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映画短評 『プリンセス トヨトミ』 2011.05.31
たまには映画の話などしてみるのもよいでしょう。
普段あまり映画館に足を運ぶことがないんですが、久々に観に行った映画がなぜよりにもよってコレなのか、というのは、まあ察してください。
この作品の一番の見所は、やはり最新鋭のCG技術と緻密な演出を駆使して描かれる綾瀬はるかの乳揺れでしょうか。
近年稀に見る神がかり的な作画でした。
思えば我々は、乳が揺れるという現象に対して少々鈍感になってしまっていたのではないか。
アニメなんかでは、明らかに不自然な揺れ方をしたり、不必要なバストアップであったり、妙なSEが入ったりと、ある種「ネタ」的な描かれ方をすることも多々あります。
そうした「つくられた乳揺れ」ではなく、人間本来が持つポテンシャルが過不足なく表現されていたのがこの作品でした。
必要以上のバストアップがあるわけでもなく、しかし押さえるべきところはしっかりと押さえたカメラワーク、鮮明な揺れを可能とする衣装、なにより、引きのカットでもその存在感を主張してやまない巨乳は、我々の心を、そして股間を熱くさせるでしょう。
自然には逆らわず重力には逆らう、このあたりまえの乳揺れがあたりまえのものとして描かれる奇跡。
股間がスタンディングオベーションしないわけがありません。
他の見どころとしては、綾瀬はるかが便所に行くことによって相手方の不正を見抜くきっかけが出来る、という便所論壇的に有用なシーンがありましたし(お花を摘んだあとの綾瀬はるかの妙にスッキリテカテカした表情も必見!)、また、お好み焼きを食べながら「タマ」だの「スジ」だの卑猥な言葉を連呼したかと思えば、二度漬け禁止の謎の奇妙な液体を付着させた棒状のモノを口元に手繰り寄せつつまたしても「スジ」と発言するなど、女優生命に関わりかねないキワドイ演技にも注目すべきものがあるでしょう。
もちろん、物語の大きな核となる女装男子の存在にも目を向けないわけにはいきません。
まるで「放浪息子」に影響を受けたかのようなクリティカルなキャラクター造形は、どうみてもオレっ娘にしか見えない“プリンセス”との対比によって際立ちます。
作中では、「男か女かは関係ないんだ」といったようなメッセージが強調されており、「キャラクター」という観点からみる男女区別不要論、すなわちtnkがはえているか否かは問題ではない、可愛いかどうかがすべてである、という主張に通じるものがあります。
このあたりの発想は割りとアニメ的な部分があるのではないでしょうか。
(そういえば、プリンセスの飛び蹴りのシーンなんかはアニメでよく見られるような構図で、思わずコマ送りでパンツを確認したくもなります。)
と、いったように、全体的には「大阪全停止ってやりたかっただけやろ」感が拭い去れないガッカリ映画でしたが(!?)、前述の乳揺れ、そして女装男子、この二つの要素が(まさにふたなり的に)絡み合うことで妙なオーラを発していたのも事実でしょう。
(女装男子の「性の揺れ」と乳揺れが掛かっていたはずだ!と個人的に解釈しています。)
テーマ的にはプリンセスは結構どうでもよくて、主に父と息子(あるいは乳と愚息)の絆みたいなものがメインだったので、これから観ようという人はぜひお父さんと一緒に観に行くのがよいでしょう。
そして、帰り道、父とともに乳の話で盛り上がる(話題も、股間も)のがよろしいかと思います。
以上。
可視化される不可視性~メタ・パンツはいてない~ 『Aチャンネル』 2011.05.28
Aチャンネルの話題です。
第8話で描かれた興味深い現象は、同時にこの作品のありようが提示されてもいました。
ここでは、窓(フレーム)の外にいるトオルたちの様子を、ユタカとミポリンが実況する、という描写がなされました。
渡り廊下で戯れるトオルやるんちゃんらの姿は、我々(=視聴者)には見えず、ユタカら観察者の解説によってのみその様子を窺い知ることができます。
その際、我々は、彼女らの実況によって、「るんちゃんに近づいた男子生徒を金属バットで追い払うトオルの姿」を容易に想像することができたでしょう。なぜならば、そうしたトオルの姿はこれまでにも繰り返し描かれてきており、我々の脳裏にしっかりと映像として記憶されているからに他なりません。
そういった、反復による映像の刷り込みに関してはさて置き、まずは画面内で起こっている出来事に着目します。
先ほどは「窓(フレーム)の外にいるトオルたちの様子をユタカとミポリンが実況する」と述べましたが、実際には、「窓の外側」にいるのはユタカたちの方で、「内側」にいるのがトオルたちになります。ユタカたちは「窓」というフレーム内(=画面内)で繰り広げられる光景を観察していたわけです。
つまり、「トオルたち<を観察するユタカたち<を観察する視聴者」という二層構造のレイヤーが出来上がっていたと言えます。
そしてそのことは、最後の、トオルとるんちゃんが仲直りするシーンでも描かれていました。
ここでも窓というフレーム(=画面)越しに青春の1ページを観察するユタカたちの姿が描かれています。
実はこのAチャンネルという物語は、トオルたち主役グループに対する外部の観察者、すなわちユタカ、ミポリンのコンビであったり、佐藤先生、亀頭先生ら教師陣であったり、そういったキャラクターたちが観測することによって初めてその存在が表出している、つまり、彼らサブキャラの存在なしには我々視聴者はこの感動的な青春物語を感知/視聴することは不可能なのである!キリといったようなトンデモ理論を展開するつもりは毛頭ありません。が、少し時系列を遡りつつ、この作品の二重レイヤーについて考えてみるのも決して無駄にはならないでしょう。
例えば、第3話において描かれた生着替えイベントでは
「はいてない」というきわめてメタな発言がなされましたし、第2話では、パンツはき忘れ事件が描かれてもいました。
これらの言動に、「えっ、普段はパンツはいてたの!?」と少なからず驚いた視聴者は多いでしょう。
それもそのはず、公式サイトのトップ絵を見てもそうですし、第1話の時点で既にこの作品が「パンツはいてない」アニメであることは示されていたわけです。
あるいは、同じく第2話では、「パンツはいてない」に続いて「ブラつけてない」までもが描写されていましたよね。
雨に濡れてビショビショになってもブラのラインが浮き彫りにならない、という現象によって「ブラつけてない」が浮き彫りになったわけです。
より直接的には、着替えとして用意された衣服の中に明らかにブラやパンツがなかったり
制服を乾かしている間、明らかにブラつけてないわけですが
干している衣服群の中に下着類が見当たらないなど、彼女たちのあいだには下着という概念は存在しないのではないかと疑ってもしまいます。
にも関わらず、第5話においては、ユー子とナギの間で「ブラのサイズ談義」が行われるなど、もはや我々は「はいてない/つけてない」と「はいてる/つけてる」の間を右往左往する他ありません。
そこがこの作品のミソなのです。
つまり、この作品では、キャラクターたちの下着の有無は、キャラクター自身による申告に委ねられているわけです。(先の「はいてない」発言や、「パンツはき忘れ」は、逆説的に「普段はパンツはいている」と受け取れる)
そしてそのことが、先述の二重レイヤー問題につながります。
我々が「画面」を通して見ている「パンツはいてない」は、実際には「パンツ描いてない」だけであり、キャラクターという観測者によって報告されて初めて「パンツをはいていない状態」が見えるようになります。
作品内で言及されることで不可視であることが可視化されるわけです。
「メタ・パンツはいてない」の誕生です。(実は歴史的な瞬間に勃ち会っているのですよ!)
こういった、視聴者との間に咬まされるレイヤーの存在は、OPの映像によって示唆されています。
メインのキャラそれぞれが携帯の待ち受け画面から他のキャラを見ているという構図です。
この作品が、キャラ←キャラ←視聴者というダブルストーキング状態になっていることがあらわされていますよね。
加えて言えば、「Aチャンネル」というタイトルにも、何かメタなニュアンスを感じ取ることができるでしょうし、前述のような「メタ・パンツはいてない」が、(パンツはいてないアニメの先駆けである「咲-Saki-」の監督)小野学監督によって行われたことに意義を感じる人も多いでしょう。
これまで、「パンツじゃないから恥ずかしくない」の文脈は、いくつかの派生表現が生まれてきましたが、「パンツはいてないから恥ずかしくない」に関しては、それほど多く言及されることがありませんでした。
そんな中、小野学監督みずからによって描かれた「はいてない」の可視化は、今後のパンツ業界にとっても重要な表現となるでしょう。
我々は今、あらためてパンツの存在を問われています。
以上。
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パンツまたは便所のこと 『アスタロッテ/戦国乙女』 2011.05.20
まずはパンツの話から。
釘宮病患者のための向精神薬として局所的に猛威を振るっている「アスタロッテのおもちゃ!」その第6話において描かれた、優れたパンツ表現についてここに書き残しておきます。
今回の話では、「主人公の娘」というあまり類を見ない属性を与えられたパンツはいてない幼女・明日葉が、文字通り「鍵」を握ることになりました。
簡単に流れを振り返ってみると、大賢者さまに会うためドラゴン的な生物に騎乗位で搭乗し出発するわけですが、その際、珍しくパンツをはいている様が映し出されます。
次いで、大賢者さまに謎掛けを提示された際、明日葉が脱ぎたてパンツを差し出すことにより扉がくぱぁする、というものでした。(大賢者さまのうさ耳と、パンツのうさぎ柄を合わせ絵にするという細かい演出も素晴らしい)
(パンツを脱いで開放されるのが「二つの穴」であるというのも示唆的に映ります。)
ここで重要なのは、明日葉が普段はパンツをはかない存在であるということが、これまでの話で繰り返し強調されてきた点にあります。
我々はいつの間にか、明日葉がパンツをはいている状態に違和感を感じるようになっていた、この場において、パンツが「異質なもの」として映ったはずです。
だからこそ、普段は所有されていない異質なアイテム=パンツが扉を開くための「鍵」になることに不自然さを感じなかったわけです。
これが例えば普段からパンツをはいているキャラだったらどうだったでしょうか。
脱ぎたてのパンツは確かに人の心を開くに値する存在かもしれませんが、パンツによって扉を開けた大賢者さまは変態の謗りを免れなかったことでしょう。
しかし実際には、この時のパンツは、RPGなんかでよく見る「キーアイテム」として用意されていたわけですから、それによって扉が開かれるという現象はどこにも不自然な点は見当たらないと、そういうわけです。
こうした、キーアイテムとして機能するパンツは、これまでのパンツはいてない描写の積み重ねであると言えますが、実は物語の鍵としてだけでなく、もう一つ大きな意味が込められています。
明日葉がパンツはいてないキャラであることは前述した通りですが、この幼女は、これまでにいくつかの作品で描かれてきた「パンツはいてない」――例えば「咲-Saki-」や「Aチャンネル」など――とは一線を画しています。
それは、これまでの「パンツはいてない」が、実質的にはパンツをはいているがあえて「描かない」ことによる「パンツはいてないから恥ずかしくない」という、パンツ規制へのカウンター的な側面を持っていた、つまり制作者側の都合によるメタ視点での表現であったのに対し、明日葉の「パンツはいてない」は、作中人物の意思によってはいてない、ネタ視点の表現であるという点にあります。
このことは、ある一つのメッセージを浮き彫りにします。(まるでパンツに浮き彫りになる縦筋のように!)
明日葉のノーパンツスタイルは、先ほど述べたように、自分の意思によるものですから、「パンツはいてない」というよりは、「パンツはかない」と表した方が適切でしょう。
そして、そうしたパンツの「はかなさ」はそのままパンツという存在の「儚さ」に直結します。
普段は人目に触れることなく、草場の陰(性的な意図はない)から我々の生活を見守ってくれているパンツ。
因果律の積み重ねにより、時々ほんの数瞬だけ我々の前に現れてくれるパンツ。
紳士的な休憩所でご対面した時には、すぐに脱がされてしまうパンツ。
そういった、パンツという存在の「儚さ」を表現するための「パンツはかない」描写、そしてその「儚さ(=はかなさ)」が、これまた儚い存在である「幼女」――幼女という期間は人間の一生においてあまりに短命である――によってなされている。このことに我々は切なくも美しい情緒を感じずにはいられません。
つまり、この作品における「パンツはいてない」は、「パンツ/幼女」の「儚さ/はかなさ」が幾重にもミーニングされた意義深い表現だったのです。
今回取り上げた「鍵」としてのパンツにしても、一種の演出装置として「脱がされるために」用意されていたわけですから、そこには「消えるために打ち上げられる」花火のような日本的な美意識を感じ取ることが出来るでしょう。
非常に味わい深いパンツ表現でした。
といったあたりで、前座はこのぐらいにして便座もとい便所の話に移ります。
この第6話では、パンツもさることながら、大変興味深い便所描写がなされました。
ロッテさまが人間界の便所の洗礼(ウォシュレット的な意味で)を浴びるシーンです。
よく、外国人が日本に来た際には、ウォシュレットに感動または驚愕すると言われます。逆の場合もしかり、例えば中国なんかでは間仕切り壁のないフルオープンな便所が話題になりますし、水洗ではなく所謂ボットン便所が主流の国もまだまだ多い。
便所の様式は異文化交流における最重要項目であると言えるのです。
そうした中、ロッテさまはその幼いながらも発育途上の青い果実のような瑞々しい肉体によって精製された黄金色に輝く聖なる液体をまだ開発されていない閉じた蕾のような深淵への出入口を通して外界へと排出なさっていたわけですが、そこで「ウォシュレット」という近代科学の最先端技術の結晶に直面するわけです。
ファンタジーとサイエンスの交錯です。
こういった、異文化における便所の様式の違い(個人的に「トイレーションギャップ」と名づけたい)が臆することなく描かれた事実は賞賛に値します。
便所論壇的に大変意義のあるシーンでした。
ちなみに、このウォシュレット描写が、実はアバンタイトルの時点で
“花ビラ”に水をぶっかけるという形で示唆されていた点は見逃すわけにはいかないでしょう。
最初から既に伏線が張られていたわけです。
思えば、この作品は、そもそもの物語の起点が、主人公が金髪巨乳サキュバス(CV:皆口裕子)の肉便器になったというところにあるわけですし、そういった意味でも、なるほど確かに「便所的」な作品であると言えるでしょう。
先述のパンツ表現と合わせて、ますます目が離せない作品になってきました。
ところで、便所と言えば「戦国乙女」でありますが、前回の舞台の便所化に続いて、第6話においても、その便所的な目配せはしっかりと行われていました。
この回は、主に回想シーンがメインとなり、例えばミツヒデとノブナガの出会いや、騎乗位での初デートの様子、そして休憩に適しているであろう個室において
(女同士であるがゆえに)男性器の代わりに「茶」を勃てるという性的な描写が無修正で描かれたり、その際にはノブナガさまが「お前の頭は石よりも硬い」と、まるで男性器への感想であるかのような評価を口にしていたりなど、ミツヒデこそが挿入する側、つまり「攻め」であったことが示唆されました。
この時の、休憩に適している淑女的な個室が、あたかも便所の個室であるかのように見えるかどうかはさておき、問題なのは後半、ノブナガさまの回想によって語られたノブサダお婆ちゃんの言葉でした。
「水を制したものが国を制する」
これを便所的な発想と言わずして何と言いましょうか。
(この時代、恐らくもっとも水を制していたのは、水洗便所に並々ならぬ情熱を注いでいた武田シンゲンであったでしょうが、彼女がケンシンとのイチャイチャに終始せずに本気で国盗りを狙っていたら、もしかしたら日本の歴史は大きく変わっていたかもしれません。)
この、「水を制した~」発言は、本編へとそのままフィードバックされます。
「スイッチを押すと水が流れる」というきわめて便所的なシステムは、舞台の便所化だけでなく、水を流すことによって外部への突破口を開く、という描写によって、ノブナガさまの便所レベルのアップ、「水を制する」に一歩近づいた事実があらわされています。
一方、ノブナガさまとヒデヨシちゃんが水に流されている頃、快便乙女であるところのミツヒデさんは、何らかを洗い流すかのような雨に打たれながら、「水場」の側でマサムネ先生と会談乙女を行っていましたよね。
そして、ノブナガ/ヒデヨシの排水乙女と交錯した時――
まるで何かしらを洗浄せんとばかりに「ウォシュレット」が起動したわけです。
(もちろん、アバンタイトルで“花ビラ”が水に打たれる様が映し出されていた伏線も忘れてはならない)
ここまで高い水準で便所化された物語を見せ付けられた今、我々はもうこの作品を便所なしに語ることは出来ません。
今こそ高らかに宣言しましょう。
便所を制したものが天下を制する、と。
以上。
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