項梁(こう・りょう、?~紀元前208年)とは、戦国時代末期~秦代の人物。父は、楚国の名将であった項燕(こうえん)である。秦国との戦いで、父が戦死し、楚国が滅亡する。その後は、天下を統一した秦王朝から甥の項羽(こうう)とともに逃れていた。
やがて、秦王朝に対して反乱を起こし、陳勝(ちんしょう)の敗死後は、秦への反乱軍の中心となった。その後、楚王となる懐王・羋心(びしん)を立てて、楚国を再興する。
秦軍を率いた章邯(しょうかん)と戦い、一時は勝利したが、最後には敗死する。
項梁は志半ばに死んだが、彼の後を継いだ項羽が秦王朝を滅ぼし、西楚の覇王を名乗った。
この項目では、項梁と敵対した人物である殷通(いんつう)、景駒(けいく)、秦嘉(しんか)、項梁と同盟を結んだ魏咎(ぎきゅう)と周巿(しゅうふつ)をあわせて紹介する。
項梁は、(中国)の戦国時代・楚の名将である項燕(コウエン)の末っ子(もしくは、四男)として生まれた。項梁の先祖にあたる項氏は古くから楚の国の東にある「項城」を本拠としていた有力氏族であったようである。
項梁の年齢は分からないが、甥の項羽(コウウ)の年齢が分かるため、項梁は項羽の父の弟と考えられ、一世代は30年という考えがあるため、仮にこの項目では項羽より20歳年上と仮に計算し、それを前提にして説明する。
この計算では、項梁は紀元前252年に生まれたことになる。
楚の国が亡びる前の項梁の活動内容は分からないが、父の項燕が、楚の将軍として「しばしば功績をあげ、兵士を愛した」とあるため、その部下として、軍事に従事していたものと考えられる。
項梁が成人した頃には、すでに楚国は西にある強国の秦国に攻められて、滅亡の危機に立たされていた。
紀元前226年には、楚は秦の王賁(オウホン)に敗れ、城を10失う(項梁、想定で27歳)。
紀元前225年(もしくは紀元前224年)、父の項燕が将軍として、楚軍を率いて、侵攻してきた秦の李信(リシン)・蒙恬(モウテン)を破る(戦いの詳細は、項燕もしくは李信の項目参照)
紀元前224年、再度、侵攻してきた秦の王翦(オウセン)によって、楚の項燕が敗れる。
紀元前224年もしくは紀元前223年に、項燕は自害(もしくは戦死)した。
紀元前223年、楚の国は秦によって滅ぼされる(項梁、想定で30歳)。
項梁は、この戦いで千人単位あるいは百人単位の軍を率いる武将であったか、項燕の側で戦っていたものと思われるが、結局、敗れてしまった。
項梁は、逃亡したか、降伏したか、捕らえられたかして、秦の国の本拠地である関中にいくことになったようである。
秦が天下を統一して、秦王朝を建国した後に、天下各地の富豪12万戸を秦の首都・咸陽(カンヨウ)に強制移住させているので、その対象に項梁がなっていたのかもしれない。
とにかく、項梁は甥の項羽ら項氏一族とともに、関中にいくことになった。
※項梁の強制移住については特に史書に明記はなく、そのような学説が存在するわけではないが、逃亡中にわざわざ秦の本拠地である関中に行く理由は乏しいため、このように解釈している。
項梁は、父を失っていた項羽の教育を行う。しかし、項羽が、文字も余り読めないままで、剣術も続けられないので、しかりつけた。
だが、項羽は、
「文字は名を書ければいいだけです。剣術は一人しか相手にできません。一万人を相手にできる学問を学びたいのです」
と言い出したので、項梁は項羽に兵法を教えた。項羽は喜んで学んだが、大意だけ知ると、それ以上は学ぼうとはしなかった。
ある時、理由は不明だが、項梁は櫟陽※(レキヨウ)、において、何かの罪に連座(れんざ)して逮捕されてしまった(「連座」とは、誰かの犯罪にために、関係者が逮捕される制度である)。
項梁ははるか東にある、かつての楚の国にあった蘄(キ)県の獄掾(ごくえん。牢獄の責任者)である曹咎(ソウキュウ)に手紙を送って、釈放してもらう運動を願った。項梁は、代々の項氏の地盤の存在もあって、楚の国の、特に東の方にかなりのコネクションを持っていたようである。
項梁の依頼を請け負った曹咎は、すぐに櫟陽の獄掾である司馬欣(シバキン)に釈放を依頼した。おかげで、項梁はすぐに釈放され、事なきを得た。
しかし、項梁はその後、殺人事件を起こし、そのかたき討ちを避けるため、項羽ら項氏一族をつれ、はるか東南にある呉※(ゴ)県に、逃亡することになった。
※楚の国の東南に存在した地方、かつては呉という独立した国が存在していた。
これを見ると、項梁が櫟陽で逮捕されたのは、決して無関係な連座によるものではなく、勢力の拡大や犯罪行為のために、一族や部下を使って事件を起こしていた可能性が高い。また、呉の土地に逃亡したことも項梁が、かつての楚の国の東に有力なコネクションがあったことを想像させる。
才覚と行動力に優れ、項燕の子である項梁はすぐに、呉の土地にいる有力な人物や知識人たちに一目置かれるようになる。
『楚漢春秋』という書物によると、項梁はひそかに90人の手勢を養っていた。その中では、木を抜いて、その木で地面を叩くほど剛力なものもいた。
項梁は、また、参木(サンボク)という人物と、一緒に計略を練っていた。参木は、病気と称して、室内にこもって、銭をこっそりとたくさん作り、軍資金にしていた(後述、「秦代の貨幣について」参照)。
項梁は大人しく、秦王朝の民になるつもりはなかった。有事があった場合は反乱を決起し、平和な時代が続いたとしても、秦王朝に反抗的な地元の有力者になるつもりであったようである。
項梁は、呉の土地で大きな労役や葬儀がある度に、常にその指導者となり、ひそかに兵法を用いて、地元の人々や若者たちを担当に分けて巧みに統率した。呉の土地の人々は、項梁を敬服したが、項梁もまた、決起に備えて、様々な人物の能力を知ることができた(後述、「当時の葬儀について」参照)。
紀元前210年(項梁、想定で43歳)、秦の皇帝である始皇帝の巡幸が、呉の土地の近くの会稽(カイケイ)を通り、浙江(セッコウ)という河を渡る時に、項羽とともに見物に出かけた。項羽は始皇帝の行列を見ると、突然、「あいつ(始皇帝)にいつか取って代わってやるぞ!」と叫びだす。
項梁はあわてて、項羽の口をおさえて、「変なことを言うな。一族、皆殺しになるぞ」と言ったが、心の中では、項羽のことを見どころにある男と考えていた。
項羽はこの時、23歳。身体を大きく、力は強く、その才気は常人をはるかに超えていた。呉の土地の若者たちも、一目置く存在であった。反乱決起の時には、この項羽は武将として、役立つはずである。
やがて、秦王朝は始皇帝が死去し、二世皇帝として、始皇帝の子である胡亥(コガイ)が、本来の後継者であった兄にあたる扶蘇(フソ)を自害に追い込み、即位する。胡亥は晩年の始皇帝を越える暴政を行った。
紀元前209年7月、民衆の忍耐は限界を超え、楚の国であった蘄県において、陳勝(チンショウ)と呉広(ゴコウ)という人物が反乱を起こす(「陳勝・呉広の乱」)。当初は陳勝と呉広は、扶蘇と項燕の名を名乗って、人を集めた。やがて、陳勝はかつての楚の国の都であった「陳」を制し、「張楚(ちょうそ)国」を立ち上げて、その王を名乗る(項梁、想定で44歳)。
反乱は各地で広がる一方であり、多くの人物が数千の人間を率いて、秦への反乱に立ち上がり、あちこちで秦の役人たちは殺害されていった。
同年9月、項梁は、呉県の上位にあたる会稽の郡守※(ぐんしゅ)である殷通(インツウ)に呼ばれた。
※ 秦王朝の「郡の長官」のこと、中国では「郡」の方が「県」より上位の行政区である。
項梁は、殷通から依頼された。
殷通「長江より西側の土地は、みな、秦に反乱を起こした。秦は滅びてしまうだろう。『先んずれば即(すなわ)ち人を制し、後(おく)るれば即ち人に制せられる(先手を打てば、他人を制することができれが、後手に回れば他人に制せられてしまう、の意味)』という言葉がある。
私は(先手を打って)兵を率いて反乱を起こし、あなたと桓楚(カンソ)を将軍に任じようと思っている。私に協力してくれ」
桓楚とは、会稽で知られた人物であり、現在は犯罪を起こして、沼沢地帯に逃亡している人物である。
項梁は、殷通をだまして、項羽に剣を持たせて呼び寄せる。殷通の下で働くつもりはない。
項梁は項羽に命じて、殷通を斬らせた。項羽は殷通の首を剣で斬った。
項梁は、殷通の首をあげて、その郡守を示す証である印綬を身につけた。項羽が殷通の抵抗する部下たちを百人近く斬ると、残ったものたちは、みな、降伏した。
項梁は元々知り合いだった会稽郡の主だった官吏を呼んで、反乱を起こすことを説明する。元々は、秦への反感が強い楚の地方である、すぐに同意を得た。項梁は呉県から会稽郡の各県をおさえ、精兵八千人を得た。
会稽郡の人口にしては、この八千人はかなり少ない。項梁は他の群雄のように戦闘ができる男子を全て戦争に駆り出したわけでなく、あくまで、精鋭主義で反乱を戦い抜くつもりであった。
項梁は、呉の有力者たちを校尉(こうい)や候(こう)、司馬といった武将に任じて、この八千人を率いさせた。一人だけ任用されないものがいて、項梁に抗議に来た。
項梁は、「あなたに、葬儀の主催を任じたのに、うまく、とりまとめることができなかった。だから、あなたを任じなかったのだ」と説明した。人々は項梁の見識に敬服した。
項梁は会稽の郡守を名乗り、項羽を裨将(副将軍)に任じ、近隣の各県もおさえた。
年が明けて、紀元前208年になったが、項梁は会稽郡の周囲の江東(こうとう)地帯全体をおさえることと、兵の訓練を優先していたようであり、以後の4か月、特に、大きく動くことはなかった(項梁、想定で45歳)。
慎重すぎるように見えるが、項梁は、あるいは形勢を観望していたかもしれず、項燕の子とはいえ、楚の王族でもなく、陳勝からなんらかの役職を任じられているわけでもないので、制圧に手こずっていたのかもしれない。
ただ、特に史書に明記はないが、この時期に(おそらく罪を犯して)沼沢地帯にひそんでいた桓楚や、一時期は別行動をしていたと思われる兄弟の項伯(コウハク)、かつて自分を救ってくれた曹咎は、項梁の反乱に加わったものと思われる。
同年、端月(当時の正月)、陳勝の部下を名乗って、広陵(コウリョウ)の地を攻めていた召公(ショウコウ)という人物が、陳勝が敗走したと聞いて(実際は12月に戦死している)、長江を渡って、項梁のもとに来た。
召公は、陳勝の勝手に使者を名乗り、「張楚国」の上柱国(じょうちゅうこく、楚の国の大臣)に項梁を任じて、「江東はすでに項梁が平定したので、軍を率いて、西へ向かい、秦軍を討つように」という陳勝の偽の命令を伝えた。
項梁が、召公が偽物の使者であることを見破ったかは分からないが、とりあえず、「上柱国」の官職はうけ、八千人を率いて、長江を渡り、西へ軍を向けた。
秦が章邯(ショウカン)という人物に命じて、陳勝を討たせていた。陳勝の軍は連敗し、陳はすでに落城していた。章邯は現在では、臨済(リンサイ)の地で自立した魏の国を攻めていた。どちらにせよ、この以上、時間の余裕はなかった。
この時、東陽(トウヨウ)県では、反乱軍を率いて、陳嬰(チンエイ)という人物が二万人を率いていた。同年2月に、項梁が連合を申し込むと、項梁が項燕の子と聞いて、その配下に入って来た。
さらに、項梁は淮河(ワイガ)も渡る。反乱軍を率いていた黥布(ゲイフ)や蒲将軍(ホショウグン、「将軍」とは役職か、名か、あだ名か不明)も項梁に従った。項梁の軍は、6、7万にもなった。
この時、韓信(カンシン)という人物も兵も連れずに、剣だけ持って参加してきた。こういった人物もたくさんいた。
3月、陳勝の配下となっていた秦嘉(シンカ)が、景駒(ケイク)という人物を楚王に立てて、彭城(ホウジョウ)一帯において、独自の勢力を有していた。
この景駒・秦嘉の配下に、沛(ハイ)県という土地で反乱を起こした劉邦(リュウホウ)という人物がいた。劉邦は、魏の国に攻め込まれ、劉邦の故郷である豊(ホウ)邑が魏へと寝返り、豊邑が落とせずに苦しんでいた。
そこで、劉邦から「景駒・秦嘉から項梁に寝返る代償として」援軍の要請が、項梁に行われた。
ムシがいい要請であるが、劉邦は沛県だけの兵を率いて、泗水(シスイ)郡の軍を二度も破り、碭(トウ)郡の都である碭県を落とした「戦争に強い」人物である。味方につけるのは悪くはないかもしれないとも思えた。
項梁が、下邳(カヒ)の地に着いた時、秦嘉と景駒が彭城の東の軍を集め、項梁をはばんできた。
彼らが楚王を独自に擁している以上、戦うか、景駒を王と認めて服従するかである。項梁は前者を選んだ。秦嘉などの下風に立つわけにはいかない。また、景駒はかつての楚の名門出身ではあるが、もう、そのような時代ではなかった。
項梁はかなり適当に、大義名分をとなえると、秦嘉を攻撃し、打ち破る。黥布は、猛将であり、特に手柄を立てた。秦嘉は討ち取り、景駒は逃亡した。
項梁は秦嘉の軍を降伏させる。兵力は十数万となった。胡陵(コリョウ)に陣取り、さらに西に向かおうとするところで、秦軍を率いた章邯の軍まで近くの栗(リツ)県まで来ていた。
いよいよ決戦であった。
項梁は、秦嘉からの降伏した武将である朱雞石(シュケイセキ)と、余樊君(ヨハンクン)に別働軍を率いさせ、秦軍と戦わせた。章邯は強く、余樊君は戦死し、朱雞石は敗れ、胡陵にまで敗走した。
項梁は軍を率いて、薛(セツ)県に入り、朱雞石を敗戦の罪で、処刑する。また、項羽に命じて、襄城(ジョウジョウ)を攻めさせると、項羽は襄城を落として、敵兵全てを穴埋めにして、帰還してきた。
項梁は、陳勝が死んだと聞き(実際はすでに知っていたが、これまでは都合により、正式に認めていなかったものと思われる)薛の地にとどまり、武将たちや各地の群雄を集めることにして、今後のことを図ることにした。
あの劉邦が薛まで来て、また、図々しい援軍要請をしてきた。
また、劉邦についてきた女のような顔をした張良(チョウリョウ)という人物が、「楚の王を立てた以上は、今度は韓の王を立てたらどうでしょう?(張良は韓の宰相の子) 韓の皇族では韓成(カンセイ)という人物が優れています。その方を韓王として立てれば、さらにこちらの勢力は増すでしょう」と進言してきた。
劉邦と張良の関係はよく分からなかったが、項梁は劉邦に五千の援軍を与えることにし、一方で、張良を韓に派遣して韓成を探させた。
劉邦は、豊邑を落としてきた。やはり、使える人物のようだ。また、張良も韓成を韓王に立て、秦への反乱勢力をはるか西の韓で起こしたようだった。こちらもうまく行った。
今度は魏から周巿(シュウフツ)という人物が援軍要請に来た。魏は都である臨済が章邯に包囲され、落城の危機となっていた。
項梁は、一族の項它(コウタ)に援軍を送った。斉の国では、魏の援軍として、斉王の田儋(デンタン)が自ら出向くのに比べ、これはかなり冷淡な態度であったが、陳勝が死に、王が不在であった楚は他国まで赴いて、援軍を送ることは難しかった。
遠く南方から范増(ハンゾウ)という人物が項梁をたずねてきた。70歳になる老人であったが智謀すぐれた人物であった。そろそろ、参謀となる人物が欲しかった項梁は彼を歓迎して迎え入れた。范増は項梁に進言した。
范増「陳勝は、楚王の後継者を王として立てませんでした。敗れたのは当然です。楚の人々は、かつて秦が楚の国に罪もないのに滅ぼしたことを悲しみ、『秦を滅ぼすのは、必ず楚である』と語っています。楚の人々が争って、あなたに従うのは、あなたの代々の楚の将軍の家の人だからです。ですから、楚王の後継者を王として立てるべきです」
かつて、楚王の子孫である景駒を死に追いやった項梁であるが、「項燕の子」であるというだけでは、これほどの勢力を維持するのは難しくなっているのは事実である。
そこで、項梁は范増の言葉に同意し、楚王の子孫を探し求めさせた。やがて、民間で人に雇われて羊飼いをしている人物に、楚の懐王(かいおう)の孫にあたる羋心(ビシン)という人物がいるのを見つけた。
同年6月、項梁は、羋心を立てて楚王とし、祖父と同じく「懐王」と呼ばせた。盱台(クイ)という土地を楚の都とし、陳嬰を上柱国に任じて、宮廷を任せ、項梁は「武信君(ぶしんくん)」を名乗った。
「〇〇君」は、かつての「戦国の四君」である「信陵君(しんりょうくん)」や「春申君(しゅんしんくん)」のように、王の地位に次ぎ、かなり自立した存在である。項梁にとって、楚の王は役立てばそれでいいだけで、さほどの敬意はなかった。
この頃、秦軍を率いた章邯は、まず、帰還してきた魏の周巿を攻撃し、戦死させる。楚軍を率いた項它は敗走した。
章邯はさらに、斉の田儋を夜襲で攻撃し、これも討ち取ってしまう。田儋の従弟であった田栄(デンエイ)と田横(デンオウ)も敗走した。追い詰められた魏王の魏咎(ギキュウ)は臨済の民の命と引き換えの条件で焼身自殺する。臨済も落ち、魏と斉は王を失った。
同年7月、章邯は、田栄と田横を追撃して、東阿(トウア)の地で追いつき、彼らを包囲していた。斉では、斉の人々が、田仮(デンカ)という人物が斉王に立てていた。項梁は軍を率いて、亢父(コウフ)の地を攻めていた。
同年8月、項梁は、田栄に援軍を送ることにし、司馬(しば、武将の役職の一つ)の龍且(リュウショ)に東阿を救援させ、項梁自身も東阿の近くにいた章邯の軍と戦った。
項梁配下には、
・かなりの軍事能力を有し、配下に多くの勇将・猛将を有する劉邦
・(史書の明記はないが)参謀の范増
やがて、項梁の軍は、章邯の軍を破り、勝利をあげる。章邯としては、初の大敗である。
※なお、章邯の武将として、項梁を救ったことがある櫟陽の獄掾であった司馬欣も秦軍にいたのであるが、項梁が知っていたかどうかは不明。
章邯は撤退し、東阿の城は解放されたが、田栄は、章邯を追うのではなく、斉王を名乗った田仮と戦うことを優先していった。項梁は仕方なく、楚軍を率いて、単独で章邯を追撃していった。
田栄は、田仮に勝利した後、斉を占領し、従兄であった(かつての)斉王であった田儋の子である田巿(でんふつ)を斉王に立て、田仮を斉から追放する。
田仮は項梁を頼ろうと、楚へと逃れてきた。どのように思ったのか、項梁は田仮を受け入れた(後述、「斉の内紛に対して、楚は二重外交をしたのか?」参照)
斉が落ち着いたとみた項梁は、田栄に再度、援軍を依頼し、ともに秦軍を追撃しようと誘う。しかし、斉は「援軍を送るのは、楚が田仮を殺害することが条件である」という返事をしてきた。斉での対立があろうと、楚が田栄を救援したという事実は間違いなかったにも関わらず、かなり、田栄に都合のいい主張である。
項梁は、「田仮は、楚と同盟を結んだ国(かつての斉)の王だ。その王が窮地におちいったので、私を頼って来た。殺害などできるはずがなかろう」と答える。
かつては義侠の人物であった項梁は、政治家である前に、やはり、義侠の人であった。しかし、田栄はやはり、援軍を出そうとはしなかった。
甥の項羽は、このことを聞いて、田栄に対して激怒したが、もう、どうしようもなかった。楚軍は単独で秦軍と戦うことに決めた。
項梁は軍を分けることにした。分けた軍を項羽と劉邦に命じて率いさせ、城陽(ジョウヨウ)を攻めさせる。この二人が「かなり使える」人物なのは、もう分かっていた。別働軍を任せても安心であった。
項羽と劉邦は、城陽を落とした後、さらに、西に向かって、濮陽(ボクヨウ)の東に陣取った秦軍も撃破する。秦軍が濮陽に逃げ込んだので、今度は、定陶(テイトウ)を攻める。
(この時期の)項羽と劉邦は、さほど城攻めは得意とせず、定陶を落とせないとみると、さらに西に向かい、雍丘(ヨウキュウ)の地で、秦軍の李由(リユウ、秦の丞相の李斯(リシ)の長子)を破った。李由は、劉邦配下の曹参(ソウシン)が討ち取った。
項羽と劉邦は、さらに外黄(ガイコウ)を攻めたが、まだ、落とせないでいた。しかし、連戦連勝といっていい。
ついに、項梁も東阿にいた軍を動かし、定陶を攻撃し、また、秦軍を破った。項羽と劉邦が討ち取った李由は、「三川(サンセン)郡守」の地位にあった秦軍の大物である。項梁は次第に、秦軍を楽な相手と思い込み、驕慢(きょうまん)な気持ちとなってきた。
そんな項梁の心理が楚軍に伝染し、軍全体に油断の気配が見えていた。
そこで、宋義(ソウギ)という人物が項梁を諫めた。宋義は、かつての楚国の令尹(れいいん、楚の宰相)の家出身の人物である。項梁が余り評価していない「楚の名家」の人物であった。
宋義「『戦いに勝ち、将軍が驕慢になり、兵士が怠けると敗北する』と言います。今、兵士たちは少し怠けているように見えます。秦軍は日々、援軍が来ています。楚軍が敗北するのではないかと、不安に考えています」
項梁は、宋義の意見を聞いても、態度を改めなかった。宋義は項梁の敗北を確信していた、と伝えられる。
あるいは、項梁は秦軍が「すでに兵力が尽きている」と考えていたのかもしれない。しかし、それまでの章邯が率いる秦軍は、罪人や奴隷を解放した兵としたものが中心であったが、事態を重く見た秦王朝は、秦軍の正規兵を援軍として、国力を尽くして援軍として派遣してきた。章邯の軍はかなり充実していた。
同年9月、章邯は、馬に枚(ばい)をくわえさせ、声をあげないようにさせて、定陶を攻撃していた項梁を夜襲した。不意をつかれた項梁はあっけなく戦死する。
ただし、(項梁と軍をともにしていたか、史書に明記はないが)、范増・黥布・龍且・蒲将軍・桓楚らは全て生き残っていた。
項羽と劉邦は、外黄攻略をあきらめて、陳留(チンリュウ)を攻めていたが、これも落とせずにいた。楚軍の勢いはすでに失われていた。項梁の戦死により、楚軍の兵士たちは秦軍を恐れるようになっていた。それほど、項梁の楚軍における存在は大きいものであった。
項羽と劉邦は、呂臣(リョシン)の軍とともに、東に撤退する。項羽と呂臣は、彭城のあたりに軍し、劉邦はかつて自分が占領した碭郡に軍を駐屯させた。
しかし、なんとか、国体を保った楚は、やがて、項羽を中心として、章邯に勝利し、秦王朝を滅ぼす。項羽は、羋心から楚王の立場を奪い、「西楚の覇王」を名乗り、一時期は天下の盟主となった。
その項羽も、劉邦と対立し、劉邦に敗れる。だが、その劉邦が新たに「漢王朝」を建国し、皇帝に即位する。漢王朝は中国を支配し、その王朝は400年も続いた。
項梁がいなければ、項羽も劉邦もそれほど大きな存在感を歴史に示すことはなかったかもしれない。
研究者からは、「項梁はかなりのビジョンがあり、かなり以前から秦への反乱の準備をしていた」と高く評価されることがある反面、「当初は、これといった戦略評価は持たず、それともに、必ずしも楚の懐王政権でも主導的な立場ではなかったのではないか」と相対的に低く評価されることもある。
また、「項梁が生きていれば、項羽は失敗しなかったかもしれない(あるいは劉邦に勝てたかもしれない)」という意見も強い。
楚漢戦争を題材とした創作作品では、項梁は、智謀と統率力、政治力にすぐれるが、あっけない戦死からか、項燕や項羽の親族であるにも関わらず、武勇や戦術にはそれほど長じていない、また、張良と韓信を登用しなかったことからか、人物の抜擢にも傑出しているというほどではない「すぐれた人物だが、天下をとる英雄には足りない」人物として描かれることが多い。
項梁は、かつての楚の国に代々、仕えた項氏の子孫であり、父の項燕も楚の将軍として、最後まで戦ったことで知られる。特に、項燕は、秦に仕えていた昌平君(しょうへいくん)まで楚王に立てて、楚の再興を目指していた可能性もある。
しかし、項梁は当初は楚王を立てようとする動きもなく、(実際は違うのだが)、陳勝から「上柱国」を授けられて、当初は、少なくとも建前上は陳勝を「張楚王」として認める形をとっていたと思われる。
そればかりではなく、項梁は楚王の血をひくことは、ほぼ間違いない「景氏」の景駒を攻撃して、追放して、死ぬまで追い込んでおり、范増の進言があるまでは、楚王を立てることを考えていない。
この時は、すでに、戦死していたとはいえ、建前上は、項梁は、陳勝を楚王として認めていたままだったと思われる。
これは、項燕の子である項梁にして不思議なことのように思われるが、秦の時代はすでに楚が滅びてから、項梁の反乱まで14年も経過しているため、人々の意識が変わっており、楚の国の復活や楚の地方の自立は願っていても、王が必ずしても楚王の血をひくことを求めてはいなかったものと考えられる。
また、項燕が将軍だったことに対しても、戦国時代の楚では貴族制度が他の国に比べて根強く、楚の名門であった昭氏・屈氏・景氏が存在し、この三氏が楚の国の令尹(れいいん、楚の宰相)や大将軍となる場合がほとんどであった。項燕が楚の軍を率いていたのは、楚の国末期のあくまで特殊な(押し付けられた可能性もありえる)ケースである。
項梁がどのように考えていたか、正確には不明であるが、項梁としては、楚の新たな王が必ずしも楚王の血をひいている必要は感じておらず、また、かつての貴族の力が強い楚の国の復活は好ましく思っていなかった可能性もある。
斉王を名乗った田仮が、項梁がいる楚に亡命してきた時に、楚は二重外交をしたのではないかという意見もある。
どういったことかというと、本文で書いた通り、この時、項梁は楚軍を率いて、東阿を守っていた田栄・田横を救援し、秦軍を率いる章邯と戦っていたのに、その田栄と対立し、敗北した田仮の亡命を受け入れるのはおかしいという考えに基づき、
「楚国が矛盾した方針が異なる二つの内容の外交を同時に展開しており、そのために斉国の田栄の疑念と不信感を抱かせる結果になったのではないか」という考えである。
そのため、「項梁はあくまで田栄と組んで、田仮の亡命を受け入れるつもりはなかったが、羋心(楚の懐王)が(項梁からの自立性を確保しようとして)、独断で、田仮を受け入れたのではないか」と考える研究者もいる。
しかし、『史記』「項羽本紀」では明確に、項梁は田仮を受けいれており、「田仮は、楚と同盟を結んだ国(かつての斉)の王です。その王が窮地におちいったので、私を頼って来たのです。殺害できるはずがありません」と田栄に答えており、また、『史記』「田儋列伝」では、羋心(楚の懐王)が、同じ言葉を、田栄に伝えている。
もちろん、『史記』に記されている内容が全て真実であるわけではないが、その内容を素直に読めば、「項梁も楚の懐王も、田仮を受け入れることにした」と解釈するのが自然である。
項梁の立場からは、田仮はあくまで、田栄の王であった田儋が戦死した後で、斉の地で王として立ったものであり、田栄と交戦状態にあったわけではなく、田栄が田仮と「対立していたのか」、「実際は、斉王と認めていたのか」、「これからじっくりと話し合いが行われるのか」、確認することは、戦争の緊急時であったため、困難であった。
また、項梁が田仮と田栄の対立を知った上で、田仮の亡命を受け入れたとしても、この当時は「国家や群雄の権謀術数」とともに、「困ったものや、自分を頼って来たものを助ける考えが強い遊侠思想」が重視される時代であり、項梁が利益を度外視して、そのような判断をしたとしてもそれほど不思議ではない。
そのため、項羽の所属する楚軍は「悪役イメージ」で解釈されやすいこともあって、一方的に「楚は二重外交をした」と決めることには、注意を要する。
本文の通り、秦の会稽郡守であった。殷通は、秦への反乱が広がっていると聞き、呉県の有力者となっていた項梁を呼びつけて語る。
殷通「長江より西側の土地は、みな、秦に反乱を起こした。秦は滅びてしまうだろう。『先んずれば即(すなわ)ち人を制し、後(おく)るれば即ち人に制せられる(先手を打てば、他人を制することができれが、後手に回れば他人に制せられてしまう、の意味)という言葉がある。
当時、桓楚は罪を逃れていたらしく、沢中にいて、所在は分からなかった(桓楚は、劉邦と同じような立場の人物だったと思われる)。
項梁「桓楚は逃亡して、その所在を知るものはおりません。ですが、甥の項羽だけが知っております。よんできましょう」
項梁は、殷通の部屋を出て、外に待たせていた項羽を呼んできた。項梁は、項羽に何か、言いふくめて、剣を持たせて殷通の部屋の外に待機させる。項梁は、また、殷通の部屋にもどって話をしてきた。
項梁「項羽を部屋に呼びますから、桓楚を連れてくるように、命令していただきたい」
殷通「分かった」
項梁が、項羽を呼んでくる。しばらくして、項梁は項羽に目くばせして命じた。
項梁「やれ」
史書はわずかな記述しかないが、創作作品では登場することが多い人物であり、秦王朝の官吏を代表するような、民に対する思いやりがなく、法律に厳しい、傲慢な人物として描かれることが多い。
広陵に住んでいた。
「陳勝・呉広の乱」の時に、陳勝が「張楚王」を名乗ってすぐ、銍(チツ)の董緤(トウチョウ)、符離(フリ)の朱鶏石、取慮(シュリョ)の鄭布(テイフ)、徐(ジョ)の丁疾(テイシツ)らとともに、それぞれ数千人を率いて、秦への反乱を起こして、東海(トウカイ)郡守の慶(ケイ、姓は不明)を郯(タン)において包囲する。
陳勝は、武平君(ぶへいくん)の畔(ハン、姓は不明)を将軍に任命して、秦嘉たちの監督に遣わした。秦嘉は陳勝の命令に従わず、勝手に陳勝の「大司馬」を名乗っていた。
秦嘉は、畔の配下になったことをいやがり、「武平君(畔のこと)は若く、戦争のことは分からない。従えるはずがない」と言って、陳勝の命令を偽って、畔を殺害してしまう。
陳勝が章邯に敗れて敗走した後、そのことを聞いた秦嘉は郯の土地から逃げて、東陽(トウヨウ)に住んでいた甯君(ねいくん、姓名は不明)らとともに、留(リュウ)の地で景駒を楚王として立てた。
沛で反乱を起こしていた劉邦は、留に赴いてきて景駒に従属してきた。(少し不明なところもあるが)、秦嘉は方与(ホウヨ)と胡陵の土地を劉邦から奪い取り、直轄地とした。
いずれは、秦軍を討って、定陶を制しようと考えていた秦嘉は、甯君に命じて、劉邦とともに西に向かって、秦軍と戦わせた。
さらに、秦嘉は、配下の公孫慶(コウソンケイ)を斉王の田儋への使者として送り、共同して秦軍と戦うことを要請させた。
田儋は「陳王(陳勝)は戦に敗れて、生死が分からないのに、楚はなぜ、私に要請せずに王を勝手に立てたのか!」と責めあげてきた。
公孫慶は、「斉も楚に要請せずに勝手に王を名乗っています。楚がなぜ、斉に要請して王を立てる必要がありましょうか! 楚は初めに秦への反乱を起こしました。楚が天下に号令できるのは当然です」と反論する。
甯君と劉邦は、一度は撤退して、留にもどってきたが、その後に碭郡を攻めて、攻め落とした。そのため、劉邦の兵は増えた。
この時、項梁の軍が攻めよせてきた。この時、劉邦が項梁に寝返り、項梁に援軍要請を行う。
孤立した秦嘉は彭城の東方に軍をしいて、項梁の軍を迎え撃ったが大敗して胡陵まで敗走する。秦嘉は再度、戦ったが一日の戦闘の後、戦死してしまい、朱鶏石ら、その軍勢は降伏した。
後に朱鶏石も敗戦の罪で項梁に処刑されるが、兵力としては秦嘉の元部下が、項梁の最盛期十数万の軍の半数近くを占めていたともと考えられ、その兵力は十万近かった可能性もある。
楚の名門であった景氏の出身。春秋戦国時代の楚の国では、大きな貴族の家が三氏あり、昭氏・屈氏・景氏が存在した。この三氏は春秋時代の楚の平王(へいおう、死後にその死体が伍子胥(ゴシショ)に笞うたれたことで知られる)の血をひく楚の公族にあたる名門である。
このため、景駒は楚王の血をほぼ確実にひいており、ある意味では羊飼いであった懐王・羋心より楚王としての正当な資格があると言えた人物である。
また、秦に滅ぼされたとはいえ、楚の名門貴族であった景氏はいまだ、楚の地でかなりの勢力を有していたようであり、そのために秦嘉によって留の地で、楚王に立てられたと思われる。
韓の張良も一時は、景駒に従おうとして留(ここは張良が一時期、住んでいた場所である)に赴いたようであるが、その途中で劉邦と出会い、張良は劉邦に従うことに決めたため、張良は景駒と会見しようとすることはやめた、と伝えられる。
当時の楚の地域では、項梁よりも景駒・秦嘉勢力の方が高い評価を得ていたと評価する研究者も存在する。
その後は、上述した「秦嘉」の内容通りであるが、秦嘉の死後、景駒は逃亡したが、魏の国に(魏咎を頼り?)逃れたが、そこで死んだ。
項梁が景駒を死ぬまで追い詰めたため、項梁や項羽は上述した楚の名門三氏の支援を得られなくなったという意見もある。
周巿は、陳勝の命令で、北進して魏の地を平定した。そのため、斉の国の平定も行おうとしたが、狄(テキ)で、斉王を名乗った田儋と戦闘になり、敗北して、魏の地に逃げもどる。
今度は、沛の劉邦を攻めることにして、劉邦の故郷である豊邑を守っていた雍歯(ヨウシ、「王陵」の項目「王陵に関係する人物たち」参照)を、豊邑の人々が元々、魏の出身者が多いことを利用して、寝返らせる。
斉王を名乗った田儋や趙王を名乗った武臣(ブシン)は、周巿を魏王に立てようとした。
しかし、周巿は、
「天下が乱れた時に、誰が忠臣なのかが初めてはっきりする。天下はともに秦にそむいている今だからこそ、道義から言えば魏王の子孫を擁立(ようりつ)するのが正しいであろう」
と、なかなかカッコいいことを、語る。
斉と趙はそれぞれ戦車を派遣して、周巿を魏王に立てようとしたが、周巿はそれでも、辞退して受けなかった。
周巿は魏王の血をひく魏咎を迎えて王としたいと考えて、主君であった陳勝と交渉する。魏咎は陳勝の都である陳にいた。周巿と陳勝の間を使者が五回、往復し、結局、陳勝は魏咎を魏へ派遣してきた。周巿は魏咎を魏王に立て、自身は魏の相国(しょうこく、宰相)となった。
だが、すぐに、秦軍を率いる章邯によって陳勝を破られ、陳勝が殺害されると、今度は魏を攻めてきた。魏の軍は次第に敗れて、魏咎のいる臨済は、章邯の秦軍に包囲されてしまった。
周巿は魏咎の許しを得て、臨済の包囲を脱出して、援軍を斉と楚に依頼した。
楚の項梁からは(一族の)項它が援軍に派遣されてきた。一方で、斉の田儋は、自身で後から田栄・田横を率いて、本格的に援軍を送ることを約束した。
周巿はまずは、田儋の武将である田巴(デンハ)とともに、臨済を救援した。楚の項它もこの軍に合流した。
しかし、魏・斉・楚の連合軍は、章邯によって敗れてしまう。この戦いで、周巿は戦死する。項它は敗走した(田巴はそれから史書に登場しない)。臨済はまた包囲される。
あまり目立たないが、彼が魏王に立てた魏咎は仁君であるとも含め、周巿は、見識にすぐれ、それなりに軍事能力と策謀にも長けた人物であると考えられる。
元は、魏王の公族であり、魏の寧陵君(ねいりょうくん)に封じられていた。しかし、魏が秦に滅ぼされると、魏咎も平民におとされた。
「陳勝・呉広の乱」が起こると、魏咎は、「張楚王」を名乗った陳勝の元に来て、その配下となる。魏咎は陳勝のいる陳にいた。
「周巿」のところで上述した通り、周巿によって、臨済において、魏王に立てられる。すぐに、魏は、陳勝に勝利した秦の章邯の軍と戦闘になった。
陳平(チンヘイ、後に劉邦の参謀の一人になる人物)が地元の若者たちを引き連れて魏咎に仕えてきた。魏咎は陳平を太僕(たいぼく、車や馬を監督する役職)に任命する。
しかし、魏咎が陳平の意見を聴きいれず、陳平を讒言する者もいたので、陳平は逃亡してしまい、やがて、陳平は楚に仕えることになった。
魏咎は、周巿を斉と楚の援軍要請に派遣したが、斉の田巴・楚の項它は敗れ、周巿も戦死してしまう。
やがて、斉王の田儋が田栄・田横ら斉の本軍を率いて、援軍として臨済に来た。しかし、秦の章邯が夜襲に成功し、斉と魏の軍は大敗する。田儋も戦死した。
魏咎は抗戦をあきらめて、これ以上、臨済の民を巻き添えにすることに耐えきれなくなった。そこで、「魏の民に害しないことを条件に」として、章邯に誓約を依頼し、誓約すれば、臨済は降伏することを伝える。
章邯が、誓約に応じたため、魏咎は焼身自殺をし、臨済は開城して降伏した。
魏咎の死後、魏咎の弟(従弟とも)の魏豹(ギヒョウ)が後に、魏を再興して、魏王を名乗っている(魏豹については、「彭越」の項目「彭越に関連する人物たち」参照)
この「臨済の戦い」は創作作品ではあっさりと流されやすく、章邯の圧勝で終わった印象が強いが、実際は、魏咎は半年近く持ちこたえている。魏咎が即位してすぐに、そこまで抵抗することができたということが、魏咎に人望があったことを物語る。
また、陳平の進言に聞かなかったことについても、陳平については、謀略が多い参謀であり、劉邦以外の主君では使いこなすことが難しく、陳平が、劉邦陣営にいた時でも、劉邦の部下から「陳平を用いないように」という進言が行われており、必ずしも魏咎にだけ問題があったとは言い切れない。
日本における楚漢戦争ものの小説の中で最も世間で流通していると思われる作品。
項梁は小柄であるが、決断力と智謀、政治力に長ける人物として描かれている。人物としてはかなりの統率力があり、項羽や黥布、劉邦など扱い難い人物たちを使いつつ、范増の計略を理解し、その意見を採用する度量を持つ。
やがて、楚の国を再建して、秦の章邯と戦うが、意外に軍略には長けておらず、うかつに軍を二分して章邯と戦い、あえなく敗れて戦死している。
項燕の子であり、項羽の叔父であるにも関わらず、創作において、項梁が武勇よりも智謀にすぐれた人物として描かれることが多いのは、この作品の影響が強いためと思われる。
楚漢戦争を題材にした漫画作品。少年漫画向けのキャラクターデザインがなされている。主人公は、劉邦とその親友・盧綰(ロワン)である。
項梁は、項羽やその武将たちに慕われるとともに、反対する范増の進言にも関わらず、劉邦の大きな器を見出し、劉邦たちを起用する。「民を主体とする天下構想」を劉邦に提案し、劉邦たちからも敬愛されていた。また、楚の懐王・羋心に対しても、王として敬う気持ちもあった。
さらに、政治力・知力ばかりではなく、武勇にも優れ、項羽や劉邦を導いていたが、志半ばで戦死する。
創作作品には珍しく、項梁がほぼ欠陥のないすぐれた人物として描かれている。
当時の貨幣は、銅を中心とした貴金属でつくられた貨幣が、(中国の)戦国時代各国で使われており、貨幣の単位やその形は大きく異なっていた(他国でも、交換して使うことはできたようである)。
この貨幣についても、秦の始皇帝も統一を行ったという説がある。
正史の一つである『漢書(かんじょ)』によると、始皇帝によって、溢(いつ)という単位であった金貨と、「半両(約8グラム)」の重さであった「円形の中心に四角の穴があけられ、貨幣に「半」と「両」の字が刻まれた」銅銭である「半両銭」に統一されたと、記されている。
しかし、近年の研究によると、実際には、始皇帝が貨幣の統一に着手したのは、始皇帝の死去する年にあたる紀元前210年のことであった。そのため、秦代にはまだまだ戦国時代の貨幣が使われ、「半両銭」にしても、かつての秦国であった関中や蜀地方でしか流通していなかった、とされる。
また、金と銅銭以外にも、当時は「布」が貨幣として使われていた。
秦の「半両銭」も大きさも重さもかなりのばらつきがあるもので、実際の貨幣の鋳造(ちゅうぞう)は民間でも行われていたようである。
それゆえに、項梁は(楚で使われていたものか、「半両銭」であったかは不明であるが)ら、各地の有力者は、貨幣を独自で鋳造できていたものと考えられる。
項梁が取りまとめや指揮に長じていた葬儀について、当時の有力者や官吏などの「士」階級が、死去した場合、定められた儀礼が行われた後、3か月以上かけて埋葬された。
具体的には、
2 翌日、その死骸に死装束(しにしょうぞく)をつけさせる(これを「小斂(しょうれん)」という)。
3 さらに、翌日、みなを集めて葬式を行い、棺桶にいれる(これを「大斂(だいれん)」という)。
4 近くに穴を掘り、棺桶をいれて仮の埋葬をする(これを「殯(ひん)」という)
6 棺桶が掘り上げられ、先祖をまつっている場所に置かれる。正式に副葬品が定められ、正式に埋葬される(これを「葬(そう)」という)
おおまかには、このように行う。
なお、庶民の葬儀は、(生活に余裕があれば)、衣や棺桶を用意した後、一日で終わるような、比較的、簡潔なものであったようである。
また、葬儀に必要な道具を売る業者も存在し、秦王朝では家で複数の死者がでた場合、棺桶を購入するための「銭」が支給された。葬儀へ「お悔やみ」の費用が負担できないものは、葬儀を積極的に手伝うことで補った。
このように葬儀は、「士」にしても「庶民」としても、出席者も含めて、「手間」と「費用」において、かなりの負担が伴うものであり、項氏一族や多くの手勢を率い、さらに葬儀の采配に長じていた項梁が、地元である呉県の人々から人望があった理由は、理解できる。
項羽についての書籍であるため、項梁についても詳しく考察されている。
(あくまで、項羽の話が中心ではあるが)戦国時代の楚の歴史の説明から入り、項梁の父である項燕の死、項梁の逃亡生活や、決起後の項梁の軍の進軍方向の推測、項梁の軍の構成についても、当時を踏まえて考察が行われている。
楚の懐王・羋心(後の義帝)と項梁・項羽の間で、激しい対立があったのではないか、という視点での解釈が行われている。
掲示板
1 ななしのよっしん
2022/05/03(火) 18:05:25 ID: EiAAYEsZNY
@まめさんへ
ご更新お疲れ様です。
楚漢戦争関連も益々充実している様で、改めて頭が下がります。
一読しての管見ですが、『あえない死』の『~馬に銜(はみ)をくわえさせ、~』は「枚(ばい)」または「口木(くちき)」が妥当でしょう(原典準拠にせよ)。
『~定陶にいて~』は、「~いた~」でないと定陶に章邯上将軍がいた事になります。
楚王・景駒は興味深いご仁ですが、記事『陳勝』の『葛嬰』にある楚王・襄彊を想起します。
秦帝国は楚(戦国)を憎んで王族狩りに狂奔した筈が結構生き延びた様ですが、彼らの末路は范増仲父に「楚の王族を擁立すると張楚王・陳勝の反発を招いて損だが、彼の薨去後なら得になる」という勘定をもたらした様に思います。
その辺りも、本記事に限らずご見識を拝読したいです。
『決起前』と『秦代の貨幣について』を突き合わせると、項梁上柱国は私鋳で得た利益を軍資金にしたと解釈すべきであり、貴重な公銭を鋳潰して私銭を経由せずに武具を造るのは不経済に思えます(粗悪品で良ければ他所の私銭→武具もアリかも)。
(省略しています。全て読むにはこのリンクをクリック!)
2 ななしのよっしん
2022/05/03(火) 19:25:01 ID: 0t0gxieBow
>>1
このような長い項目をお読みいただき、ご指摘までいただいてありがとうございます。
御指摘いただいた件、修正させていただきました(私のPCではなぜか前のままですが、スマホでは更新されています)。
翻訳については、用例から見て、※以下はいらなかったようですね。削除しました。
楚王については、陳勝の生存中は「失敗はするだろうけど、決起したことで人望もあるため、別に楚王を立てるのは不利である」と、范増は判断していたものと思います。
なにか、また、ありましたら、ご指摘お願いします。
3 ななしのよっしん
2022/09/16(金) 21:51:20 ID: /GoqJmDyUi
横山光輝先生の『項羽と劉邦 若き獅子たち』では智謀に長けているだけでなく、
民への気遣いも見せたりあの項羽が素直に従う良き叔父上でしたが、
こちらでも章邯の計略による偽りの秦軍敗戦により慢心し、計略を見抜いてくれた
韓信の進言を無視した事と泥酔によりむちゃくちゃ情けない最期を迎えましたね…。
もしも彼が死ななければ項羽も暴君ルートを避けられた可能性があるだけに
その死が悔やまれる人物でした。
急上昇ワード改
最終更新:2025/01/13(月) 06:00
最終更新:2025/01/13(月) 06:00
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