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今浦は萩本藩によって埋め立てられた新しい土地(今浦御開作)であり、元々は伊崎浦・竹崎浦に付属する土地です。 古地図がどの時期のものを指すが分かりませんが、正保郷帳の写しと考えられる西暦1648年の「慶安二年 長門国石高帳」(山口県立文書館蔵・毛利家文書)によると、長門国豊東郡伊崎・竹崎共105石3斗4升6合は、長府藩・毛利甲斐守(毛利光広)領分となっており、この時期は長府藩領でした。 さて、清末藩は萩本藩の支藩である長府藩の支藩として西暦1653年(承応2年)に清末村ほか13ヶ村1万石として分知のが始まりで、西暦1718年(享保3年)に長府藩主の早世を期に清末藩主毛利元平(匡広)が長州藩本家を継ぐことで、一時中断しましたが、1729年(享保14年)に再び支藩として旧清末藩1万石が再興し、幕末まで続きます。「旧高旧領取調帳」によると、長門国豊浦郡伊崎浦97石2斗4升5合3勺および長門国豊浦郡竹崎浦134石1斗8升9合7勺は清末藩領となっております。 以上をまとめると、伊崎浦(後述の今浦を除く)・竹崎浦の所領は以下のように変遷したことになります。 慶長5年(1600年)~承応2年(1653年):長府藩領 承応2年(1653年)~享保3年(1718年):清末藩領 享保3年(1718年)~享保14年(1729年):長府藩領 享保14年(1729年)~明治4年(1871年):清末藩領 しかしながら今問題にしている「今浦」は、伊崎浦の伊崎入江を新たに開発した土地であり、享保の頃に誕生した新しい地名です。元々長府藩の家老細川宮内の知行地であったもの(伊崎入江)を萩本藩が享保3年(1718年)に楢崎村の金道と交換して蔵入地(藩主直轄地)とし、周りを長府藩(→清末藩)に取り囲まれた本開作だけを管轄する「伊崎宰判」(後に廃止されて吉田宰判所属となる)が誕生します。享保12年(1727年)~宝暦3年(1706年)に作成された「防長地下上申」で「今浦御開作内付出」として報告されているものによると、長府藩領より付け渡された古田の分が石高8石余、新開作分が12石。さらに新田開発が進み、天保12年(1841年)の「防長風土注進案」では吉田宰判の豊浦郡今浦御開作は129石9斗3升6合で総て蔵入地となっています。そして今浦開作こと伊崎新開は、幕末までずっと萩本藩領であり、幕末に赤間関(下関)で騒動が起こる時、萩本藩側からの指示は全てこの今浦の地を通じてなされました。 ところが明治維新の頃に作られた「旧高旧領取調帳」によると、長門国豊浦郡伊崎新地122石0斗6升1合は豊浦藩(旧長府藩)領となっています・・・これが事実だとすると、明治維新前後に今浦が急遽萩本藩(→山口藩)領から、長門府中(長府)藩(→豊浦藩)領へと、領地替えになったことになりますが、正直「旧高旧領取調帳」は書き間違いも多いので、自分はこの記述については疑います。 以上をまとめると、伊崎浦の伊崎入江→今浦御開作=伊崎新開の所領は以下のように変遷したことになります。 慶長5年(1600年)~承応2年(1653年):長府藩領 承応2年(1653年)~享保3年(1718年):長府藩家老細川宮内知行地(清末藩領の一部という扱いか?) 享保3年(1718年)~明治4年(1871年):萩藩蔵入地→山口藩蔵入地(藩主直轄地) 旧高旧領取調帳の記述が正しいとすると、明治元年(1868年)前後に今浦=伊崎新開は山口藩から長門府中(長府)藩→豊浦藩領に領地替えがあったことになります。
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【訂正】宝暦3年(1706年)→宝暦3年(1753年) 【追記】『下関市史・藩制―市制施行』を閲覧しましたが、明治5年2月25日の赤間関支庁開庁にあたり、その管轄区域は旧豊浦(長府)藩と旧清末藩と本藩の飛び地としたとありました。よって『旧高旧領取調帳』が伊崎新地=今浦開作を豊浦藩領としたのは誤記で、下関の大部分が長府藩領となっている中、享保3年から明治4年の廃藩置県に至るまで東から西にかけて海岸線沿いに竹崎浦(清末藩飛地)・今浦(萩本藩飛地)・伊崎浦(清末藩飛地)があったとするのが正しいと思われます。なお享保3年に今浦を萩本藩が接収した理由は、響灘一帯で密貿易をしていた唐船を取り締まるためで、後に軍事拠点へと変貌したと明記されていました。やがて1750年頃からこれら西部下関地区まで町場が広がっていったそうです。
質問者からのお礼コメント
詳しい記述ありがとうございます。
お礼日時:2020/4/4 2:24