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将軍家が握っていた権力の分散化も影響してるのではないかと。 また、将軍家と守護の関係性だけではなく、守護とその家臣との関係性も大きく影響してます。 大家ではよくお家騒動や権力闘争が起きます。 その時、別れた派閥があてにするのが主家や幕府ですが、その将軍家/幕府でもお家騒動/権力争いが起きたり、東では鎌倉公方が強い影響力を持っていると、結局、大きな派閥争いに発展するだけです。 とある家の別れたニ派がそれぞれ別れた幕府や公方家の有力者の傘下に入って争います。 肝心の幕府も、細川家が実権を握り、その細川家内でも権力争いが起きます。 そうやってどこもかしこも争って戦国時代に突入していきました。 一方、鎌倉時代は権力が北条氏(得宗家)に纏められたので、北条氏を滅ぼすまでは統制はそこそこに取れていたのでしょう。
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質問者からのお礼コメント
大変詳しく教えていただき、みなさん、ありがとうございました!
お礼日時:10/9 0:26
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後世の江戸幕府と比較するから室町幕府が統制に欠けるように見えるだけで、管領家は足利一族であり親藩大名と考えることもできると思います。また彼らの守護国を見れば、斯波氏(尾張・越前・遠江)細川氏(摂津・丹波・和泉・阿波・淡路・備中)畠山氏(河内・紀伊・越中・能登)であり非常に多く、しかも幕府のある畿内を中心に支配しています。 守護は管領や四職含め一丸になることは殆どなく、将軍は直接強大な軍事力を持たずとも対立を煽り討伐すれば事足りています。実際、足利義教も万人恐怖と言われながら守護が団結して義教を討つことはなく、赤松の単独犯でした。 また、鎌倉幕府との比較でも、鎌倉幕府の御家人は、地方の武士側が奉公を差し出す代わりに御家人になるため、当然従うのが基本です。 御家人になる財力のない武士や、従うつもりがない武士たちは幕府と距離を置いているので幕府の統制外です。つまり、鎌倉時代の御家人は御家人になりたい人たちが御家人になっているので、従うのが当然であり、御家人ではない武士の方が多数派です。 室町幕府は守護在京制の下、主要な守護が京都にいるのが当たり前になっており、勝手に守護国に下向すれば残った守護の連合軍で討伐するという仕組みで成り立っていました。が応仁の乱によって、結果的に殆ど全ての守護が下向したことで集団で討伐する仕組みが機能せず崩壊に至りました。 室町幕府に政治的欠点がなかったとは言いませんが、地方政権だった鎌倉幕府は蒙古襲来を機に意図せず全国政権化した結果、すぐに滅亡しており、不安的な政治状況のなか将軍になる正当性もなかった足利氏が全国政権を成立維持できたことが偉業だと思います。(置文などによる足利氏が源氏の嫡流という話も足利氏の創作)
実はこれ、初代将軍・足利尊氏の大失敗なんです。 足利尊氏は欲というものの全くない「いい人」で、家臣が手柄を立てると気前よく次々と領地を与えた結果、幕府の中枢にいる有力御家人が足利将軍家を上回る石高(=兵力)を持ってしまい、幕府が御家人をコントロール出来なくなって戦国時代に突入したのです。 だから徳川家康はその反省から、江戸幕府では幕府の中枢に近い譜代の大名には権力は与えるが領地は小さく抑え、逆に外様の大名には大きな領地を与える代わりに幕府の権力は与えず、権力と武力を両方持った大名が現れないようにして江戸幕府を長期政権化したのです。
こんにちは 室町幕府成立時は、北朝と南朝に分かれて争乱が繰り広げられていました。 このため、北朝方である室町幕府は守護を味方につけるために、守護にとって魅力的な政策を次々に打ち出しました。 刈田狼藉の検断権、使節遵行、半済令などです。 こうして、守護に大きな特権を与えたことにより、守護は任国での勢力を強めて強大化してしまいました。 南北朝合一後も、このような経緯のため、室町幕府は強大な守護大名に支えられた政権なってしまったとういことが要因となります。