試作機からA-2型
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「フォッケウルフ Fw190」の記事における「試作機からA-2型」の解説
開発初期の試作機はFw 190 Vと称される。V1はBMW 139(1,550馬力、直径1.38m)を装備し1939年5月中旬頃に完成、6月1日に初飛行を行った。機首は短いカウルに、プロペラ基部を丸ごと覆う巨大なスピナーを装備する特徴的な外見を持つ。さらにこのスピナーには先端部にダクトが設けられ、ここから吸気して強制冷却ファンも併用しエンジンの冷却を行う構造だった。この形は空力的には洗練されていたものの、冷却能力は不足していた。1939年12月31日には両翼にMG 17 7.92mm機関銃とMG 131 13mm機関銃を1丁ずつ装備したV2が空軍に引き渡された。この機体も若干の改良の上でV1と同じ機首形状を採っていたが、やはり冷却能力が不足しており、1940年1月には両機とも通常の機首形状に変更された。なお、3号機・V3は交換部品のストック用とされ、4号機・V4は破壊・強度試験に使われた。1939年の秋にBMW 139エンジンの開発中止が決定したため、5号機となるV5にはBMW 801 C-0(離昇出力1,600馬力、直径1.29m)が搭載された。これは一説には、ただエンジンを換装しただけでなく機体の各部に大改修を加えたものであった。だが重量が25%も増したことから翼面荷重が増加し飛行性能は低下した。このため従来の全幅9.515m、翼面積が14.90m2の主翼を装備したV5kの他に、全幅10.5m、翼面積が18.30m2の大型翼を採用したV5gが生産された。これらを試験した結果、最高速度は695km/hから685km/hとやや低下したものの、運動性については格段の改善が見られたため、この大型主翼が採用された。 V5の試験開始とともに空軍はFw 190に強い関心を示し、新型エンジンの量産体制が整っていないにも拘わらず、40機もの増加試作が仮発注された。これは結局1940年11月から1941年9月までに28機が生産されFw 190 A-0とされたが、初期の8機は主翼の改修が間に合わず、従来型の小型主翼のままであった。文献によれば9機が小型翼ともされる。その後エンジンは新型のBMW 801 C-1とされ、それを装備したFw 190 A-1が、1941年秋までに102機生産された。これは当初、武装がMG 17 7.92mm機関銃×4(弾数各850発)と貧弱なものであったが、主翼外翼にMG FF 20mm機関砲(弾数各60発)が増設された。しかしA-0型を使用しての実用実験中、Fw 190は多くのエンジントラブルに見舞われる。従来から傾向の強かった加熱・発火の問題の他に、BMW 801に装備されていた自動制御装置「コマンドゲレート」にも不具合が発生、一時期はFw 190の実用化さえ危ぶまれる事態となった。多くの改修を経て多くの問題をクリアし開発は継続されたものの、エンジンの冷却不足については実戦投入後1年くらいは問題視されていた。 1941年10月頃からはBMW 801 C-2エンジンを装備したFw 190 A-2の量産が開始される。このモデルは降着装置を強化し、内翼の7.92mm機関銃をMG 151/20 20mm機関砲(弾数各250発・ベルト給弾)に変更した。なお装備位置は主翼のほぼ付け根、プロペラ圏内であり、プロペラ同調式である。結果、兵装はMG 17 7.92mm機関銃×2、MG 151/20 20mm機関砲×2、MG FF 20mm機関砲×2となり、これは以降の標準装備となる。426機または952機生産。 1941年7月末、西部戦線英仏海峡方面に在る第26戦闘航空団(JG26)に Fw 190 A-1が配備、実戦投入される。故障が頻発するなど苦戦したものの、イギリス軍の スーパーマリン スピットファイア Mk.Vを相手に有利に戦闘を進め、制空権を確保した。1942年の春には北フランス方面の第2戦闘航空団(JG2)とオランダ西海岸方面の第1戦闘航空団(JG1)にもFw 190 A-2が配備されるなど、以後Fw 190は多方面に配備されていく。
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