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2016年1月2日土曜日

今、日本でプロの音楽家になるということ。そして、CWFが目指すこと

 長らく音楽事務所社長をやっているので、20年以上、若いミュージジャン志望者と会うことが仕事の一部になっている。最近は、僕の活動エリアが広がって、Tech系やスタートアップに近い人と話す機会が多くなってきたせいもあるだろうけれど、ミュージシャンとしての成功に夢を持つ人が減ったという残念な実感がある。「音楽では食っていけないかもしれないけれど、好きなからやりたい」という音楽家志望者も少なくない。同時に、相反的に感じることは、「音楽の力って強いなあ」ということ。僕が会う起業家やIT関係者は多少、バイアスがかかっているだろうけれど、音楽へのリスペクトや、音楽がユーザーに与える影響力への評価はとても高い人が多い。
 これは日本だけではなくて、Twitterの2007年のブレイク以来、テクノロジーとスタートアップのイベントみたいに思われているSXSW(サウス・バイ・サウスウエスト)も、行ってみればわかるけれど、音楽へのリスペクトが街中に溢れている。世界一ヒップなカンファレンスのど真ん中には音楽が存在していると感じられるのは嬉しい。
 
 音楽家に夢が持ちづらくなっているのは、誤解もある。一例を挙げるなら、JASRACの著作権使用料は減っていないというデータ。作詞作曲家に支払われる印税は、2015年も微増だった。これまではレコード会社が音楽ビジネス生態系の中心にいて、そこの仕組みがヘタっているから、音楽は儲からないという印象を呼んでいるのだと思う。
クリエイターズキャンプ真鶴の打上げ

 起業して株式公開すれば、大きなお金が手に入る。社会を変えるイノベーションを提供するのは素晴らしいことだ。そこに夢を持って頑張る日本人ももっと増えてほしいけれど、音楽家には事業家では手に入らない快感がある。自分が作った楽曲を沢山の人が歌ってくれる喜び。スタジアムで数万人の合唱と拍手。音楽で成功することは、お金と名声とカタルシスを同時に手に入れられる稀有な方法なのだ。ついでに言うと異性にもモテるよ。

「野心的で才能のある若者がプロの音楽家を目指して欲しい。」
 僕が、プロ作曲家育成を掲げて、2013年に「山口ゼミ」を始めた理由はそれに尽きる。「山口ゼミを続けている理由」は1年前にこのブログに書いたので、興味のある人は読んで欲しい。ここでは繰り返さない。
 「山口ゼミ」は2ヶ月+6ヶ月の約8ヶ月で修了するシステムになっているのだけれど、修了時に、プロで通用すると判断された作曲家だけが入会できるCoWritingFarm(CWF)という集団がある。入会資格者はその都度、僕と副塾長の伊藤涼さ
んと二人で話し合って決めている。

 2016年1月現在で会員は67人。これだけの人数の作曲家が集まっている集団は世界でも珍しいだろう。しかも、ただ登録されているということではなく、一つのコミュニティとして機能している。DTMの普及で作曲が孤独な作業になったからだろうか、山口ゼミ受講生同士のコミュニケーションは濃密だ。マネージャー体質の僕は、ゲスト講師がいれば必ず打上げ、イベントやれば飲み会付とやるので、そういうことも関係しているのかもしれない。昨年末の「山口ゼミ望年会」は12月23日の祝日という日程にも関わらず、80人以上の受講経験者が集まっていた。

 いわゆる「作家事務所」がコンペ情報とデモテープを右から左に(メールで)やりとりするだけで、バカ高いエージェントフィーを取っていることを知って、業界慣習をしっかり教えた山口ゼミ修了生には「作家事務所に入らなくてもコンペに参加できるようにする」というのも目的の一つだった。もちろん作家事務所の存在を否定しているわけではない、良い出会いがあれば事務所に入って欲しいし、CWFは専属契約的な拘束は一切しないので、メンバーのままで問題ない。実際、何人かのメンバーは僕らが紹介して事務所所属している。
 
 ただ、CWFの本質はコンペ情報を得るかどうかではない。3年前に「山口ゼミ」を始めるときに、伊藤涼と決めたテーマは2つ。
 「コンペに勝つ」「コーライティングのメッカにする」だ。この2つには因果関係もある。昨今の大型コンペで求められるデモクオリティは高く、歌だけ録り直したらすぐリリースできるようなデモじゃないと選ばれなくなっている。一人で全部をやって、年間数十曲を作り続けるのは困難だ。駆け出しの作曲家は年間100曲作るのはマストだし、これまでの作曲家は必ず通っている道だけれど、これを一人でやると煮詰まるし、物理的にも至難の業だ。コーライティングはコミュニケーションを取りながら創作するので、失敗もあるけれど、自家中毒は避けられる。得意な分野を活かした、高いクオリティのデモ量産も可能だ。CWFメンバーは、コーライティングを行なうときのマインドセットとスキルを持っているのは最低条件なので、外部の作家とも一緒に作れるし、実際、海外の作家を含めて、たくさんのコーライティングをやるように既になっている。

 昨年9月のクリエイターズキャンプ真鶴では、3人×17組=51人という大規模なコーライティングキャンプを行った。30時間で初めて会った人と0からデモを完成させるという場は、クリエイターにとって刺激的だ。僕が嬉しかったのは、20人以上参加した、第一線のゲスト作曲家とCWFメンバーが遜色なかったことだ。まだ実績の乏しいメンバーもいるけれど、コーライティングにおいての経験では引けをとらない。

 去年の4月に『コーライティングの教科書』(リットーミュージック)を出版して、2016年は日本での「コーライティング元年」になるのでは無いかと期待している。「コーライティングって共作でしょ?これまでと何が違うの?」と思う人は拙著を読んでみて欲しい。
 元旦のブログでも触れたけれど、日本の音楽制作の現場が変わるという予感がある。その時にコーライティングというムーブメントとクリエイターのマインドが肝になると思っている。音楽制作における、レコード会社のイニシアティブのあり方が変わって、クリエイターが作品作りに、今まで以上に中心になるようになるからだ。欧米型に近づくと言えるかもしれない。クリエイター側でアイデアを出し合って、アーティストに対して新たな作品を「提案」する。楽曲の完成度はどこまでも高く、A&Rやマネージャーはその「提案」からチョイスするだけでOK。自作自演のバンドやシンガーソングライター以外のプロジェクトでは、そんな制作スタイルが主流になっていく。
 ワンハーフ(イントロ+ABメロ+サビ+エンディング)でプレゼンするという日本の習慣も減って、フルサイズでのデモ制作が増えていくかもしれない。
 コーライティングによる作品提案⇒レーベルA&Rやアーティストマネージメントによるセレクション⇒ボーカル録音⇒プロフェッショナルエンジニアによるミックス⇒作品リリース
 という流れの音楽制作が増えていくだろう。

 もちろんこの「提案」型デモを一人で作れる音楽家もいる。ただ、音楽は本質的なところでコミュニケーションをしながら作るものだ。A&Rなどとのコミュニケーションが希薄になった時に、一人で作り続けていると行き詰まりやすい。クリエタイターが、数曲単位でチームを組んで「創作」する方が、良い作品ができる確率は圧倒的に高いし、時間も効率的だ。

 加えて、アーティスト志望者、シンガーにもコーライティングも呼びかけたい。僕は著作や講座で、「アーティストはB to C、作曲家編曲家はB to Bのビジネス。目指す山は同じでも、登り方は全く違う。そもそもお金をもらう理由が違うのだから、別の職業だと考えるべき」と教えてきた。その考えは変わらい。ただ、アーティストとして成功したいと若い音楽家にとっても、コーライティングによる楽曲提供は目的に近づく有効な方法だと伝えたい。

 アーティストがB to Cな職業ということは、「人気者になればOK」ということだ。「ファンの数×熱量」が高いことが最大の価値で、必ずしも音楽に詳しくなくてもいいし、歌や演奏が上手なら良い訳でもない。ファンからの支持を得られることが最大の価値基準になる。社会常識に疎くてもスタッフがフォローしてくれる。この構造は変わらない。
 但し、楽曲や歌の表現力で勝負したいと思っているアーティスト志望者にとって、コーライティングでプロフェッショナルレベルの創作に加わることは有益だ。創作の過程で勉強になることが必ずあるだろう。採用されれば、アーティストとしての価値も上がる。採用に至らなくても、自分の声や作品を業界関係者に真剣に聴いてもらい、興味を持たれる機会になるのだ。欧米では、ブルーノ・マーズメイガン・トレイナーなど、コーライティングによる作曲家活動がキッカケで、アーティストデビューした成功例がたくさんある。日本でも増えてくるだろう。

 YouTuberやニコ生主として、人気者になることに適性があるのなら、そこに特化してくのも良いけれど、「本当は音楽の中身で勝負したい。できるはず」と思っているのなら、今、始まりつつある、コーライティング・ムーブメントに身を投じることをオススメしたい。
 シンガーについて補足すると、去年はツイキャスでの活動がキッカケのデビューがあったけれど、今年はnanaとSHOWROOMに注目したい。おそらくメジャーシーンで活躍する人気者が出てくるだろう。ユーザーとのコミュニケーションの中で磨かれたシンガーがコーライティング・ムーブメントにも加わってくれるとよいなと思っている。

ヒロイズム
お正月なので、もうひとつ予言めいたことを言わせて欲しい。今年は日本人作曲家のアメリカでの成功例が出るだろう。ここでもキーワードは「コーライティング」だ。現地の作曲家とのコーライティングを通じて、日本人クリエイターのセンスを活かしたヒット曲がいつ出てもおかしくない状況になっている。日本で数々のヒット実績があるヒロイズムを先頭に、バリバリの第一線の若手作曲家がLAで勝負を始めている。
 僕は数年前から、「ヒロイズムが作曲家界の野茂英雄になる」と予言しているけれど、この喩えは、彼の努力をパイオニアである野茂と比するのと同時に、野茂の出現をきっかけに、イチローも松井秀喜もダルビッシュも田中将大も出てくるという意味も込めている。日本人クリエイターがグラミー賞で見かける日もそんなに遠くないかもしれない。

 ガラパゴス的だと思われていた「野球」が、本場のベースボールでも高評価されたことと、歌謡曲〜ニューニュージック〜Jポップと独自進化した日本のポップミュージックは、似ているように感じる。「上を向いて歩こう」ビルボード1位は、沢村投手のドロップが大リーガーをきりきり舞いさせたという伝説のようだ。日本人作曲家には、世界中で成功するポテンシャルを持っている。
懐かしいトルネード投法
著作権使用料は落ちていないと冒頭に書いたけれど、日本市場だけでは限界はある。これからの作曲家は海外でも稼がないと駄目だ。TTPは知財にとっては功罪両面あると思われるけれど、アメリカや伸張著しいASEAN諸国などでも印税収入で稼ぐ機会としたいものだ。

 本ブログでも何度か書いてきたけれど、日本のクリエイターやエンジニアのレベルは世界的にトップ水準だ。2020年以降、日本が先進国でいるための貴重な資産だ。環境の変化に合わせて、個性を活かして、グローバルにアジャストすれば、日本人に夢を届ける役割を担ってくれるはずだ。スポーツ選手だけに任せてはいられない。

 山口ゼミとCWFから、そんな人材を輩出したい。音楽プロデューサーとして彼らと一緒に世界を席巻することを、僕の今年の初夢とさせて欲しい。
 山口ゼミも続けていくので、プロ作曲家になりたい人は門を叩いてみてはいかが?

●「山口ゼミ〜プロ作曲家になる方法」公式サイト
●作曲家育成セミナー「山口ゼミ」を続けている理由
●CoWritingFarmOfficial
●『最先端の作曲法・コーライティングの教科書』(リットーミュージック)

2013年11月10日日曜日

もう日本のプロ野球を真剣に観ないと決めた理由〜日本シリーズ2013〜

 今年の日本シリーズは盛り上がったようだ。東日本大震災から復興途中の東北をフランチャイズとする楽天イーグルスが、読売巨人軍を破っての日本一。空前絶後の記録を残したマー君こと田中投手の存在。話題になる要素が多かった。僕自身も、楽しみにしていた。
 第7戦まで戦い、高い視聴率を誇って、楽天が日本一になって盛り上がった。結果は良かったし、水を差したくは無いけれど、このままでは日本のプロ野球は、駄目になるのではと心配だ。

 野茂投手が大リーグで活躍するようになってから、多くの試合が日本で観られるようになった。イチロー、松井秀喜に続いて、ダルビッシュまで渡米し、日本人の野球ファンにとって大リーグは身近な存在になっている。今年のワールドシーリーズを制覇したボストン・レッドソックスの胴上げ投手は、上原だった。
 日本のプロ野球が大リーグの下部組織化して、空洞化していくのではないかという懸念の声も聞かれる。

 僕は、野茂以降の日本人選手の大リーグでの活躍ぶりは、日本野球のレベルの高さを証明することと前向きに受け止めてきた。実際、その価値はともかくとして、WBCでも第一回、第二回は優勝することができた。
 送りバントの多用などいわゆる、日本的野球の作戦は批判されることが多かったけれど、バレンタインやヒルマンなど、日本からの「逆輸出」された監督の出現で、評価が上がっている。

 日本人野球ファンの楽しみ方も、日本野球の強みだと思う。投手の継投策や、ヒットエンドランなど「小技」な作戦選択に感情移入する日本の野球ファンは、爽快感と参加意識を求める米国野球ファンよりも深みがあると思うし、日本野球を成長する原動力にもなっていると思う。日本人は何でもにするというのは功罪あると思うけれど、「野球道」的な視点を僕は、日本野球ファンの一人として愛している。

 さて、今年の日本シリーズ。星野、原両監督の采配に、そんな野球ファンを満足させる繊細さはあっただろうか?全試合の子細をチェックした訳では無いけれど、「勝つために、あらゆる策を尽くす」という日本人好みには応えていなかったように思う。選手起用にも工夫は見られなかった。「シーズン通りの野球」というのも一つのポリシーなので、否定はしないけれ、これが野村、森、落合、など名将と言われる監督だったら違う作戦はあっただろうなとは思う。
 
 僕が一番、批判したいのは、星野監督の田中投手の起用法だ。今季のスペシャルな成績から言って、「日本シリーズはマー君と心中」という方針をとるのは、賛成だ。多少の負荷を掛けても、良いと思う。でも、もしそう思うなら、第1戦先発だったはずだ。第1戦を避けた時点で、どこかを故障したのかと思った。第2戦を観て、それは杞憂だと知った。その時に僕は「星野監督は、指名打者の使えるホームゲームである第2戦と第6戦を田中投手に任せるという作戦にしたのだ」と思った。普通に考えれば、第1戦、第5戦と先発で投げて、第7戦はリリーフ登板待機、星野監督の性格と今の楽天の戦力なら、第1戦、第4戦、第7戦の先発という選択肢もあったから、ちょっと意外に思った。一般的には巨人の戦力の方が層は厚く、14敗の可能性もあったから、勇気のある選択だとも。

 短期決戦は、何が起こるかわからない、32敗で第六戦を迎えて、マー君の先発。今年の田中投手は時の利があるな、星野監督は賭に勝ったと思った。結果は、今年初の黒星がマー君についてしまったけれど、160球超を投げさせたのは、理解できるし、美しい在り方だった。
 第七戦に登録して、登板させたのは「本人の意思だ」と、星野監督自身がメディアで語っているけれど、リーダーとしての資質に欠けた発言だと思う。そりゃあ、ピッチャーに聞けば、投げたいっていうでしょ?リーダーの最大の仕事の一つはリスクヘッジだ。そういう使い方をする可能性があるなら、第1戦で先発させるべきだった。行き当たりばったりで、気合いや根性で決めるのは、真っ当なリーダーの選択では無い。責任放棄だ。
 
 アスリートの最大の敵はケガだ。不運な大ケガもあるけれど、避けられるケガもある。横綱貴乃花が、前日に負った膝の大怪我をおして千秋楽の土俵に上がって勝ち、小泉首相の「感動した」という名言を呼んだけれど、あの時休んでいれば、大鵬を超える超名横綱になっていたのかもしれないと思って、今でも残念だ。(そもそも武双山のまわしが緩かったのがケガの原因で、相撲界はまわしの締め方の指導について反省するべきだと思っている。)今回のことで、もし田中が肩を痛めたら、星野監督は、どうやって責任をとるんだろう?

こんな記事もあった。

 大リーグの基準で言うと、1年間の酷使指数を1試合で超えているらしい。ましてや翌日の登板なんて問題外の外だろう。米国式が全て正しいとは全然、思わないけれど、投手の肩は消耗品と、大切にする思想は、少し学んだ方が良い。
 高校野球の春夏の甲子園日程も、そろそろ考え直すべきだと常々思っている。

 辛くても頑張るという、浪花節的な姿が日本野球の魅力だと、メディアが思っているとしたら、大きな間違いだ。今年の日本シリーズは、大味だった。選手が力と力の激突をするだけなら、大リーグの方が魅力的だ。様々な可能性を想定し、策を尽くして、勝ちに向かうのが日本野球の醍醐味だし、それに耐えうる能力を持つ選手が居るのが日本野球の強みだと思う。
 高い視聴率をとり、話題と感動を呼んだ2013年の日本シリーズが、日本野球下降の契機にならないことを祈りたい。

<関連投稿>

2013年6月18日火曜日

野球は誰のものか?そして音楽は?

 

 日本プロ野球機構が、球団にも、選手会にも、メディアにも秘密で、使用球の反発係数を上げていたらしい。いわゆる「飛ぶボール」だ。用具メーカーにまで情報統制を強いたのも酷いけれど、あり得なかったのは、加藤コミッショナーの記者会見だ。


 事務局長の独断だったかどうかなんて、全然、興味ない。第三者機関の設立とか、時間の無駄だ。
 僕が、コミッショナーとプロ野球機構事務局長に欠けていると思うのは、野球への愛情と公共財という認識だ。


 この記者会見からは、野球への「愛情」や、日本の大切な文化を預かっているという「矜持」が、全く感じられなかった。プロ野球コミッショナーが野球への愛を表現できないというのは、非常に大きな「不祥事」だと思う。そもそも人選を間違えている。


 これは、喩えるなら野球の神様への冒涜だ。日本人である僕の信仰心は、八百万の神を敬う気持がある。テレビでプロ野球を観て、近所で草野球をやっていた子供の頃から、野球は大切なものだ。

「野球の神様を大切に」という言葉には、選手、指導者、審判、ファン、100年を超える(少なくとも日本の)野球に関わった全ての人へのリスペクトが込められている。


 選手会が、この件へのオブジェクションで、「契約条件がを理由にしたのはよろしくなかった。ファンのマインドが冷める。「同じボールを使っているから、条件は共通ですよね。」とクールでいて欲しかった。


 野球を仕事に人たちは、日本人に広く愛され、数多くの名選手を生み、WBCでは2度も世界一になり、様々な人が関わってきた「野球」に対して真摯であるべきだ。比喩的に言うなら、野球の神様に恥ずべきことはしてはならないのだ。


 僕がナベツネ(に象徴される読売新聞が野球を冒涜するスタンス)に嫌気がさして巨人ファンをやめたのは、野球の神様に胸を張れることだと(まったく個人的な、他人にはどうでもよいことだろうけれど)思っている。

 

 そんな事を熱く、思っていたら、「お前、音楽はどうなんだ!」という声がどこかから、聞こえてきた。

 そう言えば、僕は、「音楽の神様に恥ずべき云々」という発言をすることがある。


 IT事業者が、音楽を道具にするのは、この価値観で嫌だ。スティーブ・ジョブズは尊敬する起業家だけれど、音楽の神様を大切にするという価値観では、褒められないと思う。ジョブズ自身は主観的には、音楽が好きだったかもしれないけれど、楽曲を一律99セントと定めて売るという発想は、多様性の担保が大切と考える立場とは真逆だ。


 Googleがコンテンツ流通のルールを決める社会になることに、僕が絶対に絶対反対なのは、「音楽の神様がお喜びにならない」という確信があるからだ。アーティストもユーザーもプロデューサーも、音楽に深い愛情を持った人たちが、ルール決定に関与できる社会に、少なくとも日本はありたいと思うし、そのために努力したい。


 さて、音楽業界はどうだろう?私利私欲で、判断をしてないだろうか?もちろん、僕たち愚かである人間は現世で生きていくために、キレイゴトだけでは居られない。いつもいつも、音楽の神様を第一にはしていらなれない。でも、音楽の神様に恥ずかし事はしたくないと思う。

 レコード会社の音楽配信サービスへ許諾の姿勢については、どうだろう?自社の利益を追求したいのは、会社として当然だ。

 一方で、音楽は野球と同じような意味で「公共財」であるという認識が必要だ。ましてやレコード会社はお金を出しただけで、実際に創作している訳では無い。許される「教義」は、自己(とアーティスト)の権利の経済的利益の最大化だろう。膨大なカタログ数をできるだけ、多くの人に聴かせて、換金もする、というスタンスを明確にすべきだ。

 クラウド型の音楽ストリーミングサービスに対する許諾には、経済的合理性を伴うことは必須だと思う。特に「許諾をしない」のだとしたら、アーティストやユーザーが納得できる理由が必要だ。

 Googleは論外で、アップル社にも懐疑的な僕が、Spotifyをはじめるとする近年のストリーミングサービスに好意的なのは、開発者や経営者から音楽への愛情が感じられるのが理由の一つだ。実際、SXSWで会った音楽サービス事業者は音楽好きが多かった。僕が音楽プロデューサーだと知ると、「どんな音楽をつくっているんだ、聴かせてくれ」という奴もいた。

 新しい技術を活用しながら、ユーザーと音楽との出会いを増やし、再生回数に応じて、透明に分配するという考え方は、とても良いと思う。

 レコード会社は、カタログの収益最大化という考え方の延長で、MG(ミニマム・ギャランティをがっぽり取ってよいので、新しいサービスを積極的に活用するべきだと思う。



 音楽も野球も公共的な財産だ。積み上げてきた先人達の歴史があり、支えるファンがいる。傲慢になって「音楽の神様」や「野球の神様」に対する敬意を忘れてはいけない。自戒も込めて、しみじみ思う。

 今回のプロ野球機構の「統一球情報隠蔽事件」は、自分が大切にするものは、何か。考える機会になった。だけど、感謝しないよ。コミッショナー!


  プロ野球コミッショナーは、野球の神様に仕える神官の自覚を持つべきだ。
 もう、お金も名誉も十二分におありなのでしょうから、晩節を穢されませんようにと、僭越ながら申し上げます。

2013年5月26日日曜日

スポーツ四分類から学ぶ、グローバル化対応法。クールジャパン施策に活かせない?

 前回の僕のブログを、切込隊長こと山本一郎さんのYahoo!個人のブログで引用された。光栄なことだ。


 山本さんはしっかりとした見識をお持ちで、こちらの主旨も理解してくださっているようだが、「コンテンツ輸出の政府支援に慎重」という意味では、僕と真逆の立場だ。「武士の情けで見逃してって言ったじゃーん」と思いながら、反論を書こうと思ったけれど、白鵬対稀勢の里の一番を観ていて、気が変わった。ちょっと変化球視点で、コンテンツ輸出について語ってみたい。

 スポーツのグローバル化の形態を四分類してみることにする。自分の仕事がどれに当てはまるのを意識的である事は「頭の体操」としてだけど、意味があるはずだ。 

 まずは、野球について語ろう。米国で隆盛を極めるbaseballは明治期に日本に入ってきた、野球というネーミングが正岡子規だと言われている。明治時代の人たちは、欧米の言葉の意訳、翻案が上手だった。東洋に無かった様々な概念を上手に漢字に当てはめた。中華人民共和国なんて、日本からの輸入した語句を二つも国名にしているのだから、それだけでも、少しは日本に感謝して欲しいよね。

 野球は国民的スポーツと言われる。長嶋さんと松井秀喜が国民栄誉賞を受賞したのは記憶に新しい。WBCで二連覇した。野球のレベルは世界有数だ。、9連覇をした頃の巨人が、当時のドジャース戦法だったダウンスイングや送りバントなどをたまたま採り入れて、野球道の中心に据えたみたいな解説もあるようだけれど、ともかくルールや道具はbaseballのままで、作戦や投法、打法などの方法論で日本式を編み出して、世界一のレベルになったのだから、大成功例と言えるだろう。
 その成功があるから、読売新聞や高野連などの旧勢力が胡座をかいて、野球界の改革が遅々として進まないというところまで、「野球」型の特徴としてとらえるべきかもしれないけれどね。

 では、baseball以上に国際的なスポーツであるfootball、サッカーはどうだろうか?
 Jリーグが始まったときの100年構想が素晴らしかったと思うのだけれど、こちらは、グローバル基準に乗っかっている。イタリア、スペイン、イギリス、ドイツといった、世界の「本場」に日本選手が出ていって、結果を出し始めている。僕が10代の頃は、W杯に出れたらいいねっていっていた日本のサッカーだけれど、今の日本代表は、半分くらいの選手は、本気で優勝しようと思っているように見える。僕が生きている間に、日本代表がW杯の決勝戦で観られるかなと無邪気に思える。

 企業スポーツだった日本リーグを改組して、プロ野球のように親企業の名前をチーム名にせずに、欧州クラブをお手本に改革した姿は、賞賛に値する。ただ、まだサッカーについては一流国とは言えない。発展途上の新興国というところだろう。

 柔道の話もしたい。僕は、日本古来の武道だった柔道は、無くなって、新たにJUDOという世界スポーツができたのだと思っている。オリンピック種目にして、青の柔道着やポイント制を認めた時点で、もう柔道では無い。ルーツである柔道のスピリットをJUDOに反映させるという努力なら正しいことだけれど、いまだに一部の柔道関係者は、勘違いしているようにも見える。
 日本発祥のスポーツが世界に広がって、しかもトップレベルに日本のアスリートがたくさんいるのは素晴らしいことだと捉えた方が良いと思う。それが嫌なら、JUDOには参加しないことにして、日本だけで、一本勝ちしか認めない武道を極めればよいのだ。

 国際的な普及に柔道関係者が努力をして、せっかく、新しいJUDOという世界スポーツを創ったのに、その価値を日本人、特に柔道関係者が正当に評価できてないのは残念だが、それはともかく、日本のコンテンツを海外に広める際の方法論として、参考にするべき事はありそうな気がする。
 
 対照的なのは相撲。大相撲を観ると、近年は幕の内力士は半数近くが外国人だ。プロ野球やサッカーよりも、国際化が進んでいるとも言える。ただ、やり方は徹底している、全員、チョンマゲをして、まわしを締めているし、入れ墨をしている力士は居ない。日本語を話す。親方になるためには日本人国籍がマストだ。

 大切なのは、どこの国籍では無くて、大相撲の伝統が守られているかだと僕は思う。朝青龍は親方の教育が悪くて(朝汐って若い頃から、気が優しくて、決断力に欠けて、親方には向かなそうだった^^; )、中途半端な引退になってしまったけれど、白鵬は日本の伝統を背負ってくれている。中途半端な日本人力士より、よほど日本の美を感じる。

 60年以上の相撲ファン歴を持つ僕の父親は、最近は栃ノ心を応援している。グルジア出身の力士だ。愛国者で、決してリベラルとは言えないし、特に相撲に関しては保守的な父だけれど、国籍よりも相撲の伝統が大事だと言っている。相撲ファンには大切なものがわかるのだ。

 近年の相撲協会の不祥事は残念だったけれど、相撲に必要なのは変化では無くて、伝統を守るという覚悟だ。伝統を守るために組織形態が合わなくなっているなら改革は必要だけれど、僕は親方衆の気の緩みが最大の原因だと見ている。

 整理すると、
1)ルールはそのままで、方法論、戦術的な日本流を編み出して世界一になっている「野球」型
2)ルールも方法論も、グローバルスタンダードに対応すべく、組織を改革した「サッカー」型、但し、まだ発展途上。
3)日本発祥ながら、世界の新しいスポーツとなった「JUDO」型。しかも日本人選手は結構強い。
4)日本の伝統的なルール、様式に従えば、どんどん外国人を受けて入れ行くという「相撲」型。横綱が外国人になっても伝統は揺るがない。

 グローバル化への対応にもこれだけの方法論があり得るのだ。

 音楽で言えば、クラシックやジャズのミュージシャンは「サッカー」型で活躍している。コスプレは「JUDO」になりつつあるかもしれない。ニコニコ動画などの二次創作は「相撲」型の成功を模索すべきだと思う。
 欧米音楽を消化して新しい様式を産みだしたJ-POPは一時期、「野球」だったんだけど、最近は軟式野球になって、海外の試合では通用しなくなっているかもしれないなって反省したり。

 比喩には功罪あるもので、この四分類がどこまで有効かは、わからないけれど、グローバルへの対応法は、多様にあり得るということは、イメージできるんじゃない?

<スポーツについても時々書いてます>
●コンテンツとしての大相撲の価値 〜JUDOと相撲の二方向で国力向上に活用しよう〜

●松井秀喜の通算500号を祝いつつ、思うこと。

2011年9月27日火曜日

コンテンツとしての大相撲の価値 〜JUDOと相撲の二方向で国力向上に活用しよう〜

 一昨日、大相撲9月場所が千秋楽を終えた。
 白鵬の二場所ぶりの優勝という結末。日馬富士の横綱挑戦と鶴竜の大関挑戦は失敗だったが、琴奨菊は千秋楽まで優勝を争い、大関の座を手に入れた。同じく準優勝の稀勢の里は来場所、大関獲りに挑むことになり、久々に有望な日本人力士がでてきている。全日を観ることはできなかったけれど、全体的に相撲内容も充実してて嬉しかった。空席が目立ったと言われているが、今場所のような状況が続けば、相撲人気は戻ってくると思う。

 魁皇が昨年引退したことで、1横綱大関は全員外国出身の力士になっている。貴乃花が引退した頃から、相撲の番付の上位4〜5人には日本人が入っていない状態が続いている。最後の日本人力士の優勝は2006年1月の栃東だから、もう5年以上経つ。

 
 ちなみに、僕は小学校低学年の頃からの相撲ファンだ。父や祖母の影響でテレビ観戦してた。先代貴乃花(今の貴乃花親方のお父さん)と輪島が大関に上がる前の取り組みを覚えているんだけど、今、調べたら1972年だった。(うーむ。昭和は遠くなりにけり。)
 そんな僕は、相撲については、基本的に伝統擁護派だ。大抵は進取改革派な考え方を持っているつもりだけれど、相撲は別だ。古墳時代まで遡るとも言われている歴史のある相撲が積み上げてきた伝統をしっかり守るべきだと思っている。

 但し、今の幕の内力士に外国人が溢れる状態は悪いとは思わない。朝青龍は親方の教育が悪くて、後味の悪い残念な引退をしてしまったけれど、白鵬や日馬富士など、今の外国人力士は、大相撲の伝統をきちんと継承しているように見える。下手な日本人力士より、そんきょの姿勢も取り口も美しい。


 そして、テニスの全英オープンの優勝者に英国人がなれない状態が続いた事に喩えれば「ウィンブルドン化」とも言うべき今の大相撲の状況は、コンテンツ力という視点で捉えても、非常に価値があると思う。文化輸出をするときに、多くの国から関取(プロの力士)が出ていることは、理解の窓口として有益だ。
 外国人が相撲のしきたりを会得してくれていることは、日本の文化が必ずしも閉鎖的ではなく、普遍的な価値を持ち得るということの証明でもあると思う。

 サムライや忍者などのキャラクターは、アニメやコミックを通じて多く輸出されているので、日本のイメージを鮮烈に訴えることもできるはずだ。


 もう一つの日本古来の武道である柔道は、全く違う道を歩んでいる。五輪で日本人がメダルを取れないことも多いのは、気分としては残念だけど、それだけ国際化しているという証明でもある。カラー柔道着やポイント制度など、「本来の」柔道からは逸脱した形で柔道は、JUDOとして、世界的な競技になっている。

 日本オリジナルのフォーマットが、海外とすり合わせて、変化しながら発展している例と言えるのでは無いか?

 僕はどちらも素晴らしいと思うし、海外で、日本文化を理解してもらうのに、役立ってくれていると思う。

 また、コンテンツのプロデューサーとしても「相撲型」と「JUDO型」の二つの成功例を意識することは、国際化の方法論として有効だと思う。

 さらに加えるなら、はじめから欧州発のグローバルルールに適用しようとする「サッカー型」がある。女子サッカーのなでしこJAPANは世界一という結果出したね。
 米国発祥のスポーツを、日本式にカスタマイズして、「baseball」を、緻密で求道的な「野球道」に仕立て上げた「野球型」もある。炎天下の甲子園で行われる高校野球は功罪あるけれど、日本人に広く野球を浸透させているし、WBCを2連覇して世界一にもなっている。「野球型」も参考になるよね。勇気が持てるといういうべきかも。

 グローバル化の洗礼は、もはや、日本のすべての産業が避けて通れない。

スポーツの4つの類型は、コンテンツだけでじゃなく、企業経営でも参考になるよね。

 白鵬の優勝インタビューを聞きながらそんなことを思った。



 相撲については、こちらもご覧下さい。

  大相撲はスポーツじゃない。文化的な伝統を守るために協会の仕組みを改善すべし。~大相撲八百長疑惑の考え方~



2011年7月21日木曜日

松井秀喜の通算500号を祝いつつ、思うこと。


野球選手で誰のファンかと考えると、個人的に好きという意味で野茂英雄と落合博満がいるんだけれど、思い入れを持って、見続けているという意味だと、松井秀喜が一番かもしれない。星稜高校時代には、甲子園で五打席連続敬遠されたように、高校生の中に大人が交じっているような強い「違和感」を放っていた。PL時代の清原選手も横浜の松坂投手もスゴかったけど、一見して体つきが違う「特別な存在」という意味では、松井が図抜けていたと思う。

巨人に入団してからも、特別な存在感は変わらなかった。当時の長嶋監督の熱い指導もあって、四番打者としての英才教育がされていたけど、プロ野球の世界でも、遠くからでも一見してわかる存在だった。4年目に38本のホームランを打って以降、名実共に大打者になっていった。
2003年に大リーグに行ったのは大事件だった。野茂~イチローという先駆者はいたけれど、何と言っても、松井は巨人の大看板。保守的で高圧的で、掟破りも厭わない読売巨人軍の四番打者が大リーグに行ったことの意味は大きかった。もう誰が大リーグに行っても不思議は無いことになった。そして、入団先は大リーグでも最老舗のニューヨークヤンキース。
松井の出場試合は、NHKBSで毎回の様に放送してくれたから、深夜や早朝に観ていた。松井の活躍はとても嬉しかったけど、僕の記憶に残ったのは、当時のトーレ監督に支持された勝負強いバッティングよりも、堅実な守備や懸命な走塁だった。高校時代から「特別な存在感」だった松井が、普通に「かっこいいアスリート、素晴らしい野球選手」として、そこに居た。ファンの勝手な思い入れかもしれないけど、松井が、やっと心から野球を楽しめる場が見つけたんだなと思った。

巨人の試合をテレビで観ていた時に、松井の走塁シーンなんて全然記憶にない。ホームランやタイムリーヒットを打った姿、ストライクを投げてもらえずに四球を選ぶシーンが印象に残っている。でも、大リーグでは、犠牲フライになりそうなレフトフライをホームに投げるシーンや(松井は肩も良い)、一塁ベースからライト前ヒットで三塁に走るシーン(松井は足も遅くない)を、美しく感じた。そして、松井がもっと好きになった。実際、選手からも監督からも、野球に取り組む姿勢も含めて、トータルな野球選手として愛され、尊敬されているという話を聞く。

もしかしたら、日本のプロ野球とアメリカ大リーグの違いを、一番体現してくれたのは松井秀喜なんじゃないだろうか?日本でが規格外の存在が、大リーグでは(ふつうに)すごく良い選手。集まる選手の裾野の違いが、リーグのレベルを決めるのは当然だ。同時に、日本の一流選手は、大リーグでも通用することもわかった。向き不向きのタイプはあるにせよ。
松井は、大リーグで一流選手としての実績を残し始めたときに、ファインプレーと紙一重のプレーで左手首を怪我、その後も度重なる膝の故障で、ここ数年はベストの体調で試合に臨めていない気がして、残念だし、心配だ。

ファンの期待から言うと少し遅すぎた、通算500号のホームランを、心から祝うとともに、怪我からの回復が難しいなら、日本球界への復帰も考えてほしいと思う。パリーグで、指名打者を中心にした出場にすれば、まだホームラン王を取れる可能性はあるでしょう?幸い、ライオンズのおかわり君こと中村剛也、オリックスのT-岡田、ファイターズの中田翔と、若い好敵手も居る。

数字ばかりにこだわるのは、スポーツファンとして邪道だとも自戒しつつも、やはり松井秀喜には、才能と存在感に似合った生涯記録を残してほしい。王さんの868本は難しいだろうけど、野村克也の657本超えを目指して、少なくとも門田博光の567本を抜いて歴代三位の成績は残して欲しいなぁ。

2011年3月22日火曜日

今、大切なこと。 ~プロ野球開幕延期論議で思うこと~

 プロ野球の開幕延期が問題になっています。
 
 日刊スポーツ「セ29日に開幕延期、4・3までデーゲーム」

 パ・リーグは、開幕を4月12日に延期することにましたが、セ・リーグは、一旦、予定通りの開幕を決めた後に、3月29日に変更しましたが、ナイターや東京ドームでの試合の実施についても、明確な判断を示さず、批判を浴びています。

 この問題について、考えみましょう。

私は、プロ野球のペナントレースは行うべきだと考えます。但し、目的は球団の予定していた収益を確保することではなく、被災地にもたくさんいる野球ファン、直接、被災はしていなくても、悲惨な映像を見て、心が荒んでいるだろう日本人のために行うのです。

関東地方の電力に問題があるなら、名古屋以西でやればいいですし、ナイトゲームが問題なら、東日本ではデーゲームのみにすればいい。ただ、それだけのことだった筈です。そういう真っ当な判断ができない、球団経営者の見識の無さ、一部球団の横暴が、事態を難しくしたと思います。

被災地である仙台にフランチャイズがある楽天イーグルスが所属している、パシフィックリーグが、開幕を遅らせるのは良いと思いますが、セントラルリーグは、デーゲームと名古屋以西と限定して、予定通り開幕すればよかったと思います。

実は、子供の頃からの野球ファンの私が気になるのは「延長戦無しの9回終了制」を
導入すると言っていることです。メジャーリーグに引分けが無いのは、よく知られています。なんでもアメリカが正しいとは思いませんが、引き分けも一つの美しさであるサッカーとは違い、決着をつけるのが野球の基本的な様式だと私は思っています。
以前は引分けが多かった日本のプロ野球も、とりあえず12回まではやるようになって、改善したと思っていたところだけに、今回のセリーグの方針は、とても残念です。デーゲームは日没したら翌日に延長戦、ないし再試合をすればいいのです。それでは、興行が成り立たないという考え方は、本末転倒だと思います。
 野球の醍醐味を守ることが、今のような非常時だからこそ、大切なのではないでしょうか?
 「電気が無さそうだから、延長戦はやらない」というのは、野球を大切にする姿勢とは真逆な考え方です。


 プロ野球選手会が、開幕延期を申し入れたのは、一つの見識として評価すべきだと思います。真っ当な感覚をフロントよりも選手が持っていたということになりますね。ストライキの可能性もささやかれていましたが、ストはやるべきでないと思います。野球選手は、プレイを見せることが最大の仕事です。自ら職場放棄をすることは許されません。
 仮にストライキをやるとすれば、「開幕反対」というような小さなテーマではなく、オーナー会議の不見識を正すような、プロ野球機構の抜本的な改革を目的にするべきです。コミッショナー権限の強化も必要でしょうし、親会社の出向者による「互助会」的な運営から脱して、12球団だけでなく、二軍や独立リーグ、実業団も含めて、野球全体をビジネスとして発展させられる組織をつくることは急務です。学生連盟を含めた、野球文化を振興する視野も大切でしょう。

 話がそれました。

 私が今、一番、大切だと思うのは、日本人が100年以上掛けて、育ててきた野球文化を守り、発展させていくという視点です。魅力的なプレイを真摯に観客に見せることが、日本国民に、被災者の方々に勇気を与えると信じて、粛々と野球に取り組むことが、野球そのものを磨くことが、プロ野球関係者の使命です。
 もし、そんな力が無いのなら、そんなプロ野球は要りません。廃れてしまえばいいのです。


 音楽についても、私は同じことを思っています。コンサートをやみくもに自粛することではなく、社会的状況へ配慮をしながら、よい音楽を届けていくことが、今の日本に必要だと信じています。
 もし今、求められないのなら、そんな音楽は要らないのです。

 そんな覚悟と自負を持って、それぞれの持分で最善を尽くすことが、危機だからこそ大切なのではないでしょうか?









2011年2月6日日曜日

大相撲はスポーツじゃない。文化的な伝統を守るために協会の仕組みを改善すべし。~大相撲八百長疑惑の考え方~

現役力士のメール履歴から、本場所の相撲で八百長が行われたのではないかと連日、メディアを賑わしています。報道の論点がおかしいと思うので、整理したいと思いました。

私の意見は
「大相撲を西洋型スポーツの価値観で裁くのは間違っている。
 文化的な伝統を守ることを主眼に、既存のビジネススキームや既得権益を改善することが
必要」です。
そしてここ数年に不祥事の原因は、親方衆、協会幹部が伝統文化の継承者としての自覚が緩んでいたことだと思っています。

そもそも、現在の日本相撲協会は、芸能団体としてもスポーツ団体としても奇跡的に成功している団体ではないでしょうか?
歌舞伎と比較しても、プロ野球と比較しても、財務や収益の安定性は抜きんでています。
(財務分析詳しい方がいらしたら、こちらを分析して、教えてください。)

財団法人として税務的にも優遇され、日本全国で社会にも根付いて、
とても恵まれた状況です。
それは「国技」と呼ばれ、国民からレスペクトされている存在であることが前提で、
そのレスペクトの基礎である伝統文化を継承していく重い責任が相撲協会と親方衆には、
あるのです。
恵まれた環境では、甘えが出てくるのは歴史の常ですが、おそらくは、親方衆の自覚も緩み、角界の大事な慣習も形骸化しているのでしょうね。
猛省を求めたいです。

そうでなくても、メディアが多様化して、情報の隠蔽は不可能な時代です。若い力士は、今の日本社会のモラルに引っ張られていき、放っておけば意識も緩んでいくでしょう。
これまで以上に、教育、指導が必要のはずですね。

朝青龍についても、いろんな意見がありますが、私は100%親方の指導の責任だと思います。
素晴らしいアスリートだけど、様々な行為から横綱としての自覚が足らないのは間違いなく、個人的には、高砂親方だったのが不幸だったなと思ってます。
元大関・朝潮は現役時代からお人好しで、親方には向いて無さそうでした。
それなら、一門の先輩親方がもっと厳しく指導するべきだったんでしょうね。

話がそれました。相撲の文化的な価値が何かという話をしないといけませんね。
もちろん、相撲ファンがそれぞれ自分なりに大事にすればよいことだと思いますけれど、
少なくとも西洋的スポーツ観、特にアメリカ的な発想で相撲を改革することには、
断固、反対です。

相撲のルーツは「神事」です。神様に捧げる「芸事」の一つです。古墳時代までさかのぼれると言われています。もしかしたら、大和朝廷(現天皇家)よりも長い位の歴史があるということです。
Wikipediaによると、突く殴る蹴るの三手の禁じ手・四十八手・作法礼法等が
定められたのは、神亀3年(西暦726年)だそうです。
京都遷都(鳴くよウグイス平安京って覚えませんでしたか?794年です)より古いって、
すごいですよね?

礼節を重んじること、一つの美意識に貫かれていること、技を磨くことで体重差を克服できること等々、相撲ならではの魅力は、日本独自の魅力と結びついています。
だから、海外の人達も惹かれているのです。突然、今っぽい言い方をすると、国際競争力のある魅力的なコンテンツでもあるのです。
日本の伝統文化として大切にすべきではないでしょうか?

近年の不祥事は、弁解の余地が無いものが多いとは思いますが、相撲をろくに観ていない人達が、小市民の価値観や、アメリカスタンダードな社会観で相撲について語るのは、強い違和感があります。

相撲協会がダメなのは、古い体質なのだからではなく、きちんと伝統を守るだけの自覚が薄まってるからだというのが私の意見です。
儲かっている団体ですから、既得権益者の排除、整理も必要かも知れません。外部の有識者をいれた開かれた理事会にもした方がよいでしょう。
ただ、忘れてはならない、一番大切な事は、日本相撲協会の存在価値は「伝統的文化の継承」にあるということです。

今年からプロ野球は、ストライクとボールの表示を大リーグに合せて、ボールを先にするそうです。
これまで「1ストライク1ボール=ワンツー」と呼んでいたのも「2ボール1ストライク=ツーワン」になるんですね。
野球を国際基準に合わせることには、賛成です。ボールのサイズや材質もストライクゾーンも、国際共通化していくことは、日本の野球の魅力を増すことだと思います。

柔道は、世界柔道協会の会長が外国人になって久しく、カラー柔道着とか、ポイント重視とか古来の柔道とは違う方向に進んでいます。
これも私は進めていった方が良いと思っています。
世界の「JUDO」になったスポーツで、日本人柔道家がどう闘うのかを楽しみたいです。

野球はベースボールに、柔道はJUDOにしていきましょう。でも、相撲をSUMOにすることは、できないのです。

そもそも、国際化という観点でも、相撲は独自の発展をとげています。この数年間、番付の上位3~5位は外国人力士が占めています。
まさにウインブルドン化(全英オープンテニスの優勝者がイギリス人以外である現象)が起きていますが、マワシはスカートになってませんし、力士はチョンマゲをしています。
国籍が問題なのではなく、相撲の伝統が継承されていることが肝要なのです。
アマチュア相撲は100カ国以上に広がっているそうですし、日本文化のシンボルとして外交にもプラスに使えるはずです。
核部分は西洋型に改良せずに「国際化」するビジネスモデルの原型と言えるかもしれません。

日本にとっての、相撲の価値をマスコミも相撲協会も日本人も再認識すべきだと、
強く思います。

僕の一番古い相撲の記憶は、テレビで観た先代貴乃花(現貴乃花親方の父)と輪島が大関争いです。おそらく小学校に入ったばかりで、もう40年近くファンでいる訳です。
祖母とも父親とも話せる唯一の共通の話題です。そんな家庭も日本中に多いのではないでしょうか?

今日の午後には春場所中止のニュースがありました。本当に残念です。
スキャンダルや興味本位の報道に惑わされることなく、力士は土俵の充実に、親方衆は伝統を守るためのシステム改革に、真剣に取組んでもらうことを、一相撲ファンとして心から願っています。

追記:相撲を国際的な視点で捉えて書きました。こちらもご覧下さい。


2011年1月14日金曜日

サッカーアジア杯を観て 

ヨルダン戦、シリア戦とサッカーアジア杯の試合を観て、盛り上がったので、
サッカーについて書きたくなりました。

私はスポーツ全般的にやるのも観るのも好きです。15年位前にスカッシュに
ハマった時期はありましたけど、さすがに時間が取れず、健康維持のために
週に数回ジムに通うのが精一杯で、最近はもっぱら観るだけです。

野球、相撲、サッカーはもちろん、マイナースポーツを観るのも好きです。
知らないスポーツをNHK教育チャンネル等で観て、ルールや戦術を知るのも
密かな楽しみだったりします。先日もホッケー(アイスホッケーではなく
陸上のホッケー)の日本一決定戦をたまたま観ましたが、
あまりのストイックさに感銘を受けました。
そんな私なので、文藝春秋社の雑誌NUMBERは長年、愛読しています。

さて、前置きが長くなりました。
昨夜のシリア戦は凄い試合でしたね。国際大会の公式戦じゃなければ味わえ
ないようスリルがありました。
個人技でも、おそらく戦術でも、優れている日本が、簡単に勝てないどころか、
ヨルダン戦は、もう少しで負けるところでしたし、シリア戦も引き分けてしまう
危険はかなりありました。

もし予選リーグ敗退ということになったら、アルゼンチン戦に勝って、好調な
滑り出しのザック監督にも、責任論がでかねないところです。
(まだ確定では無いですが、昨日の勝点3で、決勝トーナメント進出は、
ほぼ大丈夫でしょう)


二試合を観て、私が感じたことが2つあります。

一つは、本当に日本のサッカーのレベルが上がったんだなぁということ。
欧州リーグで活躍している選手もたくさんいるので、当然とも言えるのですが、
いつのまにか、日本はアジアの大会だと、名実共に格上の戦いをするように
なっていたんですね。ボール支配率が高いだけでなく、試合の主導権も持って
いるし、個々の選手の力量でも、明らかに上回っているように見えたのは、
決してひいき目では無いと思います。
Jリーグをつくって良かったんだなと、今更ながら思いました。

もう一つは、サッカーは、不確実性のスポーツだな、ということ。
ヨルダン戦は、後半ロスタイムになるまで、1点負けてました。辛うじて、
引き分けに持ち込んだというのが事実です。
シリア戦も、同点に追いつかれると同時に、一人少ない人数で戦うという
不利な状態になりました。

じゃあ、何故、そんなことになったのか、その原因は何かと考えると
ヨルダンが取った1点は、まあ「事故」のようなものでした。
シリアのPKは、主審の誤審で、明らかなオフサイドでした。
(そのお返しで、日本に甘めのPKをくれたのは、アジアの審判らしいなと
笑ってしまいました。笑ってられる状況じゃなかったですけどね。本田が
PKを決めてくれて良かったです。)
もし、これが野球なら、もう少し具体的な理由があるような気がします。
相手の投手の出来映えが予想を超えてよかったとか、大事な場面で野手に
失策があったとか、「敗因」を呼べる事柄が見付かるのではないでしょうか?
アジア杯の2戦には、そこまでの要因は、私は見つけられずにいます。
個人技は高くても、まだ連携がうまく機能していないとか、昨日のシリア戦の
バックパスは不用意だったとか、言えることはあるとは思うのですが、
決定的な要因とは思えないです。
それでも、1勝1分という結果は、及第点だろうし、日本の地力だという
見方もできます。
ただ、ツイッターのタイムラインで散見できた意見で、私が一番うなずけたのは、
「これがアジアのサッカー」だという見解でした。
審判のレベル、反則すれすれの守備、そしてサッカーそのものが持っている
「番狂わせ」が他のスポーツに比べて起きやすいという性質。
そんなものが詰まった、不条理な世界ですね。

一般社会も、正しい者が勝つとは限らないし、理不尽なこともたくさんあります。
「スポーツは勝ち負けが、はっきりしているから観ていて楽しい」という見解を
持つ人も居るようですが、私はそうは思いません。
世の中の不条理が、反映されているから、惹きつけられているような気がします。

時折、週刊誌や単行本になっているプロ野球の監督のチーム運営を、
安易に大企業の組織論に当てはめるような言説には、ぐったりしますけれど、
サッカーの不確実と不条理に心奪われるアジア杯になっています。

願わくば、アジア杯の中で、チームの連携や戦術認識が高まって、優勝を見届けて
美味しいお酒を飲めるといいなと思っています。

http://www.asahi.com/sports/fb/japan/TKY201101140002.html

2010年12月4日土曜日

白鵬の優勝と国際化とは何かについて

 九州場所が終了して1週間経ちました。横綱白鵬の今年五度目(六場所中)の優勝で幕を閉じた。久々に千秋楽まで優勝争いがあって、盛り上がった気がします。子供の頃からの大相撲ファンの私も、横綱朝青龍の不行跡報道あたりから、ちょっとシラケて、最近は、熱心に見なくなってましたが、九州場所の後半は、録画して観ました。
 幕の内力士の土俵入りを観ていると、本当に外国人関取が増えましたね。外国人力士が増えたことをネガティブにとらえることも多いですが、私は必ずしもそう思いません。但、その理由は、民族で差別をしてはいけないとか、相撲界ももっと開放的に変化していくべきだとかいうことではありません。私は相撲に関しては、保守的ファンなので、むしろ逆のベクトルの考え方を持っています。相撲は、古くからの伝統をでき得る限り守っていくべきだし、海外の文化や行動様式を相撲界に持ち込むことには、基本的に反対です。(例えば、女性を土俵に上げないことにも賛成です。将来女性首相が日本に誕生しても、この原則は守って欲しいです。男女差別ではなく、むしろ女性に対する憧憬の象徴だと思っています。)
 私が白鵬を支持するのは、その取り口も考え方も、相撲の伝統に則っているからです。中途半端な日本人力士より、よっぽど相撲の歴史についても学んでいます。
 今の大相撲の源流をどこに求めるかはいくつかの考え方があるとは思いますが、私は日本の農村社会をベースにしていると考えています。昭和初期は、身体の大きい農家の三男坊は、お腹いっぱいご飯を食べるために、相撲部屋の門を叩いたと言われています。日本の農村社会が崩壊した現在、相撲界の基礎は脅かされるのは必然です。そこにモンゴルや東ヨーロッパの人達が入ってくるのも社会の構造を考えると自然なことなのではないでしょうか?
 そこで大切なのは、相撲が作り上げていた様式とその背景をきちんと伝承していくことです。日本語を教えるのは当然ですが、相撲の前提となっている文化をきちんと伝え、プロフェッショナルの関取になるというのは、その文化を背負うことであることを理解させるのが肝要です。朝青龍は素晴らしいアスリートで、横綱としては魅力的だったと思いますが(個人的には取り口が千代の富士に似ていて、私の好みではないのですが)高砂親方がきちんと教育できなかったことが、不幸なことでした。好角家としては、元大関朝汐は現役時代から、しまりのない男だったよな、と知った風な憎まれ口を言いたくなります。
 話を戻すと、近代化、都市化が進んだ日本で、伝統を守るのが難しくなった日本の大相撲を、相対的に西洋化が進んでいないモンゴルの人達に支えられて守っているというのが、私から見えている相撲界の風景です。私が好きなのは相撲そのものなので、大切なのはその伝統が継承されていくことです。仮に血族的には完全な日本人でも、伝統を背負う気概がなければ、意味がありません。そういう意味で、今の外国人力士達の中にも素晴らしい力士はいると思います。特に横綱白鵬は、日本人以上に日本人らしいですよね。

 国際化の流れは、インターネットの発達で、加速度的に進んでいきます。その際に、自分のアイデンティティをどこに置いて、何を変えて、何を変えないのかは大切です。相撲以外のことでは、私はリベラルな考えを持っていることが多いのですが、(例えばプロ野球は、国際標準の経営とルールに大至急するべきだと思っています。)日本人らしさは何なのかは、しっかり見極めて生きていきたいと思っています。

 ちなみに、私は近年応援しているのは、稀勢の里でした。早く大関にと思っていたのですが、結果が出ないので、諦めかけていたのですが、今場所の活躍をきっかけに(白鵬の連勝を止めたことは歴史に残ります)飛躍を期待したいです。