彭越(ほうえつ)とは、戦国時代末期~前漢の人物。字(あざな)は仲。漁師を行いながら、盗賊を率いていた。
始皇帝の建国した秦王朝の乱れに乗じ、決起して群雄となる。秦王朝の滅亡後の楚漢戦争では、所属する国を何度も変えて、天下を争った。項羽とは敵対することが多かったため、劉邦と組んで、項羽の補給を断ち、守りが薄いところを攻撃するというゲリラ戦を展開し、項羽を大いに苦しめた。
項羽の滅亡後は、その大きな功績によって、劉邦によって梁(りょう)王に封じられる。
しかし、漢王朝を建国した劉邦に謀反を疑われ、平民にされ、さらに劉邦の后である呂雉(りょち)の進言により、劉邦により謀反の罪で処刑された。
この項目では、彭越が仕えたことがある魏王の魏豹(ぎひょう)とその部下であった張説(ちょうせつ)と蔡寅(さいいん)、彭越の部下であったことがある奚意(けいい)、彭越の友人であった欒布(らんふ)、彭越の処刑を求刑した王恬開(おうてんかい)についてもあわせて紹介する。
元は魏の国と言われた梁の国の出身。史書には、昌邑(しょうゆう)県の出身とあるが実際の出自は不明である。
元々、土地を持たない貧しい流民であったらしく、友人の欒布(らんふ)とともに、流浪していた。斉の国まで流れたところで、困窮して、欒布と一緒に酒屋で使用人として雇われていた。
数年して、彭越は、欒布を置いて酒屋から出ていき、巨野沢(きょやたく、鉅野沢とも書く。中国の東北部にあった巨大な沼沢地である。盗賊がひそみやすい土地であり、水滸伝で有名な後世の梁山泊もここに一部、含まれる)まで行き、盗賊となった。(この時期が秦の統一前か統一後かは不明)
その後、昌邑にまで流れたらしく、秦の統一後も、巨野沢で盗賊をやる副業(あるいは偽装)として、漁師をやりつつ、群盗を率いてやはり盗賊行為を行っていた。秦王朝の暴政が悪いのだ。多分・・。
秦の始皇帝が死去し、二代目皇帝である始皇帝の子が即位すると、その暴政は激しくなり、各地で反乱が起きた。
陳勝・呉広の乱を起こした陳勝や、楚の将軍であった項燕の子である項梁が反乱を起こしたと聞いて、彭越の子分の一人が彭越に、「この機会に親分も反乱を起こしたらどうですかねえ」と勧めたが、彭越は、「俺は、二匹の龍(陳勝と項梁)が戦っているのを、観戦しておこう」と答え、反乱を起こそうとはしなかった。
それから一年ほど経って、巨野沢にいた若者たちが100人以上集まって、彭越のところに押しかけてきた。
なお、この時期はすでに、陳勝と項梁が秦軍を率いた章邯(しょうかん)との戦いで戦死していた頃であり、若者たちにはこのまま反乱を起こさないまま、秦軍の勝利で終わるのではないかという不安があったものと思われる。
若者たち「頼む。彭越さん、あんたに俺たちのヘッド親分になって欲しい」
彭越「お前らに従う気なんかねえ。俺に命令するな。ああーん?」
彭越「・・。分かった。いいだろう。明日の夜明けまでに俺のところに来いよ。約束の時間に遅れた奴はぶち殺す斬るぞ」
若者たち「分かった!」
しかし、彭越が指定した約束の場所に、夜明けまでに来なかった者が十数人いた。最もひどい者は正午にまでやっと来た。
彭越「すまん。俺はもう老いぼれた。お前らが俺に無理矢理、親分になるように頼んだから引き受けたに過ぎん。約束の時間に遅れた奴を全員は斬れない。だから、最後に来たものだけを斬ることにするぜ! 隊長! 正午に来た奴をぶち殺せ討ち首にしろ!」
彭越の言葉に全員が笑って、場をとりもとうとして言った。
「そこまでしなくても。次からは遅れないようにさせますから」
そこを聞くと、彭越は正午に来た人物を引っ張り、切り捨てて、高台にのぼって、全員に軍令(軍の決まり)を宣言する。
これにより、彭越が率いる反乱集団は、ただの盗賊とはならず、恐るべき軍事集団として生まれることになった。
彭越は彼らを率いて、道々、土地を攻略していき、各地の諸侯の敗残兵たちを吸収して部下にしていった。彭越の部下は千人を越えた。
ある時、彭越の軍は、楚に仕えていた劉邦が率いた軍と会う。劉邦は、楚の王である懐王・心(かいおう・しん)の宣言により、同じく楚に仕えていた項羽より先に、秦の本拠地である関中を制圧して関中王になるために、関中がある西へと兵を進めようとしていた。そのために、劉邦は、彭越がかつていた昌邑を攻めようとしていた。
そこで、彭越は、劉邦と共同して昌邑を攻めたが、劉邦は昌邑を守る軍との戦いで敗れてしまった。劉邦は引き返して、楚の武将であった柴武(さいぶ、陳武とも呼ばれる)の軍、四千を奪い(ここで劉邦に軍を奪われたのは柴武ではないという説、柴武は魏の武将であったという説もある)、章邯によって滅亡させられた魏の国の軍勢もあわせて一緒に攻めるが、それでも昌邑は落とせなかった。
昌邑を落とすことをあきらめた劉邦はさらに西へと去っていった。彭越が劉邦と会見したかは不明であるが、この時の彭越は二度の昌邑攻めに失敗し、戦下手と思われても仕方がない結果になった劉邦にさほど魅かれることはなかったようである。彭越は、劉邦とここで別れ、支援することもなかった。(創作では彭越が劉邦の背後を守る、あるいは劉邦と同行して関中を落としたことになっている作品もあるが、史書ではそのようには記されていない)
彭越は、そのまま軍を率いて、巨野沢にとどまり、魏の兵士たちを集めて、軍に入れた。
しかし、彭越が自分の勢力を蓄えている間に、劉邦はそのまま関中を制圧する。さらに、秦の主力を率いた章邯を破った項羽が関中に入ると、秦を滅ぼし、覇王を名乗り、劉邦を左遷して漢中の王とする。
さらに、章邯との戦いと関中制圧における功績を重視する項羽は、一万人以上の兵を率いた彭越に対しても、恩賞の土地を与えなかった。そのため、彭越は帰属する土地を失ってしまう。
そこで、彭越は、覇王となった項羽の治める世を打倒することを決意する。
この時、斉の国の実権を握っていた田栄が、彭越と同じように、項羽の論功行賞に異をとなえ、反乱を起こすことを決意していた。田栄は、自分と同じく王に封じられなかった趙の国にいた陳余を支援して、反乱を起こさせる。彭越にも、田栄から項羽への反乱に加わるように勧誘が来た。彭越が応じると、田栄は彭越を斉の将軍に任じた。彭越が己の領地を得るかは反乱の成功次第であった。
彭越は、まず、項羽によって王に封じられた一人である済北(せいほく)王の田安と戦い、これを討ち取った。続いて、項羽の治める楚を攻める。楚では、項羽の武将である蕭公角(しょうこうかく)が応戦してきたが、彭越はこれに大勝する。彭越はかつての魏の土地にあった十余りの城を落として、占領する。彭越の軍事能力と軍の強さは相当なものであった。
やがて、項羽は田栄のいる斉を攻めるが、斉の将軍であったはずの彭越は史書に残る限り、これを支援した記録は残っていない。この時、劉邦が関中を制圧し、項羽の封じた諸侯王を降伏させていたため、田栄を支援して項羽と戦うより、劉邦が率いる漢軍と組んだ方が有利と見て、鞍替えしたものと思われる。田栄は項羽との戦いに敗れ、戦死した。
彭越は三万人余りまで増えた軍を率い、楚討伐の兵をあげ、大軍を率いていた劉邦に降伏する。魏の領土を一部有していた彭越は、劉邦によって、魏の相国(宰相)に任じられる。彭越が今度、仕えるようになった王は、魏の王室の血を引く魏豹(ぎひょう)であった。彭越は自由に軍を率いて、まだ、占領していない梁(魏)の土地を攻略していいと劉邦からの許しを与えられた。要は切り取り放題である。
また、この頃に、彭越は劉邦によって、建成侯(けんせいこう)に封じられていたようである。
彭越は項羽を警戒しつつ、好きに土地を攻略できるようになったはずであった。
しかし、五十六万の大軍を率いた劉邦は、斉から引き返してきたわずか三万の軍を率いただけの項羽の急襲を受け、大敗する。劉邦の漢と同盟を組んでいた斉・趙・魏まで漢と反し、楚と和平を結んだ。彭越もかつて得た土地を全て失い、黄河のあたりで遊軍を率いるようになった。
魏豹は漢に反して、劉邦と敵対したが、彭越は彼につくことはせず、漢軍に味方することにして、各地を移動して、ゲリラ戦を展開する。やがて、魏豹は、漢の大将軍であった韓信によって捕らえられ降伏する(魏豹については後述)。さらに、趙の陳余も韓信に敗れ、戦死した。劉邦に味方した彭越の判断は正しかった。
彭越は項羽が不在となっていた楚の土地を攻め、項羽の本拠地である彭城(ほうじょう)の付近にある下邳(かひ)の地において、項羽の従弟である項声(こうせい)を大破する。本拠地の危機を聞いた項羽は有利に進めていた漢軍の重要拠点である滎陽(けいよう)攻めを中止し、帰還して彭越を攻撃する。彭越は項羽との戦いに敗れて逃走する。彭越の軍才をもってしても、長躯して疲れているはずの楚軍を率いた項羽との戦いに勝てなかった。それほど、項羽の軍事能力は圧倒的であった。しかし、危機におちいっていた劉邦軍はこれで、息を吹き返せた。
彭越は梁の土地に軍を置いて戦いを継続し、各地を移動して、楚の軍の後背を攻め、兵糧の補給を断った。さらに、楚の土地を攻撃するために劉邦から派遣された盧綰と劉賈の軍と合流し、また楚の軍を破った。彭越は梁の土地にあった十余の城を奪い、己の領地を確保した。
しかし、この頃、劉邦軍の韓信が、斉が漢との和平に応じたことを無視して攻撃したため、逃亡した斉王の田広を頼ってきた。彭越は、田広を受け入れたかは定かではないが、彭越が漢に従属した存在ではなく、あくまで独立した勢力だったと認識されていたのは間違いないようである。
項羽は梁の土地を取り返すべく、東に向かい、彭越のところに、攻めてきた。項羽は武将の龍且(りゅうしょ)に斉への援軍を、曹咎(そうきゅう)に劉邦からの防衛を命じていた。
項羽が来たと知って、彭越は各地の城を防衛したが、項羽が降伏をうけいれると聞き、彭越が占拠した城は全て項羽に降伏した。彭越は北へと逃走した。
しかし、項羽の軍の分断における判断は、結果的に楚軍に致命的な打撃を与えた。斉では韓信が龍且を破り、龍且と斉王の田広は戦死していた。また、劉邦への防衛にあたった曹咎は、劉邦の誘いに乗って大敗し、曹咎は自害していた。対して、劉邦側は彭越が占領した城を失っただけで、その軍を失われていなかった。韓信と彭越が漢に味方する限り、楚の勝ち目はほとんど失われた。
この後、韓信とその部下の灌嬰(かんえい)に敗れ、斉王となったものの斉の国が滅ぼされた田横が彭越を頼ってきた。彭越は、田横は受け入れたようである。彭越は独立した勢力であったばかりでなく、必ずしも漢の味方ではなく、梁の地を得てから中立を保ち、時には漢につき、楚のついたとも記されている(ただし、彭越が楚の味方をしたという記述はなく、楚と同盟状態にあって漢と敵対していた頃の斉と組んだという意味かもしれない)。
項羽が劉邦との対応に南へともどると、彭越はまた梁の土地を攻め、かつて住んでいた昌邑ら二十数城を奪った。さらに、劉邦へ兵糧十万斛(ごく、斗の十倍。一斗は約2リットル)を補給する。これにより、漢軍が兵糧の量において楚軍を圧倒することに大いに貢献したものと思われる。
しかし、劉邦としては、韓信と彭越が直接に自分の支援を行わず、劉邦が項羽と対峙している間に項羽の背後を攻めていることに不満を感じており、必ずしもその評価は功績ほどには高くなかった。劉邦は自分の身近で戦い、あるいは献策した、張良、陳平、黥布(げいふ、英布とも)、盧綰(ろわん)、樊噲(はんかい)は高く評価し、深く信頼していたが、別働軍を率いることが多かった韓信、彭越、曹参(そうしん)、灌嬰(かんえい)に対してはそれほどではなく、特に、関中からの支援を命じた蕭何(しょうか)には不安を、韓信、彭越には不信すら感じていたようである。
実際、劉邦は使者を送り、彭越を呼び寄せて、彭越からの項羽との戦いにおける直接的な支援を依頼したことがあった。
しかし、彭越は、
「魏の地は定まったばかりです。楚は項羽の野郎のせいでデタラメに強いです。俺はあんたのために項羽と戦いたくねえです。当たり前でしょ? 城を空にはできないので、行きたくても行けません。なんで、あんたのためにそこまでしないといけねえんですか。あんたのために領地を奪われて失うなんて絶対、嫌ですよお」
と斜線部分が真意としか思えないナメきった返事をしただけであった。
そのため、圧倒的優位となった漢軍は、劉邦の直属軍が項羽と戦い、劉邦が負傷するほど項羽に苦戦していたが、一気に攻めることがなく、今までの活発な攻防が嘘のように、戦局が大きく動くことがなかった。(このため、史書にある年表の真偽に疑問を持つ研究者もいる)
そこで、戦線に復帰した劉邦は、項羽と講和を結ぶことにした。これは、劉邦の仕掛けた罠であり、劉邦は項羽が引き返したと見ると、盟約を破り、項羽の背後を攻める。しかし、韓信と彭越の軍が援軍として来なかったため、それでも劉邦は項羽に敗れてしまう。項羽の軍の強さは依然として健在であり、劉邦が項羽に勝つためにはどうしても韓信と彭越の支援が必要であった。
劉邦は軍師の張良に相談すると、「彭越は梁の土地を平定して、その功績はとても大きいです。彭越は現在、魏の相国ですが、魏豹の死後、魏王はなく、彭越は王になりたいと考えています。梁の土地は彭越に与え、彭越を王に封じれば、彭越は来るでしょう。韓信も同様です。そうしなければ、事態はどのようになるか分かりません(韓信と彭越が自立、もしくは項羽と組むかもしれないという意味)」と張良が進言する。
劉邦がそのようにすると、彭越は全軍を率いて垓下(がいか)の地にいた劉邦と合流する。
垓下の戦いでは同じように集まった韓信が項羽を破り、項羽は自害した。劉邦は韓信や燕王・臧荼(ぞうと)、淮南王・黥布(げいふ)らの推戴(すいたい)を受けて、皇帝へと即位した。
彭越も改めて梁王に封じられ、定陶(ていとう)を都とすることになった。
ただの流民に過ぎなかった彭越は、ついに王にまでなった。
富農の子ではあった劉邦と比べても、彭越はそれをある意味では上回る成り上がりを果たすことができた。
同年に、燕王の臧荼が劉邦に対し反乱を起こすが、臧荼のもとでかつて彭越の友人であった欒布が将軍となっていた。臧荼は鎮圧され、欒布は、漢軍に捕らえられた。彭越は、このことを聞いて、劉邦に頼んで欒布の身柄を買いもどした。彭越は、欒布を梁の大夫に任じた。
梁王となり、かつての友人である欒布を助け、その欒布を信頼できる腹心とすることができた。彭越の人生はこの時が絶頂であった。
その後、彭越は何度か、皇帝となった劉邦と会見する。陳では、楚王となった韓信が捕らえられ、その後も韓王信が反乱を起こし、趙王・張敖(ちょうごう)の王位が剥奪されるなどの事件が起きたが、特に彭越が何か感じたという記述はない。彭越には劉邦の臣下であるという意識は薄く、劉邦を恐れ、忠誠を尽くさねばならないという考えは余りなかったと思われる。
漢では趙の地で陳豨(ちんき)が反乱を起こし、劉邦が自ら出撃して討伐することになった。彭越は劉邦から援軍を出すように命令を受けたが、彭越は病気と称して、武将に兵を率いさせて派遣した。
劉邦は怒り、使者を彭越のもとに送って叱責する。彭越は劉邦の怒りに気づき、劉邦を恐れて、自分で赴いて劉邦にわびようとした。しかし、武将の扈輒(こちょう)が「責めを受けたから行っても、捕らえられるだけでしょう(過去に韓信が同じように捕らえられている)。反乱するしかありません」と進言した。彭越は反乱までは起こさなかったが、さらに病気と称して、劉邦のもとへ赴くこともやめる。
ある日、彭越は部下の太僕(たいぼく、人名ではなく役職。車馬や牧畜を取り扱う)を斬ろうとしたことがあった。その太僕は逃亡し、彭越が扈輒と謀反を起こそうとしていると訴えた。
劉邦は使者を派遣して、彭越を捕らえさせた。彭越は、劉邦の使者に捕らえられ、洛陽でつながれることとなった。役人が調べたところ、謀反の形跡があったということになった(漢代の謀反については後述は「劉邦の唯一の粛清者」参照)。
役人は法通りに執行し、彭越の処刑を求めた。しかし、劉邦はさすがに気がとがめたのか、それは許して、彭越を平民にした上で、蜀の青衣(せいい)という土地に流すことにした。
彭越が西へと向かっていると、ちょうど、長安から洛陽に向かおうとしている劉邦の后である呂雉(りょち)に出会った。
彭越は、天の助けと思ったか、女性なら同情をひけば口添えしてくれるだろうと思ったか、呂雉に会うと泣いて謀反は無実であることを述べ、かつていた昌邑にもどして欲しいと訴える。呂雉は承諾すると、彭越と一緒に東にある洛陽に向かう。
呂雉「彭越は壮士(勇ましい人物)です。彭越を蜀の地に流すのは、心配事を残すようなものですよ。彭越を誅殺するのです! 私が彼をここに連れてきています」
さらに、呂雉は己の舎人(下級の側近)に命じて、彭越がまた、反乱を計画していると報告させる。廷尉(ていい)であった王恬開(おうてんかい)は彭越の一族皆殺しを求刑した。(王恬開については後述)。劉邦はこうなった以上、禍根は残してはならないと考えたのか、この求刑を許す。彭越は一族皆殺しとなり、梁国は廃された。
だが、劉邦と呂雉の彭越への仕打ちはこれでは終わらなかった。謀反を起こしたとされた彭越の首は洛陽でさらされ、彭越の死体は塩漬けにされて、器にいれられ、各地の諸侯王に送られていった。これは謀反を起こしたとされる臧荼や韓信にさえ、行われていない冷酷な仕打ちであった。この塩漬けの肉は、淮南王・黥布(げいふ)にも届けられ、黥布の反乱の遠因となった。
なお、彭越の首は命をかけて彼をとむらった欒布によって葬られた。(欒布については後述)
司馬遷は、彭越について、「彭越は元々、卑賤な出身であったが、千里の地を圧巻し、王と称し、戦争に勝利し続け、天下にその名が響き渡った。捕らえられてからも、屈辱に耐えて生き延びようとしたのは、その知略が傑出しており、再度の活躍の機会を待っていたからである」と評している。
彭越については、その活動について、彼がどの国と同盟し、あるいは従属し、敵対したか不明な部分が多く、また、軍事活動についても詳細な部分が分からないところが多い。
軍事については、後世において、「韓(韓信)・彭(彭越)」と当時を代表する名将にあげられることも多く、黥布(英布)と一緒にその名をあげられることもある。なお、韓信と黥布はともにあげられないので、後世の評価は、韓信>彭越>黥布であると思われる。
また、彭越は、唐代の名将選である武廟六十四将の一人に選ばれている。楚漢戦争では、その上位の武廟十哲に張良と韓信が選ばれているほか、武廟六十四将に曹参と周勃が選ばれているのみであり、後世において名将として高く評価されている。
楚漢戦争を題材とした創作作品では、彭越は大きく分けて二つの人物像で描かれることが多い。一つは、遊侠(アウトローであるが、水滸伝の好漢みたいに時によっては弱い立場の人を守るために戦い、圧政をはかる政府へのレジスタンスを行う義賊的な存在)の義理人情に厚いヤクザの親分的な人物像である。
もう一つは、この項目の斜線部分で示したような生計と欲望のために犯罪をおかす盗賊や山賊の親玉的な人物像である。
なお、史書において、彭越の遊侠的な逸話は逃亡した田横を受け入れた話や友人の欒布の放免を劉邦に賠償金を払って頼んだという内容が確認できる。意外と少ないのも事実である。
彭越は劉邦の粛清による犠牲者であると伝えられる。確かに、他の人物については、実際に謀反や暗殺を謀ったか、粛清ではなくただの劉邦の疑心暗鬼か、韓信のように呂雉と蕭何が独断で謀反として処理したものか、厳密に言うと明の朱元璋らが行ったような「用済み」の人物に言いがかりをつけて処断したとする「粛清」は存在しないが、彭越だけは間違いなく、粛清の対象と言える。史記の記述でも、韓信と黥布を訴えた人物の実名は判明し、彼らは侯として封じられ、賞されているが、彭越を訴えた人物の実名は不明である。
本文の通り、彭越の罪は、病気を口実に二度、劉邦のところに赴かなかったことと、謀反を進めた扈輒を処罰せず、その報告をしなかったことだけであり、これだけで罰することはできないとする説が有力である。
漢代の法律は、謀反罪は計画や陰謀の段階で実際に起こした場合と同じく処刑とされており、実際に「謀反を計画した」とされた段階で処罰されているケースが多いため、謀反罪については冤罪かどうか確認することがほぼ不可能である。事実、劉邦自身も欒布の彭越の謀反罪に対する弁護(後述)に対して反論ができておらず、欒布を賞しまでしている。
ほとんど冤罪と思われるに関わらず、彭越は一族皆殺しになった上に、首はさらされ、肉体はバラバラにされて、塩漬けにされるなど、極度にひどい仕打ちを受けている。
これは彭越が韓信や黥布と比べても、劉邦とほとんど会ったことがなく、彭城の戦いの直後など劉邦が特に苦しい時期に劉邦の味方ではなく、同盟勢力としても忠実でもなく、また、黥布のように元から王ではなく、韓信よりは功績が劣るのに、韓信に便乗するような形で王の地位と領土をねだった(と思われた)ことにより、当初から劉邦に不信を買っていたことが原因と思われる。
また、彭越は政治的な動きにはうとく、劉邦とは異姓の諸侯王たちが様々な事件により、王位を失っているにも関わらず、劉邦に従順でなく、かといって独立を志向するわけでもない中途半端な態度を行ったことも原因と考えられる。
なお、彭越が劉邦を直接、支援しなかったことは韓信と同様、軍事的な理由であるという弁護も存在する。
本文で書いた通り、彭越は創作では遊侠であることが多く、史実でもそういった逸話は少ないとはいえ、研究でも遊侠とみなされている。
遊侠とは、侠客(きょうかく)、侠気の人ともよばれ、正確に定義づけると韓非子によれば、「国家に仕えながら、刀剣をもって禁令を破り、思いのまま振る舞い、国家よりも個人的な交際を優先する人物。あるいは、そういった人物に仕えた命知らずの武勇の士」である。
また、司馬遷は、比較的肯定的に「遊侠の行為は世の中の正義(道徳や法律)とは異なることもあるが、約束は守り、信頼は裏切らず、誓いは実行し、自分を犠牲にして他人に尽くして、あるいは救い出し、あるいは金を援助して、決して、自慢しないというすぐれたものがある」と評している(こちらは水滸伝の好漢に近い)。
すなわち、遊侠には国家に仕え社会的地位の高い人物と、社会的立場が弱い武勇の士の二つに大きく分けられる。また、遊侠の気風としては、法律や道徳よりも仲間内の信義や個人的な感情を大事にし、恩義に報い、弱いものを助けるために犠牲を払う傾向にある人物ということになる。
ただし、必ずしも正義の味方というわけではなく、金持ちから受けた恩義を返すために、貧民から借金や土地や財産を取り立てることも多かったようである。
遊侠は、史料には余り記載されず、いつ頃から存在するか不明であるが、春秋時代後期から確認ができ、戦国時代には戦国四君(孟嘗君、平原君、信陵君、春申君)とその食客、あるいは荊軻のような刺客のように隆盛を極め、秦代でもその流れは残り、さらに秦の急速な滅亡と戦乱によって、遊侠が活躍した。(滅びた墨家が遊侠に変わったという説もある)
秦末に活躍した人物で、遊侠の気風が強い人物として、彭越以外には、劉邦・張良・項伯・陳平・張耳・陳余・黥布(英布)・季布・季心・田儋・田栄・田横・貫高など多数の人物があげられる。
漢代初期には、自分自身がやった行為から、遊侠の存在が社会の安定をおびやかすと見た劉邦によって、彼らの上層部にあたる豪傑を長安の近くに移す政策がとられたが、漢代では遊侠の気風は盛んであり、三国志の人物にもその気風が強い人物が多数、確認できる。
元は秦に滅ぼされた魏の王族の一人。兄(従兄とも)の魏咎(ぎきゅう)は、秦に反乱を起こした陳勝によって魏王として認められるが、秦の将軍である章邯が陳勝を打ち滅ぼした後、魏を攻めてきたため、半年近い防戦の末、住民の命と引き換えにすることを条件に、火中に飛び込み、自害している。
魏豹は逃亡して、楚の懐王・心と楚の実権を握っていた項梁を頼る。魏豹は二人から、数千の兵を与えられ、魏の土地の奪回を行う。やがて、項梁の甥にあたる項羽が章邯と戦っている間に、魏豹は魏の土地にあった二十余城を平定し、自立して魏王を名乗る。章邯が項羽に降伏すると、魏豹は自ら精鋭を率いて、項羽の軍に加わり、ともに関中に入る。
しかし、論功行賞において、項羽は、梁の土地(この場合はかつての魏の土地の東側、秦に滅ぼされる直前の領土を指す)を楚に併合したいと考えて、魏豹を河東(かとう)の土地に移して、平陽(へいよう)を都として、西魏の王に封じる。
これは、項羽に従った魏豹としては不満がある行賞であったようで、劉邦が項羽討伐の兵を起こして関中を制圧した後、黄河を渡って西魏の領土に侵入すると、魏豹はすぐに漢に降伏して帰属する。この時に、彭越が魏の相国となっている。また、劉邦からは魏豹の部下として張説(ちょうせつ)という人物をつけられた(監督も兼ねていると思われる)。魏豹は魏の軍を連れて、劉邦に従軍し、彭城まで攻めていくが、彭城では項羽に敗れる。彭越は、ここで魏豹から独立して遊軍を率いるようになったようである。
彭越が離反した魏豹は劉邦のいた滎陽(けいよう)まで戻ると、母の病気を理由に魏の土地に戻る。ここで、魏豹は后(正妻か側室かは不明)であった薄姫(はくき)が天子の子を産む人相があると、人相見の許負(きょふ)が話していたと、薄姫の母である魏媼(ぎおう)から話を聞く。
魏豹は天子になることができると喜び、また、魏の王族であった自分に対しても傲慢でバカにした態度で接し、諸侯や臣下をやたらと罵る劉邦に大いに不満があった魏豹は、黄河の渡し場を封鎖して、漢から離反し、礼儀正しい項羽が統治する楚につくことに決める。項羽からは援軍として、項羽の一族であった項它(こうた)が送られてきた。魏豹は、項它を魏の宰相に任じ、歩兵を率いらせることにする。さらに、軍の大将に柏直(はくちょく)を任じ、騎兵の将に、秦の将軍である馮毋択(ふうむたく)の子である馮敬(ふうけい)を任じる。馮敬は劉邦が認めるほど、優れた武将であった。他に太僕(たいぼく)に蔡寅(さいいん)がいた。ただし、元々、劉邦の部下であった張説はこの時、漢にもどっている。
やがて、劉邦からは説得の使者として酈食其(れきいき)が送られてくる。魏豹は劉邦の日頃の無礼な態度のことを話し、二度と劉邦の顔を見たくないと伝える。
しかし、劉邦が、韓信・曹参・灌嬰を魏討伐に派遣すると、魏豹の領土は次々と侵され、韓信の計略により、魏豹の軍は大敗し、魏豹は捕らえられる。項它は項羽のもとに逃げ帰り、蔡寅は降伏した。(柏直と馮敬はその後の史書では登場しない)。
魏の国は漢の領土となり、魏豹は護送されて、劉邦のいる滎陽まで送られた。劉邦は、自分の無礼な態度に対しても思い当たるところもあったのか、尊敬する信陵君がいた魏の王族でもある魏豹を許し、ともに滎陽を守らせた。
劉邦が紀信(きしん)を身代わりにして、滎陽から脱出すると、魏豹は韓王信や劉邦の臣下である周苛(しゅうか)、樅公(しょうこう)と滎陽を守ることになった。やがて、楚軍の包囲によって、事態が逼迫すると、周苛は樅公と「漢から離反したことのある王とは、一緒に城を守ることはできない」と話し、魏豹の殺害を決める。
魏豹は周苛と樅公によって殺害される。魏豹は戦国時代から続く魏国の最後の王となった。
なお、魏国の滅亡後、薄姫は劉邦の後宮に入ることとなった。劉邦からの寵愛はさほどなかったが、男子を生む。この男子が漢の文帝となる劉恒(りゅうこう)である。
魏豹や魏豹の子は天子になることはなかったが、許負の人相見による予言は実現することとなった。
江戸時代に中国の講談小説を翻訳した『通俗漢楚軍談』(横山光輝『項羽と劉邦』のベースとなった作品)では、魏豹は、劉邦によって、項羽討伐を反対して解任された韓信の代わりに、彭城の戦いにおける漢軍の元帥(全軍の大将)任じられている。彭城における劉邦の敗戦の責任は彼によるものが大きいとされるが、これはあくまで創作の中でも設定であり、史書にはそのようには記されていない。
なお、劉邦のもとにもどった張説は執鈹(しつひ)という役職に任じられた後、司馬に任じられ、項羽との戦いで活躍し、漢王朝の建国後も、反乱を起こした韓王信との戦いで功績をあげ、安丘(あんきゅう)侯に封じられ、三千戸を与えられた。漢の功臣としての順位は第67位となっている。
また、蔡寅は魏豹が周苛たちに殺害された頃から、漢に仕え、車騎(しゃき)という役職に任じられ、韓信や灌嬰に従い、項羽の部下の勇将である龍且(りゅうしょ)攻撃や項羽の本拠地にあたる彭城攻撃で功績をあげている。肥如(ひじょ)侯に封じられ、千戸を与えられた。漢の功臣としての順位は第66位である。
元は、魏王であった魏豹の郎(ろう、側近)であり、項羽討伐に従軍していたが、魏豹が劉邦から反したあたりで、魏豹から離反して、魏の相国であった彭越に仕える(このことから、彭越は魏豹と劉邦との戦いでは魏豹の味方はしていないと思われる)。後に、劉邦に仕えて、太原の尉となり、韓王信(陳豨?)討伐で功績をあげる。成陽(せいよう)侯に封じられ、六百戸を与えられた。漢の功臣としての順位は第110位である。
本文の通り、元は梁の人であり、平民であった頃に友人の彭越とともに流民となっていた。彭越とともに、斉の酒屋で使用人となって働く。数年後、彭越は逃亡したが、欒布はそのまま働いていた。(おそらく、秦末の戦乱により、秦軍か反乱軍、あるいは盗賊の)略奪にあい、奴隷として燕の国の人に売られてしまう。
しかし、奴隷として欒布の主人となっていた人物(史書に明記されていないが、敵対していた人物か、家族もしくは奴隷のどれかに殺されたのではないだろうか)のために敵討ちをしたことから(欒布が武勇と忠義に富んだ、すぐれた人物であるという名声が立ち)、燕の国の将軍である臧荼(ぞうと)から認められ、都尉(とい、将軍の副将)に取り立てられた。
正直、話が飛びすぎて、分かりづらいと思うが、史記にはこう書いてあるので仕方ない。カッコ内は補った想像であるが、参考にして欲しい。
項羽により秦が滅ぼされた後、臧荼は項羽によって燕王に封じられる。この時、臧荼は欒布を将軍に任じる。
楚漢戦争も終わり、臧荼は劉邦に味方したため、そのまま燕王の地位を保てたが、漢の建国後、臧荼は漢に反乱を起こす。しかし、臧荼は劉邦によって敗れてしまう。欒布もまた、漢軍に捕らえられる。
この時、本文の通り、かつての友人であり、梁王に封じられていた彭越が劉邦に頼んで、欒布を賠償する。欒布は彭越によって、梁の大夫に任じられる。
しかし、欒布が斉の国へ使者として赴いている間に、彭越が謀反の疑いで逮捕される事件が起こる。彭越は一族皆殺しにあい、その首が洛陽の街にさらされることとなった。さらに、劉邦は「彭越の首を収めるものがいたら、すぐに捕らえろ」という詔(みことのり)まで出していた。
欒布は斉からもどると、彭越の首を葬り、大声で泣いた。欒布は漢の役人に捕らえられる。報告を聞いた劉邦は、煮えたぎった湯を用意して、欒布をののしった。
劉邦「お前が彭越と一緒に謀反を起こしたのか? わしは首を収めてはならないと禁じていた。それなのにお前は首を葬り、さらに泣いて嘆いた。お前が彭越とともに謀反を起こそうとしていたのは明らかだ。すぐに、煮殺せい!」
と、『赤龍王』に登場する始皇帝みたいに、劉邦は言うと、縛られた欒布を湯の方に運ぶように命じた。欒布は運ばれる途中、劉邦の方を振り返る。
欒布「お許しいただければ、一言だけ話して死にたいのです」
劉邦「なにか、言い残したいことがあるのか」
欒布「お上(劉邦)が項羽との戦いで、彭城の戦いで苦しみ、滎陽や成皐(せいこう)で敗れた時、項羽がさらに西に向かえなかったのは、彭王(彭越)が梁の地から、漢に味方して楚を苦しめていたからです。彭越が漢に味方すれば漢が勝ち、楚に味方すれば楚が勝っていました。彭越がいたからこそ、項羽を滅ぼせたのです。天下が平定され、彭越は王の地位と領土を子々孫々に伝えていこうと考えていたのです。それなのに、ただ一度、彭越が病気で援軍に来なかったというだけで、お疑いになって謀反とみなされました。彭越は謀反を起こした形勢もないのに、誅殺して、一族全て滅ぼされました。私はお上のために、功臣の方たちが次は自分ではないかと考えていることを、恐れます。彭越は死に、私は死んだ方がよいと考えています。どうぞ、煮殺してください」
と、一言にしてはかなり長いこの言葉を聞き終わった劉邦は、欒布を許し、さらに都尉に任じる。欒布もこれをうけた。
後に、漢の文帝の時代に、欒布は燕の宰相となり、また、将軍にもなった。欒布は、「苦しく貧しい時は、恥辱に耐えられないなら立派な人物ではない。富んで高い身分になった時は、思いのまま振舞わないのなら、すぐれた人物といえない」とみなに言って、恩には厚く報いて、恨みには法をもって滅ぼした。
後に文帝の子である景帝(劉啓、りゅうけい)に仕えて、呉楚七国の乱において、功績をあげて、兪侯(ゆこう)に封じられ、再度、燕国の宰相となった。その統治は称えられ、燕・斉の地方の人は、あちこち欒布を祭った祠(ほこら)を建てた。この祠は欒公社と呼ばれた。景帝の時代に死去した。
司馬遷は欒布のことを、「彭越の死を嘆いて弔い、たぎる熱湯に平然と赴こうとしたのは、欒布が本当に死への対処を心得て、死を恐れなかったからである。いにしえの烈士といえども、彼に勝るということはあるまい」と評している。
江戸時代に中国の講談小説を翻訳した『通俗漢楚軍談』(横山光輝『項羽と劉邦』のベースとなった作品)では、欒布は上述の通り彭越を弁護した後、劉邦から都尉になるように誘われるがこれを断り、黥布のもとを訪れて、反乱を起こすように勧めている。その後、欒布は黥布軍に入り、待ち伏せて劉邦を矢で負傷させている。
劉邦が皇帝に即位した頃に、郎中(側近)として、劉邦に仕える。後に、衛将軍として、陳豨(ちんき)討伐に従軍する。この後、本文の通り、漢の廷尉となり、彭越の一族皆殺しを求刑する。さらに、彭越の死後の梁国の宰相となり、山都(さんと)侯に封じられた。
漢の文帝の時代に廷尉となっていた張釈之(ちょうしゃくし、『史記』に列伝のある人物)の公平さに感じ入り、その親友となったことが伝わる。文帝の時代に死去している。
上記の司馬遼太郎『項羽と劉邦』と『史記』、久松文雄の『史記』(原作:久保田千太郎)のうち『項羽と劉邦』をベースとした漫画作品。
北斗の拳やドラゴンボールが連載中であった週刊少年ジャンプにおいて連載される。
それまでは、創作の中で、端役であることが多く、盗賊という扱いをされることが多かった彭越を義侠心の熱い人物に描き、イメージを変えた作品である。
彭越は、第2話を丸々使って決起に至る話が、紹介されており、これは韓信や黥布にも勝る優遇といえる。
次には、十万を数える独立した集団の親分として登場し、部下に慕われ、鉄の団結力を誇る軍を率いる人物と描写される。助力を頼む劉邦に対して、昌邑を三日で落とすことを助力の条件とするが、故郷の民衆を犠牲にする昌邑攻めを条件とする彭越と組むことはできないと言い捨てた劉邦を気に入り、助力すること決め、その背後を守ることを約束する。
その後の項羽の論功行賞には反対し、斉王の田栄を支援して、項羽を引き付けている間に、劉邦に彭城を落とさせる。終盤はダイジェストであったが、彭越は最後まで劉邦を支援し、項羽討伐に加勢する。
作品の最後はその後、(文字と背景だけによる)劉邦が彭越たち功臣を誅殺したという内容の見開きという衝撃の終わり方をする。
この作品においては、彭越は一貫して、劉邦の理解者でありつつ、協力しており、多少の忠誠心のゆらぎを感じる韓信よりも、彭越を誅殺したことの方が信じたい思いを読者にさせたであろうことは間違いないだろう。
元々、不明なところが多い彭越について、詳しく解説した書籍は確認できておらず、こちらの書籍でもわずかに紹介されている程度であるが、彭越や欒布もそうであったと思われる(盗賊という概念も内包した)遊侠について、遊侠の歴史ばかりでなく、社会関係、活動、人格について、多面的な詳しい解説がなされている。
この書籍では、彭越が若者たちに推されて反乱を蜂起し、その頭になったのは、若者たちの罠にかかったものであるという解釈がされている。
掲示板
1 ななしのよっしん
2020/10/13(火) 15:54:29 ID: FecYnv0lCy
将軍・指揮官としては超有能なのに
成功してからの振る舞いに失敗して破滅するよくあるパターン
本当に強いのにもったいない
2 ななしのよっしん
2021/01/19(火) 17:40:10 ID: fRSoc22s33
彭越と韓信に関しては、和議後の襲撃をシカトした時点で「あいつらいつかブッ殺す」と思われただろうし、細かい経緯で末路に差は出ないと思ってる
3 ななしのよっしん
2023/06/26(月) 15:28:49 ID: +Y9MGabK2L
このころ中元の人口は8桁あっただろうに酒屋の店番の貧民二人が別々の道を歩いて一人は王、もう一人は将軍になってるの凄いなぁ
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最終更新:2024/12/26(木) 03:00
最終更新:2024/12/26(木) 02:00
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