曹参(そうしん/そうさん)とは、戦国時代末期~前漢の人物。漢王朝を興した高祖・劉邦と同じく沛の出身。後に漢王朝建国の功臣となった。
劉邦の子飼いの武将の中でも、功績が第一とされた勇将である。また、蕭何の後を継いで前漢の相国となり、戦乱の傷が癒えない前漢において、民を安らぎ、安定した政治を行ったことで、後世に名宰相と称えられる。
「出将入相(出ては将入れては相、朝廷に入ったら宰相として活躍し、朝廷の外に出ては将軍として活躍する)」の模範となる人物である。
こちらの項目では曹参とともに、劉邦に仕え、曹参と韓信に従った武将である傅寛(ふかん)と孔藂(こうそう)、陳賀(ちんが)も紹介する。
泗水(しすい)郡沛県の出身(ただし、劉邦や蕭何と違い、沛県の豊邑の出身ではない)。秦の時代には、沛県の獄掾(ごくえん、監獄を扱う事務官)につき、沛の豪吏(ごうり)となっていた。
豪吏とは、地元の有力な家柄出身で、その地元の役所で主要な地位についた役人のことである。中央から来た官吏は地元の有力な家をバックにしている人物の方が頼れる存在であるため、重用される存在であった。
曹参は沛ではそれなりに大きな家の出身であり、同じく沛の豪吏として主吏となっていた蕭何と親しく交わっていた。
劉邦の長子である劉肥の母である曹氏、後に劉邦を裏切ったとされる曹無傷(そうむしょう)も沛における曹参の同族出身という説があり、以下はそれを前提として、記述する。(あくまで同じ沛出身の同姓ということだけが根拠であり、史書では二人が曹参の同族であるとは明記されていない)
曹氏は劉邦の子を産んでいるにもかかわらず、外婦(がいふ)とされ、劉邦とは正式な婚姻関係ではなく、劉邦の家にも入っていなかった。
そのためか、劉邦の決起前における曹参については史書にその詳細な記述がない。
始皇帝が逝去し、始皇帝の子である胡亥が即位する。秦の暴政は激しくなり、陳勝と呉広という人物が反乱を起こし、王を名乗った(陳勝・呉広の乱)。沛の県令も反乱を恐れ、蕭何と曹参を呼び、陳勝に呼応して反乱を起こすことを相談する。
曹参は、蕭何とともに、逃亡している劉邦を呼び戻すように進言する。劉邦は沛にもどってくると、県令は心変わりを起こし、城を閉じて蕭何と曹参を殺そうとした。曹参は蕭何とともに脱出して劉邦のもとに逃げこむ。
劉邦の呼びかけによって、沛の民は県令を殺し、劉邦は迎え入れられた。反乱の首謀者となることをいやがった曹参は、蕭何とともに、劉邦を沛の反乱軍の代表者に推薦する。劉邦は反乱軍を率いることになり、沛公を名乗った。
曹参は蕭何・樊噲(はんかい)らと協力して二、三千の兵を集める。曹参は、劉邦によって上位の側近である中涓(ちゅうけん)の一人に任じられた。文官であった曹参であったが、劉邦軍を率いる武将の一人となった。
当初は、劉邦の一武将に過ぎなかった曹参であったが、戦場で傷を負うことを恐れずに戦うことで、武将として頭角をあらわすようになる。
まずは、劉邦に従って沛県より上位の役所である泗水郡(しすいぐん)の秦地方軍と戦うことになった。まず、近隣の県を攻め取り、さらに、泗水郡の郡監(郡の長官である郡守の副官)の軍を破る。続いて、救援に来た泗水郡の郡守の軍も破った。郡守・壮(姓は不明)が逃げるところを、劉邦の左司馬となっていた曹無傷(という説が有力)が捕らえて、討ち取る。
曹参は劉邦と別れて、占領した土地を守っていたが、同じく秦に反乱を起こしていた魏の勢力が攻めてくると、劉邦の故郷である豊邑が寝返ってしまう。曹参は寝返った土地を攻撃し、功績をあげ七大夫に任じられる。
一方で、陳勝が秦の将軍である章邯に敗れて、敗死し、秦軍が劉邦軍を攻撃したため、劉邦側は苦境におちいった。しかし、張良(後の「漢の三傑」の一人)が劉邦の参謀となり、碭(とう)郡を攻めることとなった。
碭郡において、劉邦軍は秦の武将である司馬𡰥(しばい)を打ち破る。秦軍との戦いは碭郡全体にわたった。秦は戦車部隊・騎馬部隊まで出して応戦していたが、曹参は先陣をきって戦った。戦闘は、劉邦軍の勝利に終わり、碭郡を占領することができた。曹参は五大夫に任じられる。劉邦軍はさらに、後に劉邦軍の騎兵を率いる灌嬰(かんえい)ら、六千人の兵を得た。
曹参の活躍は華々しく、曹参はこの頃には、劉邦軍の本隊を率いる存在となっていたものと考えられる。
劉邦は楚の懐王・心を擁立して楚国の復興を目指していた項梁の傘下に入る。劉邦は項梁の甥にあたる項羽とともに、秦軍主力を率いる章邯と戦うことになる。
東阿(とうあ)において、項梁の軍は章邯の軍と激突し、勝利する。この戦いにおいて、劉邦の軍も活躍し、曹参は秦の陣地を陥落させた。曹参は劉邦に従って秦軍を追撃し、各地で秦の土地を奪う。雍丘(ようきゅう)では、劉邦は項羽との合同による戦闘を行い、秦の三川郡守である李由(秦の丞相である李斯の長子)の軍に勝利し、曹参は軍を率いる李由を討ち取る大手柄を立てる。
しかし、項羽と劉邦が秦軍と戦っている間に、章邯は秦軍の総力を集めて、夜襲で項梁を討ち取る。章邯は楚への追撃は行わず、秦の将軍である王離とともに、趙を攻める。
劉邦は項梁の戦死を聞き、東にもどり、碭郡に駐屯する。曹参は執帛(しつはく)という爵を与えられ、建成君・戚公(せきこう)に任じられ、碭郡の兵を率いることとなった。
楚の懐王である心は、宋義・項羽らに本軍を率いさせ、趙救援に向かわせる。劉邦はその支援軍を率いて、別に軍を動かすこととなった。
曹参は劉邦に従って軍を率いて、秦の東郡の郡尉(郡の兵を率いる郡守の副官)を破り、王離が送ってきた別動軍も破る。劉邦は支援軍の役割を果たした。
項羽は進撃しようとしない宋義を斬り、自ら楚軍を率いて、王離を破って捕らえた。項羽は章邯相手に優位に戦闘を進めながらも、長い戦闘に入っていた。
劉邦は楚の懐王に命じられ、秦の都である咸陽に向かうことになった。曹参は、劉邦の軍を率いて秦軍を戦うことになる。
開封では秦の武将である趙賁(ちょうほん)を囲んで追い詰めたものの、劉邦軍は敗北した。しかし、劉邦軍は転進して、別ルートから西へと向かう。曹参は、途中で阻んだ秦の将軍である楊熊(ようゆう)との戦いにおいて、秦の司馬と御史をそれぞれ一名、捕らえる。曹参は執珪(しつけい)に昇格した。
劉邦軍は苦戦続きで、ルートを変えつつも、西へと向かう。途中で張良が劉邦軍にまた加わった。曹参は、南陽の郡守である呂齮(りょぎ)の陣営を破る。呂齮は降伏した。曹参は、劉邦に従い、秦の咸陽を守る武関・嶢関(ぎょうかん)を突破する。藍田(らんでん)においては、秦の最後の抵抗にあったが、曹参は夜襲で大勝利をあげる。
その頃、項羽は章邯を降伏させ、咸陽に向かってきていた。劉邦は、章邯が項羽によって、雍王に封じられていると知り、このままでは関中王になれないと考えた。そこで、劉邦は関中への関所である函谷関を塞ぎ、項羽の進軍を止めることにする。しかし、項羽は劉邦軍の防衛を突破してしまう。
項羽の軍は圧倒的大軍であり、項羽自身も中国史屈指の軍事的天才である。劉邦に勝ち目はなかった。この時、曹無傷が項羽に寝返って、項羽に使者を送り、「劉邦が関中王になりたくて、秦王であった子嬰を宰相にし、秦の宝を全て私物化しています」と伝えさせた。
項羽は、劉邦を攻撃することに決めるが、項羽のおじである項伯が劉邦との間をとりなしたため、劉邦に謝罪の機会を与える。張良と樊噲の活躍によって、「鴻門の会」における劉邦の謝罪は項羽に認められた。その席で劉邦は、項羽に注進したのが曹無傷であることを知り、劉邦が帰還した後に、曹無傷は処刑されることとなった。
なお、曹無傷は劉邦の使者として、項羽や諸侯に劉邦が自立したことを伝えただけであるという説もある。この場合は、曹無傷は劉邦を裏切ったわけではなく、あくまで自立に失敗した劉邦の責任をとらされ、処刑されたということになる。
曹参は、一族の曹無傷を失ったが、項羽によって漢王に封じられた劉邦によって、改めて建成侯に封じられる。曹参は劉邦とともに漢中におもむくことになった。
ある時、劉邦の宰相となっていた蕭何が何も告げずに劉邦の陣営から出て行き、また戻ってくると、突然、全軍の大将が任用されるという話があった。諸将(劉賈、周勃、呂沢、酈商、紀成ら?)は自分が大将になると思い、大いに喜んだ。特に、沛の決起から劉邦の本軍を率い、身に傷を負って功績をあげ続けた曹参はその思いが強かったと思われる。
しかし、劉邦が拝した新たな大将を見て、曹参ら全軍はびっくりした。新たに大将となった人物は、最近、劉邦軍に加わった治栗都尉(ちぞくとい)という兵糧部隊の将校に過ぎなかった韓信という人物であった。蕭何のあの脱走は逃亡した韓信を追って呼び戻すための行動であったのだ。韓信は蕭何からの強い推薦により、劉邦によって全軍の大将である大将軍に任命されていた。
曹参はこのことについてどう思ったのか、史書に記述はない。しかし、蕭何と仲が良かった曹参が、この頃(曹参が将軍に任じられた頃)に蕭何と不仲になったと史書には記述されている。
劉邦は韓信の進言に従い、三秦と呼ばれるようになった関中の地を攻めることにする。三秦の地を守るのは雍王に封じられ、かつては秦の名将であった章邯である。曹参も将軍として、三秦攻めに加わった。
曹参は漢中を攻め下る。三秦では劉邦とともに、章邯の弟・章平と戦闘を行い、打ち破った。さらに、劉邦に従い、樊噲とともに章邯の軍を破る。好畤(こうじ)という土地で章平を包囲すると、章平は逃走した。曹参は、章邯の武将である趙賁を打ち破り、咸陽を占拠する。章邯・趙賁はかつて劉邦軍が敗れた秦の名将であったが、曹参は勝利した。
この時の韓信については史書には記述されず、劉邦自身の動きは明確ではない部分もあるが、曹参は変わらず、劉邦の直属軍の指揮にあたったと考えられる。作戦面はともかく、実戦では曹参はやはり劉邦軍の要となる将軍であり続けた。
この後、曹参は劉邦と別れて咸陽付近を守る。章平が攻めてきたが、曹参は打ち破った。その功績の見返りに、寧泰(ねいたい)という土地が与えられた。劉邦はその軍を四つに分け、曹参・劉賈・呂沢・酈商に率いさせて、三秦平定に向かわせる。曹参が向かったのは最も重要な局面であった章邯軍への対応であった。曹参は樊噲・灌嬰(この時はこの二人は必ずしも最高位の武将ではないことには注意)らを率いて、章邯を廃丘に包囲する。三秦はほぼ平定された。
さらに、曹参は中尉に任じられ、劉邦に従い、項羽と項羽に従う諸王(殷王・司馬卬(しばごう、司馬懿の先祖)、河南王・申陽、韓王・鄭昌)との戦いに従軍する。諸王は降伏し、劉邦の軍に加わった。さらに、項羽が斉攻撃のため留守としていた楚を攻撃する。曹参は劉邦軍五十六万人の将軍の一人として、項羽の一族である項它(こうた)と武将の龍且(りゅうしょ)を破り、項羽の本拠地である彭城を攻め取った。
だが、三万人で急襲してきた項羽によって劉邦軍は大敗する。司馬卬・申陽は戦死し、数十万人の戦死者を出した。彭城にいたため、敗走した曹参であったが、かつて李由を討ち取った雍丘(ようきゅう)で軍をまとめ、劉邦に反乱した武将たちを次々と打ち破る。曹参は滎陽(けいよう)という土地にもどり、劉邦と合流した。
項羽の軍が滎陽に迫ってきたが、韓信が京・索(さく)の間で、項羽の軍を破る。戦局は膠着状態におちいった。劉邦は韓信を全軍の大将に任じ続けた。
曹参は、仮(仮とは副のこと)の左丞相に任じられ、関中に入って1か月ほど駐屯する。この時、魏王であった魏豹が、劉邦に背き、項羽についた。
この時、韓信が左丞相に任じられ、魏討伐を命じられた。仮左丞相であった曹参は、名実とともに、韓信が率いる軍の副将に任じられ、魏討伐に従軍することになった。また、韓信の部下として、漢軍の騎兵を率いる灌嬰もつけられた。
史書に明記はないが、この時、劉邦が樊噲たちを率いて、項羽をひきつけてその猛攻を防いでいる間に、別働軍を率いた韓信が他の勢力を攻略し、兵力を集めるという劉邦軍の戦略があったと考えられる。曹参は、経験が浅い韓信の補佐の役割を劉邦から期待され、その役割は重要であった。
劉邦は、魏の軍を率いる大将が柏直(はくちょく)、騎兵を率いる武将が馮敬(ふうけい)、歩兵を率いる武将が項它(こうた、項羽の一族)であると魏への使者となっていた酈食其(れきいき)から聞いて、韓信・灌嬰・曹参に立ち向かうことができないと言って安堵したと伝えられる。
曹参は韓信に従って、魏を侵攻する。魏との決戦は韓信の知略によって、漢軍の圧勝に終わり、魏豹は捕らえられた。曹参は平陽の土地を与えられる。また、韓信に従って、趙の属国であった代の国も討伐し、趙の宰相であった夏説も捕らえた。
さらに、劉邦は、元の常山王である張耳も援軍として派遣する。曹参は韓信に従って引き返し、張耳と合流して、趙の大軍を率いる陳余(元は張耳と親友)と戦う。韓信・張耳・曹参・張蒼(ちょうそう)らの率いる漢軍は数万に過ぎなかったが、陳余の軍は20万を号していた。
韓信は趙の大軍を相手にして、背水の陣をしいて決戦にいどむ(もっとも、本命は趙の城を襲う別働軍の騎兵にあった)。曹参たち韓信配下の諸将は、韓信の「今日中に、趙を破って、ともに会食しよう」と言った言葉を信じなかったが、戦いは、韓信の知略により、漢軍の圧勝に終わる。
張蒼は陳余を捕らえ、趙王もまた捕らえられた。陳余は処刑された。曹参たち諸将は、韓信を称える。韓信に勝利を得た戦術の内容をたずねると、韓信は丁寧に説明した。曹参たち諸将は韓信に心服して、「素晴らしい。私たちの及ぶところではありません」と答えた。
上記のこの「井陘の戦い」における韓信とのやり取りを行ったのは、史書ではあくまで「諸将」であり、曹参も含めて具体的なその姓名が明記されているわけではない。しかし、韓信配下の諸将の代表は、曹参であるため、このやり取りを行った諸将の代表は曹参であったと考えるのが自然である。
この時には、曹参は韓信の軍略に心服し、その下知に完全に従うようになったものと考えられる。
さらに、曹参は韓信と軍を分けて、出撃し、趙の将軍を討ち取り、そのまま滎陽にいた劉邦のもとに戻っていった。(韓信が魏・趙を討伐して、兵力を送ったことと関連すると思われる)
曹参は漢の右丞相に任じられ、相国(趙の相国が有力だが、どの国の相国か不明)の韓信に灌嬰・傅寛とともに再び従軍して、斉を攻め、斉の首都である臨菑(りんし)を落とす。楚の項羽配下の勇将である龍且が20万の大軍を率いて、斉への救援に来た。曹参は韓信に従って、龍且の軍を迎え撃つ。韓信の知略により、漢軍はまた圧勝した。漢軍は龍且は討ち取り、楚の将軍の周蘭を捕虜とする。
曹参は韓信とともに、斉全土を制圧し、斉王の田広を捕らえた。韓信は劉邦によって、斉王に封じられる。(曹参も相国に任じられたとする記述も『史記』に存在するため、曹参は斉の相国に任じられ、引き続き、韓信の補佐にあたっていたと考えられる)
楚漢戦争も終結に向かい、韓信・灌嬰は項羽討伐に向かい、曹参は傅寛とともに、斉平定にあたった。戦闘は漢軍の勝利に終わり、項羽は自害した。
劉邦は皇帝に即位し、漢王朝は建国され、韓信は楚王に封じられた。斉は漢の一部となった。曹参は漢の右丞相の地位を返上した(戦時の一時的な処理だったと思われる)。
やがて、韓信は謀反の疑いで逮捕され、楚王から淮陰侯に降格された。
この後に、劉邦の功臣たちへの論功行賞が行われる。曹参は代々その土地世襲できる列侯に封じられた。以前もらっていた土地は没収されたが、領地として新たに平陽県一万六百三十戸が与えられ、平陽侯と号した。
曹参のもらった領土は諸侯のうち最大であった。また、功臣の位階を定める時には、功臣たちは(『皆』、と史書に記載されている)、「曹参はその身体に七十もの傷を受け、城や土地を攻略して、その功績は最大です。(蕭何より上の)功臣第一位にすべきです」と劉邦に述べたが、劉邦は蕭何を第一位にし、曹参は第二位とされた。
劉邦の長子である劉肥も斉王に封じられた。曹参もその斉の相国に任じられ、劉肥を補佐することになった。劉肥の母は前述した通り、曹参の一族(とする説がある)の曹氏である。
曹参としては、斉は七十以上の城を持つ大国ではあるが劉邦の意図や劉肥との関係はどうであれ、中央の劉邦の近くから出されてしまったことに変わりはない。功臣の順位としては他の功臣の意向に反して、蕭何より下にされた。また、劉邦は天下を得た原因として、張良・蕭何・韓信(後に「漢の三傑」とよばれる三人)をうまく用いたことを挙げたが、曹参の名は挙がらなかった。曹参の命がけの功績は、蕭何よりはるか下の評価しか受けていないのは明白であった。
曹参の心情は史書に明記されていないが、韓信が降格したにも関わらず、曹参が蕭何との仲をもどすことはなかった。
その後も曹参は、漢王朝の都である長安にもどることはなかった。淮陰侯となった韓信は、劉邦の留守中に劉邦の后である呂雉(りょち)と蕭何によって、謀反の罪で一族を滅ぼされてしまう。 斉の相国となった曹参は、賢人にへりくだって招いた。その中には、かつて韓信に劉邦からの自立をそそのかし、劉邦に処刑されそうになった蒯通(かいつう)もいた。蒯通も曹参の賓客として用いて、その助言を聞き、さらに推挙する賢人を招いた。
それでも、曹参は劉邦の味方ではあった。謀反を起こした陳豨(ちんき)の武将である張春の軍を破り、黥布(げいふ、英布とも)が謀反を起こした時には、劉肥とともに戦車と騎兵を含めた12万人の兵力を持つ斉軍を率いて、劉邦と合流して黥布を破った。
曹参は、最終的に二国と122県を降伏させ、王を2名、宰相3名、将軍6名らを捕らえるという功績をあげた。(これについては後述するように韓信の功績が曹参のものになった部分もある)
やがて、劉邦が死去し、劉邦と呂雉との間の子である劉盈(りゅうえい)が後を継ぎ、皇帝に即位した。これが後に、恵帝とよばれる漢王朝の二代目皇帝である。
恵帝が即位しても、曹参は相変わらず、斉にとどまっていた。恵帝によって、諸国に相国を置く制度は廃止され、曹参は代わって斉の丞相となった。
劉肥はまだ年が若く、曹参が政治にたずさわっていた。曹参は斉にいる長老や学者を呼び出し、民を安息させる政治のあり方を問うた。斉は戦国時代から学問が発展した土地柄である。斉の学者たちは100人を超えており、その意見はそれぞれで違ったが、曹参の意に沿うものはいなかった。
そこで、黄老の学問(黄帝・老子の主張する政治思想のこと。後世、『黄老思想』と呼ばれる。後述)に通じている蓋公(がいこう)という人物がいると聞き、招かせる。蓋公は、「政治の道は、清浄を尊ぶことです。そうすれば、人民は安定します」と主張し、その理論を細かく説明した。
蓋公の考えに共鳴した曹参は、蓋公に政治を執務する正堂に居るようにさせ、曹参自身は避けるようにした。蓋公は政治に黄老の道を用いて、斉国は治まった。そのため、曹参が斉国を治めている間の9年間は、斉は安泰であり、曹参は賢相(すぐれた相国・宰相)と呼ばれた。(曹参が丞相であったのは2年間であり、それ以前の劉邦時代の相国であった7年間が含まれると考えられるため、蓋公を用いはじめたのは、曹参が斉の相国として赴任してすぐのことである)
曹参は相変わらず、蕭何と不仲であったが、曹参は蕭何の死去を聞いて、部下に「旅の準備をするように。私は朝廷に入って相国となるだろう」と告げる。しばらくして、朝廷から使者が来て曹参を都に召した。
蕭何は死去する前に、病床において、恵帝からの相談を受け、蕭何の後任の相国に曹参を推薦していた。曹参と蕭何は不仲ではあったが、心の中ではお互いを認める関係にあり、曹参はそのことをよく知っていた。
曹参は後任にあたる斉の丞相に、「獄市(裁判とする説と、監獄と市場とする説がある)に関して慎重に処理するように。余り厳しくすると、悪人たちがいる場所がなくなり、乱をなすだろう」と言い残して、都に向かう。
曹参は果たして、蕭何に代わって漢の相国となった。曹参は蕭何の決めた方針を変更することなく、蕭何の定めた法令に従った。
その一方で、曹参は朴訥で人徳ある役人を選び、自分の属官とする。また、法令に厳しく、名声を得ようと欲した人物はしりぞけた。曹参は日夜、政務を熱心に行わず、酒を飲み続けた。
役人や賓客は、曹参が業務を果たしていないと感じ、諌めようとしたが、曹参は彼らが来ると酒をただ飲ませ、意見を言おうとするとまた飲ませた。彼らは皆、意見が言えないまま、帰ることとなった。
役人の官舎では毎日、酒を飲んで騒いでいた。曹参の属官は、このことを聞かせて、彼らを注意させるようにしようとした。しかし、曹参はこれを聞いて、かえって酒を取り寄せて、彼らと一緒になって酒を飲み、騒いで楽しんだ。
また、曹参は部下の過失を知ると隠して問題にしなかったため、政府はいつも平穏であった。
いくらなんでもこれは問題ではないか、と感じる人も多いと思われるが、後述の「黄老思想」、「曹参の政治について」を参照して欲しい。
恵帝は曹参が政事にとりくむことがないため、当然のことであるが、自分が若いため、侮られているのではないかと考え、曹参の息子にあたる中大夫の曹窋(そうちゅつ)を呼び寄せて言った。「家に帰ったら、何気なく、曹参に『高祖(恵帝の父、劉邦)が亡くなり、陛下(恵帝)はまだお若いです。父は相国となってから毎日、飲みあかされ、陛下に何も上奏することもありません。どうして、天下のことを心配しているといえましょうか?』と問うてくれ」。
曹窋がそのように実行すると、曹参は怒って、曹窋を鞭で二百回も叩いた。曹参は、「すぐに陛下のところに行くがいい。天下の事はお前が語れるようなものではない」と曹窋に伝える。曹窋はすぐに恵帝に報告した。
恵帝「なぜ、曹窋をあのような目にあわせた? 私が曹窋に命じて、君を諫めさせたのだ」
曹参「陛下は徳と武でご自身と先帝(劉邦)と比べて、どちらが優れていると思いますか?」
曹参「私と蕭何の能力を比べて、どちらが優れていると思いますか?」
曹参「陛下のお言葉は正しいです。高祖(劉邦)と蕭何が天下を定めて、その法令はすでに明らかになっています。陛下も安座され、私たちも職分を守って失敗しないようにすれば、よいのではないでしょうか?」
恵帝「そうだな。君は休みなさい」
曹参は相国に就任して四年で没した。懿侯(いこう)と贈り名された。曹窋が家の後を継き、その家は武帝の時代まで継がれることとなった。
曹参が死去した後、民は曹参を称えて歌った。
「蕭何が法をつくり、その法は明白なものであった。曹参は、蕭何に代わって相国となり、その法を正しく守り、失敗することはなかった。清浄な政治が行われ、民は安らかになり、一つになった」
司馬遷は、曹参について、「曹参が城を攻めとり、野戦で勝利した功績が優れてとても多いことは記載した通りであるが、その理由は、韓信に従軍して功績をあげ、韓信が誅殺されたため、その功績と名声は曹参ただ一人のものとなったからである。曹参が漢の相国となると、その政治は清浄無為であることを極め、黄老の道にかなった。民は秦の残酷から政治から解放され、曹参とともに無為の中で休息でした。そのため、天下の人々は曹参の政治の素晴らしさを称えた」と語っている。
曹参は、政治においては絶賛され、漢の相国という地位は、董卓のようなわずかな例外を除いて、蕭何と曹参だけが就いた特別な役職とされた。
また、軍事についても、司馬遷のように韓信に従ったから、あるいが韓信の功績が曹参のものとされたという評価がされていることもあるが、唐代の名将選である武廟六十四将の一人に選ばれている。楚漢戦争では、その上位の武廟十哲に張良と韓信が選ばれているほか、武廟六十四将に彭越と周勃が選ばれているのみであり、黥布(英布)・樊噲・灌嬰・酈商は選ばれておらず、後世において高く評価されている。
なお、皇帝や君主は基本的に選ばれないので「項羽も選ばれていない」というのはやめよう、曹操も選ばれていない。
魏の武帝・曹操も曹操の父親である曹嵩の出自が怪しいが、曹参の子孫を名乗っており、400年後の後漢末ですら、その名声が続いていたことが分かる。
創作においては、曹参は武将たちの中では冷静で失敗がない人物に描かれることが多い。そのためか、某人材マニアの血がつながっていない子孫と違い、比較的、目立たない存在となる傾向にある。
上記の通り、曹参の軍事行動は秦を滅ぼすまでを除けば、ほとんどを韓信と軍事行動をともにしている。関中(三秦)と彭城攻略までの戦いについても明確な記載がないだけで、曹参の上官であった韓信の指示に従っていた可能性もある。(劉邦とともに行動していたことが多いと思われる曹参は、劉邦と行動をともにしていた可能性が高い韓信の部下であった可能性が高い)
韓信が劉邦の別働軍を率いてから、(垓下の戦いを除く)重要な戦役において曹参は韓信の副官として活躍している。曹参の武功は、韓信の功績が曹参のものになったものが多いと考えられるが、韓信は劉邦のせいで兵力は少なく、練度の低い兵士を率いた戦いを強いられており、その戦術は緻密な計算と迅速な行動、ぎりぎりの奮戦を要求するものであり、その副将として韓信の常勝を支えた曹参の名将・勇将としての評価は、不当なものではない。
また、韓信については、主君とはいえ、劉邦に二度も軍も奪われており、その時は、曹参は不在であった。曹参が、韓信の欠点を補い、韓信の勝利をかげから支えていたことは充分に考えられる。
なお、曹参に限らず、韓信は後に謀反人として処刑されたため、その功績が劉邦陣営の他の人物のものとされている可能性はあるため、注意が必要である。
曹参は一族(という説のある)曹氏が劉邦との間の子(劉肥)を生んでいること以外、沛時代は余り劉邦と接点はなく、元々は劉邦とは余り関係がなかったと考えられる。劉邦が咸陽に行く時に贈る餞別も蕭何だけが銭500であったということは、曹参は他の役人と同様、銭300を贈っただけであったのであろう。曹参の初期についた地位は中涓の一人であり、蕭何と親しい関係にある豪吏出身にしてはさほど高くはなく、劉邦とは特別に親しくなかったことが想像できる。
劉邦が沛公や碭郡長であった時は、曹参は主に劉邦の本隊の軍を率いて、武功をあげたものと考えられ、この時に頭角を現し、劉邦の武将の中で重要な存在になったものと考えられる。(なお、別働軍はこの時は周勃が率いることが多かった)。
漢中では将軍に任じられたが、次第に劉邦の別働軍を率いることが多くなる。関中平定から彭城までは劉邦に従っていたが、彭城の戦いで劉邦とはぐれて、遅れて滎陽にたどりついた。
その後は、関中を守備した後、諸国攻めにあたる韓信の別働軍の副将となるが、(韓信が大将軍となった時期に蕭何と不仲になったにも関わらず)韓信とは特に不仲であったとする記述や韓信を諫めたとする記述はなく、韓信の忠実な副将として従ったようである。
その反面、韓信の趙討伐の後、劉邦のもとにもどった曹参についても、なんらの功績が記述されず、曹参は劉邦が趙において韓信の軍を奪った時も事績が残らず、劉邦に加担したという記述はない。
また、酈食其を犠牲にし、斉をだまし討ちにしたとして後世に批判が多い斉攻めにも加わり、これまた批判が強い韓信の劉邦に対する斉の仮王就任要請や領土が約束されるまで援軍に赴かなかったことについても、曹参は斉王・韓信の相国(宰相)に就任しているにも関わらず、なんら諌めたという記述が存在しない。 劉邦が垓下の戦いの後、定陶(ていとう)において、韓信の軍を奪った時も、曹参は斉を守って不在であった。
これを見ると、曹参は韓信の目付や監督となるべき立場であり、韓信は後に謀反人とされ、曹参が韓信を諫め、とがめるような行動があれば、積極的に記録されたであろうにも関わらず、曹参は劉邦や張良・陳平が問題とした韓信の行動について同意しており、一方的に韓信に肩入れしているようにさえ読める。
また、劉邦の皇帝即位後、軍事の最高責任者である大尉に就任した盧綰が燕王となり、大尉の地位が空席となった後も、軍功において第一位である曹参が大尉に就任することはなく、軍功を決める場においても、劉邦は『曹参を100人失っても、漢になんらの損害はない(が、蕭何は漢にとって本当に大事な存在であった)』という曹参を侮辱したような部下の発言に同意している。
さらに、かつて韓信の相国として斉の地を治めていたとはいえ、中央から出されて、そのまま劉邦・蕭何の死まで呼び返されることはなかった。 斉の相国となった曹参も、韓信に謀反をそそのかしたという理由で、劉邦に処刑されそうになった蒯通を賓客として招き、重く用いている。
斉国は大国であり、郡国制(皇帝が直轄して治める郡と皇帝が国を王に任せる国を併用して天下を統治する制度)をとっている前漢では重要な土地ではあるとはいえ、様々な想像ができる余地があり、曹参はどこかの段階で、劉邦とも相当な距離感が生まれていたことはほぼ間違いないようである。
黄老思想とは「黄老」と呼ばれる人物としては黄帝と老子、書物としては『黄帝書』と『老子』を一括して読んだ呼称を指し、この二つの書物が結合されて、黄老道と呼ばれるようになった思想を指すものである。
紀元前3世紀の中国の戦国時代に生まれたと思われる思想であり、斉の国において学派として発展していたとされる。
具体的な政治思想としては、君主自身が(元からこの世に存在する自然法を含めた)法に服従し、重税や軍事、民に対する労役などをできるだけ抑制して、昔からの制度をできるだけ改変せず、刑罰と法、文治と軍事を時と場合によって巧みに使い分けて、天下全体を様々に調整して、民を安らげる統治方法を説いている。
これは同じ法に頼るところは共通しながらも、始皇帝が建国した秦とは全く逆の法治国家を説くものである。さらに皇帝が全てを直轄地とする郡県制ではなく、郡国制を説いており、これは前漢王朝により採用された制度であった。
黄老道は「無為自然」を重視するが、その政治思想は民心などの国の状況に応じて、統治手段を使い分け、君主は家臣や民に対して、裁定者・保護者として統治を行うことを主張するものである。
黄老道の考えでは、君主は無私、無為や無欲であることを要求されるが、法家や儒家の唱える君主のように超人的な能力や徳を要求するものでなく、君主は比較的容易に君主である正当性を主張することができる。
また、君主にも自然法を含む法に従うことを要求する考えであるため、君主の暴走を防ぐ効果が期待できる。
このことは、法家の唱える政治を重視した始皇帝(嬴政)・胡亥や儒家の考えを重視しはじめた前漢の武帝(劉徹)の政治に大きな弊害が生まれたことに鑑みれば、この主張がかなりの説得力を持つものであることが分かる。
黄老道は前漢時代前半に重視され、漢王朝そのものでこの主張が取り入られたのは、曹参が相国になってからである。黄老道は曹参の死後も陳平、呂雉(呂后)、前漢の文帝・景帝に用いられ、この時代に前漢は大きな経済発展をとげている。
上記の通り、曹参は前漢王朝の政治に黄老道を取り入れた政治を行っている。曹参の政治は、民間への介入をできるだけ避け、清濁あわせた柔軟な法治を行うものであったと考えられる。
『史記』における曹参の伝記である『曹相国世家』では、上記の通り、曹参は相国として全く政治を行わなかったかのように記されているが、実際の曹参は、表面上は蕭何の政策を継続し続けたが、法令に厳しい役人を解任し、人徳ある役人を登用するといった人事をいれかえる政策で全体の方針の転換をはかっている。また、恵帝を誘導して、軍事行動や苛烈な土木工事を行わせず、民を休息させている。
蕭何が実施した政策や策定した法令は、基本的には秦の法令を踏襲した上で、その苛烈な部分を省き、ゆるやかに法を運用していくというものであったが、法令そのものに厳しいものが存在し、秦の時代に逆戻りをする危険をはらんでいた。そのため、曹参はその危険を未然に防ぐための政策を行ったと考えられる。
実際に、「何もしなかった」はずの曹参が相国だった時代に、都・長安の城壁の建築という大規模な土木工事が特に問題なく行われている。
また、曹参の相国時代に、「家族と円満に生活し耕作に励むものに対する租税の免除」、「官吏や民が個人的に福祉を行うことを禁止する法令の廃止」、「(秦の時代から法令上では残っていた)書物の私蔵の禁止令(「挟書の律」)の廃止」が実行され、曹参が実際は「なにもしなかった」わけではないことがこれで分かる。
上述した通り、韓信の副官となり、大きな活躍をした曹参であるが、韓信・曹参として活躍した人物たちも史書にその名が記載されている。灌嬰らが有名であるが、ここでは『史記』に列伝がありながら、知名度が低い傅寛と垓下の戦いにおいて、韓信軍の左翼・右翼を率いた孔藂(こうそう)、陳賀(ちんが)について解説する。
傅寛は、元々は魏の五大夫の騎将(騎兵を率いる武将)であったが、項梁の死後、劉邦が兵を撤退させ、碭郡に駐屯した頃に、碭郡の横陽(おうよう)県において、劉邦に従い、舎人(中涓より低い身分の劉邦の側近)に任じられた。
この時の魏はすでに魏王の魏咎(ぎきゅう)が秦の章邯との戦いで自害しており、その勢力はバラバラになっていたので、劉邦の元に身と投じたものと思われる。
身分の高くない舎人からのスタートであり、遅れて、劉邦の部下として加わった傅寛であったが、騎兵を率いる技能のおかげか、次第に重用されるようになる。
傅寛は、劉邦に従って東郡の秦軍と戦い、咸陽を目指す劉邦とともに、秦の将軍である趙賁や楊熊との戦いに加わっている。楊熊との戦いでは、首級12を挙げ、卿(けい)の爵位を賜っている。その後も劉邦に従軍して、関中に入った。劉邦が漢王となった後も従い、封地を与えられ、共徳君(きょうとくくん)と号し、漢中に入った後は右騎将に任じられる。
劉邦が三秦を攻めた時も従軍して功績をあげ、項羽との戦いでは、通徳侯(つうとくこう)の爵位を与えられ、龍且や周蘭を破った戦いでも功績をあげた。彭城後の敗戦後の事績は伝わらないが、劉邦のもとに戻り、韓信・曹参とともに斉を攻めて、功績をあげる。楊陵侯(ようりょうこう)に封じられ、今までの功績により、二千六百戸が与えられた。その後は斉の右丞相となり、斉の平定につとめる。後に、斉の相国となり(曹参との関係は不明)、周勃の部下として、樊噲の代役として劉邦に謀反を起こした陳豨を攻める。さらに、代の相国となり、代にいた軍を指揮した。恵帝の時代まで生きたが、恵帝の五年に、代の丞相の地位で死去した。
『史記』に列伝があり、全体として地味な存在ではあるが、功臣としての功績は第10位であり、劉邦軍の猛将として知られた靳歙(きんきゅう)や後に、漢の丞相となった王陵よりも上位である。
『通俗漢楚軍談』でも、目立ちはしないが、劉邦軍の代表的な武将として、重要な戦役にしばしば登場する。
劉邦が碭郡を制圧した時(もしくは碭郡に駐屯じた時期)に、碭郡の碭県において、劉邦軍に加わる。当初は執盾(しつじゅん)に任じられたが、漢王となった劉邦から左司馬に任じられ(曹無傷の後任?)、漢中に入ってから将軍に任じられた。都尉として項羽との戦いに従軍し、韓信のもとで戦い、垓下の戦いでは、「孔将軍」の名で記載され、韓信の軍の左翼を率いて、項羽の軍に勝利した。
功績により、蓼侯(りょうこう)に封じられる。封じられた戸数は不明であるが、功臣の功績順位は30位であった。
孔藂は、その名を孔煕(こうき)とする史料もある(煕は字か?)。また、『孔子家譜』によると、孔藂は孔丘(孔子)の9世の孫にあたり、父の名は孔樹(こうじゅ)とされる。
『通俗漢楚軍談』では、孔藂は弓馬にたしなみ、東斉の地に住み、太山登雲嶺(たいざんとううんれい)に移住していたが、韓信が趙を討伐した後に漢軍に加わり、韓信に大将に抜擢された人物とされる。韓信は孔藂を万夫不当(ばんふふとう)の勇士と紹介している。
劉邦が碭郡を制圧した時(もしくは碭郡に駐屯じた時期)に、孔藂と同じ碭郡の碭県において、劉邦軍に加わる。当初は舎人に任じられる。漢王となった劉邦から、これまた孔藂と同じく左司馬に任じられ、漢中に入る劉邦に従った。都尉として起用され、(孔藂と同じく)韓信のもとで戦い、垓下の戦いでは、「費将軍」(費侯に封じられたため)の名で記載され、韓信の軍の右翼を率いて、項羽の軍に勝利した。
功績により、費侯(ひこう)に封じられる。封じられた戸数は不明であるが、功臣の功績順位は31位であった。
『通俗漢楚軍談』では、孔藂とほぼ同様の事績の人物で、孔藂と同じく韓信に大将に抜擢されるが、こちらは項羽との戦いで戦死している。史実では上記の通り、戦死することなく、その後も生きている。
上記の司馬遼太郎『項羽と劉邦』と『史記』、久松文雄の『史記』(原作:久保田千太郎)のうち『項羽と劉邦』をベースとした漫画作品。
北斗の拳やドラゴンボールが連載中であった週刊少年ジャンプにおいて連載される。
曹参は、出番が余り与えられないか、出番は多くても個性が薄い創作作品が多いが、この作品では個性と出番が与えられている。
曹参は、蕭何と仲が良く、劉邦を慕う蕭何の夢に感化される。元々は、ただの牢番であったが、夏侯嬰もおどろくような武勇と度胸を見せるようになる。その時に、「なぜ強いか、分かるか・・。大将(劉邦)がいいからだ。この大将のためなら命なんぞいらねえ。そう思えるから強くなれるんだ」と答えるほど心酔していた。滎陽では、史実の紀信の代役として、劉邦の身代わりとなり、劉邦を脱出させる。その時、樊噲たちの救援を受けて、項羽の攻撃を二度までも受けて無事、脱出をとげる。
曹参の日本語での専著はないが、上記の黄老思想についての解説がなされ、曹参についても言及された専門書が存在する。内容は専門書であり、かなり難しく、入手も困難であるが、曹参のことをもっと知りたい人は図書館を検索して見つけたら、第十七章「漢の帝国運営と黄老道」、第十八章「漢の重臣と黄老道(1)―曹参の場合―」、第十九章「漢の重臣と黄老道(2)―陳平の場合―」までを読んでみよう。曹参については直接、解説されているのは第十八章であるが、第十九章は曹参の後を引き継いだ陳平について記載されており、曹参の思想と政策とその影響についてさらに詳しく知ることができる。
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2 ななしのよっしん
2020/08/16(日) 03:30:20 ID: TV3BUq5ubG
事績を見ると、頭は良いし理性的ではあるけど本質的にはブチキレやすい(良く言えば情に厚い)性格の人物だったイメージ。
本人にブチキレやすいという自覚はあるから普段は抑制的で穏やかに見えるけど、不測の事態になると本質が露になるような人は今でも結構いるしな
3 ななしのよっしん
2020/12/06(日) 08:59:43 ID: rDWAgjtWgb
曹参が斉の相国になった後、韓信に謀反をそそのかした蒯通を賓客として招いて、その助言を聞いていたという『漢書』の蒯通の列伝に記載された話を追加したよ。
さすがに私個人の考えが強いから、記事には書かなかったけど、曹参は劉邦の代理として韓信を監督・見張りをしていたのではなくて、武将たちの代表として、劉邦に恩賞を求めなければいけない立場だから、韓信の斉王就任を後押ししていたのだと思う。韓信一人では、あそこまで勝手な行動はできないだろう。
項羽は黥布たちを王に封じているし、曹参としては気前がいいはずの劉邦ならそれを実行するのが当然と思って、韓信の後押ししたので、中央から外されたんじゃないかな。
当初は蕭何と仲がいいはずの韓信が不仲になっているのも、説明がつくしね。
4 ななしのよっしん
2023/08/24(木) 11:14:40 ID: KhHLXI3Qg8
武廟というのは主催神が周王朝建国の元勲である太公望・呂尚(後世の諡号が武成王
)である関係上
合祀されている十哲や六十四将も全て「臣下の立場で活躍した名将」が占めている。皇帝や君主(小さな独立勢力のトップ含む)、
君主から(冤罪でなく)離叛した人物、子孫によって死後帝王に追尊された人物などが外されているのはそのため。
英布の場合も、例え売り言葉に買い言葉であっても「帝たらんと欲するのみ」と宣言してしまったことで
(韓信や彭越とは違い)真の謀叛人として合祀対象外になった(唐代の基準で名将と評価されていなかったとは限らない)んじゃないかなぁ。
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最終更新:2024/12/26(木) 03:00
最終更新:2024/12/26(木) 02:00
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