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正式にはなかったようですが副将軍扱いというのはあったようですね。 確か初代は家康時代に伊達政宗がなっていたようです。
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質問者からのお礼コメント
水戸光圀もですか?
お礼日時:10/8 23:35
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徳川光圀 水戸藩主:従四位上右近衛権中将 隠居後:従三位権中納言(黄門) 4代将軍徳川家綱 慶安4年(1651年)8月18日、正二位内大臣兼右近衛大将(併せて征夷大将軍・源氏長者宣下) 5代将軍徳川綱吉 延宝8年(1680年)8月21日、正二位内大臣兼右近衛大将(併せて征夷大将軍・源氏長者宣下) 平安時代の頃から近衛大将を将軍、近衛中将を副将軍と呼んだ。 ※海軍大将(海将)は提督と呼ぶ。 近衛府とは天皇官軍陸軍省(防衛省)で長官は大将(陸将)です。 大将は左近衛大将と右近衛大将の二人。次官の中将は複数いた。 一般的に左大将が朝議に出る陸軍大臣の役目なので貴族文民が任じられた。 左大将が陸軍総司令官(自衛隊陸幕僚長:幕は幕府の幕)で武士軍人が任じられた。 左近衛大将も右近衛大将も朝廷閣議(朝議)に参加出来る大納言(国務大臣)上の大臣が兼務した。 徳川将軍は右近衛大将(一部は左近衛大将)に任じられ、水戸家当主は歴代右近衛権中将です。 徳川将軍家直参譜代には一家近衛中将家があります。それは家康四天王の一人だった大老井伊家です。徳川将軍家の本当の副将軍は井伊家になります。 井伊直弼(彦根藩主) 正四位上掃部頭兼左近衛権中将 徳川斉昭(水戸藩主) 従三位権中納言兼左近衛権中将兼左衛門督 幕末、大老井伊直弼と争った水戸斉昭は 三位中納言(黄門)の水戸家こそが「天下(天皇の下)の副将軍」として大老格柳沢吉保と争った水戸光圀の水戸黄門漫遊記を広めたとされる。 水戸光圀の死後、松の廊下刃傷事件や赤穂浪士忠臣蔵事件が起きる。 柳沢吉保 従四位下侍従兼左近衛少将兼美濃守 吉良義央 従四位上侍従兼左近衛権少将兼上野介 浅野長矩 従五位下内匠頭 松の廊下事件では幕府の刑法では喧嘩両成敗。 しかし、大老格柳沢吉保より高家旗本肝煎吉良上野介の方が1つ官位が上なので処分が出来なかった。それにより赤穂浪士忠臣蔵事件が起きる。 源頼朝 建久元年(1190年):正二位権大納言兼右近衛大将に任じられる。 建久3年(1192年):征夷大将軍に任じられる。 古来、幕府とは征夷大将軍に任じられた時でなく近衛大将が政務を執る屋敷(城)の事を言う。よって現在の日本史教科書では鎌倉幕府成立は1192年ではない。