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中国寄りとは思いませんが、いろいろ問題はあると思います。 まず分祀というのは神道においては同じものをコピーするような概念であり、特定の部分を取り除くものではありません。 これを権利者側が民間の宗教団体に要請なり提案なりするのは、意図せずとも強制力が働き、極論すれば弾圧につながるものになりかねない。 また、そもそもA級戦犯とは何か。彼らは死後永遠に忌避されるべきほどの存在なのか。彼らはあくまで戦勝国側が認定した戦争責任者であって、日本側はこれを受け入れたとはいえ、日本人自ら一連の戦争を総括してはいない。 A級戦犯は独裁者ではなく、あくまで個々の政治家や官僚などでしかない。彼らに無制限の責任を押し付けて、何か反省した気になっているのが現状ではないのか。 彼らに責任無しとは言わない。しかし、彼らにだけ責任を押し付けていてよいのだろうか。 靖国問題も彼らをパージすれば当面の問題が解決できるだろうという打算でしかない。 A級戦犯の名誉を回復すべきと思うほどの思い入れはないが、彼らだけに責任を押し付けて反省した気になっている現状に対しては賛成できない。
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ありがとうございます。 貴殿の御指摘はこの問題の行き着く終着点だと思います。 熱狂支持した国民一人一人にも責任があるということになりますね。 そこから自虐史観、土下座外交にさせない為にはどうあるべきとお考えでしょうか?
質問者からのお礼コメント
四名の皆様、貴重な御意見、誠にありがとうございました。
お礼日時:10/8 18:45
その他の回答(3件)
独立した神道系宗派の宗教法人となった戦後の靖国のせいで、自分の持つ信仰に照らして参拝できないことを問題視したことのある政治家や、分祀を主張したことのある政治家というのは少なくありません 大物だとクリスチャンの麻生あたりも同様の意見を言ってたことがありましたし、過去には保守右派の中曽根総理などが分祀を神社側に打診しましたが神社側から拒否されています >戦争が起こって死にたくなかった人が死に追いやられ、ノーホイッスルだと>して終戦後に上官と共に祀られて、それで末端兵士は名誉な事だと思うでしょうか? そんなん言ってたら戦死者全員を別々のところに祀らないといけないのでは? そもそも誰をどんな理由で祀って遇するかなんてのは個々の宗教法人の自由でしょう。合祀を行った当時の宮司の判断はNGだと思いますが、靖国という宗教法人がそれをやること自体は信教の自由でしょうし、信者門徒が個々にそれを是とするか非とするかは個人個人や宗教内の問題かと思います
そもそも靖国神社は戦争を鼓舞するために作られた神社で、戦争一般の犠牲者を弔う目的ではありません 弔うなら、350万人の日本人、2000万人以上と言われる大陸などの犠牲者に対する弔いであるべきで、国立霊園へのお参りが妥当でしょう 戦争を美化し、日中戦争を「自衛存続のための戦争」と言うこと自体が犯罪です その上に、主要な戦争責任者を「貴い犠牲」と合祀することは、戦争責任を無いことにする、さらなる犯罪と言うべきです 彼らは無謀な戦争を企画し、国民や外国に犠牲を強いた張本人です ですから、分祀すれば良いのではなく、靖国に参拝しないことが良いのです
靖国神社におけるA級戦犯の「分祀」に言及することをもって、林芳正氏を「中国寄り」と断じる見方には、ご指摘の通り一面的または飛躍した見方である可能性があります。 A級戦犯分祀論の背景と林芳正氏・古賀誠氏の立場 A級戦犯分祀論は、靖国神社に合祀されているA級戦犯に対する諸外国、特に中国・韓国からの批判や、昭和天皇を含めた皇室の方々による参拝が途絶えている現状、そして国内の遺族や識者の一部から出る「A級戦犯の合祀がなければ、より多くの人がわだかまりなく戦没者に手を合わせられる」という意見に対応するために、国内的な問題解決として浮上してきた経緯があります。 林芳正氏の主張 林芳正氏は、自民党総裁選の際にA級戦犯の分祀に言及し、「皇室の皆さん含めて、わだかまりなく手を合わせることができる環境をつくるのは政治の責任の一つだ」と述べています(検索結果1.1)。これは、過去に中曽根康弘元首相らが取り組んだとされるように、国内の「わだかまり」を解消し、国家的な慰霊のあり方を再構築するという視点が前面に出ています。 古賀誠氏の主張 古賀誠氏は、元日本遺族会会長という重責を担っていた人物です。その立場から、以前からA級戦犯の分祀(または「廃祀」)を主張してきました(検索結果2.1, 2.3)。遺族の声を代弁し、戦没者慰霊の本質を追求する中での主張であったと言えます。古賀氏は自民党の重鎮であり、「中国寄り」というレッテルとは程遠い、保守本流の政治家です。 お二人の主張は、主に日本の国内問題として、戦没者の慰霊や皇室の関わりといった点に焦点を当てており、純粋に「中国の意向に応えるため」だけが動機であると見なすのは不自然です。彼らの立ち位置や発言の背景を考慮すれば、「中国寄り」という単純なレッテル貼りは、議論を矮小化してしまう可能性があります。 末端兵士の思いについて ご指摘の通り、戦時下の末端兵士の思いは多様であり、「名誉なこと」と感じる方もいれば、戦争指導者への批判や複雑な感情を持つ方もいたでしょう。 * 坂井三郎氏のように、軍の体制や指導者に対して批判的な考えを持つ元兵士がいたことは、当時の軍隊の内部にも様々な意見や感情があったことを示しています。 * **「ノーホイッスル」**で命を落とさざるを得なかった兵士たちにとって、戦争指導者と共に祀られることに対する複雑な思いは想像に難くありません。彼らの慰霊が、指導者の責任問題によって影を落とされていると感じる遺族や国民がいることは事実です。 分祀論は、こうした戦没者やその遺族の多様な思いに寄り添い、指導層の合祀によって生じた慰霊の場における「わだかまり」を解消しようとする動きと解釈できます。亡くなった方々の真意を今知ることは不可能ですが、後の世の私たちが、彼らが安らかに祀られる環境を整えることは、重要な責務の一つと言えるでしょう。 結論として、A級戦犯分祀論は、外交的な配慮だけでなく、日本の歴史認識、皇室の役割、そして何よりも戦没者とその遺族の感情という、多層的な国内問題を背景に議論されており、「中国寄り」と一言で片づけるのは適切ではないと考えられます。