いくつになっても好奇心と向上心を持って、勉強することは大事だと思う。何でも興味が湧いたことをやればいいのだけれど、大人になって、誰にとっても勉強する「べき」ことって、歴史を学ぶことと外国語を習得することの2つ位しか無いんじゃない?って、最近は思うようになった。
杉山正明著『クビライの挑戦~モンゴルによる世界史の大転回~』(講談社学術文庫)を読んだ。
とても面白い。1995年にサントリー学芸賞を受賞した本だとか。全然知らなかった。不明を恥じた。
モンゴルには、2004年に馬頭琴とホーミーのレコーディングをするために、ウランバートルに滞在したことがある。(その時のことは、以前、こちらに書きました。)
モンゴル人は愛想は無いけれど、親日的だ。そして、決して豊かな国では無かったけれど、
「俺たち世界一になったことあるゼ」的なプライドを感じて、ますます好きになった。
その頃の僕には「騎馬民族で戦争が強かったんだよね」位の認識しか無かったけれど、、。
モンゴル民族を中心とした「モンゴル帝国」の成立は世界史的に非常に大きな転回点になったというのがこの本の主旨だ。
ユーラシア大陸全体が、一つの通商圏になったこと、おそらく人類史で初めて、人が「世界」を意識したのではないかという問いかけは、非常に興味深い。
面白かったのは、モンゴル帝国は、民族、宗教などに関係なく人材登用をしたこと、基本的なルールを守れば、属国の「自治」は尊重したこと。人や物の往来をできるだけ自由にして通商を盛んにしようとしたこと、などで、いずれも現代にも通じる価値観だ。
寛容な支配というのは、ローマ帝国にも通じるなと思った。
高校時代に受験対策以外の世界史をさぼったせいで、世界史の把握が浅かった。グローバルに仕事をしようと思うと、各国の文化や歴史を最低限を知る必要がある。そんな時に、世界史全体の流れを自分なりに持っていないと、ただの「豆知識」になってしまう。
「教養」というには恥ずかしい「鼻クソ」みたいなものだけれど、自分なりのとらえ方は持っておきたいと思って、10年位前から、歴史に関する本を読むようになった。
西洋史の勉強が必要だなと思って、いろいろ探しているウチに、見つけたのが塩野七生の『ローマ人の物語』(新潮文庫)だった。
正確に言うと、『痛快ローマ学』(集英社インターナショナル)という図解付きダイジェスト本(ローマ史が初めての方にはオススメです)を見つけたのがきっかけで、『ローマ人の物語』をシリーズで読み始めた。
このシリーズは、分厚い単行本で全15巻(文庫では全40巻)もある。最初は、文庫で読んでいたけれど、そのうち文庫化されている分は追いついてしまい、単行本を読み始め、遂には毎年1冊ずつでるのを待つようになった。
2006年にシリーズが終了したが、それこそ人類史に残る力作だ。塩野七生の『ローマ人の物語』は、ローマの歴史を描いた傑作として、世界中で読み続けられると思う。
塩野さんはルネッサンス期に関する作品もあり(ヴェネツイアを描いた『海の都の物語』も超お薦めです!)僕はお陰で、西洋史に対して、自分なりの見解を持つことができるようになった。
司馬遼太郎さんの愛読者は「司馬史観」を持つというけれど(司馬遼太郎もファンです)、僕は、西洋史に関して、「塩野史観」の影響を強く受けている。
自分なりに咀嚼して、思いっきり乱暴に言うと、
「僕の好きなヨーロッパはローマ(とギリシャ)がルーツの価値観で、良くないと思うところは、キリスト教(教会)の影響下の事象なんだな」
ということ。
自分の中にあった、「欧米的な価値観で好きなところと、悪いと思うところ」が、随分、綺麗に色分けできた。
それは、もっとざっくり言うと、「多様性を認める」ということ。
(キリスト教教会も改革の歴史があるので、キリスト教がダメという意味では無いけどね。)
ローマ帝国も民族、宗教に対しては、寛容であるのが基本的なスタンス。
そして、今の時代が「パックスアメリカーナ=アメリカによって世界秩序が形作られている時代」だとしたら、ローマ帝国やモンゴル帝国が主役だった時代に比べて、優れているところは、ほとんど無い気がする。
武器が槍や鉄砲から、コンピューター制御のミサイルになったことって、進歩って言うのかな?
戦争を始める理由や阻止する方法論、終らせる時の論理が優れている事の方が人類の智恵だと僕は思うのだけれど、その観点で言うと、人類は2000年掛けて、全く進歩していない、というか、ローマ帝国市民の方がアメリカ合衆国国民(もちろん同盟国の日本人も同罪だけど)よりも、ずっと智恵を持っていたのは間違いない。
僕はいわゆる「反原発」論者でじゃないけれど、原発問題についても、人類の智恵と進歩
みたいな観点で、もっと謙虚に、かつ長期的な視野で捉えるべきだと思う。
歴史上に沢山登場する「滅びていった国」に、長い歴史を持つ日本がならないために、今回の原発事故が没落の始まりにならないために、どうすれば良いのか考えたい。
ちょっと話が大きくなったけど、歴史を学ぶって、そういう事だと、僕は思っている。
2011年5月30日月曜日
2011年5月27日金曜日
ジャーナリストになりたかった、ことはない。
去年、iPadを買って、日経新聞の購読をやめた。朝起きて、新聞受に朝刊を取りにいき、トイレやソファで新聞を読むという行動は一生続く習慣だと思ってたので、ちょっとびっくりした。新聞のコンテンツとしての質が下がっているような気がしていたのと、ツイッターとグーグルリーダーで、ネット上から情報を得れば十分だと思ったのが理由だけど、試してみたら、何の不自由も感じなかった。1年間の新聞購読料でiPadを買ったことになるね。
教養と良識の象徴が新聞だった事は覚えている。中学生の頃は、教師に勧められて、深代淳郎著の「天声人語」を読んだ。あの頃は、朝日新聞からたくさんのことを教わっていた気がする。
日経新聞に続いて、朝日新聞がデジタル版を始めたけど、値段は高いし、紙をデジタルで「も」見えるようにしただけで、全く魅力を感じない。新聞社という存在が、時代から取り残されてしまった感じが、自分が深く仕事をしてきたレコード会社と相似形で、似た寂しさを感じる。
『俺たち訴えられました!』(烏賀陽弘道、西岡研介著/河出書房新社)を読んだ。二人とも新聞記者からフリーランスになったジャーナリストで、都合の悪い記事を書いたことで、大きな組織から裁判を仕掛けられた。その経験を対談形式で、まとめている。
「SLAPP裁判」という言葉を、この本で初めて目にしたけど、アメリカでは、大企業などが言論抑圧を目的に裁判を起こすことと定義されて、はっきりと禁止されているそうだ。
特に烏賀陽氏を訴えたオリコンは、無茶苦茶な”無理筋”で、雑誌「サイゾー」のコメント(編集部の確認ミス)に対して裁判を起こすという、道義的にも問題があると思う行動だ。訴えられた方に、非があってもなくても、社会的、経済的、イメージ(評判)的なダメージを受ける。実際、僕も知人が「烏賀陽さんもオリコンと喧嘩して損しましたよね。」みたいな噂を聞いて、喧嘩好きな人なのかなと勝手に思っていた。(実際、喧嘩好きかもしれないけど^^、オリコン裁判の件に限っては一方的に被害者のようだ。)
西岡氏は、過激派(革マル派)の幹部がJR東日本の労働組合で特権階級になっているということを問題提起していたので、もっと本格的な闘争だ。日本中の組合関係者から50件以上の訴訟を起こされているって、ちょっと想像を超えた嫌がらせだ。
烏賀陽弘道さんは、著作『Jポップとは何か』(岩波新書)を読んで、感心させられた。音楽業界関係者は全員読むべき名著だと思う。徹底的な取材と独自の分析が素晴らしい。彼の結論には必ずしも賛成じゃ無いけど、ここまできちんとした仕事をされると無条件に敬服する。
インターネットが本格的に普及する前で話が終っているので、是非、続編を書いて欲しい。機会があれば、取材等は全面的に協力したいと思っている。
こんな風に思うのは、佐々木俊尚著の『電子書籍の衝撃』を読んだからだ。昨今、注目されている佐々木俊尚さんの著作でロングセラーだけど、音楽ビジネスの引用部分は、ほとんど間違っている。
読んだときは、業界外の人には、音楽業界の仕組みや習慣を理解するのは難しいんだな。僕ら業界人が説明不足なのもよくないよな。とか思っていたけれど、『Jポップとは何か』を読んで、単に取材量の違いだという事がわかった。佐々木さんは一部の関係者の伝聞を基に、自論の繋がるように書いたのだろう。テーマは出版業界だから本の主旨が変わらないのはわかるし、その主旨自体には賛成なんだけど、音楽業界の間違った引用が、他の人に”孫引き”されて誤解が広がるのが心配だ。
それにしても烏賀陽さんや西岡さんは、なんでこんなに頑張れるんだろう?僕も零細企業の社長を長くやっているので、「何があっても動じない事務所のオヤジとしての矜持」みたいなのは持っているつもりだけど、彼らの状況は度を超している。
もちろん、ジャーナリストとしてのプロ意識を尊敬するけれど、それ以上に、不思議な生き物に興味を持っている感覚に近い関心を覚える。本人達も、理由がよくわからないのではないかと推測する。その意識をどんな風に言語化しているのかは興味津々だ。
彼らのジャーナリスト魂が、社会のために必要だとか、日本の役に立っているとかは確信が持てない。国民に必要にされてる感じは、正直あんまり無いし。っていうか、好きでやってるんだよね、って思ったのが本音。こんなに損なことをやらざるを得ない、彼らのメンタリティと根性と実際の行動については、手放しの賞賛と強い興味を表明したい。 「おまえら、ずげーよ!」って。
そういえば、俺はジャーナリストになりたいと思ったことは無かったな。この本を読んでわかったけど、絶対になれないし、なりたくない。
もしかしたら、これも彼らに対する褒め言葉かもしれない、って思ったり。
ということで、『俺たち訴えられました!』読んでみてください。
2011年5月15日日曜日
文化人類学者になりたかった 〜東京エスムジカと国立民族学博物館〜
文化人類学の存在を知ったのは中学生だった。マセガキだった僕は、中公新書の『文化人類学入門』(祖父江孝夫著)を書店で見つけ、将来は文化人類学者になりたいと思った。今から思えば、70年代後半は、ちょうど文化人類学の勃興期だったのかもしれない。学者への願望は、高校に入ってバンドをやり始めて、あっさり崩れたけれど。性格的にも研究者は向いてなかったし。
それでも、高校生の頃は小泉文夫という民族音楽学者がアイドルだったので、音楽プロデューサーとして、新人アーティストのプランニングを始めた時に、コンセプトの一つとして、「民族音楽の要素を取り込んだ東京発Jポップ」を掲げたのは、音楽業界の中では、「突飛な発想」と言われたけど、自分にとっては当然の帰結だった。そのアイデアは「東京エスムジカ」というアーティストで一つの形となった。ビクターエンタテインメントからアルバムを3枚リリースしているので、興味のある方は聴いてみてください。
「東京エスムジカ」のコンセプトを組み上げる事ができたのは、欧米の西洋人からの視点に毒されずに、世界を相対化して見る感覚を、中学時代に文化人類学から教わったからだと思っている。
蛇足だけど、僕が、道を踏み外して、音楽にのめり込んだのは、ワールドミュージックではなく、高校時代にジャニス・ジョップリンやリッキ・リー・ジョーンズ、プロフェッサー・ロングヘアやマイルス・デイビスなどのアーティストからの洗礼が原因。
理屈っぽく言うと、「アフリカから奴隷として連れられた黒人が、アメリカで西洋音楽と融合してつくった音楽が、アメリカ資本主義と結びついて世界を席巻した時代に。極東に産まれた私も人生を間違えました」。なので、ニューオリンズが、俺の聖地。
さて、昨日のこと。大阪の万博記念公園に音制連の理事として、東日本大震災チャリティーコンサートをお手伝いに行った。
さて、昨日のこと。大阪の万博記念公園に音制連の理事として、東日本大震災チャリティーコンサートをお手伝いに行った。
(晴天にも恵まれ盛況のうちに成功しました。ご来場の皆さま、ありがとうございました。ご尽力頂いた関西の音楽業界関係者のみなさま、お疲れ様でした。)
ちょっと隙をみつけて、国立民族学博物館(通称:みんぱく)に行ってみた。万博公園は、FM802のイベントなどで、何度も行っているのに、なかなか機会がとれずにいた。
「みんぱく」は最高。展示物の充実度、解説のわかりやすさ、超一級。全体にポップさも感じる。世界中の言語を語順別に分けて、タッチパネルを使ったインタラクティブな展示など、子供から大人まで楽しみながら学べる設備が整っている。
古今東西の人類に関する全ての文化をフラットな視点で捉えるという、文化人類学の基本姿勢が、きちんと貫かれている。日本の博物館には珍しく撮影OKというのも、気持ちいい。
古今東西の人類に関する全ての文化をフラットな視点で捉えるという、文化人類学の基本姿勢が、きちんと貫かれている。日本の博物館には珍しく撮影OKというのも、気持ちいい。
この姿勢は、おそらく初代館長梅棹忠夫さんの功績。昨年80歳で亡くなった梅棹さんの活動に関する特別展「ウメサオタダオ展」も観た。
戦前からの梅棹氏の探検の記録、膨大なフィールドワークノート、スケッチなどが年代別に展示され、業績の大きさで圧倒される。京都人らしいユーモアと反骨精神のある人柄も伝わってきた。
戦前からの梅棹氏の探検の記録、膨大なフィールドワークノート、スケッチなどが年代別に展示され、業績の大きさで圧倒される。京都人らしいユーモアと反骨精神のある人柄も伝わってきた。
それにしても、長生きするのは大事だね。もちろん濃い人生でなければ意味がないけど、一人の人間が一生にできることなど限りがあるからこそ、しっかり長生きしないと、できる事がもっと少なくなる。太宰治を読み耽った中学生の頃は、惜しまれて夭折する事に憧れてたけど、40代半まで生きながらえてしまった今となっては、健康に長生きして、頑固な爺さんになってやるんだ^^
大阪万博記念公園内の国立民族学博物館「みんぱく」は、オススメです。
2011年5月10日火曜日
「シュルレアリスム展」と「岡本太郎展」と「ヘンリー・ダーガー展」
最近行った展覧会の感想メモです。
ダダイズムからシュルレアリスムにかけての概念と作品は、高校生の頃に知り、すごく惹かれました。従来の価値観を壊して、自由を希求するという姿勢が魅力的でしたね。権威を盲信しないこと、全ての事象は、相対化して捉えるべきだということを10代の時に知ることができたのは、ダリやマグリットといったアーティストのお陰だったと思ってます。
同時に、壊していくことに限界があること、自由を突き詰めること自体には限界もあるし、壊すだけだと意味が無いことを、感覚的につかむことができました。やはり、当時好きだった「フリージャズ」という音楽も、何でも自由にやっていい、ということを突き詰めていくと、結局は「フリージャズ」的な、新しい様式を産んでいました。その様式が美しいから、観客は支持して、成立しているという構図が面白かったです。
パリのポンピドゥ美術館から出品された作品は、シュルレアリスムの思想の形成が良く理解できる内容でした。シュルレアリスムが、パリから出てきたのは必然なんですね。とてもパリらしい精神を感じます。ポップアートが、ある時期のニューヨークを象徴しているように。
美術史と音楽史は連動してるので、今更ながら、西洋音楽史と美術史を学びたいなと思いました。良さそうな本を探してみます。
同じ日に、岡本太郎展にも行きました。生誕100年ということで、再評価されているようですね。近代美術館で行われたこの展覧会も素晴らしかったです。岡本太郎さんに直接、お会いしたことはありませんが、おそらく、ものすごく魅力のある方だったことでしょう。作品はもちろん大切ですが、結局は人間力の勝負になってくるというのは、長年、アーティストマネージメントの仕事をしていると、しみじみ感じます。
展覧会のキュレーション(これが元々のキュレーションという言葉の使い方ですね。)も非常に丁寧でわかりやすかったです。休日に行って、時間もあまりなかったので、ゆっくり観られなかったのが残念。
シュルレアリスムがヨーロッパを席巻している時代にパリに行った岡本太郎は、ピカソに衝撃を受け、ピカソを超えるという気持ちで、創作活動を生涯続けたとのことですが、日本の現代美術を代表する素晴らしいアーティストだと言う事を改めて確認できました。
絵は見たことがありましたけど、不覚にも、ヘンリー・ダーガーをきちんと認識してませんでした。
1892年生まれの作者は1973年に亡くなるまで、誰にも知られずに、小説と絵画を描き続け、死後に発見されたというエピソードは、小林恭二さんの『小説伝』を思い出しますが、これも私が不勉強だっただけで、小林さんは当然、ご存知で書かれたのでしょうね。以前は親しくさせていただいて、小林作品の舞台プロデュースまでしていたのに、恥ずかしいです。
『非現実の王国』は、世界最長の小説だそうです。美しい少女達が主人公のファンタジーで、悪の惑星を少女戦士達が倒すというプロットは、昨今のアニメを彷彿とさせます。絵画は、全て雑誌からのトレース(複写)とコラージュで作られていて、絵巻のような大きさでした。コンピューターを使わずに全て手作業でやっていたというのも驚きですし、その幻想的な世界は、ヘンリー独特のものです。
但し、「アメリカン・イノセンス」というキャッチコピー(アメリカの純真?)は、いいとして、彼を昨今、注目されている「アウトサイダー・アート」の先駆者的に位置づけている論評があるのは、首をかしげました。知的障害者による作品は、わかりやすくいうと「山下清・裸の大将」に代表される作品ですよね?ヘンリー・ダーガーは、養護施設に入っていたという経歴はあるものの、小説を読んでもわかるように、いわゆる「知的障害」ではありません。幻想の世界を独自に深く、大きく築くのは、もちろん「狂気」のなせる技ですが、その狂気は多くの「健常者の」アーティストが持っているものと同質だと思います。この話を突き詰めると、正常と狂気は、白と黒の様に分けられることではなく、灰色の濃さの問題で、精神に於ける異常性というのは、グラデーションだという話になるのですが。
彼の世界最長の小説を読破するのには、膨大な時間が必要でしょうから、なかなかお薦めできないですが、コラージュを駆使した絵画は、現代美術の一つの完成形として観るに値すると思います。今週日曜日(5/15)までやっているので、お時間のある方は、是非。
余談ですが、原宿という土地柄かもしれませんが「HENRY DARGER展」は、綺麗な女性の観客が多かった気がします。美しい女性は純真な狂気に惹かれるのでしょうか、、?
2011年5月5日木曜日
グローバルな音楽プロデュース活動記録<1> ~モンゴル・レコーディング体験記
私のプロデューサーとしてのテーマは、ソーシャル(メディア活用)、グローバル(な視野での活動)、コラボレーション(異業種連携)です。ソーシャルメディアについては、著作(『ソーシャルネットワーク革命がみるみるわかる本』・ダイヤモンド社)に、書かせていただきましたので、このブログで、グローバルな音楽活動に関して、私の経験や考え方などを記していこうと思います。
第1回となる今回は、モンゴルでのレコーディング体験記です。
2003年頃の話です。私は、「ワールドミュージックの要素を取り入れた新しいJポップ」というコンセプトで、「東京エスムジカ」というグループを立ち上げて、プロデュースしていました。所属事務所は私の会社(BUG)で、レコード会社はビクターエンターテインメントです。ファーストシングル『月凪』は、全国FM局のパワープレイ数の新記録をつくり、注目をされました。音楽活動経験の無い三人のメンバーでファーストアルバムをつくるのは、様々な困難がありましたが、超一流のエンジニアやミュージシャンのお力をお借りして、よいアルバムをつくることができたと思います。エンジニアの松本靖雄さんは天才だと思ってます。忙しい彼がよくアルバム全曲を付き合ってくれたのと今でも感謝してます。『World Scratch』を機会があれば聴いてみてください。
セカンドアルバムの制作に当たっては、海外の民族音楽家のレコーディングへの参加をテーマにすることにしました。2作目は、これまで以上に、アーティスト性、オリジナリティを深めることが必要だと考えたからです。
音楽的にも、それまでは民族楽器の音色をデジタルサンプリングした音源を主に使っていましたので、楽曲のキーやフレーズなどに制約がありました。自由に曲をつくらせ、アレンジをして、本物の民族音楽家に演奏して貰えれば、音楽的な可能性も広がります。
どこか1つの国だけだと、その国の色が強くなりすぎるので、3カ国位はやりたいと思いました。メンバーの希望やグループとしての見え方など、総合的に考えて選んだのが、モンゴルとインドネシアとルーマニアでした。モンゴルは馬頭琴やホーミーという独特の民族音楽があります。インドネシアはガムランやケチャなどがありますが、観光的に知られているバリ島よりも、より豊穣で重層的な深みのあるジャワ島のジャワガムラン、そしてルーマニアは、ジプシー(差別的と言う事で最近は、「ロマ」という言い方をしますが)バンドをフィーチャしました。
まずは、それぞれの国の情報を集めます。アメリカやイギリス、フランスならば、音楽専門のコーディネーターを探すことは簡単ですが、これらの国は、日本の音楽業界人がレコーディングに行く場所ではありません。この分野には一番詳しそうな同業の先輩に相談に行きました。「Boom」の所属事務所ファイブディーの社長であり、音楽プロデューサーとしての造詣の深い佐藤剛さんです。剛さんは快く相談に乗ってくださり、ジャワ島に関しては、国際交流基金の方を、ルーマニアのジプシーバンドについては、ワールドミュージックのアーティストの招聘コンサートを数多く手がけていらっしゃる、株式会社プランクトンの川島恵子社長を紹介していただきました。ところがモンゴルについては、ルートが思いつかないとのことでしたので、日本のモンゴル大使館に、私が飛び込みで電話をして、文化担当の書記官に会いに行きました。
渋谷区松涛の住宅街にあるモンゴル大使館を訪れて、話を伺い、日本モンゴル文化友好協会という団体があることを知ります。事務局長の石河信昭さんを紹介され、全面的な協力を得ることができ、レコーディングの準備が進められるようになりました。
それにしても、モンゴル大使館に行く前に、予習としてモンゴルに関する本を数冊読んでおいてよかったです。その本には、「モンゴル人は、無愛想な態度をとるように、日本人からは見えることがあるけど、ただの習慣で、悪意は無い」と書いてありました。確かにお話ししていても愛嬌が無いというか、無駄話もされないのですが、実際は親身に対応してもらえました。
海外レコーディングに限らず、新しいことに挑戦するには、相応の準備とが必要です。特に新人アーティストで作品をつくる場合は、私自身がしっかり勉強し、理解して、その上で、メディアやユーザーに対しては、あたかもアーティストが思いついたかのような演出で、そのアイデアを提示しなければなりません。一度に三方向からトンネルを掘って、真ん中で繋ぐようなシミュレーションを行うことになります。複雑なパズルを解くような思考が必要ですが、知的に楽しい作業でもあります。
この時の海外レコーディングでも、音楽的豊穣さなどを知った上で、作品への取り込み方を考えると同時に、モンゴルでレコーディングを行ったことの必然性が、帰国後にはメンバー自身の口から説得力がある言葉で語れるように、そんな逆算をしながら、プランニングをしていきました。
友好協会の方の紹介で、国立管弦楽団に所属するモンゴルNo.1の馬頭琴奏者でホーミーもできる音楽家と、女性では一番の馬頭琴奏者にお願いできることになります。
モンゴルの空港に着いたのは、夜でした。まず驚いたのは、空港からホテルまでの道路で、ものすごく車が揺れることです。首都ウランバートルの空港から市街地までの道路の舗装が、日本では経験したことが無い位、悪かったのです。一行はメンバー3人と私、そして記録の映像と写真をとるカメラマン兼ディレクターが2名。6人でした。通訳は現地で雇います。
ツアーでもレコーディングでも、海外に行く時は、スタッフを最小限に絞って、私が何役も務めることにしています。この時もツアーコーディネーター兼プロデューサー兼ボディガード兼荷物運び、、、と、要するに演奏と撮影以外の仕事は、全部私がやりました。これは、移動宿泊費を倹約するという予算的な理由もあるのですが、それだけではありません。
海外で仕事をすると、日本の様に、予定通りに物事が進むことは、まずありません。約束が反故にされることも日常茶飯事ですし、習慣の違いなどで思い通りにならないことが普通です。その際に、責任者である私が即判断して、対応することが、結局はトラブルを最小限に抑えることになります。また、アーティストに不自由を強いることも多いので、社長の私が先頭に立って汗を書き、苦労する様子を見せることで、状況を理解し、納得してもらうという意図もあります。アーティスト、特にシンガーは精神的な状態で、レコーディングの出来不出来が決まることも多いので、ストレスを軽減することは、良いレコーディングをするために必要です。
ということで、モンゴルレコーディングの際も、アシスタントを連れずに、先頭にたって働きました。まず最初のトラブルは日本語通訳が病欠(!)だったことです。友好協会とも関わりが深い女性コーディネーターが付いてくれたのですが、彼女の専門は韓国語で日本語は不完全です。(余談ですが、ドラマ「冬のソナタ」のモンゴル語訳をやって、モンゴルに韓流ブームをつくった人のようです)。来てくれるはずだった日本語通訳が体調が悪くて来られないという、日本だと考えられない事態が起きました。幸運にもメンバーの瑛愛が在日韓国人で、民族学校に通っていたので韓国語を完璧に話します。困った時は、瑛愛を介して韓国語で話して、解決をしていきました。
民族が入り混じった集合写真。自分が金髪で驚いた |
ウランバートルの街並みは、テレビで見たロシアの景色に似ていました。ソ連時代に関係が深かったからでしょうか、いかにもロシアのビルっぽい団地風のビルが並んでいます。
レコーディング・スタジオは、テレビ局が入っているビルの中の奥まった一室にありました。内装などは見慣れないですが、置いてある機材は日本と変わりません。パソコンで「プロトゥールス」というソフトを使って、レコーディングします。スタジオの付きの若いエンジニアは英語堪能ではありませんが、ソフトが共通ですから意思疎通にそれほど問題はありません。ちょうどリリースされたばかりの英国の人気ロックバンド「RADIOHEAD」のアルバムの話をメンバーとしていたのが、印象に残っています。おそらくは、インターネット経由で手に入れたのでしょう。「音楽は世界言語」と言われますが、インターネットの発達で、音楽を作る人同士は明らかに「共通言語」が持てるようになっていますね。
4月のモンゴルは、まだ寒いです。雪こそありませんが、風が吹けばコートを着ていても、凍えました。食事は、羊が中心でした。せっかくの機会なので、モンゴル料理を食べようと心がけたのですが、羊料理と羊料理の間に、羊を食べる、という感じで、匂いが辛い時もありました。ロシアレストランもおいしかったです。
見渡す限りすべて高原で、馬に乗せてられます。驚くべきことに、モンゴル人は誰でも馬を乗りこなします。運転手やアシスタントのモンゴルの男達が、いきなり馬に飛び乗ったのは、さすが騎馬民族と思いました。
騎馬民族といえば、モンゴル滞在中に感じたのは、モンゴル人の持つ暖かさと気高さです。モンゴル帝国でユーラシア大陸を制覇したことを誇りの民族の記憶として残しているようです。「こいつらは世界一になったことがあるんだなぁ。日本人は経済で二位になっだけだもんなぁ」と思ったのを覚えています。
そうでなくても、日本人はモンゴルをもっと大切にしないといけませんね。仏教徒だし、顔も似ています。日本の相撲を生中継で見ています。私は大の相撲ファンなのですが、朝青龍の振る舞いは横綱としては問題がありましたが、国としては、彼をもっと大事にしないといけませんでした。近い将来、大統領になる可能性だってある人ですから。
中国が経済的に力を持ち始めて、日本との間で、様々な摩擦が出てきていますが、そういう意味でもモンゴルは、大切です。モンゴルとベトナムと友好関係を深めることは、中国に対する牽制にもなるはずです。中国と仲良くやるためには、バランスが大切なのではないでしょうか?そういう地政学的な視点が日本人には足らない気がします。
ちなみに、私は昨年1月にベトナム・ホーチミンにも行きました。モンゴルとベトナムの共通点は、中国に対して非常に警戒心が強い(言葉を選ばずに言うと「嫌中」な人が多い)ことと、親日的であることです。この二つの国と仲良くすることは、国際政治的にも、日本にとって重要だと思います。
ベトナムは、ベトナム戦争でたくさんの方が亡くなられたので、国民の大半が30代以下という年齢構成だそうです。隣国タイと比べても勤勉で、経済的に伸びていくだろう事は短い滞在でも実感できました。そして、ベトナム人も誇り高い人達でした。「アメリカ合衆国に戦争で勝った世界で唯一の国だからな。」と思っています。
普段は、政治的でも右翼的でも無い私ですが、海外滞在中は、いつもそんな事を意識してしまいます。コスモポリタン(世界市民)を理想とする夢は私も持ちたいですが、現実には、海外滞在中は日本政府発行のパスポートが無ければ何もできません。日本国民であることを意識させられます。そして、世界の中での日本の存在価値を上げていくことは重要だと思います。
特に、文化交流を深めることは、日本の平和のためにも、おそらくは世界の平和にもつながる事です。
さて、モンゴルでのレコーディングをした楽曲は、東京エスムジカ『Switched on Journey』(ビクターエンターテインメント)に収録されています。興味のある方は聴いてみてください。
エスニックサウンドをポップスにとりいれるのは、以前からある手法ですが、近年では、M.I.A.が注目されていましたね。Jポップの発展を模索する中で、ワールドミュージックとの融合は、これからの新しいプロジェクトでも挑戦してみたいと思っています。
グローバルな活動に関連してご紹介。東京芸術大学のシンポジウムでお話しした「グローバル化するJポップと日本の音楽業界」の資料はこちら。また、誠ブログでまとめた、「グローバルな活動という視点でのスイバケプロデュース」(前後編)は、こちらです。
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