加賀は専門なので詳細に答える
「逃げ延びた人達はどのくらいいたのでしょうか?」
天正十年の「山内衆残党討伐」で、落延びた者は、
大窪六左衛門、坪原佐兵衛、鈴木某、九兵衛、源次郎、
など名前が挙がっているが、詳細不明
史料的には、尾添組・吉野組は全滅(根絶やし)
他の白山麓の村々は佐久間に降伏しているので、
戦乱に巻き込まれてはいない
寝返った牛首組の者は、
合戦後に「落人狩り」を行い、恩賞があったはず
佐久間側についた裏切者(加藤藤兵衛と牛首村衆)らは
所領安堵から加増されたのだろうと推測
牛首村の他に、裏切った村民がいただろうが、まったく不詳
・・・
「どこまで逃げていたのでしょうか?」
白山麓(牛首=白峰)を越えて越前国へ
*(白山系を越えて飛騨まで逃げるのは難しい)
・・・
「入場した後に付近の村民達は帰還できたのでしょうか?」
*まず能美郡別宮二曲の新領主は、前田家ではなく村上家
*別宮二曲が前田家領になるのは20年後
*1585年頃には別宮二曲は復興したようだが、
丹羽家および村上家が何をやったのか記録に一切無い
*おそらく村上家が入植事業を行ったのだろう
後の十村役「二曲村與兵衛」の先代が入った可能性あり
山内衆残党狩で尾添吉野などの七ヵ村が、
焼き払われて根絶やし「三年間荒地のまま」とある
尾添吉野は数年後に前田家の石川郡編入か
その後に復興しているが、これも他所からの入植だと思われる
その他の村々は降伏してたので佐久間支配下にあり安堵
・・・・・・・・・・補足・・・・・・・・・・
「ふとうげ(別宮城・二曲城)」に立て籠もった
一揆勢「山内衆=白山麓衆」がどうなったのか、
史料提示で詳細に答えておく
*二曲(ふとうげ)
*二曲村(ふとぎむら)
*別宮城(のちに鳥越城と改称)
*山内庄四邑(牛首組・尾添組・二曲組・吉野組)
***年次***
天正八年(1580)
三月 顕如上人、信長と和睦
十一月 別宮城主鈴木出羽守父子、松任城に呼び出され謀殺
天正九年(1581)
三月 吉野衆・二曲衆決起す
柴田軍が二曲城別宮城を包囲
吉野二曲衆、佐久間玄蕃の攻撃で全滅
天正十年(1582)
吉野衆、再々起す
佐久間玄蕃の掃討を受ける
吉野・佐良・瀬波・市原・木滑・中宮・尾添・荒谷が壊滅
三百人(以上)を虐殺す(七箇村根絶やし)
天正十一年(1583)
前田利家が秀吉より石川郡・河北郡を拝領、
尾山御坊に入城す(尾山城・1600年頃から金澤城に改称)
*江沼郡は溝口伯耆守秀勝
*能美郡は村上周防守頼勝(別宮二曲は村上領になる)
*両郡一部が堀久太郎秀治
文禄四年(1595)頃
本願寺教如上人、加州山内庄吉野惣道場へ御影下賜
慶長六年(1601)
前田利長が家康より能美郡・江沼郡・松任を拝領
寛永七年頃
別宮奉行「前田刑部和勝」
寛永十八年
能美郡十村組
「澤村源之丞」「寺井村孫七」「釜清水村次郎右衛門」
「若杉村八兵衛」「犬丸村太右衛門」「今江村三右衛門」
「二曲村與兵衛」「波佐谷村文兵衛」「土室村六兵衛」
1907年8月5日
能美郡の別宮村、河野村及び吉原村が合併して、
能美郡鳥越村が発足する
****史料提示****
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『信長公記』
能登加賀両国柴田一篇申付事
(天正八年)閏三月九日
柴田修理亮加州へ乱入、
添川手取川打越宮之腰に陣取所ゝ放火。
一揆野の市と云所川を前に当楯籠
柴田修理のゝ市之一揆追払数多切捨
数百艘之舟共に兵粮取入分捕させ是より次第に奥へ焼入
越中へ越候安養寺越之辺迄相働安養寺坂右に見而
白山之麓能登境谷入迄悉放火し
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(天正八年)十一月十七日
柴田修理亮調略にて賀州之一揆歴〃者所ゝにて
手分を申付生害させ頸共安土へ進上則松原町西に被懸置候也
頸之注文
若林長門、子若林雅楽助、子若林甚八郎、
宇津呂丹後、子宇津呂藤六郎、岸田常徳、子岸田新四郎、
鈴木出羽守、子鈴木右京進、子鈴木次郎右衛門、子鈴木太郎、
鈴木采女、窪田大炊頭、坪坂新五郎、長山九郎兵衛、
荒川市介、徳田小次郎、三林善四郎、黒瀬左近
以上十九人
信長公御感不斜候之也
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(天正九年)三月九日に取詰候
又加賀国白山之麓ふとうげと云所に卒度足懸りを拵ヘ
柴田修理人数三百計入置近辺知行之所務納置処
賀州一揆手合として令蜂起
ふとうげへ取懸攻破入置候者悉討果し候
爰国之為警固、佐久間玄蕃を残し置候則
玄番頭ふとうげへ責上り乗帰シ一揆共数多切捨
手前之高名無比類
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*1580年までに加賀制圧
*討伐で「ふとうげ=別宮二曲」は全滅、佐久間支配村へ
*ここに加賀一揆壊滅、信長「比類のない手柄」
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『三壺聞書』
加州石川・河北の一揆退治の事
十一月二十日に越前柴田勝家より安土へ飛脚到来す。
今月朔日に加賀国一揆共打起ち、
上方へ発向すと承及ぶに付き、
府中の侍大正持御幸塚を催して数千騎押寄せ討取る
首帳、
若林長門守・同雅楽之助・同甚八・宇津呂丹後・同藤六
・岸田常陸・同新四郎・鈴木出羽・同右京・同次郎左衛門
・同采女・同太郎・窪田大炊之助・坪坂新五郎・長山九郎兵衛
・荒川市助・徳田庄次郎・三林善吉・黒瀬左近
十九人とぞ書上げける。
信長公御感ありて、安土の松原に獄門に被懸、
人々に御感状賜り、金沢の城には佐久間玄蕃、
松任の城へ徳山五兵衛を遣し置き給ふ。
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*本願寺武将十九人名が信長公記と微妙に違う
*松任はその後「太閤蔵入り地」
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本願寺顕如『鷺森日記』
加洲山内モ、彼一揆等取出テ及一戦。
則キリマケ(斬り負け)テ、
三月遡日落居云々。
生捕数百人ハタモノ(磔)ニアゲラルゝト云々。」
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*本願寺記録では数百人磔
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『上杉景勝書状』
仍而先達柴田山内相動候處、
及防戦、及数千討取之由心地能候。
次彼徒越中表相動候。
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*上杉側では山内衆は全滅という認識
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『石川郡吉野邑 長平三郎文書』
先年加賀國一揆大将之内、山奥之大将鈴木出羽、
能美郡二曲之城ニ居申候處、
柴田修理殿御たばかり御ころし被成候ヘハ、
加賀國御手ニ入申候ヘ共、牛首組能美郡拾六ヵ村、
石川郡吉野村、佐良村、瀬波村、市の原村、木滑村、中宮村、
能美郡尾添村〆弐拾三ヶ村之者共、六七年ノ間
柴田修理殿ヘ付不申候處、牛首組拾六ヵ村引入被成候而、
石川郡吉野村、吉岡村の境エ柴田殿人数御向候處、
牛首組御味方仕ニ付、七ヵ村の者共まけ、
則吉野村ヨリ尾添村迄の者共三百人余御とらへ、
はりつけニ御あげ被成、其後七ヵ村御たやし被成、
三ヶ年の間荒地ニ罷成申候。
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*「柴田の鈴木誅殺」
*「牛首組十六ヵ村の裏切り」
*「吉野尾添の三百人余磔」
*「三年間荒地」
****参考書****
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山内美義『白山麓と一向一揆 ~鳥越城と鈴木出羽守~』
(抜粋)
【一里野の惨劇】
一五八二年(天正十年)三月一日、
佐久間盛政の一揆勢残党の大掃蕩戦において、北谷山内衆は、
そのうちの吉野佐良方面の百姓や女子供たちは
瀬波川に沿って追い込まれ皆殺しにされ、
生き残った百姓たちは尾添川の奥地に攻め込まれ、
尾添一里野(現在の白山一里野県立自然公園)一帯で
300余名が捕えられ、はりつけなどの大虐殺をうけて、
一揆勢百年の息の根を止められたという。
(略)
三年後、前田利家は、
この戦いで逃げのびた佐良村の九兵衛や
吉野村の源次郎らを逃亡先の越前領から呼び戻し、
吉野谷の村々を再建させて、
これを能美郡から前田領である石川郡に編入させたという。
現在も石川郡である。
この佐良村の九兵衛は、一揆の残党組の一人で、
北谷の代官をつとめていたものともいう。
(略)
【独活平の争い】
一五八五年(天正十三年)三月一日、別宮の山の手の独活平へ、
牛首村加藤藤兵衛配下の二口村の百姓たちは
「独活平は自国越前領だ」と押しかけ、
一方別宮と三ツ屋野側は
「独活平は昔からわれわれの山であるから立ち入らせない」と
互いに譲らず、ついに撃ち合いとなり、死者も出したという。
越前と加賀の両藩は、この独活平を両国の国境緩衝地帯として、
双方の住民の立ち入りを禁止したという。
(略)
当時、越前藩に対する加賀藩の関所が、河原山の山の手にあり、
これを上番所とも夏番所とも称したそうである。
(略)
前田家では、
のちに、落城後の鈴木家の生き残りの人びとを探し出して、
手厚く遇したという。
【一揆の残党】
この一揆殲滅戦で逃げのびた落武者も、かず多くあっただろう。
その中に、大窪六左衛門や坪原佐兵衛などがあり、
左礫山道か、あるいは二口山から荷方の大窪の森の中や
虎狼の滝の洞穴などに隠れて住みつき、のち、
近くの村の住人となったものであろう。
(略)
以下追記へ続く