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同じ雑誌に野球漫画がかぶっていたという話は聞きません。 時代が違いますが、今の少年誌で野球漫画が2作というのは結構あります。 水島新司の場合、まず小学館の少年サンデーで佐々木守原作の「男どアホウ甲子園」を連載中。 そのときに秋田書店の少年チャンピオンで「ドカベン」開始。 そこで水島氏は他誌で連載している野球漫画とかぶるのを防ぐために、「男どアホウ甲子園」が終わるまでの間、「ドカベン」を柔道漫画として続けました。 のちの作品から補充すると、山田太郎は小学生のとき相撲をしていて、その後、野球を始め、中学2年で野球から柔道に移り、中学3年で野球に戻りました。 山田太郎の父親は野球ファン。太郎に野球をさせるつもりでした。 太郎少年は野球でなく相撲をするつもりでした。 太郎が入った小学校では野球部は4年以上で、太郎は身体作りのため3年生まで相撲をしていました。 のちの東海高校の雲竜はこのとき別の名前で、太郎と相撲で対戦していました。 4年生になる寸前に両親がバスの事故で他界。 当時2歳くらいの妹サチ子とともに祖父の畳屋で暮らすことになります。 このときから太郎は野球を始めました。 「ドカベン」第1話は山田中2から始まり、岩鬼と山田が柔道部に入りました。 しかし、山田が野球をやっていたという話は随所で観られ、野球部の長島投手(長嶋茂雄と似ているが別人)が山田の野球の才能を見抜き、野球場に誘って勝負を挑むなどいろいろ試していました。 当時、野球部の捕手が長島の変化球を捕れず、長島は山田の捕球技術を求めていたようです。 この長島投手は最近の「殿馬一人外伝 秘打白鳥の湖誕生秘話」で山田の打撃練習のシーンに1コマだけ出てきます。 昭和のころ、少年チャンピオンコミックスの単行本では「爆笑コミックス」「恐怖コミックス」というジャンルが下の欄に書かれてありました。 柔道編のとき、「ドカベン」は少年チャンピオンコミックスでは「学園コミックス」として紹介されていました。 「野球コミックス」になったのは「大甲子園」以降です。 ちなみ手塚治虫の「ブラックジャック」は最初は「恐怖コミックス」で、あとで「ヒューマンコミックス」になっていました。 柔道部時代の太郎は賀間や影丸と対戦。彼らはのちに野球でも太郎と対戦します。 その後、山田は前の学校で野球をしていたとき、東郷学園中学との試合で小林投手の目をスパイクしてしまったことが判明。 また、里中はこのとき、東郷学園のベンチにいて、のちに退部しています。 小林投手の目が手術でなおり、山田は鷹丘中学野球部に入り、野球に戻ります。 野球部の新メンバーを集める段階で、サチ子が殿馬をスカウト。 それで小林投手と再戦。ここで殿馬が秘打白鳥の湖を披露しました。 ここで太郎たちは敗れますが、不知火、徳川監督はここで登場、スタンドで観戦していました。 その後、里中、不知火、雲竜が山田に高校入りを勧めます。 明訓高校に入ったあとの山田世代の活躍は周知のごとし。 少年チャンピオンコミックスの単行本と文庫では中学編(つまり柔道編)から収録されていますが、途中の豪華版では明訓入学から収録していたので、柔道編はもちろん、中学野球編も入っていませんでした。最近、コンビニで随時、商品になっている分厚い単行本では中学編からきっちり収録されているようです。 アニメも柔道編から始まりましたが、原作が明訓編に入ったあとにアニメが始まったため、すでにオープニングの主題歌の映像では柔道着を着た太郎がボールを受ける場面がある以外は明訓編の映像でした。 アニメでは柔道編は原作より短く終わり、すぐに野球編に移っています。 水島氏は他誌に描いていた野球漫画とかぶるのを避けていたということのようです。 なお、同じ雑誌で野球漫画がかぶるのを避けた例は、貝塚ひろしが少年ジャンプに「父の魂」を描いていたときで、途中から同じ「少年ジャンプ」誌上で梶原一騎・井上コオの「侍ジャイアンツ」が始まり、貝塚氏は「同じ雑誌に2つの野球漫画は不要」と判断し、「父の魂」を終わらせたそうです。
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質問者からのお礼コメント
回答ありがとうございました(’▽’)ノまた質問に回答お願いします~
お礼日時:2010/3/27 14:49
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本当ですよ! 中学に転校してきた 山田は柔道部に入りました♪♪ しかし、野球部が人数不足ということで、 山田は野球部に入りました!! (もともと山田は野球をやってました。) 簡単に言えば、 足腰を鍛えるために 柔道部に入ったような もんですよ☆★
山田はかつて野球の試合中のクロスプレーで小林選手を失明寸前に追い込んでしまい一時、野球を辞めてしまってました。 その後、小林選手が回復したと知り野球に戻る訳です。 原作者の水島先生も最初から野球漫画にするつもりだったらしいです。