樊噲 単語

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ハンカイ

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樊噲とは、戦国時代末期前漢の人物。漢王朝した高祖・劉邦と同じく沛の出身で後に漢王朝の功臣として舞陽侯となった。 

劉邦の功臣の中でも代表的な武将であり、猛将として知られる。また、漢文教科書において頻出する「鴻門の会」において中心的な活躍をするため、その知名度は高い。 

劉邦の決起後は、劉邦と常にともに行動し、軍の先に立ち、多くの功績をあげ、「鴻門の会」では劉邦を弁護してその危機から救った。項羽との戦いの楚戦争でも活躍し、漢王朝後も劉邦・呂雉(呂后)夫妻に仕え、様々な貢献を果たした。 

こちらの項では樊噲とともに、劉邦に仕えた猛将である奚涓(けいけん)と靳歙(きんきゅう)も紹介する。

沛の肉屋

泗水(しすい)沛県の出身であり(ただし、劉邦蕭何とは違い、沛県の豊の出身ではない)、の食解体と販売を生業(なりわい)としていた。樊噲は遊侠の人物であったようで、劉邦の忠実な子分の一人といえる存在であった。

歴史解説書でも、劉邦が生業に励まなかったにも関わらず「人を愛し、施しを好んだ」遊侠時代(仕事もしておらず、富農の三男に過ぎない劉邦が人に施す金があるということは、当然、農業の収入ではなく、遊侠活動による商業や用心棒、便利屋、仲介役、仲裁料、なわばり料の回収などを行っていたと考えられる。なお、盗賊などの露犯罪行為については不明)や小役人である亭長(交番や出張所の責任者)時代から樊噲はその剛勇と実直な性格とその機転から、劉邦一党の中でも重んじられ、劉邦にかわいがられていたと推測されている。 

また、劉邦との関係からか、劉邦が呂である呂雉(りょち、後の呂后)と婚姻を結んだ後に、呂雉のである呂須(りょしゅ)と婚姻しており、呂婿劉邦の義理のになっていた。呂は金持ちであり、有力者であるため、実は劉邦以上の逆玉である。 

劉邦が亭長として、咸陽に労働する人間を送る際に大勢の脱走者が出た時があった。法律では全員死刑であったため、劉邦は十数人とともに脱走する。樊噲は劉邦を追って、沛から約100キロメートル離れた碭(とう)泗水に隣接)の芒(ぼう)と碭(とう)の湿地帯に隠れた。その後、樊噲は沛にもどっているため、樊噲は沛と劉邦との連絡役になっていたようである。 

故郷を逃れた劉邦を、樊噲だけでなく、沛の地元採用の役人である蕭何曹参劉邦友である盧綰、沛の役人でありながら劉邦を慕う夏侯嬰、釈放された呂雉、呂雉のである呂沢、呂釈之が支援し続けていた。樊噲は妻が呂須である関係もあって、劉邦を助け続けた。 

劉邦の部下も増え続け、人近くが集まっていた。

劉邦の決起に加わる

始皇帝が逝去し、二世皇帝として始皇帝の子である胡が即位した。彼と宦官趙高によっての暴政はしくなり、陳勝広という人物が反乱を起こした(陳勝広の乱)。反乱は広がっていき、陳勝楚というの王を名乗る。各地のや県では、から送られてきた長官を殺し、反乱に応じる動きが広がっていた。沛の県から送られてきた沛県の長官)も殺されることを恐れるようになった。 そのため、県蕭何曹参を呼び、陳勝に呼応して反乱を起こすことを相談する。 

蕭何曹参は沛の県に「劉邦を呼んで沛の民をおどせば、民はあなたの命を聞くでしょう」と進言したため、県は樊噲を呼んで、劉邦を迎えにいかせた。樊噲は劉邦に県の命を伝える。劉邦は部下を連れて、芒と碭から沛にもどった。しかし、県は、劉邦ら沛の門に着いた後で心変わりを起こし、を閉じた上で蕭何曹参を殺そうとした。蕭何曹参とともにを脱出して劉邦のもとに逃げこむ。 

劉邦内の沛の民に向けて手紙を射込むと(部下の夏侯嬰を使者にしたという記述もある)、沛の民は県を殺し、劉邦を迎え入れた。この時、戦闘も行われたようであり、樊噲も沛への攻撃に加わって落としたと史書には記されている。 

劉邦は、沛の人間に推し進められ、沛の反乱軍の代表者となり、沛を名乗った。二、三千の兵が集まり、樊噲はこの時、劉邦の舎人(しゃじん)に任じられた。 

「舎人」とは劉邦の側近にうち、較的身分の低い地位の側近である。最上位の「客」(劉邦の客分となる顧問や参謀のような地位)に、劉邦の義である呂沢・呂釈之や盧綰蕭何、任敖、(れいじ)が任じられた。また、夏侯嬰が「太」、紀成(劉邦の身代わりとなった紀信と同一人物説あり)が「将軍」を任された。その次に、「中涓(ちゅうけん)」(劉邦の上級の側近)に曹参、周勃、召欧(しょうおう)、孫が任じられている。その下に「舎人」がいて、樊噲、審食其、周緤、奚涓(けいけん)、董渫(とうせつ)、沛嘉(はいか)、単(ぜんねい)、倩(へいせい)、周定、朱軫(しゅしん)が任された。他に、武儒(ぶじゅ)、尹恢(いんかい)・中・留勝(りゅうしょう)・戚鰓(せきし)が様々な職に任じられている。その下に「卒」(兵卒という意味か?)という地位もあった。なお、字を薄くした人物は、勝ち組である劉邦軍に入り、漢王朝の統一まで戦場で生き残り、順調に功績をあげ、後に「侯」に任じられたため、史書に名前を残したというだけの人物であり、憶える必要は全くない。(周苛と周はこの時に参加していたか不明であるため、外している) 

樊噲は、この「舎人」の中でも劉邦の信任が厚い、筆頭的な立場であったと考えられる。

秦との戦い 

樊噲は劉邦に従軍し、沛県の上位の官庁にあたる泗水軍と戦う。泗水軍は、劉邦の故郷である豊を攻めたが、戦争劉邦勝利に終わる。さらに、劉邦泗水を統治する守の軍を打ち破り、守を討ち取る。 

順調に見えた劉邦軍であったが、豊の土地を任された雍がこれまたに反乱を起こしたの勢力に寝返った。また、劉邦が呼応した陳勝反乱軍将軍である章邯に敗れ、陳勝は戦死していた。章邯劉邦のいる沛を含めた東の地へ軍を進めてきた。

この章邯との戦いで、劉邦敗北する。劉邦軍の前途は困難に満ちていた。 

しかし、劉邦の元に後に「の三傑」の一人(残り二人は蕭何韓信と後に呼ばれる張良劉邦の客分となって、戦略劉邦に授けると事態が好転する。劉邦は碭において、章邯の部下である司馬𡰥(しばい)を戦って退けた。樊噲はこの戦いで、首級を15も挙げる。これは、この時の樊噲が、さほど地位も高くなく、部下もほとんどいないことを考えると驚くべき手柄であった。樊噲の剛勇は知られ、大夫の爵位を受けた。碭を落とした劉邦には、さらにその配下として、六千人が入った。その中には、後に劉邦軍の騎兵を率いる勇将となる(かんえい)も含まれていた。

やがて、劉邦は楚の名将であった項燕の子である項梁下に入った。項梁は楚の懐王・心を擁立し、楚の復していたため、劉邦の楚王の臣となった。項梁の甥である項羽はたぐいまれな軍才を有した名将であった。劉邦項羽とともに、と戦うことになった。 

樊噲は常に劉邦とともに戦い、その後の章邯との戦いでも、攻めでは先頭に立ってのぼり、首級を23挙げる。樊噲は、列大夫の爵位へ昇任する。の三守である由(丞相である李斯の長子)との戦いに参加し、16の首級を挙げた。劉邦軍の曹参由を討ち取った。樊噲はさらに上爵(じょうかんしゃく)を受ける。 

やがて、項梁章邯との戦いで戦死する。章邯は反乱を起こしていた討伐に向かった。さらに、匈奴に対応するために北のオルドスの地を守っていた王離(楚を滅ぼした王翦の孫)討伐の援軍に派遣していた。楚の懐王である心は、義を上将軍に任じ、項羽とともにを救援させるとともに章邯・王離討伐に向かわせ、劉邦にはその支援軍を率いることを命じる。 

樊噲は劉邦に従軍して、の東地方軍と戦い、16の首級を挙げ、11人を捕虜にする。樊噲は五大夫に昇進した。さらに、劉邦は、河間守を破り、支援軍の役割を果たす。項羽は進撃しようとしない義をり、自ら楚軍を率いて、王離を破って捕らえた。項羽章邯相手に優位に戦闘を進めながらも、長い戦闘に入っていた。 

劉邦は楚の懐王の命で西の咸陽に向かうこととなった。楚の懐王は、「咸陽に一番乗りしたものを関中王にする」と宣言していたため、劉邦は進んでこれに応じ、進撃した。樊噲もまた劉邦に従った。 

開封では隠れた名将である賁と戦う。樊噲は軍を撃退し、軍の先頭に立ち、斥1名を討ち取り、首級68を挙げ、27人を捕虜にする。樊噲は爵卿(しゃくけい)となった。続いて、将軍であるとの戦いで、攻めの先を切り、首級8を挙げ、44人を捕虜とする。樊噲は封爵(ふうしゃく)を受け、賢成君(けんせいくん)と号するようになった。 

劉邦軍は、抵抗の強い土地を避け、行や停滞しながらも確実に西進していった。各地の軍の抵抗も、項羽章邯との戦いにおいて軍が不利になるにつれ、弱まっていった。南陽守・呂齮(りょぎ)との戦いでは、また、攻めの先頭に立った。南陽を越えると、の本拠地である咸陽まで遠い距離ではない。樊噲は軍を撃退し、首級24を挙げ、40人を捕虜とする。樊噲は重封(じゅうふう)を受けた。 

樊噲は劉邦に従って、の最後の防である武関を攻め、嶢関も越える。この間の戦闘で、都尉(将軍の部下の将校)1名を討ち取り、10の首級を挙げ、146人を捕虜にし、2,900人を降させた。劉邦軍が覇上に至ると、王である子は降してきた。章邯もすでに項羽に降していた。ここには滅亡した。

劉邦の忠義の臣 

劉邦が咸陽に入り、の宮殿に入ると、、財宝、後宮の美女があふれていた。諸将たちは争って財物を奪った。劉邦は心奪われてここに留まりたいと考えた。その様子を見た樊噲は、「咸陽から出て軍を宿営させましょう」と進言する。劉邦は、樊噲の言葉を聞き入れなかったが、張良も樊噲に同意して劉邦を説得したため、劉邦はこれに従い、覇上(はじょう)に宿営することにした。 

しかし、章邯を降させた項羽が諸侯の軍を連れ、咸陽まで進軍してきた。劉邦張良に相談せずに、参謀の一人の言葉に従い、関中の東を守る関所である関を封じて、項羽たちを阻もうとした。項羽激怒し、関を打ち破った。 

を降させた劉邦軍は10万まで増えていたが、項羽と諸侯の軍は40万であり、項羽は名将である。勝ちはなかった。 

そこで、劉邦張良の協力を得て、項羽おじにあたる項伯に仲裁を依頼する。劉邦項羽への謝罪と弁明の機会を与えられた。しかし、項羽の参謀である范増劉邦を危険視し、劉邦を許すことに断固反対し、劉邦の殺を進言していた。項羽項伯の仲裁、范増の進言、どちらに従うか明らかにしないまま、鴻門において、劉邦との宴席を開くことにしていた。 

劉邦張良と樊噲、夏侯嬰、靳彊(きんきょう)、紀信(『書』では紀成)を連れ、100余騎で鴻門の会に向かう。宴席が開かれ、劉邦張良だけが呼ばれた。陣内には項羽范増項伯がいた。劉邦を殺するように范増は合図を送るが、項羽は従わなかった。そこで、范増項羽従弟である項荘を呼び、舞にかこつけて、劉邦を殺するように命じる。項伯はこれに気づき、項荘の舞の相手となり、劉邦をかばうが、劉邦危機的状況にあった。張良は立ち上がり、陣内から出て、樊噲を呼んだ。樊噲は事情を聞くと、「わが劉邦)と生死をともにしよう」と言って、を持って、陣内に入る。項羽側の兵士たちが防ごうとするが、樊噲は彼らを倒して宴席に入り、項羽をにらみつけた。 

項羽「何者だ」

樊噲「沛劉邦)の参乗(さんじょう、戦車に陪乗して君を守る役割)の樊噲と申します!」

項羽「壮士(勇敢な男子)だ。大杯のをとらせろ」 

樊噲、一礼して立ったまま飲み干す。 

項羽の背のをとらせろ」 

樊噲、生の豚肉を与えられる。樊噲、を床に置いて、を抜いてを切って、食べつくす。 

項羽「壮士だ! どうだ、まだ飲めるか?」 

樊噲「私は死すら避けようとするものではありません。大杯のなど辞退しましょうか!」 

続いて、樊噲は、劉邦の宮廷を封印して覇上に駐屯して項羽の到来を待っていたこと、関を防いだのは盗賊の出入りと非常の時に備えただけであること、劉邦には関中を落とした功績があると弁護して、劉邦への恩賞の沙汰もないのにつまらぬ人物の意見を聞いて、劉邦を誅殺するのはの暴政を継ぐものとしか言えない。これは大王項羽)のためにならないと述べた。 

項羽「座るがいい」 

劉邦はしばらくして樊噲を呼んで便所に行った。なんの挨拶もなしに自に帰れば、礼に欠くのではないかと心配する劉邦に対し、樊噲は、「『大事な行為をするには、小さなつつしみは顧みない。大きな礼儀には、小さな謙遜は問題としない』と言います。今、項王(項羽)たちはまな板であり、らはです。どうして問題にするに足りましょう」とイメージとかなり違う難しい言葉を引用して進言すると、劉邦張良を残して謝罪させることにして、立ち去ることにした。 

劉邦は連れてきた100余騎を置いて、に乗り、間から自軍の地に戻ることにした。樊噲、夏侯嬰、靳彊、紀信だけが徒歩で従った。劉邦は虎口をまぬがれ、張良のとりなしにより事に済んだ。 

もし、劉邦が咸陽に入り、財物を独り占めにしていた場合、項羽への釈明はかなわなかった可性があるため、樊噲は張良とともに、劉邦危機を二度も救ったことになる。 

もっとも、「鴻門の会自体が余りにも芝居くさすぎるため、史実かどうか怪しい」とか、「どうやって、樊噲や劉邦項羽の軍門を二度も簡単に突破・脱出できるのか」という疑問が当然のごとく存在するが、「それはそれ。これでこれ」である。

楚漢戦争での活躍 

劉邦地である中の地に封じられて、王となる。樊噲はこの左遷となった論功行賞に怒り、周勃・らととともに項羽と一戦交えようとするが、蕭何に説得されて劉邦が同意しなかったため、断念することとなった。 

樊噲は、王となった劉邦から、列侯の爵位を与えられ、臨武侯を号し、官位は郎中(劉邦の側近)となった。劉邦に従って中に入り、劉邦とともに章邯たちが王に封じられた三(関中)の地を攻撃することになった。 

この時、樊噲は劉邦の別動隊を率いて、三の地を攻撃し、章邯の軍を破る。劉邦と合流してからは、先をきった。章邯である章との戦いでは、攻めでは一番先に登り、をおとしいれる活躍をする。樊噲は、県1名、県1名を討ち取り、首級11を挙げ、20人を捕虜とした。樊噲は郎中騎将へと昇進した。 

さらに、章邯軍の騎兵を撃退し、将軍に任じられる。章邯の将となった賁と戦い、各地のを降した。さらに、章邯の本拠地である丘を攻めにし(かの策による示か、樊噲の策によるものかは不明)、その功績は第一であった。関中が定されると、県の樊郷を所領として与えられた。 

続いて、劉邦に従って、項羽との戦いに従軍し、楚の地を攻め、項羽軍の武将を討ち取る。劉邦項羽の本拠地である彭を奪うと、樊噲は彭の北の地を制圧し、斉に赴いている項羽の帰還に備える。しかし、彭の西へと回った項羽の攻撃により、劉邦は大敗する。樊噲はなんとか、彭はるか西にある滎陽までもどり、劉邦と合流する。樊噲はその功績を認められ、二千戸を増封された。 

樊噲は将軍として、広武山の防戦に活躍した。その守備は堅固なものであり、一年にも渡って項羽の攻撃をしのぐ。途中、劉邦が負傷して関中に戻り、防衛を任されることもあったが、項羽は樊噲の防衛を突破することはできなかった。やがて、劉邦と講和した項羽は東に引き返す。劉邦項羽との講和を一方的に破り、項羽を攻撃する。樊噲も劉邦に従軍し、各地で項羽の軍を破り、項羽軍の周将軍(周殷?)の兵、4,000人を降させた。樊噲は、項羽の軍を陳でも破った。項羽下で劉邦韓信(三傑の一人)の軍に敗れ、自害する。樊噲はさらに八戸の増封を受けた。

舞陽侯・樊噲 

漢王朝は建され、劉邦皇帝に即位したが、平和が訪れたわけではなかった。 

王に封じられた荼(ぞうと)が謀反を起こしたため、劉邦自ら討伐をする。樊噲も従軍して、荼を捕らえ、の地を定した。の王には、新たに盧綰が封じられた。 

また、楚王に封じられたかつての大将軍であった韓信謀反を計画しているという報告があった。劉邦は、韓信を捕らえることに決め、陳の地で諸侯王を集めることにした。樊噲は・靳歙とともに、陳の地に赴いてきた韓信を捕らえた。楚の地は定され、その土地は二つに分けられ、賈(劉邦の一族)と交(劉邦)が王となった。 

劉邦の功臣たちへの論功行賞が行われた。樊噲は列侯の爵を別に与えられ、その拠となる割符を他の封じられた功臣たちとともに与えられ、所領の代々の世襲を許されて、諸侯と呼ばれる立場となった。所領地として、以前与えられた土地は取り上げられたが、舞陽の地が与えられ、舞陽侯と号した。戸数は五千戸。後に、その功績は第五位とされた。

なお、功績は一位から順番に、蕭何曹参敖(張耳息子)、周勃、樊噲、酈商、奚涓、夏侯嬰、傅寛、靳歙、王陵となっている。これは劉邦がこの時、決めた順位ではなく、呂雉統治時代に決められた可性も高い。 

ある日、韓信が樊噲のところを訪ねてきたことがあった。樊噲は、韓信にひざまずき拝礼して送り迎えをして、「大王韓信)がわざわざ私のところにおいでくださるとは」と言って対応した。しかし、韓信は、樊噲のの門を出た後で、「生きながらえて、樊噲のようなものと対等につきあうとは」と語ったという。 

各地の反乱との戦い 

その後も樊噲は将軍として、劉邦に従軍し、反乱を起こした王信(前述の韓信とは別人)を攻撃し、周勃ととともに定して、千五戸を増封される。さらに、また、反乱を起こした陳豨との戦いでも、一番乗りをして、27県を定する。樊噲は左丞相に任じられ、さらに陳豨の武将を撃破する。また、王信とも戦い、配下の将軍王信を討ち取る功績をあげる。樊噲は、続いて陳豨が率いる匈奴騎兵を破り、陳豨の将軍である既(ちょうき)を討ち取り、その丞相・守・大将将軍・太ら十人の陳豨のな部下を捕らえ、他の将軍たちとともに陳豨が占領していた代の土地を定した。 

劉邦からの信任と疑心 

樊噲は、劉邦と妻が姉妹であることもあって、諸将の中で最も劉邦しまれていた。 

黥布英布)が反乱を起こした時、劉邦病気は重かったため、人と会うのをいやがり、宮中にせて、群臣が宮中に入ることを許さなかった。周勃や10日以上も宮中に入ろうとしなかったが、樊噲が門を開けて強引に入ると、大臣たちが続いた。劉邦は、宦官宦官が全て去勢した男性のみとなるのは後漢以降であるため、この時代の宦官は身の周りの世話役をする男性程度の意味)のひざをにしてせっていた。樊噲はを流して、劉邦に語った。 

「昔、陛下劉邦)は、沛・豊で私たちと挙兵し、下を定されましたが、その時はなんとお元気だったことでしょう。今、すでに下は定しましたが、なんと、お疲れでしょう。陛下は重病にかかっておられ、大臣は(劉邦の死の予感におびえ)震え恐れております。陛下は、私たちとお会いして物事を相談なさらないまま、一人の宦官のもとで死のうとなされているのですか? その上、陛下は(を崩壊させた宦官の)趙高のことを忘れたのですか?」 

劉邦は笑って起き上がった、と伝えられる。 

劉邦幼なじみであり、友であった王の盧綰が反乱を起こした。樊噲は劉邦に相に任じられ、盧綰への攻撃を命じられる。樊噲は、軍を率いて出撃した。盧綰は戦いを避け、万里の長城の方に脱出していた。樊噲はを攻めて、の地の十八県を定する。 

この時、劉邦病気はとても重かった。かてつ劉邦は寵愛している戚夫人との間の子である如意を呂雉との間の子である劉盈りゅうえい、後の恵帝)に代えて太子にしようとして、群臣の反対を受けて断念したことがあった。劉邦は自分の死後、呂雉によって戚夫人と如意が殺されないか悩んでいた。 

ある人が劉邦に樊噲のことを、そしって言った。 

「樊噲は呂氏(皇后の呂雉とその一族のこと。樊噲の妻は呂雉のにあたる呂須)の一党です。陛下劉邦)が亡くなられた後は、樊噲は軍を率いて戚夫人や王(如意)の一族を皆殺しにしようとしているのです」 

劉邦は、これを聞いて非常に怒り、陳を樊噲に代えて将軍に任じ、周勃とともに樊噲のところに赴き、樊噲をるように命じた。 

樊噲は陳に捕らえられたが、呂雉を恐れた陳は樊噲を捕らえただけで帝国首都である長安に送った。樊噲が着いた時には、劉邦は死去していた。樊噲は、呂雉によって釈放され、爵位と領地を返してもらえた。 

樊噲はさらに、千三百戸の加増を受け、舞陽の五千四戸が封じられる。なお、以前の記述と戸数の計算に矛盾があるが、『史記』は各所で記述の混乱があり、気にしたら負けである。 

最終的に、樊噲が劉邦に従って、挙げた首級は176、捕虜は286劉邦とは別軍を率いて敵を撃破すること7回、を攻め下したことは5度、を降させたのは6、県を降させたのは52県、敵の丞相1名、将軍12名、俸千石以下三百石までの地位の高い者11名を捕らえていた。

恵帝時代の樊噲 

劉邦の死後は、劉邦と呂雉との間の子である劉盈が継ぎ、皇帝に即位した。これが後に恵帝と呼ばれる。呂雉が若い恵帝を補佐し、呂雉の義である樊噲もまた重んじられ、上将軍となっていた。 

上位の功臣であり、武官の頂点でもあり、さらに呂雉との縁戚関係にあることで呂氏に連なる樊噲は、恵帝の宮中で重要な役割を果たしたようである。「周勃を大尉に任じるように」という、劉邦の呂雉に与えた遺言があったにも関わらず、樊噲の死去する年までは周勃は大尉に任じられていない。そのため、樊噲が死去または引退するまで漢王朝軍事最高責任者であったと考えられる。 

ある時、かつて劉邦を破った匈奴冒頓単于から、呂雉を侮辱する書簡が送られてきた。呂雉の怒りはしく、諸将を集めてどうすべきかはかった。上将軍となり、諸将を代表するようになった樊噲は、「十万の兵で、匈奴を蹴散らしましょう」と進言する。諸将は樊噲の言葉に同意する。 

しかし、中郎将であった季布(かつて項羽軍の勇将であり、に仕えていた人物)が「樊噲はるべきです! 高祖陛下劉邦)が40万人の大軍で匈奴と戦っても、において苦戦したのです(実際は敗北している)。なぜ、樊噲が10万の兵で匈奴を蹴散らせましょうか。これはお上を偽り、あざむいていると申してよいことです。ましてや、匈奴と事を構えたために、反乱により滅びたのです。戦争による傷跡はいまだ癒えていないのに、樊噲がおもねって下に騒動を起こそうとしております!」と発言する。 

その場にいたものは、呂雉と樊噲の怒りを恐れたが、呂雉は評議を打ち切り、二度と匈奴討伐を論議することはなかった。特に、季布も呂雉と樊噲による報復を受けることもなかった。 

なお、樊噲に一部でおっちょこちょいや頭が悪いイメージが存在するのは、この時の発言のせいであると思われる。 

樊噲の死とその死後 

樊噲は、恵帝六年(前189)に死去する。武侯と贈り名され、子の樊伉が後を継いだ。恵帝も翌年に死去する。重鎮と息を欠いたそれからの呂雉の政治は、呂氏の専横がしくなり、氏や功臣との対立が決定的になっていく。 

呂雉の死後、「呂氏の乱」の時に、呂一族とともに樊噲の妻の呂須や樊伉も殺されてしまう。舞陽侯は数か位となったが、の文恒)が即位すると、樊噲の庶子である樊人に、爵位と領地を継がせ、舞陽侯とした。 

人の子が樊他広である。樊他広は司馬遷と交際があり、その口から樊噲たち劉邦の功臣の活躍が伝えられ、それが史記に反映されるようになった。 

 評価 

司馬遷は、樊噲について、「私はかつて豊や沛に行き、当時のことを知っている老人をたずね、蕭何曹参・樊噲・夏侯嬰の墓を見て、彼らの普段の行いを調べたところ、今まで聞いたところとは大きく異なっていた。樊噲がふるってを解体していた時に、(劉邦に従うことで)朝廷で大きな名を残し、徳が子孫まで流れるのを知っていただろうか」と語っている。 

樊噲自身も劉邦に仕えた参謀の一人である陸賈に、「いにしえより、人君はみな命を受けて下を治める時には、瑞応(めでたい前触れ)があると聞いたが、本当であろうか」とたずねたという記録が『西雑記』に残っている。もっとも、樊噲が信じられなかったのは、劉邦命を受けた天子であったことの方ではないかと思えないこともない。 

後世において、樊噲は日本でも江戸時代から人気があり、川柳の題材にとられている。また、漢文教科書でよく採用される「鴻門の会」の場面により、知名度も高い。楚戦争前漢初期の時代を題材にした創作作品でも劉邦に仕える代表的な武将として多くの出番を与えられている。

樊噲について

劉邦の親衛隊長? 

樊噲は、劉邦隊長であると紹介されることがある。 

これは、『史記』に、劉邦が決起してからの戦いにおいて、劉邦に「常に従う」と記されていることや、有名な「鴻門の会」において、劉邦の「参乗」(戦車に陪乗して君を守る人物)を名乗っていること、また、同じ「鴻門の会」において劉邦を守る中心的な立場となっていること、曹操隊長である許褚曹操に「が樊噲」と呼ばれていることから来るものであると思われる。 

「参乗」は確かに劉邦に同乗して劉邦を守る大切な役割であり、隊長と言ってもいい立場であるが、通常は周緤(しゅうせつ)という人物が「参乗」となっていたとする記述がある。 

樊噲は、大事な「鴻門の会」においては、周緤を外して「参乗」となっていたものと考えられる。この時、樊噲には隊長といった役割も大いに期待され、それに応えているが、戦争においては先を切り、を先頭に立って登って攻撃しており、途中からは劉邦独立して軍を動かすこともあり、実際は隊長にとどまらない役割が与えられていたと考えられる。 

意外と頭いい? 

樊噲は猛将とされるとともに、出自がただの民の屋であるためか、匈奴討伐でうかつな発言をしたせいか、「鴻門の会」の行動が生き当たりばったり行動にも思えないこともないせいか、許褚曹操に「が樊噲」と言われたせいか、創作でも劉邦に忠実だが学で頭が余り良くない描写がされることが多い。 

だが、『史記』における樊噲は、諸将を代表して劉邦を何度も諌め、韓信や呂雉との調整役も積極的につとめている。「鴻門の会」でも、項羽の機嫌に沿うようにあわせた行動や弁舌、現実をわきまえた劉邦への進言など、すぐれた機略を見せている。 

また、章邯が守る丘を攻めにしている。これは劉邦が関中に戻ってきた後であり、樊噲か他の人物の発案か、史料には記載されておらず、樊噲の発案でなかったとも断言できない。特に、韓信は後の謀反の罪で処刑されたため、その功績が消されている可性があるため、樊噲の作戦であると断言することには注意を要するが、攻めを実行するだけだとしても、すぐれた作戦力が要される。 

樊噲は劉邦への信任も厚く、広武山では劉邦不在の時でも項羽からの攻撃に対して防衛を固め、耐え抜くなど、武勇のみならず、すぐれた統率力と判断力を有していたと考えられる。

劉邦決起時点での樊噲の位置づけ 

劉邦の沛における決起時点の『史記』に記録が残された人物の序列は以下の通りである。なお、客>中涓>舎人>卒の位置づけは間違いないが、役職については、研究を参考にして、大体で序列をつけている。また、同じ地位のものは左が上というわけではない。 

周苛は決起時点ではいなかった可性が高いため、赤字にしており、豊で加わったとされるものは、雍との戦い後に降したものである可性があるため、としている。(蕭何は豊出身なのに沛で加わったものとされる)。王陵は一度、加わった可性はあるが、実際は劉邦の部下になるのはかなり遅い。

【客】 :呂沢、呂釈之、盧綰蕭何、任敖、冷王陵

【内史】:周苛

【職志】:

将軍】:紀成(紀信?)

【太】 :夏侯嬰

【中涓騎】:毛沢

【中涓】 :曹参、周勃、召欧、孫王吸陳倉

【越連敖】:

】 :

【客吏】 :留勝

【謁者】 :武儒、尹恢

【郎】  :戚鰓

【舎人】 :樊噲、審食其、周緤、奚涓、董渫、沛嘉、単倩、周定、朱軫、薛欧唐厲

【卒】  :彭祖、単周聚朱濞

樊噲はすでに決起時点において、舎人では筆頭的な立場にいたと考えられるが、最終的な序列では、確実に樊噲の上位にいるものは蕭何曹参、ただ二人であり、呂沢と呂釈之は呂雉のであることを考慮しなければならない。また、周勃と夏侯嬰とはどちらが最終的に上か見方によって異なるが、樊噲は晩年の立場としては、その二人を上回っている。功績をあげることができなかったり、戦死・病死・引退・逃亡した人物が含まれなかったりすることを考えると、いかに樊噲の出世がめざましいものであったかが理解できる。

樊噲に次ぐ劉邦軍の猛将たち

奚涓(けいけん) 

樊噲と同じく舎人として、沛における劉邦の決起に従う。劉邦に従軍して、咸陽に着いた時には郎中に任じられた。劉邦に従って中に入り、将軍に任じられ、各地の諸侯の定に従軍した。魯侯に封じられ、4,800戸が与えられ、その功績は樊噲に匹敵するとされ、後に功臣第7位とされる。楚戦争により戦死したと考えられるが(時点、地点ともに不明)、子供がいなかったらしく、死後、が継いだ。 

史料における記述はこれだけである。しかし、樊噲の功臣として功績は第5位であるが、夏侯嬰は第8位、は第9位であるため、奚涓は彼らより上位となる人物である。なお、そのは、近年に墓が見つかった「疵(りゅうし)」という女性でないかという説がある。これが正しければ、奚涓の劉邦と同姓であり、劉邦族であった可性が高い。 

靳歙(きんきゅう) 

靳歙は、劉邦は碭を制圧した時に、東の宛朐(えんく)県において、劉邦の軍に加わり、中涓に任じられた。その後のとの戦いで、騎千人の将を1名、首級157を挙げ、73人を捕虜として、爵位と領地を与えられ、臨君を号した。

関中での定に活躍し、王となった劉邦に従軍して、三定でも劉邦とは別に軍を率いて、章邯・章を破り、隴西の6県を制圧した。項羽との楚戦争では、独立して軍を率いることが多く、邢説(けいせつ)という敵将を破った時には、みずから都尉2名、司馬(偵察部隊の長?)を12名捕らえた。 

また、韓信が井陘方面において陳余が率いる本軍と対峙し戦っている間に、劉邦ととともに南方を攻撃し、や鄴を攻め落とす。また、劉邦と別れて、陽を攻め落とし、靳歙はみずから丞相を討ち取っている。 

さらに、項羽との戦いではその補給を攻撃し、各地で項羽の一族の軍を打ち破り、長距離一気に進撃した。陳では項羽の軍との戦いに参加し、勝利している。さらに、項羽に味方していた(?)臨江王(江陵王とも)の共尉を江陵に攻め、みずから共尉を捕らえて定した。 

また、樊噲・とともに、楚王・韓信を捕らえた。論功行賞が行われ、靳歙はかつての功績により、信武侯と号した。劉邦に従って、王信の討伐でも活躍し、将軍に任じられ、陳豨の討伐でも功績をあげた。 

その功績は、挙げた首級は90、捕虜は132劉邦とは別軍を率いて敵を撃破すること14回、を攻め下したことは59度、およびを降させたのは1及び1、県を降させたのは23県、敵の王・柱を各1名、俸千石以下三百石までの地位の高い者39名を捕らえたというものであった。最終的に五千三百戸が与えられ、功臣における功績は第十一位とされる。呂雉の統治時代に死去している。 

史記』によると、自ら討ち取った、捕らえたとされることが多く、樊噲や他の武将には特にそのような記載がないため、頻繁に一騎打ち衛軍を率いた本狙い、単騎駆けを行っていたものと考えられる。

創作物における樊噲

『通俗漢楚軍談』

中国講談江戸時代翻訳した講談小説横山光輝項羽劉邦』はこれをベースにした作品である。 

樊噲は劉邦の忠実な部下として登場する。樊噲は剛勇で実直であり、劉邦に対する忠心と民への思いやりあふれるが、軽はずみで思慮に欠けるところがある人物として描かれる。(中国講談ものの典的な人物像であり、いわゆる『三国志演義』の張飛や『水滸伝』の魯智深と同様の役回りである) 

樊噲はその武勇において多大な信頼を受け、劉邦軍の第一の猛将として挙げられるが、劉邦関を封じるように進言し、韓信への大将軍就任に大反対して、劉邦蕭何にまで「れ」と言われるような失態を演じる。しかし、次第に韓信にも信任を受け、項羽との決戦では漢王朝全軍の号を行う役割を任されるようになった。 

最後は、樊噲は知略で盧綰との戦争勝利するようになるほどに成長する。樊噲ファンは、楚戦争で終わらせず、最後まで読むことをおすすめする。 

なお、靳歙についても、劉邦軍を代表する猛将という紹介がなされており、活躍する場面が存在する。『通俗楚軍談』は、司馬遼太郎項羽劉邦』だけでは補いきれない史料を反映した部分もある。 

池野雅博『レッドドラゴン』 

戦争を題材にした漫画作品。少年漫画向けのキャラクターデザインがなされている。主人公は、劉邦とその友・盧綰である。 

樊噲は、劉邦の忠実な部下として登場するが、この作品では盧綰役であり、劉邦軍一の武勇を誇るため、樊噲の戦場での存在感は大きくはないが、戦場で出会った呂須に一ぼれするなど、出番は与えられている。最終的には、その盧綰を上回る武勇を持つようになったという説明が盧綰の口からなされる。 

なお、奚涓もこの作品ではヒロインとして登場し、女性でありながら、にすぐれた人物として劉邦軍の力となり、盧綰とともに活躍する(ほぼ間違いなく、終盤を除く樊噲より強い)。奚涓には秘密があり、それが末の戦乱の行方と大きく関わっていくことになる。

関連動画

関連書籍

佐竹劉邦exit』 (中央公論新社) 

樊噲の日本語での専著はないが、史記翻訳や、司馬遼太郎項羽劉邦』を読了し、さらに劉邦関係について詳しく知りたい人にはおすすめの一冊である。 

近年の発掘された文献や研究を反映しつつ、豊・沛時代の劉邦について、学術書でありながら、想像力を最大限にフル回転させて推測している。劉邦をある種の英雄とはとらえつつも、あくまで侠客のワルとしており、樊噲たちとは義侠的なつながりがあったことを強調している。また、劉邦と呂雉一族との血縁的なつながりに対する考察も重視されており、そういった意味で、史記翻訳や、司馬遼太郎項羽劉邦』を補し、修正する著作といえる。 

樊噲についても、沛時代から重要な役割を果たしていたものと、とらえられている。

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