章邯(しょう・かん ?~ 紀元前205年)とは、中国史秦代の官僚・将軍であり、秦の滅亡後に三秦の一つである「雍王(ようおう)」となった人物である。
滅亡の危機にあった秦にあって、軍を率い、反乱軍を次々と破ったが、楚の項羽(コウウ)に敗北し、降伏して、秦の根拠地であった関中の一部を支配する「雍王」に封じられたが、劉邦(リュウホウ)に敗北して自害した。
この項目では、章邯の弟の章平(ショウヘイ)、章邯の部下であった司馬欣(シバキン)、董翳(トウエイ)、趙賁(チョウホン)についても紹介する。
章邯は、その経歴が不明なため、まず、歴史書への登場までの背景について説明を行う。
紀元前3世紀末、中国では秦国が長い戦乱を終わらせ、史上初めて天下統一を果たした。秦の国王であった嬴政(エイセイ)は、秦王朝を建国。皇帝を名乗り、天下を治めた。これが、秦の始皇帝である。
しかし、秦の法律は厳しく、始皇帝が晩年に行った大規模な南北の外征や、驪山(リザン)における始皇帝陵の造営、巨大な阿房宮(あぼうきゅう)による労役で秦国民は疲れ果てていた。
紀元前208年、始皇帝は死去し、その末子であたる胡亥(コガイ)は、宦官の趙高(チョウコウ)と丞相(じょうしょう、宰相のこと)の李斯(リシ)とはかり、兄の扶蘇(フソ)をあざむいて自害に追い込み、二世皇帝の地位を乗っ取る。
即位した胡亥と趙高とともに、始皇帝をはるかに上回る恐怖政治と暴政を行い、秦の皇族や大臣たちを次々と殺害し、さらに、驪山と阿房宮の大規模な工事を行う。
厳しい秦の法により捕らえられた、70万人を越える刑徒(けいと、犯罪者)が驪山と阿房宮の工事に従事させられることとなり、それでも足りずに各地で多くの民が労役に従事させられて苦しんだ。
当時の中国の人口は約2,000万人であったと考えられるが、様々な労役に駆り出された人間は人口の約15パーセント、約300万人に達すると推定されている。始皇帝の晩年から続く、この大事業は国家の大きな負担となり、農業生産を大幅に低下させていた。
さらに、秦の法律は大変、厳しいもので、兵役の期限に遅刻した場合、天災があろうとも、逃亡したものとみなされて死刑。労役の期限に遅れた場合も、刑徒におとされ、厳しい労役刑が待っていた。
紀元前209年、ついに、耐えきれなくなった秦国民が大規模な反乱を起こした。反乱が起きたのは南方の楚(そ)地方であった。首謀者は陳勝(チンショウ)と呉広(ゴコウ)という人物。いわゆる「陳勝・呉広の乱」である。
陳勝は、みずからは陳の地で「張楚王」を名乗り、呉広と周文(シュウブン)に軍を率いさせ、秦王朝の都である咸陽(カンヨウ)攻撃に向かわせる。
呉広は李斯の子である李由(リユウ)が守る滎陽(ケイヨウ)を囲み、周文はそのまま咸陽へと軍を向けた。
周文は秦を守る最大の関所(せきしょ)である函谷関(カンコクカン)も突破する。周文は、元々は楚の名将であった項燕(コウエン)の参謀であった人物であり、軍事に通じていた。
周文はさらに戲(ギ)という土地に軍を進めた。その兵力は数十万。戲と咸陽との距離はわずかでしかない。
胡亥はやっと事態の大きさに気づき、群臣を集めて、「どうすればいいのか?」と問うた。
この群臣の一人として、章邯は、秦の大臣の一つにあたる少府(しょうふ)に任じられていた。
「少府」とは、山や海、池、沢からの収入で、国家とは別になっていた皇帝(帝室)の財政をまかなう財務長官である。秦の大臣である「三公九卿」のうち、「九卿」の一つにあたる。
章邯は残念ながら、どのような経緯で「少府」になることができたかは分からない。それどころか、大臣として、李斯や趙高など、どの人物と親しいか、どの人物と同じ派閥に属していたかも不明である。
「盗賊(周文たちのこと)が近くに来ており、数は多く勢いがあります。今から、近くの県から兵を呼んでも間に合わないでしょう。驪山には多くの刑徒がいます。どうか、彼らの罪を許して、武器を与えてください。盗賊どもを撃破します」
胡亥は章邯の発言を聞いて、刑徒たちを許し、章邯を将軍に命じる。章邯は、刑徒たちを率いて、周文と戦うことになった(章邯に軍人としての経験があったかも不明である)。
なお、現在の始皇帝陵の兵馬俑(へいばよう)が武器をほとんど持っていないのは、この時、章邯が兵馬俑の武器を押収して使ったためという説がある。
章邯は刑徒を率いて、周文と戦う。章邯は周文を破り、周文は函谷関から東に敗走した。
紀元前208年、章邯がさらに追撃して、曹陽(ソウヨウ)の地で、再度、周文を破る。さらに、敗走した周文は、澠池(ベンチ)で決戦を挑むが、章邯はこれも破る。周文は自害した。
章邯の勝利を聞いた胡亥は、長史(ちょうし)の司馬欣と董翳を援軍として送ってきた(この時、秦の正規軍も加わったと思われる)。
章邯は、東へ兵を進め、敖倉(ゴウソウ)の地において陳勝の武将であった田臧(デンゾウ)を、滎陽において同じく李帰(リキ)を討ち取る。呉広はすでに、部下であった田臧に殺害されていた。
章邯は陳勝の武将の鄧説(トウセツ)と伍徐(ゴジョ)を撃破し、陳勝の本拠地である陳まで兵を進め、陳勝とその参謀である蔡賜(サイシ)、その武将・張賀(チョウガ)に勝利し、蔡賜と張賀を討ち取る。
趙の地では、陳勝の仲間であり、趙王を名乗っていた武臣(ブシン)も、部下の李良(リリョウ)に殺害されていた。
まさに快進撃であった。このようにして、「陳勝・呉広の乱」は章邯の手によって鎮圧された。
周文は名将、田臧も軍事に通じていた。蔡賜は智謀すぐれ、陳勝は英雄であった。章邯はその全てを討ち果たした。
陳勝は滅ぼしたとはいえ、反乱軍は秦が滅ぼした旧六国(楚、斉、趙、魏、韓、燕)において、それぞれ王を立てて、陳勝から自立した勢力を築(きず)いていた。
章邯はまず、魏を攻めることにした。魏ではかつての魏王の一族であった魏咎(ギキュウ)を周巿(シュウフツ)という人物が擁立していた。魏咎は臨済(リンサイ)という土地に本拠地を構えている。
章邯は約半年かけて攻める。人望がある魏咎はしぶとく抗戦し、途中で、周巿が臨済からでて、斉王を名乗っていた田儋(デンタン)と楚の実権を握っていた項梁(コウリョウ)に援軍を依頼していた。
項梁は、楚の名将で周文がかつて仕えた項燕の子であたる。項燕は秦軍の李信(リシン)を敗北させた人物であり、その子であれば侮れない相手とは思われた。
斉からは王である田儋みずから、従弟にあたる智謀すぐれた田栄(デンエイ)、豪傑で配下の人望が厚い田横(デンオウ)兄弟とともに援軍に赴いてきた。また、楚からは項梁の一族である項它(コウタ)が援軍として、派遣されてきていた。
章邯は、援軍を連れてもどってきた周巿を討ち取り、さらに、夜襲で、斉王の田儋も討ち取る。田栄・田横・項它は敗走した。観念した魏咎は、臨済の民の安全と引き換えであることを章邯に約束して、焼身自殺を行った。ついに、魏は滅ぼすことができた。
魏咎は仁君、周巿は知勇兼備の人物、田儋は一県の豪族から斉を制圧し、王を名乗ったほどの英傑であった。章邯はその全員を討った。
なお、創作作品では簡単に流されやすい臨済の包囲戦は半年近くかかっている。章邯の軍も刑徒全てを率いているとしたら、兵糧の問題があると思われたるため、(阿房宮の工事は再開していることもあり)、刑徒の一部は工事にもどされ、後は解放するか、逃亡するか、また、落とした拠点の守備に残して、戦っていたものと思われる。
事実、章邯は魏との交戦中に、碭(トウ)という郡を陳勝から降伏してきた司馬𡰥(シバイ)に任せていたが、小勢力であった劉邦を一度は破ったものの、司馬𡰥は最終的に敗れて碭郡を奪われている。
反乱軍はいまだ、それなりに勢いがあった。
魏は滅び、趙では王の武臣を殺害した李良が章邯のもとに降伏してきた。残る強敵は、斉と楚ぐらいであった。
章邯は田儋が敗れ、敗走していた田栄と田横が入った東阿(トウア)という城を囲んで攻撃する。
この危機に、斉は楚に援軍を依頼した。楚において、実権を握っていた項梁は、すぐに楚の援軍をまとめて、斉に救援に向かってきた。
がそろっている。
ついに、章邯は敗北し、西へと敗走する。項梁は追ってきたが、田栄と田横は斉での内紛の解決を優先して追ってこなかった。それでも、秦軍は、濮陽(ボクヨウ)と城陽(ジョウヨウ)でも楚軍に敗れた。
敗北して定陶(テイトウ)まで逃れた章邯が、秦に援軍を依頼すると、秦では総力をあげて章邯を支援してきた。
創作では、秦の胡亥や趙高は章邯への支援に積極的でなかったような印象があるが、実際はかなりの援軍を送っている。また、このあたりから、章邯の軍の主力は刑徒から、秦出身の秦軍の正規兵に代わったものと思われる。
秦では三川(さんせん)郡郡守の李由を、項梁の勢力となった雍丘(ヨウキュウ)に攻めさせる。項梁は軍を分けて、項羽と劉邦に命じて、李由を討たせた。
※この時、李由は、陳勝と通じていた疑惑でかなり危うい立場であり、将軍でもないのに、なぜ、軍をこのように動かせたかは不明。すでに、父の李斯自体が秦で危うい立場となっていたため、李由を陽動に使った秦や章邯の計略かもしれない。
項羽と劉邦は、李由を攻撃する。李由は、劉邦の武将である曹参(ソウシン)に討たれた。
項梁は名高い李由を討ったと聞き、気をよくして、さらに油断する。これを見て取った章邯は夜襲で項梁を打ち破り、項梁を討ち取った。
これを聞いた項羽と劉邦ははるか東、彭城(ホウジョウ)周辺まで退却する。
反乱軍で最も恐ろしい相手は、項梁であった。その項梁も章邯が討ち取った。
項梁軍の武将はそれなりに手ごわい人物も多いが、実質的な総大将である項梁を失えば、もはや、楚は恐るべき相手ではないと思われた。また、彭城は征伐するにはかなり遠い。
それよりも、一度は王の武臣を失った趙であったが、かつて秦が大金を出して懸賞をかけた張耳(チョウジ)と陳余(チンヨ)という人物を中心に、新しい趙王が擁立され、再起してきた。趙はかつて最も秦が苦戦した軍事強国である。
趙は、楚を討ちにいき、後方や補給をつかれれば、やっかいな相手である。
章邯は軍を北に向け、趙の討伐に向かった。章邯は、趙の王がいる鉅鹿(キョロク)を包囲した。
秦では、丞相の李斯が胡亥を諫めて処刑され、宦官であった趙高が完全に実権を握っていた。
趙高は、北の匈奴(きょうど)相手にオルドス地方に置いていた軍を反乱討伐に向けることを決定する。オルドスにいた秦軍を率いる王離(オウリ)もまた、鉅鹿に向かっていた。王離は、秦の名将・王翦(オウセン)の孫、王賁(オウホン)の子にあたる。
紀元前207年、章邯は南にしりぞき、王離に鉅鹿の包囲を任せ、補給に回ることにした。鉅鹿の南にある棘原(キョクゲン)へと黄河からつながる甬道(ようどう、兵糧を運ぶために防衛施設となる壁が設置された道)を築いて、王離軍を補給する。元は財政の大臣であった章邯は補給にもすぐれていたらしく、この時、王離軍の補給は万全であった。
その間に、章邯は、趙がかつて都としていた邯鄲(カンタン)を破って、住民を秦の本拠地である関中に近い河内(カダイ)地方に移している(邯鄲は一度、李良の反乱によって秦の勢力となっているが、そのまま秦の勢力となっていたか、趙が奪い返していたかは不明)。
趙はすでに滅亡寸前であるのに、なぜ、大規模な商業都市である邯鄲の城壁を破壊までして、住民を遷したのか、史書には記されていない(これを書いている人も、これに関して説明している学説やネット上の意見を読んだことはない)。
理由として、
などが考えられる。
咸陽までの補給線が攻撃される可能性を考えると、史書を素直に読んだ場合のように、章邯が王離とともに、さらに数十万の大軍を率いて、鉅鹿の包囲に加わるのは合理的であるとは思えない。
そのため、ここでは、章邯は補給の軍だけを送って、鉅鹿を包囲する王離の軍の補給を行い、章邯の軍は河内などかなり離れた場所にいたものと解釈している。
この時の秦軍は全軍で40万もの兵力を有するほど勢いがあった。王離の軍は、趙王と張耳が守る鉅鹿城を陥落寸前にまで追い詰めていた。秦軍の周辺では陳余が率いる趙軍や魏、斉、燕軍たちが救援に来ていたが、王離の軍の強さにただ遠巻きにするだけであった。
しかし、ここで、楚軍5万を率いた項羽が河をはさんで鉅鹿に到着する。項羽は黥布に命じて、2万の軍で章邯軍が行っていた王離軍への補給を断たせた。
章邯の軍は、黥布を苦戦させるが、その一方で、甬道は何か所も破壊される。王離軍への補給は断たれた。王離の軍は飢え始めた。
この時、三日分の兵糧以外を全て捨てて、決死の覚悟を決めた項羽の軍3万が章邯の軍を襲ってきた。章邯の軍は敗走し、項羽はそのまま王離の軍を攻撃した。
※せっかく、王離軍の兵糧を断ったのに、項羽はそのまま王離軍を攻撃をするのは不可解であるが、項羽の狙いは、兵糧を断つことではなく、兵糧の確保へと王離軍が動いたところを攻撃するところにあったと思われる。
王離の軍は少数の項羽の軍に包囲され、9度まで破られた。さらに、王離軍は甬道を完全に断たれ、兵糧の補給も失った。
秦の武将である蘇角(ソカク)は戦死、渉間(ショウカン)は自害した。秦の「名将」と呼ばれた王離も捕らえられた。
ただし、王離については、創作のように一日の戦いでそうなったわけではなく、敗戦の翌月に捕らえられているため、奮戦したものとは思われる。「いくら、項羽でも小数の兵力で二方面に強敵を迎えて、継続して戦うのは困難と思われること」、「章邯がかなり南にある棘原で戦っていること」などの理由もあって、この項目では章邯は鉅鹿にいなかったものと解釈している。
章邯は王離の敗戦を聞き、至急、鉅鹿に向かったと思われるが、間に合わず、そのまま、棘原において項羽と対峙することとなった。
章邯の軍は王離の残軍を含めた、いまだ、30万人以上はいたと思われる秦軍の本軍である。それを紛れもない名将である章邯が率いて、寄せ集めの諸国連合軍に負けるはずもないのだが、項羽の軍略はまさに天才であった。
そればかりでない、楚軍の別働軍となった劉邦も一気に咸陽を狙っていた。後方を狙われる恐れもある章邯はそちらにも気を回さねばならなかった。実は、楚の王である懐王と劉邦、項羽の間において、対立が発生したおり、彼らは連動をしていなかったのだが、章邯が知りえるはずもない。
章邯は項羽にどうしても勝てず、連敗し続けて、退却を繰り返した。
章邯は司馬欣を使者にして、趙高に援軍を請うたが、趙高は章邯を責めるばかりで、援軍を送るどころか、司馬欣は殺されそうになり、逃げ帰って来た(この時、趙高が援軍を出さなかったことについては、後述、「章邯に援軍をださなかったのは趙高が全て悪いのか?」参照)。
秦に絶望した司馬欣は、章邯に「我らが勝てば、趙高は我らをねたんで誅殺し、我らが負ければ、間違いなく処刑するでしょう。生き残るよい方法をお考えになるべきです」と、遠回しに秦に反するように進言する。
「秦では白起(ハクキ)や蒙恬(モウテン)のように功績を立てた将軍は必ず処刑されます。功績を立てても、立てなくてもこのままでは処刑されるでしょう。秦が滅びるのは誰でも分かります。それよりも、諸侯に降伏して、一緒に秦を攻めて、王に封じられる功績を立てようではありませか」
という手紙が来ていた。
章邯の心は揺れた。
章邯はついに、始成(シセイ)という人物を項羽のもとに使者を送る。項羽とは「約(条約)」を結んで、講和(もしくは)降伏の条件を考えるつもりであった。
しかし、講和が成立しないうちに、項羽は武将の蒲(ホ)将軍に軍を率いさせて、漳南(ショウナン)において秦軍を攻撃してきた。章邯の軍は敗れる。
さらに、秦軍は、全軍を率いた項羽に、汙水(ウスイ)の河岸において、大敗する。もう、講和の条件を探っている余裕はなかった。
ついに、章邯は降伏を決めて、使者を項羽の陣営に送る。兵糧が不足していた項羽はこれを受け入れた。降伏した秦軍は20万人を越えた。
ただし、章邯が降伏することは、秦軍全体には相談されておらず、秦軍の兵士たちは突然、降伏することを発表されたようである。
※創作では章邯は「兵士たちの助命を願うために降伏した」ということにされることが多いが、史書ではそのようには記されていない。
章邯は洹水(カンスイ)の南にある殷墟(いんきょ、現在でも殷の遺跡が残る)で、項羽と降伏の盟約を結ぶ。章邯は項羽に会うと、涙を流して、秦の実権を握る趙高の暴虐について語った。
項羽の反応は記されていないが、感情の激しい項羽は章邯におおいに同情を寄せたものと思われる。項羽は章邯を「雍王」にすると約束した。「雍王」とは、「関中地方の王」のことであり、すなわち、「秦王」という意味にかなり近い。項羽は章邯を次の秦王にすると約束したのだ。
章邯は楚軍の内部に配属され、司馬欣が上将軍に任じられ、先行する秦軍を率いることを命じられる。60万人を越える項羽率いる秦軍を含めた諸侯の軍は、秦の本拠地である関中を攻めることとなった。
なお、史書では明記されてはいないが、趙高が章邯の家族を生かすはずもなく、章邯の家族はこの時に処刑されたものと考えられる。
紀元前206年、項羽は各地を攻略して進軍する。もはや、抵抗する勢力はほとんどなく、順調に行軍を進めていた。
だが、諸侯の軍の兵士たちは、かつて、兵役や労役の時に、秦人に酷使され、いたぶられたものが多かった。そのため、諸侯の軍の兵士たちは、降伏した秦兵たちをこき使い、侮辱し、暴力を振るうものが多かった。
このことから見るに、やはり、章邯の軍の兵士たちは、もう刑徒を中心にしておらず、秦の正規軍が多かったことが分かる。
「章邯将軍は我々をだまして、諸侯の軍に降伏した。今、(関中を守る)函谷関を破って、秦に勝つことができればいい。しかし、諸侯の軍が敗れれば、我らを捕虜にして東にもどるであろう。さらに、秦では我らの父母妻子は処刑されるであろう」
秦兵たちは、敗れて奴隷のような身分にされた上、家族まで失うことを恐れた。
ただ、実は、この時の秦はすでに、南の武関(ブカン)を突破して、攻めてきた劉邦に攻撃を受け、劉邦に降伏していた。
秦では、劉邦の攻撃を受けてから、皇帝である胡亥が趙高に殺され、趙高もまた次の秦王(皇帝は名乗らなかった)となった子嬰(シエイ、胡亥の兄)に殺されていた。子嬰は、劉邦に敗北し、降伏していた。
劉邦は楚の懐王に「先に関中に入った人物を関中王にする」と約束されており、項羽が章邯を雍王に封じていたこともあって、自立をはかっていた。
劉邦が項羽に、秦が降伏したことを伝えなかったためか、項羽の軍にはまだ、秦の降伏は伝わっていなかった。
秦の降伏が伝わっていれば、あるいは秦兵の反応もちがったかもしれない。だが、秦兵たちは反乱を計画し、これを諸侯が聞いて、項羽に伝えた。
項羽は、元・秦軍の兵士たち20数万人は、数も多い上に、心服していないため、関中に行くまでの反乱を起こすだろう考え、章邯・司馬欣・董翳の3人だけを残して(もっとも、章邯の弟である章平(ショウヘイ)は生きているので、この三人の側近も生き残ったようである)、全て虐殺することに決める。項羽は、黥布と蒲将軍を呼んで、元・秦軍を夜襲させ、秦軍全員を新安の南の地に生き埋めにした。
この時、章邯がどのように反応したのか、対応したのか、史書には記されていない。
創作では、
とするものが多い。なお、この後の章邯はこのことにより、「意気消沈して生きがいを失った」、「燃え尽きて無気力になった」とする意見もある。
ただ、項羽の立場から見れば、秦兵がいなくなった以上は、もはや、章邯たちも用済みであり、敵であった章邯との「雍王」にする約束も反故(ほご)にできる機会なのに、それをしなかったことに、章邯が「感謝していた」と解釈できる点には注意をしたい。
いずれにせよ、秦兵のほとんどが死に、40万まで減った項羽率いる諸侯の軍は、章邯とともにこのまま関中に向かうことになった。
しかし、項羽率いる諸侯の軍は、函谷関において秦軍ではなく、劉邦の軍によって塞がれる。劉邦のこの自立の動きに怒った項羽は、黥布に命じて、函谷関を攻略させた。黥布は、歴史上2度しか落ちていない函谷関を落とした。
章邯は、項羽に従って、そのまま咸陽に向かったが、項羽の叔父・項伯(コウハク)と、劉邦の参謀であった張良(チョウリョウ)が仲介に立ち、劉邦は項羽に謝罪をし、実質的に降伏する(鴻門(こうもん)の会)。
項羽はそのまま秦の王族を皆殺しにし、咸陽において略奪を行う。劉邦の言葉によれば、項羽は楚の懐王と「秦の王族を殺されないこと、咸陽を略奪しないこと」を約束していたはずであるが、項羽の意思か、諸侯とその兵を抑えきれなかったか、強行してしまう。
この時、章邯が止めたという記述は見つからない。
ただし、
ところは注目すべきである。章邯の貢献という証拠はないが、秦人は壊滅的な被害は受けることはなく、秦国も最低限の国体は守られた。
秦は三つに分けられ(三秦)、章邯は西部を領土とする「雍王」となり、廃丘(ハイキュウ)の地を都とすることになった。中部は、「塞王(さいおう)」として司馬欣が封じられ、北部は「翟王(てきおう)」として董翳が封じられた。
それに対して、劉邦は懲罰的な意味も含めて、へき地である巴(ハ)・蜀(ショク)・漢中(カンチュウ)を領土とする「漢王(かんおう)」に左遷された。
三つには分けられたが、残り二人は章邯の元部下である。項羽は章邯との約束は守ったと言っていい。
主君である楚の懐王やかつては戦友であった劉邦と対立する覚悟で、章邯との約束を守った項羽に対して、章邯は、項羽が秦兵を殺害したことに対して様々な感情があったにせよ、「感謝」し、その人物を「評価した」とみなすのが自然であると思われる(後述、「章邯は項羽に反感を持っていたのか?」参照)。
とにかく、章邯は雍王に封じられ、かつての秦の西部地域が支配することになった。項羽達は諸侯の軍は半年ほど関中にとどまったが、やがては故国に帰ることになった。
(劉邦の仕えた韓信(カンシン)の発言によると)秦兵たちを死なせ、自分たちは王となった章邯たちに、秦人への恨みは強かった。また、劉邦が関中を治めた時に、人気取りで「(秦の時代の厳しく煩雑な法を廃止して)法は三章のみ」としていたため、それがなくなったことへの失望も多かったと思われる。
しかし、これからであった。関中は天下の富の10分の6を占めると言われる。西方の小国から天下を統一した秦の底力があれば、かつての栄光をいつかは取り戻せる。章邯も家族をはじめ、様々なものを失った。秦人もいつかは理解してくれる。
そのはずだった。
だが、項羽たちが故国に帰って数か月で(『史記』では4か月、『漢書』では1か月、3か月と主張する研究者もいる)で、あの劉邦が兵を起こして章邯の領土に攻め込んできた。
劉邦は関中へともどる桟道(さんどう、山を歩くための道)を焼き、蜀の地に赴いたため、帰還の意思は薄いと思われ、また、その桟道を修復しているという情報もあった。
しかし、劉邦は、使われていない故道(こどう)を使って、関中まで攻めてきた。劉邦はわずか2万人で秦の本拠地である関中を攻め落とした戦歴豊富で優秀な指揮官である。その劉邦の部下には、参謀の張良こそ不在であったが、新たに大将軍に「またくぐり」「国士無双」の韓信が任じられ、配下に勇将・猛将がそろっていた。
とはいえ、章邯の部下には、かつて劉邦を二度破ったことのある趙賁がいた。章邯自身もかなりの名将である。また、隣国からの司馬欣・董翳からも援軍が期待できた。
だが、戦いは一方的なものとなった。
章邯は陳倉(チンソウ)の地で、劉邦率いる漢軍を迎え撃ったが敗れる。好畤(コウジ)という地では漢の将軍である紀成(キセイ)を討ち取ったが、劉邦・曹参・樊噲(ハンカイ)らに敗れて、廃丘に逃げ戻る。(章邯の部下だった?)呂馬童(リョバドウ)らも漢に降伏した。
やがて、好畤で奮戦していた弟の章平も敗走し、趙賁も曹参らに敗れて、咸陽も占領された。章邯がこもる廃丘も曹参や周勃(シュウボツ)、灌嬰(カンエイ)ら漢軍の勇将に包囲された。
司馬欣は劉賈(リュウカ、劉邦のいとこ)に、董翳は呂沢(リョタク、劉邦の妻である呂雉(リョチ)の兄)に討伐をうけ、章邯の領地であった隴西(ロウセイ)は酈商(レキショウ)と靳歙(キンキュウ)の討伐を受けた。
※劉邦や韓信での関中での動きはほとんど史書には記されていない。
劉邦の兵は東の故郷に帰るために戦意は高く、章邯は(いまだ、秦人に恨まれていたかは定かではないが)、劉邦のかつての「法三章」の人気どりのため、秦人は劉邦を支持している。戦う前から、かなり不利であった。
さらに、韓信は、後世に項羽と並ぶ中国史有数の名将と呼ばれる人物である。章邯は時代のくじ運に本当にめぐまれていなかった。
また、項羽も斉との問題が発生しており、項羽からの援軍を期待できない上に、余りに漢軍の侵攻が早すぎた。
章邯が廃丘にこもると、頼りにしていた「塞王」司馬欣と「翟王」董翳も漢軍の攻撃を受けて降伏する。漢軍は強かった。
紀元前205年、年は明けたが、章邯はそれでも廃丘にこもり、抵抗を続けた。
漢軍は、樊噲に命じて廃丘を包囲したまま、廃丘を水攻めにしてきた(韓信の策であるという説もある)。さらに、漢軍は章邯の領土であって抵抗を続けていた隴西を攻め落とし、関中全体も制圧した。
それでも、章邯は降伏しなかった。
様々な理由が考えられるが、史書は黙して語らない。
漢軍は、廃丘を攻め落とすことよりも先に、東に向かい、項羽と戦うことにきめ、劉邦みずから大軍を率いて、項羽の統治する楚を攻めた。
もはや、援軍も絶望的であったが、それでも章邯は降伏しなかった。
しかし、そのがんばりも限界がきた。
廃丘が包囲されて、約10か月、ついに力尽きた章邯は自害した。
その死骸は、漢軍の朱軫(シュシン)と執(シツ、姓は不明)がとった(捕らえられたという記述と斬られたと記述もある)。
章邯の死をもって、秦は完全に滅亡し、再興の可能性も失われた。
なお、隋代の章仇太翼(ショウキュウタイヨク)や唐代の章仇兼瓊(ショウキュウケンケイ)ら、章仇氏は、章邯の子孫を名乗っている。彼らの伝承によると、章邯の子孫は、居仇山(キョキュウザン)に隠れ住み、「章仇」と姓を変え、その後は草原に行き、騎馬民族に入ったものとされる。
騎馬民族が中国に入った時に、歴史上に名を残した人物の子孫を名乗ることはよくあることで、本当に子孫であることは、信じがたいが、章邯の子孫を名乗る人物が歴史上にいたことは間違いない。
史記を記した司馬遷(シバセン)は、章邯については、「列伝」を記しておらず、「秦始皇本紀」にわずかに賈誼(カギ)という人物の言葉を引いて、評価しているだけである。
としているだけで、記述が多い人物であるにも関わらず、列伝がないこともあわせて、余り評価していないようにも感じる(ただ、この記述は『史記』の他の部分になく、誤りであるとしている『史記』の注釈もある)。
なお、近年、発見された司馬遷と同時代の「史料」の一つと思われる『趙正書』という書物にも章邯について記されている。
その中では章邯は、胡亥から反乱軍の討伐を命じられるが、趙高が胡亥を殺害した後、趙高を攻撃して殺害したことになっている。
この記述は、『史記』だけではなく、『漢書』や『前漢紀』などの他の歴史書全てと矛盾するため、歴史の事実とは認めがたいが、少なくとも司馬遷の時代前後に、章邯が趙高を殺害した話があったことは間違いない。
創作の中の章邯は、「秦の存続を願う秦の忠臣であり、悲劇に終わった秦最後の名将」に描かれることが多い。また、項羽に降伏した理由も「兵士たちの助命を願うため」と改変されることがある。
紀元前206年、雍王となった章邯に仕え、好畤の地で漢軍の曹参らと戦うが、敗北し、好畤の城にこもる。好畤の城ではよく耐えるが、周辺の土地が攻略され、樊噲に城壁を攻略されて、好畤から逃走する。
その後、姚卬(ヨウゴウ)という章邯の武将とともに、周勃と戦う。景陵(ケイリョウ)の地を守る曹参を攻めるが、反撃にでてきた曹参に大敗する。
それからは、隴西を防衛したが、漢軍の靳歙に敗北し、隴西の土地も奪われた。しぶとく抵抗したが、最終的に関中が制圧される頃、漢軍に捕らえられた。
元々は咸陽の近くにある櫟陽(レキヨウ)の獄掾(ごくえん、牢獄の責任者)であった。
秦の始皇帝時代に、項梁がある事件に連座して、櫟陽において逮捕される事件があった。項梁は、蘄(キ)県の獄掾である曹咎(ソウキュウ)に手紙を書き、司馬欣へのとりなしを頼んだ。司馬欣と曹咎とは古い知り合いだったため、釈放された。
紀元前208年、秦の長史に任じられていた司馬欣は、章邯を助けて反乱討伐軍に加わり、楚軍らと戦う。
紀元前207年、本文で書いた通り、章邯に命じられて秦に援軍を頼むが、趙高にとらわれそうになり、逃亡して、章邯に項羽ら諸侯軍への降伏をすすめる。
紀元前206年、章邯・董翳とともに、新安における秦兵虐殺をまぬがれ、関中に入る。かつて、項梁を助けたことと、章邯に降伏を勧めたこともあって、秦の中央部を支配する「塞王」に封じられ、かつて赴任していた櫟陽を都とした。
章邯が廃丘にこもった後、漢軍に攻められ、劉邦に降伏する。章邯が廃丘にこもっている間、劉邦の項羽討伐に従軍する。劉邦が項羽に「彭城の戦い」で、大敗した後で、董翳とともに項羽に降伏する。
紀元前203年、項羽の大司馬となっていた曹咎(蘄県の獄掾だった人物)の補佐として、成皋(セイコウ)を守る。劉邦と汜水(シスイ)において、交戦となるが、大敗する。曹咎・董翳とともに、汜水のほとりで自害した。
その首は、かつての赴任地であり、都としていた櫟陽の市場にかけられた。
項梁・曹咎と妙に因縁がある人物である。
また、最後には項羽に従い、劉邦に降伏していないため、「章邯たちは項羽に対して反感をいだいておらず、むしろ、恩をかんじていたのでは?」と思わせる理由にもなっている。
紀元前208年、秦の武将である都尉(とい)に任じられていた董翳は、章邯を助けて反乱討伐軍に加わり、楚軍らと戦う。
紀元前206年、章邯・司馬欣とともに、新安における秦兵虐殺をまぬがれ、関中に入る。章邯に降伏を勧めた功績で、秦の北部を支配する「翟王」に封じられ、高奴(コウド)を都とした。
章邯が廃丘にこもった後、漢軍に攻められ、劉邦に降伏する。章邯が廃丘にこもっている間、劉邦の項羽討伐に従軍する。劉邦が項羽に「彭城(ホウジョウ)の戦い」で、大敗した後で、司馬欣ともに項羽に降伏する。
紀元前203年、項羽に長史に任じられていた董翳は(翟王は降格されていたかも)、司馬欣とともに曹咎の補佐として、成皋を守る。劉邦と汜水において、交戦となるが、大敗する。曹咎・司馬欣とともに汜水のほとりで自害した。
江戸時代に翻訳された『通俗漢楚軍談』及びそれを原作とする横山光輝『項羽と劉邦』では、「彭城の戦い」の後で、司馬欣とともに項羽に降伏し、二人とも項羽に処刑されているが、史実では上記の通り、処刑されず、その後も項羽の部下として劉邦軍と戦っている。
秦の二世皇帝である胡亥に仕えていた。関中に向かってくる反乱軍と戦うために、秦軍を率いる将軍であったと考えられる。この頃は章邯の指揮下にあったかは不明。
紀元前207年、開封(カイフウ)において、秦の本拠地である関中を目指してきた劉邦の軍と交戦する。野戦では敗北して、開封にこもるが、開封を守り抜き、劉邦をしりぞける。
その後、趙賁は西に向かった劉邦を追い、尸(シ)の地の北で劉邦軍と交戦し、敗北する。しかし、その後、洛陽(ラクヨウ)において、劉邦の軍に勝利し、函谷関からの突破を断念させている。
その後、劉邦は武関(ブカン)に関中に入り、秦を滅ぼすが、この時の動きは不明である。
紀元前206年、雍王となった章邯に仕え、内史(ないし、都の周りを統治する官僚)の保(ホウ、姓は不明)とともに、劉邦の軍と戦うが、敗北する。さらに、咸陽において、保とともに、劉邦とまた、戦うがやはり敗北した。
最後は敗れたが、張良・韓信不在の時期とはいえ、劉邦に二度勝利した秦の隠れた名将である。
章邯については、創作ばかりではなく、歴史関連記事でも、「秦の忠臣である秦の悲劇の名将である」と紹介されることが多い。
しかし、章邯を手放しで「秦の忠臣」とすることにはいくつかの疑問点がある。
これについては、本文で書いたことも含めて、
があげられる。
また、『史記』の注釈によると、ある隠士(隠者)が秦の将軍であった頃の章邯に送った手紙が残っており、その中では、「(秦の丞相である)李斯は秦王(始皇帝のこと)の死を利用して(「為して」とあるため、「殺害して」と読むべきかもしれない)、17人の兄を廃して、今の王(胡亥のこと)を立てた」と記されている。
この手紙ではなぜか、始皇帝と胡亥が皇帝となっていることを認めておらず、「秦王」と扱っている。また、「李斯が策謀して、扶蘇たち兄を廃して、胡亥を擁立した」と『史記』に記されている胡亥・趙高・李斯の間で行われた謀略を前提としたように読める内容である。
章邯は秦の大臣であり、このような謀略が行われていたことは知っていたことは充分に考えられ、秦に忠誠心があったとしても、胡亥に対しては、忠誠心がなかったことも考えられる。
秦の社稷を残していることといい、章邯が秦に忠誠心がなかったと言い切る証拠もないが、同時に章邯の秦に対する忠誠心を疑う根拠も複数、存在することは注意すべきである。
章邯が項羽との戦いで苦戦した時、章邯が司馬欣を使者として送った時、趙高が援軍を断り、章邯を一方的に責め、司馬欣を捕らえようとしたことについて、章邯に対する同情論と趙高に対する横暴さや大局を見る目の無さについて批判が強い。
確かに、趙高は、間違いなく中国史を代表する奸臣の一人であるが、反乱討伐に関しては、途中からは章邯に援軍を送り、王離を派遣するなど、比較的、積極的な姿勢を見せている。
この時の章邯の軍は王離の軍を吸収し、秦全体の軍のほとんどを占めていた可能性が高く、上述した通り、章邯にはそれまでに独立しようとした動きが見られた可能性もある。
また、秦の本拠地である関中については、最終的に2万人の兵力に過ぎなかった劉邦で深く入られ、最終的には秦が降伏するほど弱っており、もはや秦に送る予備兵力は乏しかったものと考えられる。
趙高の立場としては、反乱軍の別動軍や関中での内乱に備える必要があり、援軍を送らなかった理由としてはそれなりのものがあったと考えられる。
章邯は項羽に降伏した後、新安において部下であった秦兵が虐殺されたため、項羽に対してよい感情をいだいていなかったという意見がある。
これは、新安における項羽の行動が章邯に対して「だましたもの」、「約束を破ったもの」、「強引に推し進めたもの」という見解が強いためであると考えられる。
しかし、本文で書いた通り、章邯の立場としては、「秦兵たちの謀反を起こした時のリスクが高い」、「その責任を問われて章邯たちも始末されることもありえるが、生かしておいて、王に封じる約束を守った」ことにより、項羽に理解を示していたことも充分に考えられる。
項羽が「楚の懐王との約束を反故にして、劉邦を関中王にしなかったこと」に対する批判も強いが、これも章邯の立場から見れば、見方が異なる。
確かに、楚の懐王との約束だけを見れば、劉邦の方に正当性があるように見える。しかし、項羽は「楚の懐王の家臣」ではあるが、「懐王の臣下ではない他の諸侯の部下である諸将の代表」でもある。
劉邦の論理はあくまで、楚の国内での理屈である。秦に勝つためには、章邯の降伏が必要であった。章邯の功績は大きく、その降伏に報いることが求められていた。
もし、(そういった明確な証拠もないが)楚が諸侯の盟主であり、懐王の約束が諸侯に対してもそれなりに効力を持つものだったとしても、劉邦が懐王との約束をたてに関中王となった場合、章邯たちはどのようにすればいいのか。章邯が項羽に降伏したことによる諸侯の勝利は完全に無かったことになるのか。そういった問題も発生している。
このことについて、どちらの意見を優先すべきか、あるいは折り合いをつけるか、劉邦は関中に項羽、章邯や諸将たちをいれて、じっくり話し合うべきである。しかし、劉邦は、楚の懐王の約束を理由に、一方的に函谷関を閉め、自分たちに都合のいい意見を実力で推し進めようとしており、抗戦までしてきた。
このため、項羽が劉邦に対して怒りを感じたことは当然であり、諸将の代表である立場から、なんらかの懲罰を劉邦に与える必要があった。また、その後も、楚の懐王は「劉邦を関中王とするように」項羽に命令を与えており、そのため、項羽はさらに苦しい立場となっている。
章邯から見れば、「章邯たちとの約束を守るため」や「もはや秦兵を失い無力となった章邯たちの功績に報いるため」、主君である楚の懐王や戦友であった劉邦と対立しても、章邯たちは「三秦の王」とした項羽に対し、むしろ、好意をいただいてもおかしくない状況であり、必ずしも反感をいただいていたとは言い切れない。
もちろん、章邯の心理までは分からないが、「章邯は熱い情熱で、項羽に報いようとしていた」と考える研究者も存在する。
章邯が工事に従事する刑徒たちの解放と兵士との活用を上奏した「驪山」とは、後世に、「始皇帝陵」と呼ばれることになる始皇帝の巨大な「陵墓(りょうぼ)」のことである。
始皇帝・嬴政が秦王に即位して間もなく、造営工事がはじめられ、当初はそれほど大人数で工事を行っていなかったと思われるが、始皇帝が天下を統一してからは、大規模なものとなり、全国から70万人を越える刑徒が集められ、労役に従事させられた。
彼らは三度、地下の水脈をくりぬき、銅で棺桶で鋳造(ちゅうぞう)し、陵墓の内部に宮殿や楼閣をつくり、群臣の席をもうけ、さまざまな器具や財宝で内部をいっぱいにした。
さらに、工匠に命じ、盗掘者対策として機械仕掛けの弩(ど、石弓)をつけ、矢が発射するようにし、黄河や長江などの天下の河川、大海を水銀でかたどり、その水銀が機械で流れるようにした。天井には星座が、床には地上の様子が描かれた。
さらに人魚の膏(あぶら)の火もつけられた(人魚は、サンショウウオ説、ジュゴン説、クジラ説がある)。
始皇帝が死去した後、胡亥は多数の宮女を始皇帝に殉死(じゅんし)させ、さらに、陵墓の仕事にかかわった工匠たちを陵墓に閉じ込めて殺害した。そのうえで、陵墓に草木を受け、丘のように見せかけたとされる。
ただし、後世の記録から、始皇帝の霊に奉仕する宮女や衛士、雑役の農民たちが、寝殿に付属する建物に住んでいたと推測される。この制度は、始皇帝がはじめて行ったようである。
この驪山は「始皇帝陵」として現在、発掘され、多数の当時の兵士の等身大像である「兵馬俑」も発見されている。
驪山の西方では従事した刑徒の墓とみられるものが発見されており、百体ほどの人骨が存在していた。三体が女性、二体が少年のものであることを除けば、ほとんどが20歳から30歳までの男性であり、その幾体かには、刑罰の確かな証拠として、刀傷や死体をバラバラにされた後、腰を斬られた後が認められる。
その中で出身地や人名などが分かる人物も存在し、その出身地は遠く東にあった旧・六国のものであり、彼らがはるばる連れられた労役に従事させられたこと、その労役は激しいものであったことが推測できる。
発見で分かる通り、驪山には焼けた跡などは見つかるが、その盗掘は限定的なものである。
章邯が、項羽とその諸将にその財宝だけを渡して、略奪については、なんとか押しとどめたのではないかと想像させうるものがある。
中国の講談を江戸時代に翻訳した講談小説。横山光輝『項羽と劉邦』はこれをベースにした作品である。
章邯は知勇兼備の名将という紹介がなされ、項羽と韓信につぐ武将の扱いを受けており、韓信もそれなりに警戒していた。
項梁を夜襲で討ち取るが、項羽の豪勇に敗れた後は、函谷関まで撤退して援軍を頼むが、趙高に一方的に責められて、項羽に降伏をする。
その後、劉邦との戦いで、韓信と戦闘になるが、計略と誇り高さを逆手にとられて、何度も敗北して自害する(この時代の講談は策略を使った場合、逆用されて敗北されてもそれなりの智謀のある武将の扱いである)。
創作作品にしては珍しく、秦への忠義は余り感じられず、項羽をかなり信頼しているような描写が見える。
章邯は、職人肌の人間で、政治には関心を寄せないが、天才というほどではないにせよ、兵士に人望がある非常に優秀な将軍として描かれている。
項羽に降伏した理由も、趙高からの冤罪で殺されることをいやがっただけでなく、項羽の軍に捕らえられた兵士を救うためとされている。
項羽からは重んじられたが、新安で部下であった秦兵が虐殺されたことを知り、無気力になってしまう。
雍王とはなるが、秦人に恨まれてしまい、秦人が漢軍に内通したため、あっけない最期をとげる。
章邯は項羽に反感をもっている描写はないにせよ、章邯が「兵士のために降伏した」、「項羽に兵士を殺されたために無気力になり、劉邦にあっさり敗れた」イメージの原点となったと思われる作品である。
イギリスの歴史研究者により、1981年に書かれ、1985年に日本語翻訳され、一般向けに書かれた始皇帝に関する書籍。章邯に対する説明は少ないが、秦の滅亡までの解説がなされている。
著者は1980年に中国政府にまねかれて、始皇帝陵の発掘現場に立ち会っている。そのため、始皇帝陵などの説明が詳しい。
白黒であるが、豊富な写真を加えて始皇帝の事績や、秦の歴史、始皇帝陵などについて、分かりやすい解説が加えてある。
日本人の書いた書籍は、かなり主人公となる人物(この場合、始皇帝)に対してかなり好意的な解釈をしていることが多いが、(古典的とはいえ)、かなりズバズバと批判しているところが印象的である。
諸子百家の説明のところは、日本人や中国人にはない視点での解説がなされており、とても興味深い。
秦末の反乱や楚漢戦争を調べるために、とてもおすすめの論文。このタイトルで検索すれば、ただでPDFをダウンロードで落とせるので、この二つの戦争に興味ある方は是非とも読んでみよう。
『史記』や『漢書』などの史書の記述を隅々まで調べた上で、地図まで掲載されて、その二つの戦争について詳細に調べられている。
劉邦陣営に絡まないため、「鉅鹿の戦い」についての記述はないが、「中」では余り語られない劉邦と章邯の戦いである関中における戦争が、地図つきで詳細に説明されているため、章邯が好きな人にもとてもおすすめである。
掲示板
18 ななしのよっしん
2024/02/01(木) 23:38:10 ID: jLzu3NjAPZ
章邯は白起や王翦に匹敵する名将だよね
ただ相手が悪かったというか…
項羽が異常すぎるんだよ
19 ななしのよっしん
2024/04/05(金) 09:47:32 ID: 6XKyMiVn2Z
項羽とかいう一人だけ無双ゲーをやっている男
こいつ単騎で史書に残ってるだけでもどんだけ名有りの武将殺してんだよ...
章邯が紛れもない名将なうえに入念に準備を整えておいた鉅鹿包囲軍に対し、苦戦する先鋒の英布の後に到着した項羽が一撃をもって敵将ごと秦軍の交戦意欲を粉砕したのでその化け物性が際立つ
しかもその相手がただの始皇帝陵の刑徒の寄せ集めだけでなく史実ではちゃんとした秦軍の正規軍がメインなんだから項羽は史実の方がヤバいな
20 ななしのよっしん
2024/09/21(土) 10:17:10 ID: BNeUjEbmip
章邯の場合は、例え項羽を殺そうが義帝を殺そうがなにしようが最初から負け確(であることを司馬欣に説得されて降伏に至った)
戦闘指揮能力は武官並みでも、いうて文官なので勝利に向けたプランの策定までは無理だったと考えられる
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最終更新:2025/01/13(月) 06:00
最終更新:2025/01/13(月) 06:00
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