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【訂正】宝暦3年(1706年)→宝暦3年(1753年) 【追記】『下関市史・藩制―市制施行』を閲覧しましたが、明治5年2月25日の赤間関支庁開庁にあたり、その管轄区域は旧豊浦(長府)藩と旧清末藩と本藩の飛び地としたとありました。よって『旧高旧領取調帳』が伊崎新地=今浦開作を豊浦藩領としたのは誤記で、下関の大部分が長府藩領となっている中、享保3年から明治4年の廃藩置県に至るまで東から西にかけて海岸線沿いに竹崎浦(清末藩飛地)・今浦(萩本藩飛地)・伊崎浦(清末藩飛地)があったとするのが正しいと思われます。なお享保3年に今浦を萩本藩が接収した理由は、響灘一帯で密貿易をしていた唐船を取り締まるためで、後に軍事拠点へと変貌したと明記されていました。やがて1750年頃からこれら西部下関地区まで町場が広がっていったそうです。

ThanksImg質問者からのお礼コメント

詳しい記述ありがとうございます。

お礼日時:2020/4/4 2:24