蕭何 単語

7件

ショウカ

8.9千文字の記事
  • twitter
  • facebook
  • はてな
  • LINE

蕭何とは、戦国時代末期前漢の人物。漢王朝した高祖・劉邦と同じく沛の出身で後に前漢の宰相となった。

劉邦の功臣の中でも最も著名な三傑[1]に挙げられる。

劉邦の文官の筆頭として、との戦いにおいては事務を処理し、楚戦争では後方からの援軍による支援と補給を支え、漢王朝の建後は宰相として、劉邦・呂雉に仕えてその政務をつかさどった。

 同じ三傑の韓信推薦し、楚戦争劉邦勝利に導いたことでも知られる。

沛の地方役人

劉邦と同じ沛県の豊の出身。法律に詳しく、事務処理に長け、正であったため、沛県の吏(法をつかさどる役人)の部下となった。 

当時は、始皇帝により中国は統一され、中国では各地にいた王はされ、全土がや県として皇帝が直接統治することになっていた。では、中央からや県を統治する長官にあたる官吏を派遣し、それを補佐する役人を地元から採用した。 

劉邦や蕭何が住んでいた沛県はかつてはに滅ぼされた楚の土地であり、蕭何はから派遣された沛県の県(沛県の官吏の長官)の部下の役人の一人となった。 

蕭何は沛の遊侠の一人に過ぎなかった劉邦を役人でありながらかばい、劉邦が亭長[2]となると劉邦助けてやった。役人がヤクザと癒着していたと見るべきか、劉邦が優れた人物であると見抜いて沛の統治に活用していたと見るべきかはなんとも言えない。 

劉邦が咸陽へ労役者を送る任務を担った時には、他の役人たちは300銭送ったのに対し、蕭何は500銭を渡したという。 

ある時、蕭何はから派遣されていた沛の県密な関係となっていた呂に対する沛の有力者が挨拶を行う会において、接待の全てを任せられた。蕭何は余りに来客が多いため、「進物が千銭以下の人は、堂の下に座ってもらいます」と宣言した。この時、接待の飯当ての劉邦が現れて、銭を一銭も持たずに「進上一万銭」と偽って書いた名刺を出した。劉邦名刺を見た呂は、自ら劉邦を出迎え劉邦の人相があまりの相であったため、に通して上座に座らせようとした[3]。この時、蕭何は「[4]は元々ほら吹きで、実行したことがほとんどありません」と、後々を考えると不敬極まりないことを言ったが、呂劉邦上座に座らせた。呂の呂雉を劉邦の妻とすることにし、劉邦と呂雉は婚姻を結んだ。 

この夫妻が後に下のとなり、自分がその筆頭の大臣として二人の補佐をすることになるという運命をこの時の蕭何が知るはずもなかった。 

その後、蕭何は沛県の上位にある泗水事務官となる。成績は第一位であり、蕭何はの中央の役人に抜されるが、蕭何は固辞している。この後に沛に戻り沛の吏になった。沛には蕭何の他に、地元から採用された要な役人に[5]であった曹参がいて、蕭何と仲が良かった。この二人のは沛でも有力者であったと考えられる。 

だが、劉邦が再び咸陽へ労役者を送る役を担った時に、その労役者が途中で逃亡してしまう。死刑になると考えた劉邦も逃亡して近くの山野に隠れるようになった。始皇帝政治は過酷さを増していき、沛の中でも劉邦のもとにはせ参じるものが多かった。結果、人数がある程度増えた劉邦たちは野盗と化していた。

劉邦の部下となる

始皇帝が逝去し、二世皇帝として始皇帝の子である胡が即位した。彼と宦官趙高によっての暴政はしくなり、陳勝広という人物が反乱を起こした(陳勝広の乱)。反乱は広がっていき、陳勝楚というの王を名乗る。各地のや県では、から送られてきた長官を殺し、反乱に応じる動きが広がっていた。当然、沛の県も殺されることを恐れるようになった。 

蕭何は曹参とともに県に呼ばれ、県から陳勝の乱に応じることを相談された。蕭何は「の役人であったあなたが反乱を起こしても、沛の子は命をきかないでしょう。それよりは、劉邦を呼び戻して、沛の民をおどかして命をきかせた方がいいでしょう」と県に進言した。

史記』によると、本当にこのように話している。「劉邦なら人望が厚いから民も従うでしょう」などではない。 

は同意して劉邦を呼ばせることにしたが、呼ばせた後で心変わりを起こし、を閉じて蕭何と曹参を殺そうとする。蕭何は曹参とともに命からがらを越えて脱出して劉邦のもとに逃げこんだ。 

劉邦内の沛の民に向けて手紙を射込むと[6]、沛の民は県を殺し、劉邦を迎え入れた。沛の有力者が劉邦を県にしようとすると、劉邦は辞退する。 

ところで蕭何と曹参は、自分たちは文官であり、反乱が成功しなかった時には、家族が皆殺しになることを恐れていた。そこで劉邦推薦する。劉邦に対して反乱を起こすことを決め、沛を名乗った。

史記』にはこのように記述されている。「劉邦こそがにふさわしいと思った」とか「劉邦をかねてから慕っていた」というわけでは全くい。い話が「失敗したときの生贄・身代わり・責任の押しつけ」である。

それからの蕭何は劉邦の部下として、劉邦を補佐し、様々な事務や内務を監督し処理した。 

実は、沛県が含まれる泗水にいた地方軍との戦いにおいて、夏侯嬰とともに一度は戦闘に加わったことがある。

ただし、その後は全く加わっていないことから、本当に戦争は苦手であったらしい。

劉邦の宰相

劉邦の都である咸陽に入った時には、諸将が財宝を山分けしているときに、蕭何はの宮中に入って、法律書や戸籍地理書などを保存した。劉邦は蕭何を宰相に任じた。 

後に項羽が咸陽において略奪し、宮殿地を焼き払った時に、多くの書物が失われた。しかし、蕭何が法律書や戸籍地理書などを確保していたおかげで、劉邦下のことを知ることができた。 

劉邦項羽によって王に封じられ、地である中に左遷させられた時に、劉邦とその武将である周勃・樊噲が怒って、項羽と一戦交えようとした。蕭何は劉邦たちを諫めて、「このまま項羽と戦えば必ず死にます。中に行くことは死ぬよりはましです。中の王になって、人材を集め、帰ってから三[7]を奪えば、下を図ることができます」と進言する。劉邦は同意した。『書』ではこの時、丞相に任じられている。

蕭何は中において、新たに劉邦の軍に入ってきた韓信と知り合った。蕭何は韓信話し合い、その才を見出す。蕭何は韓信劉邦に何度も推薦するが、劉邦韓信を抜しなかった[8]。ある日、劉邦からこれ以上の抜を受けることはないと思った韓信劉邦の軍から逃亡する。蕭何は韓信が逃亡したと知り、劉邦も報告もせずに韓信を追う。劉邦は蕭何が逃亡したと思い、大いに怒るとともに、頼りを失ってしまったようになる。 

日経って、蕭何が帰ってくると、劉邦は怒りかつ喜んで、逃亡した理由を聞いた。蕭何は韓信を追って引き止めて帰ってきたことを説明し、韓信は「国士無双」の人物であること。中の地で王になるのならともかく、項羽下を争うのなら、韓信を用いるように進言する。蕭何は、劉邦韓信将軍にしようとしても諌め、どうしても全軍の大将にするように進言した。さらに、韓信を呼びつけて大将に任じようとする劉邦を諫め、礼をつくして檀上で任命するように諌めた。劉邦はその通りにし、韓信大将に任じた。の全軍はこの人事に驚いた。 

韓信は、中国史に名だたる名将の一人に数えられるほどの軍事力の持ちであり、蕭何と同じ「の三傑」に数え上げられ、楚戦争劉邦勝利へと導くこととなる。 

かしこの頃から、将軍に任じられた曹参とは不仲になってしまったようである。 

劉邦項羽と戦うために決起して、関中を攻めている時には、(『史記』によるとこの時に)丞相に任じられ、後方である中に留まり、現在四川省にあたるの地をうまく統治して、兵糧を提供させていた。 

関中を任される

 劉邦が楚戦争を戦った時には、蕭何は後方にあたる関中にとどまり、都にあたる櫟陽(れきよう、この時の首都)において、法律や規則を作り、の宗や社稷、宮殿、県や(ゆう、県の下にあるのこと)を新たに建てて、統治をおこなった。

 蕭何はできるだけ劉邦許可をもらうようにしており、小さいことは自分で処理して、劉邦が関中に帰ってから報告した。また、兵を出すための基礎となる戸数をはかり、劉邦の軍へ補給を行った。劉邦敗北すると、そのたびに老人や少年までを動員して関中の兵を徴発して劉邦に援軍を送った。 

そのため、蕭何は劉邦によって関中を全て任された。 

蕭何は楚戦争中に、劉邦示を待たずに数万の援軍を送り、敗走した劉邦の危急を救ったことが何度もあった。劉邦軍の兵糧を補給したため、劉邦側は兵糧に困ることはなかった。また、関中では大飢饉が起きていたが、中から穀物を輸送させ、民に食べさせたため、史書に特記されるような大きな問題が起きることはなかった。 

そこで、劉邦は何度も使いを送って蕭何の苦労をねぎらった。蕭何はこれを疑問に思い、部下の「これは王(劉邦)があなたを疑っているからです。族の若いものを軍に送れば、王もあなたをますます信任するでしょう」という言葉に同意する。果たしてその通りに実行すると、劉邦は大変喜んだ。 

功績第一位

 やがて、劉邦項羽勝利し、下を定して、皇帝に即位し、漢王朝を創設する。劉邦は、蕭何を「を治め、民を安心させ、兵糧を兵に与えることを絶やさない補給においては、わしは蕭何に及ばない」と張良韓信とともに褒めたたえる。これがの三傑と呼ばれるようになった元である。 

その後、の制度を基本にして時機に適した法律を採用し、「九章」という漢王朝法律を定める。 

劉邦は長安をの都とすると、功臣たちに恩賞を与えようとした。劉邦は蕭何の功績こそが功臣の中で最大であると考え、そこで蕭何を酇侯(さんこう)に封じ、8,000戸を与えた。[9]

劉邦の元で働いた諸将は「らは多くの戦争を戦ってきました。しかし蕭何は筆をもって議論しただけです。功績がらの上位にあるのは納得できません」と不満を述べた。しかし、劉邦は、「諸君らの功績は狩猟と同じである。蕭何の功績はその猟のようなもの。また、蕭何は一族を挙げて従ってくれた。蕭何の功績は忘れてはならないものだ。」と答えて、諸将の反論を封じた。 

また、劉邦の諸将は「それなら、体に70もの傷を負いながら、多くの戦争で功績をあげ続けた曹参が功績こそ最大です。功績の位階は曹参を第一にしてください」と言うと、劉邦は、一度はその通りにしようとしたが、部下の進言により蕭何を功績第一位とした。 

蕭何はを帯びて宮廷に上がったり、皇帝の前で名乗ったり皇帝に特別の礼遇をとらなくてもよい待遇を与えられる。劉邦はかつて蕭何に200銭多く餞別をもらったことへの恩を感じていた。蕭何の族も次々と封じられた。 

漢の相国

劉邦王信(上述した韓信と別人なので注意)を討伐している時に、長安の留守を任される。この時蕭何は、未央宮という壮大な宮殿を建てた。討伐から帰ってきた劉邦は、戦争中にこんな壮大な宮殿をつくるとは何事か、と怒りだす。蕭何は、「下が定まっていないからこそ、宮殿がつくる必要があります。天子(下を治める命をさずかった人間。ここでは劉邦のこと)は四(下のこと)をとなす、といいます。壮麗でなければ天子の威は鳴りきません。さらに、子孫にこれ以上壮麗にしないようにしておくのです」と話すと、劉邦は喜んだ。 

さらに、今後は陳豨(ちんき)が反乱を起こし劉邦が反乱討伐を赴くと、またも蕭何は長安の留守を預かった。この時、蕭何は、かつて大将推薦した韓信謀反を起こそうとしているということについて、劉邦皇后である呂雉から相談をうける。蕭何は韓信を騙して、宮廷におびきよせて逮捕し、呂雉とともに韓信謀反の罪で処刑した。 

こうして、蕭何と同じ「三傑」と後世に呼ばれる韓信は死ぬこととなった。蕭何はこのことで後世から批判を受けることもあるが、蕭何がいかなる心理で韓信をおびきよせたかは、史書には書かれていない。 

蕭何はこのことを劉邦に報告すると、劉邦は蕭何を相に任命し、5,000戸を増やされた。 

かしこのときに召という人物から、「あなたは実戦に従ったわけではないのに、領地を加増されたのは、韓信謀反を起こしたのであなたの忠を疑っているからです。加増を辞退され、私財を投じて軍費を出せば、陛下はお喜びになるでしょう」という進言を受ける。そこで、その言葉通りにしたところ、劉邦は大変喜んだ。 

劉邦からの疑心

九江王に封じた黥布に対して反乱を起こしたので、劉邦が討伐におもむいた。蕭何は民衆を安心させ、従わせるように努め、力をあげて劉邦の軍を助けるようにした。 

しかし、劉邦は討伐中に何度に使者を出して、蕭何の様子を探らせてきた。蕭何は食客の一人から、「あなたは関中で人心をつかむこと十数年です。みな、あなたを慕っています。陛下が様子を探るのは、あなたが関中でなにか事を起こすことを心配しているからです。多くの土地を安く買い叩き代金を支払わないことによりあなたの名を汚せば、陛下は安心するでしょう」という進言を受け、その通りに実行した。劉邦はとても喜んだ。 

劉邦が関中に帰還すると、民衆から上書が差し出された。その上書には「蕭何が理矢理、民の膨大な広さの田や宅地を安く買っております」と書かれていた。劉邦は蕭何に会うと、史書を読む限り心からうれしそうに笑って「民のものを奪って自分のものにしたのだな」と言って、上書を見せると「みずから民に謝罪しろ」と蕭何を責めた。蕭何が「長安は土地が狭いのです。陛下がお持ちの(狩猟を行う土地)にはき地がたくさんあります。民衆が中に入って耕作することをお許しください」と話すと、劉邦は「相(蕭何)は商人から財物を受け取ったのに、民衆にが土地を使わせ、これ以上の人気を得ようとするのか」と怒り出し、蕭何をにつないだ。 

しかし、劉邦は部下から「蕭何が楚戦争中や陳豨・黥布討伐中に関中で反乱を起こせば、関(関中の東を守る関所)より西は蕭何が奪ってしまったでしょう。いまさら、商人から財物を受け取りはしません。蕭何を疑ってはいけません」と諌められる。 

劉邦は不満に感じながらも、蕭何を赦免する。老年となっていた蕭何は劉邦に陳謝した。劉邦は、「わしは殷の紂王のような暗君に過ぎないのに、相は優れた宰相である。わしは民にわしの過ちを伝えようとして、相を捕らえただけだよ」と蕭何に語った。 

恵帝に仕える

劉邦が死去し、皇帝として劉邦と呂雉の間の子である劉盈恵帝として即位する。蕭何は相として、呂雉と恵帝を補佐した。 

蕭何は病気にかかり、恵帝は自ら蕭何の邸宅を訪問して蕭何を見舞った。恵帝が、「あなたに万が一のことがあった場合、をあなたの後任にすればいいのかな」とたずねると、「臣下を知るものは、(恵帝)に及ぶものはおりませぬ」と答える。恵帝は、「曹参はどうだろう」と重ねてたずねた。蕭何は、韓信大将推薦した頃から曹参と不仲になっていたが、「陛下は立な人物を私の後任に選ばれました。死んでも思い残すことはありません」と答える。 

蕭何が死去すると、恵帝から「文終侯」と贈り名された。曹参は蕭何が死去したことを知ると、「私はすぐに都に呼ばれて、宰相となるだろう」と側近に語った。はたして、すぐに使者が来て曹参を都へ召した。 

他の功臣で蕭何ほどの扱いを受けた人物はいなかったと伝えられる。

 評価

 蕭何は、己の宅地や田地を決める時に、不便な所や良くない所にしていた。を作っても屋根や塀を立なものして飾らなかった。蕭何は「私の子孫で優れた人物は、必ず私の倹約した態度を模範とするだろう。また、子孫が賢い人物ではなかったとしても、権勢のあるに奪われることはないだろう」と語っていたと伝えらえる。 

史記』において司馬遷は、「の時代の蕭何はただの文書を扱う役人であり、特別優れた行いをしたわけではなかった。しかし漢王朝るにあたって、漢王朝の財政を管理し、苦難している民に対し、法を奉じて、時世に応じた政策を行い、民とともに改革を行ったのだ。韓信黥布は誅殺されたのに、蕭何の功績はき続け、その地位は高祖の群臣の中でも筆頭であった。その名は後世にまで伝わっている」と絶賛している。

後世の創作において、蕭何は、同じ三傑の張良韓信が美形や美男、あるいは才気煥発に描かれることが多いのに対し、較的地味な容貌で、実、常識人に描かれることが多い。軍事や計略といった手なものではなく、内政や事務処理という少々わかりにくい点で功績を収めたからであろうか。 

蕭何について

 実は劉邦を慕っていなかった?

創作においては、蕭何は劉邦と同じ沛県の豊出身として、劉邦の特別な才見抜き劉邦を慕っていたとすることが多い。 

しかし、史実では蕭何は沛県の「吏」[10]であり、もただの富農である劉邦よりは大きく、亭長である劉邦にとっては上にあたる。「劉邦を助けた」という史書の記述は、「劉邦を補佐した」ではなく、「上として劉邦を手助けしてあげた」と解するべきである。 

蕭何も蕭何で本文の通り、「季はもともとほら吹きで、実行したことがほとんどありません」と言ったり、反乱の責任者の地位を劉邦に押し付けたりしている。 

ただし、反乱を起こして、劉邦と決めてからは一貫して、劉邦営のために(必ずしも劉邦のためとは言い切れない部分もあるが)貢献している。 

劉邦との関係

 創作の中で、実でに描かれることが多い蕭何であるが、史書では、劉邦の自分に対する疑心を感じ取り、何度も保身を図っている。

 一度は、劉邦が何度も使いを送って蕭何の苦労をねぎらった時であり、「劉邦が自分を疑っている」ことに同意している。二度は、韓信を捕らえて処刑した後であり、今度も「劉邦が自分を疑っている」ことに同意している。蕭何の保身を図った上での貢献に対して、劉邦は大変喜んだとあり、蕭何の判断・行動は間違いではなかったと史書では裏付けられている。なお、二度においては、蕭何は勝手に未央宮を建てたり、呂雉の相談を受けたとはいえ、韓信劉邦に判断を仰がずに勝手に処刑しており、劉邦から疑われる理由は存在する。

 また、三度は、劉邦黥布討伐中のことであり、劉邦が蕭何の様子を探らせた時に、名を汚すために、「多くの土地を安く買いたたき、代金を支払わず、名を汚す」という国家にとって利益にならない行動によって保身を行っている。劉邦は大変喜ぶとともに、帰還してから蕭何をその罪でにつないでいる。

 劉邦と蕭何はお互いを信頼し、高く評価してはいたが、全幅的な信頼関係にあったわけではなく、実は緊関係にあったことが分かる。

とはいえその状況でも寿を全うしたこと、また君の疑心を解くことに成功しているため、臣下としても優秀であった。

蕭何の政策

蕭何が作ったかどうかは明確ではないが、劉邦政治的な制度が理解できたと思えないことから、劉邦王に封じられてからの帝国の政策の多くは、蕭何によるものと考えられている。 

蕭何は劉邦が関中に侵攻している間は中に残り、後方から支援し、関中占拠後に劉邦が櫟陽に都を移してからは、関中に移り、劉邦の楚戦争を後方から支えたと考えられる。 

漢王朝の建後は、関中制圧後の法三章ではやはり統治できなかったため、蕭何は、法律であるを整理してその優れたところを受け継ぎ、六篇(盗・賊・網・捕・雑・具)をベースにして、新たに三・戸)を加えた、といえる九章の法制度を整えた。 

法律をうけついだが、の法治を基本にした法政治の方針は改め、できるだけ民をいたわり、緩やかに統治するようにという官吏への布告を何度も出している。 

ただし、蕭何の後を継ぎ、相となった曹参はさらに緩やかな政治を行うようにしていることから、蕭何の政治曹参べれば、法治としてはやはり厳しいものがあったようである。

関連動画

関連書籍

 西嶋定生『秦漢帝国exit』 (講談社学術文庫)

蕭何の日本語での専著はないが、陳臣の『小説十八史略』か『中国歴史』か、楚関係の小説を読んだこともある(あるいはそれと同等程度の知識のある)人で、蕭何が建に大きく貢献した漢王朝初期の制度や政策を知りたい場合、ネットの記事より正確なので、こちらの方をおすすめである。

少し難しいが、漢王朝時の制度について、中国史好きが話す基本となる学説の説明を要領よく説明している。

第二章の「四 帝国の成立」では、皇帝と諸侯王・制と県制の違い、「五 初の国家機構」では、中央政府の官職の説明と制度・県の行政機構について、理解することができる。

これを知れば、統一後の漢王朝の話や三国志を読む理解にも役立てられ、より深い理解が得られることは間違いない。

関連項目

脚注

  1. *残り二人は張良韓信
  2. *田舎の交番もしくは出張所の長ぐらいの役人
  3. *は人の人相を観るのを趣味としていたという。
  4. *劉邦のこと。季は字(あざな)とはいえ、呼び捨てである
  5. *ごくえん。吏の長のこと。
  6. *部下の夏侯嬰を使者にしたという記述もある
  7. *元のの土地の内、首都の咸陽付近の土地。元将軍である章邯ら3人に分割して与えられていた。
  8. *ある程度の官職は与えていたが、韓信は自らの力を振るうために大将軍になりたかったようだ。
  9. *ただし、これは曹参10,600戸、同じ三傑の張良10,000戸、周勃の8,100戸より少ない
  10. *地元の有力な柄出身の役人。中央から来た官吏は地元の有力なバックにしている人物の方が頼れる存在であるため、重用される。ただし、役人としては力も重視され、柄だけで選ばれるわけではない
この記事を編集する

掲示板

おすすめトレンド

ニコニ広告で宣伝された記事

記事と一緒に動画もおすすめ!
もっと見る

急上昇ワード改

最終更新:2024/12/25(水) 14:00

ほめられた記事

最終更新:2024/12/25(水) 13:00

ウォッチリストに追加しました!

すでにウォッチリストに
入っています。

OK

追加に失敗しました。

OK

追加にはログインが必要です。

           

ほめた!

すでにほめています。

すでにほめています。

ほめるを取消しました。

OK

ほめるに失敗しました。

OK

ほめるの取消しに失敗しました。

OK

ほめるにはログインが必要です。

タグ編集にはログインが必要です。

タグ編集には利用規約の同意が必要です。

TOP