敗。英宗は捕虜となり、王振も戦死した。

  • 明の悪徳宦官その2。正徳を堕落させ政を断。秘密警察を使って恐怖政治を敷く。さらに賄賂や横領により国家予算の10年分に及ぶ財を蓄える。しかし、明は権臣による皇帝立擁立が不可能な政権であり、皇帝の寵も失って落することを恐れて位の簒奪を企てたが発覚、謀反人として三日間の凌遅刑(体を生きたまま刻まれる刑)に処された。その処刑は凄惨を極めたらしく、3,357回も切り刻まれた。あまりの憎さに片を食べたり前に供えたりする遺族が続出したと言う。何をやったのかではなく、どうやって死んだかで有名な人物の一例。
  • 忠賢
    明の悪徳宦官その3。元は頼であったが出世するために一念発起して宦官に。皇子時代の食事係となると、こびへつらいの上手さで出世。である客氏と愛人関係を結ぶ、恩人であろうとも始末する非情さで後宮を支配し、が即位するとやる気がないことをいいことに政治断した。
    特徴としては秘密警察の東の長官になると全スパイを放ち、少しでも批判的な事を言っただけ皮剥ぎなどの残酷な処刑をしたこと。息のかかったものに「忠賢は孔子と並べて称えるべきだ」と進言させて、自身を「尭徳至至神」と呼ばせる。「万歳」よりも少し少ない「9千歳」と呼ばせるなど権勢の限りを尽くした。しかし、この頃はヌルハチの後金が台頭し始めた時であり、明の将軍が負けても忠賢に賄賂を送れば勝ったことにすることができたので、抜本的な対策が行えず、後金は勢力を拡大させていくこととなった。
    これほどの権勢を誇った忠賢であったが、折しての崇が即位すると権勢を失い、処刑されることを悟って自殺。客氏以下の一党も処刑された。万暦帝が明の滅亡のきっかけを作った人物なら、忠賢はとどめをさした人物ともいえる。
  • シェン
    清、の寵臣。どういう訳かの寵を受け、軍機大臣の地位まで昇進し、の代わりに専横の限りを尽くした。地位に相応しい力がなくひたすらに私服を肥やしただけの人物であり、しい取り立てに反乱もおきるほどだった。
    権勢の限りを尽くしたヘシェンであったが、が死去すると権勢を失い次の嘉慶によって自を命ぜられた。見方によっては殉死ともいえる。その際に収された財産は金150万両も含めて国家予算15年分とも言われており、wikiではその当時の世界1の富ではなかったかと言われている。

世界の奸臣

日本の奸臣

見方が異なる人物


  • 五代十国役というべき政治家
    後梁以外の4朝に仕えて、場合によっては宰相位にも登ったという高官であるが、やった事というのが侵略者を出迎えて、任用されるという事を繰り返すという忠臣とは逆のことを繰り返したため、後世からは節操として評価が低い。しかし、五代十国の時代の君というのは一部の例外を除いて政争に明け暮れて、民衆を顧みることはなかった。このような時代ではたかだか一王の永続よりも、民衆の幸せの方が大事であり、非常時の宰相として王交代時の混乱と災厄を可な限り抑えたを評価する歴史もいる。(孟子でも、非国王はぶっ倒してもかまわんと名言されている)
  • 王安石
    政治家。衰退期に入ったを立て直すために新法党と呼ばれた改革を起こすも、既得権益を保持していた人々(司馬などの旧法)の反感を買って失脚、成功したとは言い難かった。その死後はもはや新法・旧法ともに本来の改革や権益そっちのけの閥闘争を行い、これが北滅亡の遠因となる。しかし、両共に有能な人材を欠いていたのが原因で、王安石に責任があるというわけではない。現在では改革イメージの良さから、中国日本共に高い評価を得ている人物である。

  • 李氏朝鮮末期の大臣、政治家い話が朝鮮併合の立役者。そのため韓国北朝鮮では売国奴として未来永劫に断罪され続ける人物である。
    ただし、李朝というのは長年に渡る失政や内部抗争によって衰亡しており、用が台頭した時には末期北海道拓殖や山一証券のようにどう足掻いても破滅で、当時の朝鮮半島に住む人々を救うためには国体を潰すしかなかったという事実を理解する必要がある。私利私欲でを売り渡したのではなく、企業倒産もとい、を終わらせるための幕引き役を演じざるおえなかったというのが相だろう。本人も、を売るという決断を下さざるおえなかったことに慚愧の念を抱いていた。その意味では同情せざるおえない人物であるともいえる。
    なお、第二次大戦以後、朝鮮戦争を経て、分断される訳だが用に責任がないのは言うまでもない。責任があるとすれば、それは別の人間である。

奸臣とは言えない人物

  • 高師直
    鎌倉時代南北朝の武将。梶原景時以上の現実義者とされ、神を信じず「天皇など木像でも構わないではないか」と言するほどであったと言う。足利尊氏の評価は高かったが、の直義とそりが合わず対立。一旦は直義の追い落としに成功するも、最終的に敗れ引退を和の条件とされ出。その中で殺されてしまう。江戸時代までは知る人ぞ知る武将であったが、仮名手本忠臣蔵において吉良義央に仮託され(当世の事件のため幕府を憚った)稀代の悪役に貶められてしまった。上記の時時が一応の史実に基づいたキャラなのに対し、彼の場合は全なとばっちりである
  • 大槻伝蔵
    江戸時代加賀臣。下級士の出でありながら前田吉徳の寵を受け出世。しかし、吉徳の死後に督を継いだ前田重煕の殺未遂事件が起き、その犯人として吉徳側室如院が挙げられ捜索を受ける。その過程で伝蔵の如院に対する恋文が発見され一大スキャンダルに発展。伝蔵は自害し、如院は殺される。如院の犯行の動機は自身の息子である前田利和に督を継がせるためのものであり、利和は伝蔵の子であったのである。以上が歌舞伎小説で名高い加賀騒動の末だが、現在では一連のスキャンダルについて否定的な見解が流。そもそも伝蔵は政改革で大きな業績を残しており、その功績を妬んだもしくは既得権益を侵された旧臣たちが彼を陥れたとする説が根強い。政改革を導した人物が陥れられることはしいことではなく、かの上杉鷹山もこれに近い陰謀に巻き込まれそうになったことがある。
  • 忠臣蔵の不忠臣たち
    忠臣として名高い赤穂浪士たちだが、実際に討ち入りに参加したのは46名(寺坂を除外した場合)であり、300名以上いた士たちのほとんどは参加していない。このため、討ち入りに参加した赤穂浪士たちが世間で評判になるに連れ残りの浪士たちは世間からしいバッシングを受け、他のに仕官することもかなわず町人たちからは軽く見られ世間から隠れるような人生を送ったと言う。浪士仲間から金を盗んで逃亡し、父親自害に追い込んだ小山田衛門の例は論外としても、君の場合は特に敵討ちは義務ではなく(江戸時代は直系族の場合は絶対的な義務である)相当に損な役回りだったと言えるだろう。特に仇討ちに参加しなかったことを兄弟達から責められて、詰めを切らされた岡林杢之助のケースは悲惨の一言に尽きる

関連動画

関連商品

奸臣に関するニコニコ市場の商品を紹介してください。

関連コミュニティ

奸臣に関するニコニコミュニティ紹介してください。

関連項目

この記事を編集する

掲示板

おすすめトレンド

ニコニ広告で宣伝された記事

記事と一緒に動画もおすすめ!
もっと見る

急上昇ワード改

最終更新:2024/12/26(木) 03:00

ほめられた記事

最終更新:2024/12/26(木) 02:00

ウォッチリストに追加しました!

すでにウォッチリストに
入っています。

OK

追加に失敗しました。

OK

追加にはログインが必要です。

           

ほめた!

すでにほめています。

すでにほめています。

ほめるを取消しました。

OK

ほめるに失敗しました。

OK

ほめるの取消しに失敗しました。

OK

ほめるにはログインが必要です。

タグ編集にはログインが必要です。

タグ編集には利用規約の同意が必要です。

TOP