恵帝とは、前漢の二代皇帝である。恵帝は諡名(おくりな、死んだ後につけられた名称)で、本名は劉盈(りゅうえい)という。前漢を建国した父である劉邦の後を継いで皇帝に即位した。
建国後、反乱が相次いでいたため不安定であった前漢王朝の皇帝として、母である呂雉(りょち)を補佐として政治にとりくんだが、呂雉が劉邦の側室であった戚夫人に残虐な私刑を行ったことから政務に意欲をなくし、酒食にふけり若死にした。
しかし、その政治は、名宰相である蕭何や曹参に支えられ、父の時よりも安定した治世を保った。
司馬遷が書いた『史記』では皇帝としての伝記である本紀はつくられなかったが、班固の『漢書』では本紀がつくられている。
この項目では、恵帝を補佐した四人の老人である四晧(しこう)、后にあたる張皇后(張氏)、兄弟にあたる劉肥(りゅうひ)、劉如意、劉恢(りゅうかい)、劉友(りゅうゆう)、劉長(りゅうちょう)、劉建(りゅうけん)をあわせて紹介する。
沛県の豊邑の出身。漢の初代皇帝となる劉邦を父に、初代皇后となる呂雉を母にした、唯一の男子という正に皇帝となるために生まれた中国史上最高のサラブレッドであった(劉邦から見ると二番目の男子)。
というのは、後世の理解であり、実際の劉盈(本文では、生前では一度も呼ばれたことがない「恵帝」ではなくこう記す)は生まれた時はただの富農の子に過ぎなかった。
劉盈は、秦の始皇帝の統治時代では最後の年となる始皇帝37年(紀元前210年)に生まれている。この頃の劉邦は人夫を咸陽に送ることに失敗して逃亡していたため、劉盈はこの時、いまだ呂雉の腹にあったか、誕生間もなく、劉邦は逃亡したものと思われる。つまりは、劉盈は父とは、ほとんど顔をあわせてはいなかった。
なお、『史記』には、劉盈が姉(後の「魯元公主」。この項目では、劉元と記述する)とともに呂雉の田んぼの草取りを手伝っていたところ、通りがかった人相を見る老人が劉盈を見て、呂雉に話してかけて、「あなた(呂雉)が貴人の人相をしているのはこの息子さんのおかげです」と語った話や、たまたま、亭長の仕事の休暇で帰っていた劉邦がその老人に人相を見てもらう話しが残っている。
だが、この話の信憑性は薄い上に、劉盈の年齢からみて、どれだけ劉邦が逃亡する時期をずらしてもつじつまがあわない。人相はともかく、草取りを行っていたのは腹違いの兄の劉肥との混同であるとも考えられる。
とにかく、劉盈は母である呂雉によって育てられた。
やがて、劉邦は沛にもどってきて、沛公を名乗り、秦への反乱を起こす。この時、劉邦は劉盈と顔を合わせたとみられるが、特にそれに関連した記述は見られない。
劉邦は家族を沛に残し楚の国の武将として、活躍する。ついに、劉邦は秦の都である咸陽に攻め込み、秦を滅ぼした。
その後、劉邦が、秦の主力軍を討伐して諸侯の軍の代表となった項羽と対立したことによって、漢中・蜀の地に左遷させられ、漢王に封じられる。漢中・蜀はへき地であるため、劉邦は家族を呼ぶことはなかった(劉邦の部下となった王陵が劉邦の家族を助け出して関中に送ったという話はあくまで創作である)。
やがて、劉邦は決起して、関中を制圧し、続いて義帝殺害を名目として項羽討伐の兵を挙げて、楚に攻め込んでいく。
数えで6歳になった劉盈は、劉邦の父母や呂雉、姉の劉元、兄の劉肥たちと沛か豊に住んでいたようであるが、なぜ、彼らが項羽に捕らえられ人質にされなかったかは分からない。
とにかく、劉邦は項羽が斉討伐に赴き、不在にしていた時に、項羽の本拠地である彭城を落とし、家族を呼び寄せる(劉邦の家族はそのまま沛か豊に帰っていたとする見方もある)。
しかし、斉から少数の軍でもどった項羽によって、劉邦の率いる56万の大軍は大敗する。劉邦は敗走し、劉邦の父である劉太公、妻の呂雉、兄の劉肥が人質として捕らえられた。(「(劉邦の)父母妻子」が捕らえられたと『史記』に記載されている。劉太公の妻(劉邦の母ではない)と劉肥も劉太公や呂雉とともに捕らえられたとする説があり、ここではその説を採用する)
劉盈は混乱の中で姉の劉元とともに、劉邦の部下であった王陵に救われる。
(不明確な部分も多いがどうやら)王陵に連れられた劉盈は劉元とともに、敗走中に家族を探していた劉邦に会い、王陵から劉邦に引き渡され、その馬車に乗せられる。
しかし、楚の騎馬兵が劉邦を追撃してきた。劉盈と劉元は、馬車の重量を軽くして速度をあげたい劉邦によって、三度も馬車に落とされる。そのたびに劉邦の御者となっていた夏侯嬰が彼らを助け出した。夏侯嬰はそのまま劉盈と劉元を抱きかかえて馬車を疾駆させる。
劉邦は怒って十数回も夏侯嬰を斬ろうとしたが、結局、脱出することができた。
乱世の非常時とはいえ、父である劉邦の態度と行動は肯定されるようなことではなかった(もっとも結局は夏侯嬰の意見を聞いて二人を助けていることは間違いない。戦乱においては、劉邦の子孫の劉秀(光武帝)も姉を助けられず逃亡しており、同じ子孫にあたる劉備も家族を捨てているため、必ずしも劉邦が特別に非情というわけではない)。
恐ろしい父に比べて、劉盈の心には王陵と夏侯嬰に対する感謝の気持ちが多大であったことは容易に推測できる。
劉盈たちを連れた劉邦は下邑(かゆう)という土地で兵をまとめていた呂雉の兄の呂沢(りょたく)を頼った。
劉盈は、兵力をまとめはじめた劉邦に連れられて、漢の防衛拠点となった滎陽(けいよう)という土地まで行く。
劉盈はさらに、劉邦に引き連れられ、西の関中に入り、漢の都となっていた櫟陽(れきよう)に入った。
そこで、劉盈は漢の太子(漢王である劉邦の正統な後継者)となる。
突然の運命の転移を劉盈は全く理解できなかっただろう。父の愛情はどう見ても劉盈に対して薄いものであった。
この真相は、劉邦が、劉盈にとって伯父にあたり、漢の将軍となっていた呂沢の支援を得るために、劉邦と呂雉との子である劉盈を漢の太子にすることを呂沢に約束していたことがその理由であるようである。
劉盈の兄にあたる劉肥も後継者となりえる資格があったことも考えられ、この時期には、劉盈の3歳年下の弟であり、劉邦の寵愛する戚夫人の子である劉如意もすでに生まれていた。
劉邦にとってみれば、劉盈を太子にすることは必ずしも、気が進んで行った行為ではなく、これが後の太子問題に発展する。
劉盈の太子は、兄の劉肥と弟の劉如意によっていつでも脅かされかねない不安定な地位であった。
とにかく、劉盈は項羽と天下の覇権を二分して争う劉邦の正統な後継者である太子となり、櫟陽を守ることになった。劉盈の周囲には、諸侯と呼ばれる地位の高い武将たちの子弟が護衛としてついた。また、政務については、丞相である蕭何が司っていたため、自然と劉盈と蕭何は親しくなったものと考えられる。
その後も楚漢戦争は続いたが、劉邦の大将軍となった韓信や劉邦の師(軍事参謀)となった張良らの活躍により、戦いは、第に劉邦側の優位に傾く。項羽は講和に応じ、人質となっていた劉盈の祖父にあたる劉太公、母の呂雉、兄の劉肥は返された。数えで8歳となった劉盈は櫟陽において祖父や母、兄と再会したと考えられる。
劉邦は、年が明けて、項羽に対する攻撃を継続し、ついに項羽を滅ぼす。漢は天下を平定した。劉盈はまだ数えで9歳であった。
しかし、劉盈に平穏な日々は訪れなかった。
劉邦の部下にあった諸侯王たちは相次いで反乱を起こし、劉邦は反乱平定に明け暮れる。
劉邦も反乱討伐を行うか、洛陽において側室である戚夫人との日々を送ることが多く、劉盈と呂雉がいる長安に余りもどってはこず、母の呂雉も皇后であるにも関わらず、劉邦とほとんど会うことはなかった。
劉盈は性格が優しいが、身体が弱かった。劉邦は、自分に似ていない劉盈に代わって、戚夫人との子である劉如意を自分に似ているとみなし、太子にしようと考えるようになり、劉盈を太子から廃そうとした。
元々は富農の子に過ぎない劉盈は、太子としての地位の正統性が低い。また、劉邦は後の皇帝と違い、儒教的な長幼や嫡子・庶子にこだわる思想は薄く、先祖から天下を統治する天命を引き継いだ天子でないため、厳しい礼法を守る必要はなかった。
漢王朝としての基盤そのものは弱いという面はあれども、劉邦に天命を引き継ぐ相手を自由に選べる裁量の余地は多かった。
そういった意味で劉盈は弱い立場であった。
漢九年(紀元前198年)に、太子の補佐にあたる太傅(たいふ)に儒者の叔孫通(しゅくそんつう)がついた。
劉邦が群臣に劉盈(数えで13歳)の太子を廃して、劉如意に代えようと図ると、群臣は固く諫め、周昌(しゅうしょう)は特に激しく反対した。劉邦は、笑ってその場は終わらせた。しかし、それを聞いていた呂雉が周昌にひざまずいて感謝するほどに、劉邦の太子交代の意思は固く、継続していた。
そのため、呂雉は次兄の呂釈之(りょたくし、前年に呂沢は死去)を使わして、太子問題のことを劉邦の参謀であった張良に相談させる。張良は強いられて仕方なく、「主上(劉邦)が士を侮るため、山に隠れてしまい招けないでいる四晧(しこう)と呼ばれる老人が四人います。太子(劉盈)にへりくだった内容の手紙を書いてもらい、馬車を用意して弁舌の士に説得にいかせれば招きに応じるでしょう。彼らを賓客(ひんきゃく、高い身分の客)として従えて朝廷に行けば、主上を説得できる助けとなります」と答える。
呂雉と呂釈之、劉盈はそのように実行して、その四晧(東園公(とうえんこう)、綺里季(きりき)、夏黄公(かこうこう)、角里先生(かくりせんせい)の四人)を招いた。四晧は呂釈之の賓客となった。
結局、劉盈は太子から廃されることはなく、同年、劉如意は趙王に封じられる。だが、劉邦は劉如意を趙に行かせず、戚夫人と劉如意を近くに侍らせた。また、「不肖の子(劉盈)を愛児(劉如意)の上に置いてはいけない(自分の死後、劉如意を皇帝となった劉盈の臣下とするわけにいかない、という意味)」とも語っていた。
漢十一年(紀元前196年)、淮南王に封じられていた黥布が反乱を起こした。病気にかかっていた劉邦は、劉盈(数えで15歳)に軍を率いらせて、黥布を討伐しようとした。
四晧は呂釈之に説いた。
「太子(劉盈)は軍功をあげても、何の足しにもならず、軍功がなければ罰せられます。ましてや、太子に従う諸将は陛下(劉邦)と天下をともに平定した勇猛な将軍ばかりです。誰も太子のために尽くそうとはしないでしょう。太子は功績を立てられず、趙王(劉如意)が太子と代わるのは間違いありません。皇后(呂雉)にお願いして、陛下に泣いて、『討伐する黥布な天下の猛将です。また、太子が率いても諸将は誰も従わないでしょう。これでは負けてしまいます。陛下は苦しいでしょうが、ご病気をおして、軍を率いて、自ら討伐されてください』と進言させてください」
呂釈之と呂雉はそのように実行すると、結局、劉邦自ら、黥布を討伐することになった。
劉盈は長安に残ることになり、太傅(たいふ)の叔孫通とは別に、太子の補佐にあたる少傅(しょうふ)の任を張良が行うことになった(張良が少傅になったわけではないことに注意)。
漢十二年(紀元前195年)、劉邦は黥布を討伐して長安へと帰還する。病気をおして出撃したうえに、矢まで受けた劉邦は病がさらに重くなっていた。
劉邦はまた、太子を劉如意に代えたいという希望を持っていた。劉邦は張良に相談したが、太子は代えてはいけないと、諫められる。しかし、断念してはいなかった。
そこで、太傅の叔孫通が、「太子(劉盈)の仁と孝は天下が知るところです、また、皇后(呂雉)は陛下と苦難をともにし、粗食を食べあった仲ではないですか。どうしても太子を代えるというのなら、まず、私を誅してください」と諫める。
劉邦は口では叔孫通に従い、太子を変えないと言ったが、それでも、あきらめきれずにきた。
ある時、劉邦は劉盈に従う四人の老人を見て、不思議に思って、彼らに何者かを問うた。老人たちは姓名を答えた。この四人はあの四晧であった。
劉邦は驚いて、「わしが求めても、逃げていたのに、どうして太子に従っているのか」とたずねる。
四晧は、「陛下(劉邦)は士を軽く見て、よくののしられますが、私たちはその侮辱に耐えられません。だから、恐れてかくれていたのです。しかし、太子は仁にして孝、また、よくへりくだり、士を愛しています。天下に太子のために死ぬことを願っていないものはありません。そえゆえに出てきて、ここに来ているのです」と答える。
劉邦は、ついに太子を取り換えることを断念した。
同年、劉邦は死去する。
劉盈は皇太后となった母の呂雉、相国の蕭何の補佐を受け、政務にとりかかる。劉邦が諸侯王を討伐したとはいえ、漢王朝の基盤はまだ定まっていなかった。
劉盈は、全国の平民の男子全員爵位を与えた。これは漢王朝建国後、初めて実施された民爵授与であった。劉邦の時代は異姓の諸侯王(韓信、彭越、黥布、盧綰ら)がいたため実現できなかったことであるが、これにより、中国全土の民衆を漢王朝の統治下に置くことができるようになった。
さらに、爵位の授与では、劉邦とともに楚漢戦争やその後の諸侯王の反乱討伐において従軍した人物を優遇、あるいは金銭を授与し、その上で、劉盈に仕えた人物たちにも高い爵位を与えた。蕭何や呂雉の意図はあくまでも、功臣への配慮よりも、劉盈の皇帝としての漢王朝統治に重きを置かれていた。
さらに、田祖(税として納める穀物)を軽減して、恩赦をくだした。また、地方を統治する郡と諸侯のいる国に、高廟(劉邦を祭った廟)を置いた。天下を統治する天命を受けたと天下の人が認めた劉邦を祭り、宗教的な意味でも、漢王朝の基盤を強くするための処置である。
また、民が銭を出して、罪を贖い死罪を免れるようにした。さらに、完成していない長安城の城壁の建設にも着手した。
先代(劉邦)の墓や廟に対する祀りに詳しい人物が群臣にいなかったので、儒学に習熟した叔孫通を太傅から異動させて、太常(たいじょう、宗廟(先祖を祭る廟)の儀礼を司る)の官とする。叔孫通は漢の宗廟の儀礼に定めた。
劉盈が、呂雉のいる長楽宮(ちょうらくきゅう)におしのびで行く時に、民に負担をかけないように、高い場所に歩道をつくった。しかし、その道は、高祖(劉邦)を祀る廟の上を通っていたことから、叔孫通に、儀礼に反すると諫められる。劉盈は取り壊そうとしたが、叔孫通から、人の上に立つものは過ちがあってはならない、高祖の廟を移せばいい、と再度、諫められる。劉盈はその通りに実行し、高祖の廟は新たに建てられることになった。
また、あの夏侯嬰も太僕(たいぼく)として、劉盈に仕えていた。呂雉は夏侯嬰に感謝しており、第一の土地にある邸宅を与えていた。
しかし、事件が起きる。
呂雉が積年の恨みを晴らそうと、戚夫人を女官の牢獄にいれ、さらに、趙王となって、赴任していた劉如意を呼び出す。断ることは許されず、劉如意は母のいる長安へと向かった。呂雉は戚夫人・劉如意もろとも殺害しようと考えていた。
仁慈の人であった(『通俗漢楚軍談』では、劉盈は、生前の劉邦から戚夫人と劉如意の保全を託されている)劉盈は、呂雉から劉如意を守ろうとして、自ら彼を迎えた。劉盈は、劉如意とともに宮廷に入り、彼と一緒に生活をして、劉如意を庇護した。
孝恵元年(紀元前194年)、劉盈が早朝に狩りに行き、早起きができない劉如意を残して、出て行った。呂雉はそれを知り、人をやって、劉如意に鴆毒(ちんどく、毒のある羽を持つ鳥からつくった毒)を飲ませる。夜明けに劉盈が帰還した時には、劉如意はすでに死んでいた。
さらに、呂雉は戚夫人に残忍な方法で私刑をくだし(内容については閲覧注意であるため、知りたい人は検索)、便所の中にいれて、「人豚」と称した(当時は便所の下に豚を住ませていた)。
数日して、劉盈は呂雉によって戚夫人の変わり果てた姿を見せられる。劉盈が便所の下のいる奇妙な生物をよく見ると、戚夫人であった。劉盈は大声で泣き、病気となり、それから一年以上も立つことができなくなった。
劉盈は人を派遣して、呂雉に伝えた。
「これは人間のすることではありません。私は皇太后(呂雉)の子として、天下を治めることはできません」
劉盈は酒を毎日飲み、淫乱にふけり、政治を行おうとしなくなり、やがて病気となった。
次第に、劉盈は、閎孺(こうじゅ、閎が名、孺は少年の意味)という見目がよく、へつらいがうまい佞臣を近づけるようになる。劉盈は、閎孺とともに寝起きして、群臣たちの提案は閎孺を通さねば、劉盈に伝わらなくなった。そのため、劉盈の若い側近たちは、閎孺を見習って、帽子や衣を飾り、紅やおしろいをするようになった。
ただし、後述の通り、劉盈は完全に政務から遠ざかったわけではない。この時ですら、叔孫通の諫めによって、春に先祖の霊に対して、桜桃(ゆすめゆら)などの果実を献上するようにしている。
年が明けて、孝恵二年(紀元前193年)、楚王・劉交(りゅうこう、劉邦の弟)と兄にあたる斉王・劉肥が来朝した。劉盈は劉交・劉肥とともに酒宴を開いた。劉盈は劉肥を兄だと敬い、彼を上座において家族のような礼で接した。しかし、呂雉は劉肥に対して怒りをおぼえ、二つの盃に鴆毒をいれて、劉肥の前に置き、立ち上がって長寿を祝ってから酒を飲むように命じた。劉盈も劉肥と同時に立ち、一緒に長寿を祝って盃の酒を飲もうとした。呂雉は驚いて、劉盈の盃をひっくり返す。劉肥は、怪しいと感じ、酒に酔ったふりをして、飲まずに立ち去った。劉盈は機転により、兄を救うことができた。だが、母との関係は悪化するだけであった。
同年、劉盈は、病床にあった蕭何に対し、次の相国は斉の相国となっていた曹参はどうかとたずねる。曹参はかつては蕭何と親しかったものの、楚漢戦争中からずっと蕭何と不仲な関係であったのだが、蕭何は同意した。蕭何が死去すると、曹参が漢の相国となった。
曹参は漢の統治に黄老思想を用い、法に厳しい役人をやめさせ、温厚な人物を役人として用い、民の負担を減らすことで、統治を行った。劉盈も曹参が毎日、酒を飲んで政務に励んでいないのを見て、自分が若いがゆえに侮られているのではないかと考え、問い詰めることがあった。しかし、曹参から「私は蕭何に、陛下は高祖(劉邦)に及ばないのだから、何も無理して変える必要などないでしょう」と諭されて同意する。
もとより、劉盈も酒色におぼれており、それほど政務に熱心ではなかったことも背景にあると思われる。
孝恵三年(紀元前192年)には、南越王の趙佗(ちょうた)が臣と称して貢物を贈ってきた。
孝恵四年(紀元前191年)、張氏を皇后として立てる。張氏は張敖(ちょうごう、張耳の子)と魯元公主(劉盈の姉)の間に生まれた娘であり、劉盈からすれば姪にあたった。これも、呂雉の意向であった。結局、劉盈は母から逃れることはできなかった。
民の中で耕作に励み、父や兄に孝行・従順な人物の税を免除した。
劉盈はついに20歳となり、元服した。天下に大赦をくだす。民や官吏の福祉をさまたげる法律を廃止した(民や官吏が、民衆を手なずけて反乱を起こさないために、福祉を行ってはいけないという法律が存在した)。また、挟書の律(秦の始皇帝に行われた民間で蔵書はしてはいけないという法律。焚書の理由ともなった)も廃止する。次第に、平和な世が訪れていた。
孝恵五年(紀元前190年)、相国の曹参が死去する。劉邦の遺言通り、(かつて劉盈を救った)王陵が右丞相、陳平が左丞相となった。長安の城壁が完成した。
孝恵六年(紀元前189年)、民に爵位を売ることができるようにする。また、女性は30歳までに結婚しない場合は罰金をくだすことにした。人口増加も急務である。
また、長安に西市(西の場所に市場)を設置し、食糧をたくわえる敖倉(ごうそう)も修復する。国造りは着実に進んでいた。
ただ、この年は兄の劉肥が死に、義理の叔父(呂雉の妹である呂須(りょしゅ)の夫)にあたる樊噲(はんかい)が死去した。劉盈の周囲は寂しくなった。
孝恵六年(紀元前189年)、灌嬰(かんえい)を将軍にして、兵を率いて、滎陽(けいよう)に駐屯させた。同じ劉氏とはいえ、諸侯王はしっかりおさえる必要があった。
同年8月、劉盈は死去する。まだ、23歳であった。
子には、長子として名が伝わらない劉某(劉恭ともいわれるが、誤写による間違いとのこと)と劉強(りゅうきょう)、劉不疑(りゅうふぎ)、劉弘(りゅうこう)、劉朝(りゅうちょう)、劉武(りゅうぶ)、劉太(りゅうたい)がいた。
劉某は劉盈の後、皇帝に即位し、前少帝と呼ばれるが、呂雉によって幽閉されて死ぬ(後述、「張皇后」参照)。劉強と劉不疑は、病で早死にしており、劉弘が代わって即位する(後少帝)。
後に、呂氏の乱が起きて、呂氏は絶滅させられ、劉弘(後少帝)、劉朝、劉武、劉太は漢の公式見解では、劉盈の子ではないとされ、全て誅殺される。
これによって、劉盈の血をつぐ男子は全て絶えてしまった。
『史記』では、司馬遷は、劉盈の在位期間は呂雉に実権があったとみなし、劉盈の本紀はないが、『漢書』にその評価が記されている。
『漢書』において班固は、「恵帝(劉盈)は、親族を親愛し、宰相を礼遇し、恩愛と恭敬にあつかった。叔孫通の諫言を聞いて恐れ、曹参の進言を聞いて喜ぶ、といった寛大仁慈の君主というべきである。呂太后(呂雉)のため、恵帝の仁徳が欠損されるようになったのは悲しいことである」と絶賛している。
劉盈は、惰弱な人物と評されることも多いが、完全に政務を投げたわけではなく、彼の統治時代に漢王朝の基盤は固まり続け、蕭何も曹参も名宰相として活躍することができた。また、劉邦の劉氏と呂雉の呂氏と決定的な対立にいたらず、外交も平穏で、劉氏の諸侯王の反乱もなかった。
また、一人の人間として見れば、自分と太子を争い、帝位を脅かしうる関係であった劉如意をかばい、劉肥を助けたのは仁徳ある人物として評価されてもいい。
四晧とは、本文でも述べた通り、劉邦が傲慢不遜な性格であるため、山に逃れて隠れてしまい招いても漢王朝の臣とならなかった人物たちである。全員が老人であり、劉盈が連れていた彼らに劉邦が会った時、全員が80歳を超えていた(戦国時代の国や、秦、項羽に仕えていたかは不明)。
四人は、後世に四晧(四人の白髪の高潔な人物の意味)と呼ばれるようになる。
東園公(とうえんこう)は、姓名を唐宣明(とうせんめい)といい、園に住んでいたので、東園公を号とした。
夏黄公(かこうこう)は、姓名を崔広(さいこう)といい、字を少道(しょうつう)と言った。斉国の出身で、夏里に隠居して、道を修めた。そのため、夏黄公を号とした。
角里先生(かくりせんせい)は河内(かだい)郡の軹(し)の出身。姓名を周術(しゅうじゅつ)といい、字を元道(げんつう)と言った。都に住んで、覇上(はじょう)先生や角里先生と号した。
綺里季(きりき)については不明であるが、『通俗漢楚軍談』では姓名を綺里季といい、邯鄲(かんたん)の出身で元々、商南(しょうなん)という土地に隱居していたが、 後に東園公の友人として交際したとする。
四人は害を避けるために、隠棲して己の出自を隠していたため、史書にもその詳細な記録は残っていないようである。
漢の二代目皇后となる張皇后(張氏)は、本文で説明した通り、張敖(張耳の子)と魯元公主(恵帝の姉)との間に生まれた娘である。兄弟に張偃(ちょうえん、張耳の項目、「張耳の子孫たち」参照)がいる。
恵帝と自分の一族の呂氏との親族関係を深くしたいと考えた呂雉によって、皇后となる。子が生まれるように方策をつくしたが、生まれなかった。そこで、張氏は、みごもったようにみせかけた上で、恵帝の側室である美人(官職名)の子をわが子にして、その母を殺害する。その子は太子となり、恵帝の死後、漢の皇帝として即位した(前少帝)。
前少帝は、漢の公式見解でも、唯一、恵帝の実子とされるが、即位した後に母親についての真相を知ることになった。前少帝は、皇太后(呂雉と張氏)に成人した後の報復を誓ったが、このことが呂雉に漏れてしまう。結局、前少帝は呂雉の命令によって皇帝位を廃され、幽閉されて死んだ。
後の「呂氏の乱」の時に、陳平や周勃らによって呂氏は滅ぼされ、張氏のみは助命されたが、皇太后の地位を廃されて、北宮に幽閉された。漢文帝元年(前179年)死去する。恵帝とともに葬られた。
ここでは、劉邦の子である恵帝の兄弟について、紹介する。他に、劉邦の子として、恵帝の姉である魯元公主(張耳の項目、「張耳に関連する人物たち」参照)と劉恒(りゅうこう、劉邦の四子。漢の文帝)がいる。
劉邦の八人の男子は全て母が違い、娘は魯元公主ただ一人だったようである。
劉邦の長子。
母は、曹氏。曹氏は劉邦がまだ沛にいた頃のちんぴら時代の外婦(家の外で生活する妾)で正式な妻ではなかった。そのため、劉肥は劉邦の後継者とはならなかった。なお、曹氏は曹参の親族ではないかという説や、劉肥の子が劉邦の「嫡孫」と呼ばれていることから、曹氏は劉邦の正妻だった時期があるのではないか、と推測する研究者もいる。
劉肥がどのように育ったのか不明だが、『史記』の劉盈のエピソードとしてある呂雉の手伝いをして草取りをしていたのは、実は劉肥だったのかもしれない。また、呂雉や祖父の劉太公とともに項羽の楚軍に捕らえられていた可能性もある。
劉肥は、劉邦の子として、漢六年(紀元前201年)、七十城を有した斉王となる。斉の丞相として曹参が就任し、まだ十代であった(「春秋に富む」と記される)彼を支えた。
斉は次第に豊かな国となった。
やがて、曹参は、漢の相国となり、孝恵二年(紀元前193年)に本文で書いた通り、呂雉に毒殺されそうになる。劉肥は事情を調べてから真相を知ると、無事に長安から脱出できないと心配した。そこで、斉の内吏(だいり、官職名)であった人物に相談すると、「皇太后(呂雉)には、陛下(劉盈)と魯元公主(劉元、劉盈の姉)の二人の子がいるだけです。斉王(劉肥)は七十城を有していますが、魯元公主は数城しか与えられていません。一郡を魯元公主の化粧代として、皇太后に献上すれば、皇太后は喜び、助かるでしょう」と進言される。
そこで、劉肥は呂雉に、城陽郡を魯元公主に献上する。呂雉は喜び、劉肥の邸宅まで行き、酒宴を開いて楽しく飲む。劉肥は許されて、斉の国に帰ることができた。
孝恵六年(紀元前189年)、死去する。彼もまた二十代の若さであったと思われる。
悼恵王(とうけいおう)と贈り名される。
劉邦の三子。
母は、劉邦が軍を指揮していた時代に、一身に寵愛を受けていた戚夫人。
秦二世三年(紀元前207年)に生まれる。劉如意に関する事績は基本的に本文の通りである。劉邦から、劉邦に似ているため、母同様、寵愛を受けており、劉邦は天下平定後に、太子を劉盈から劉如意に代えたいと考えていた。
漢七年(紀元前200年)に、国を捨てて逃げ帰ってきた伯父の劉喜(りゅうき、劉邦の次兄)に代わって代王に封じられる。なお、赴任はしなかったようである。
漢九年(紀元前198年)に、劉邦から太子とするのはどうかと群臣に図るが、周昌ら群臣の反対により失敗する。廃された義兄(姉の夫)にあたる趙王・張敖に代わって、趙王に封じられる。劉如意が太子として立つことを反対した周昌が劉如意を補佐する趙の相国となった。なお、陳豨(ちんき)の乱により、赴任はすることはなかったようである。
漢十二年(紀元前195年)に、劉邦から再度、太子とするのはどうかと群臣に図るが、張良、叔孫通の反対や四晧の存在により、劉邦は断念する。この時に、劉如意は趙へ赴任する。
孝恵元年(紀元前194年)、趙の丞相となった周昌により保護されるが、周昌が勅命によって都に召喚されてから、本文の通り、呂雉によって殺害される。いまだ、14歳の幼さであった。陰王(いんおう)と贈り名されている。
『西京雑記』には、彼の死に関する事件が記載されているが、史書とその内容は少し違う。呂雉は恵帝(劉盈)が狩りに出てから、役所の奴隷の一人であった力士(力の強い男)に命じて、劉如意を絞殺させる。力士は劉如意の死体を袋にいれて車に乗せて、呂雉のもとに運んだ。呂雉は力士に厚く褒美をした。
恵帝(劉盈)は後に真相を知り、その力士を腰斬(ようざん)の刑に処した。呂雉はこの処刑について知ることはなかったという。
漢十一年(紀元前196年)に、彭越が誅殺されて後、梁王に封じられる。
呂太后七年(紀元前181年)、趙王となっていた弟の劉友が呂雉によって餓死させられたため(後述)、呂雉の命令によって、趙王に移される。劉恢は趙王となっていた兄弟が相次いで死んでいたこともあって不安におびえていた。
劉恢はこれまた呂雉の命令によって、呂産(りょさん、呂雉の兄にあたる呂沢の子)の娘を后とすることになった。后に従うものは、全て呂氏一族であり、趙国で権力を振るい、劉恢は監視されて、自由にすることはできなかった。
劉恢が寵愛していた側室はいたが、后となった呂産の娘によって、鴆毒で殺害された。劉恢は悲しみを託して詩を楽人に歌わせて、心なぐさめていたが、半年後に自害する。
呂雉は劉恢が婦人のことで自害したのは、宗廟(先祖と廟)の礼を祀る意思がないとして、劉恢の跡継ぎを廃した。共王と贈り名された。
漢十一年(紀元前196年)に、淮陽(わいよう)王に封じられる。
孝恵元年(紀元前194年)、兄の劉如意の死後に、趙王に移される。
劉友は呂氏の一族の娘を后としていたが、后を愛することはなく、側室ばかりを寵愛した。
呂氏の一族の娘は怒る。恵帝が死去した後、漢王朝の権勢を完全に握っていた呂雉に「趙王(劉友)は、『呂氏がなぜ、王になるのか(呂雉は、自分の一族である呂氏を王位につかせていた)。私は皇太后(呂雉)の死後に、必ず、呂氏を撃つだろう』と話していました」と讒言する。
呂太后七年(紀元前181年)、死期が近かった呂雉は怒り、劉友を召して邸宅にいれたまま、衛兵に囲ませ食べ物を与えなかった上で、群臣のうちで、食糧を提供したものは罰するようにさせた。
劉友は、呂氏を恨んで、すぐに自害しなかったことを悔やみ、天に託して仇を討ちたいという趣旨の詞を残して餓死する。幽王(ゆうおう)と贈り名される。
劉邦の七子。
母は、趙王・張敖の側室にあたる美人(官職)の趙氏。劉邦が趙国を通過した時、張敖が劉邦を歓待して、趙氏にいいことをさせてもてなした。
趙氏は劉邦の子である劉長をはらみ、漢八年(前199年)に生んだが、劉邦には伝えられないままであった。
漢九年(紀元前198年)に、張敖の大臣である貫高(かんこう)の劉邦暗殺計画が発覚し、劉邦は張敖やその一族、側室を牢獄につないだ。趙氏は劉邦との子がいることを述べたが、劉邦は放置した。呂雉や呂雉の腹心である審食其(しんいき)もとりなしを頼まれたが、放置された。
趙氏は自殺した。劉邦はそのことを聞いて後悔し、呂雉に母親として劉長を養育するように命じていた。
漢十一年(紀元前196年)に、黥布が反乱を起こしたため、彼に代わって淮南(わいなん)王に封じられる。
劉長は呂雉になつき、呂雉から寵愛を受けていたが、母の死の真相を知り、審食其を恨んでいた。劉長は才能もあり、力も鼎(かなえ)を挙げられるほどの大力であった。
やがて、「呂氏の乱」により、呂氏が絶滅し、後少帝の劉弘が廃されて、紀元前180年に、劉長の兄である劉恒が皇帝に即位する(前漢の文帝)。この時、劉長も皇帝候補に挙がったが19歳の若さであり、母方の親戚である「趙氏」に問題があることを理由にしりぞけられている。
すでに淮南に赴任していた劉長は自分が文帝の唯一残った弟であることを自負し、漢の法律を守らなかった。劉長の行動は、文帝から見逃されていた。
文帝三年(紀元前177年)、劉長は長安に入り、文帝と謁見し、一緒に狩猟をする。その時も文帝を「陛下」と呼ばず、「大兄(兄さん)」と呼んで、とてもなれなれしかった。
さらに、劉長は、審食其に面会を求め、審食其と会うと、鉄の椎(つい)で彼を殴り殺し、その首をとって、「審食其に三つの罪があります。一つ目は私の母をとりなそうとしなかったこと、二つ目は戚夫人と劉如意が殺される時に諫めなかったこと、三つ目は呂氏が劉氏を迫害したことを諫めなかったことです。どうぞ、陛下の手で私をお裁きください」と、文帝に報告した。文帝は劉長をいたましく思い、唯一残った兄弟であるため、不問とした。
劉長のこの行動は、ただの増長や乱暴から来るものではなく、呂雉から育てられた劉長が滅ぼされた呂氏の党ではなくことを示すため、呂雉の腹心であったが、すでに権力を失った審食其を殺害したと見る研究者もいる。
劉長は淮南国に帰還後、さらに漢の法令に従わないようになった。文帝は、劉長を厳しく責めることを避けて、文帝の母方のおじにあたる薄昭(はくしょう)に頼んで、劉長を諫める手紙を書かせる。劉長はその手紙をうけとって喜ばなかった。
文帝六年(紀元前174年)、劉長は、漢の功臣である柴武(さいぶ)の子である柴奇(さいき)とともに、外国である匈奴(きょうど)や閩越(びんえつ)に使者を送って謀反を起こそうとしていたとされて、逮捕される。
劉長の謀反については不明確なところもあったが、即位した文帝の邪魔になるため、どうしても劉長を罰したい夏侯嬰・張蒼(ちょうそう)ら群臣は劉長の処刑を主張した。文帝は劉長を処刑するには耐えきれず、謀反に加わったものだけを処刑し、劉長を蜀の地にある宿場に流そうとした。
劉長は「わしはただ傲慢で、諫めるものがいなかったためにこのようになってしまった」と言って、食事を断って、自害した。文帝はこのことを聞いて悲しみ、劉長は列侯の礼で葬られ、四人の子はそれぞれ列侯に封じられた。
四年後に前述の劉肥の孫にあたる城陽王劉喜が淮南王として国替えされるまで淮南国は廃されている。淮南国が再度置かれた際、劉長は厲王と諡された。
さらに四年後、劉喜が城陽王に戻され、淮南の地は早世した一人を除く劉長の三人の子たちに分割して与えられた。この三人の中に「淮南子」の著者として知られる劉安が居る。
漢十二年(紀元前195年)、前年に燕王であった盧綰(ろわん)が、匈奴に逃亡したので、代わって燕王に封じられる。
呂太后七年(紀元前181年)、死去する。劉建と美人(側室の官職名)との間に子はあったが、死期が近かった呂雉は、人を派遣してその子を殺害させ、後継は絶やされた。霊王と贈り名されている。
掲示板
10 ななしのよっしん
2023/12/18(月) 00:27:13 ID: SUjWaT8Pan
クソみてえな夫を持つ女の多くは子に償いを求める。こんな酷い目に耐えた自分にお前が報いるのは当然だと。
そんな子が長けているのは人の機嫌を伺う感覚であってそれは中華の皇帝に必要な資質ではない。
尤も呂雉の干渉は即位以来年を追うごと減っていったようなので夭逝しなければ普通に文帝のようになっていたのかもしれない。
11 ななしのよっしん
2024/03/02(土) 07:48:06 ID: BKEDGagHkJ
西晋の恵帝も前漢の恵帝に負けず劣らずエピソード豊富なのに記事は無いのか
しかし司馬衷はいくら晋書の記述がでたらめだらけとは言え八王の乱とかその前とか何もしなかった時点で悪評は免れないんじゃないかな
12 ななしのよっしん
2024/03/02(土) 20:21:22 ID: QB3S4YS9gF
>>11
劉禅からまともな部下を全部パージした状態みたいなもんだしな
急上昇ワード改
最終更新:2025/01/13(月) 07:00
最終更新:2025/01/13(月) 07:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。