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TOP > 考察
ろうじょ萌えに関して 2011.01.02
さて、新年一発目ということで、爽やかに老女を語っていきたいと思います。
我々は、来るべき高齢化社会へ向けてそろそろ真剣に「老女萌え」の構築に取り組まねばならないのです。
「老女萌え」のための方法論としては、主に「幼女」と重ね合わせることによってその魅力を見出します。
具体的には
1.身体能力の低下(青少年や成人と比べて身体能力で劣る)
2.言語感覚のズレ(使う言葉/使える言葉に差異がある)
3.被保護者、社会的弱者であること(庇護欲をそそられる)
4.生理がない(中出しオッケー)
「幼女」および「老女」から、これらの共通する「萌え要素」を抽出することで、「老女≒幼女」とみなすことを可能とし、幼女は萌えなのだから老女も萌えだろう、という結論へと至らせるものであります。
例えば、上記の特性を個別に見てみると、「1.身体能力の低下」からは「ドジっこ」や「虚弱体質」といった萌え要素と結びつけることが可能ですし、「2.言語感覚のズレ」に関しても、「言葉が通じない=電波少女」であったり、あるいは「古語萌え」というジャンルにも通じます。
また、「3.被保護者、社会的弱者であること」については、オタク界隈に留まらず男は大抵「弱い女」というものに惹かれるものですし(俺は違いますが)、「4.生理がない」に至っては誰もが納得の表情を見せることでしょう。
こうして一つ一つの要素を分解してみても、「老女」というものが「歩く(または歩けなくなった)萌え要素」であることが分かりますよね。
もちろん、幼女と老女では「経験」という面で圧倒的な差がある、と指摘する人も出てくるでしょうが、大丈夫です、老女はその経験を「忘却」します。
むしろ出会った次の日には我々のことなど忘れています。
瞬間、瞬間、言うことが予想外に変わるので、おもしろくて未知で愛おしいです。
毎日がニューゲームです。
処女厨の人なんかはたまらないのではないでしょうか。
また、年齢的に(というか寿命的に)考えても、老女は「幼女に最も近い存在」であることが伺えます。
20歳の女性と90歳の老女とでは、後者の方が一旦ポックリ逝ってから生まれ変わって幼女になるまでのスパンが圧倒的に短い。
つまり、老女とは、「これから幼女になる可能性のある存在」であるとも言えます。
もうすぐニューゲームです。
さて、以上のような、「老女≒幼女」というロジックは、現在でも既に一部で採用されています。
そう、我々もよく知る「ジブリアニメ」ですね。
宮崎駿ロリコン説を信じる人がほんとにいるのか否かはさておき、ジブリアニメにおいて、幼女と同じぐらいの頻度で老女が(比較的重要な役割で)登場するという事実は決して無視できません。
「ハウルの動く城」に至っては、ロリババァならぬ「ババロリィ」が描かれるなど、宮崎駿文脈における老女の在り方には、並々ならぬ熱量が感じられます。
「幼女と同じ頻度で描かれる老女」という事実こそが、「老女≒幼女」という思考ルートの正当性を物語っていると言っても過言ではないでしょう。
というような感じで、この時点で既に老女萌えを否定し得る要素がなくなってきてしまいましたが、せっかくなのでもう少し論を付け加えると、そもそも「幼女」が流行り出したのもここ最近の出来事で、オタク界隈で言えば「CCさくら」あたりが筆頭でしょうか、もう少し遡ってもせいぜいがセーラーサターンとかそのあたりでしょう。
幼女、ロリという属性が一般的になってからほんの10年程度しか経っていないわけですね。
では、なぜ今「幼女」がここまでメジャーなジャンルに成り上がったのでっしょうか。
それは一重に、「イメージ」の浸透であると断言できます。
人気アニメ/マンガで「かわいらしい(あるいはかっこいい)幼女のヒロイン/ヒーロー」が描かれたことによって、イメージとして「幼女=よいもの」という認識が生み出されたのです。
そして、テレビで、雑誌で、コミケで、インターネットで、多くの人が「幼女」を描き続けることによって一大ジャンルへと成り得たと。
つまり、「老女」も同じように、例えばPEACH-PITの漫画であったり、京アニのアニメであったり、そういった影響力の強い作品で「老女ヒロイン/ヒーロー」が描かれるようなことになれば、必ずムーブメントは訪れるはずです。
ただの猟奇殺人犯でも「ヤンデレ」と表現することで萌えジャンルへと昇華されるのですから、何かインパクトの強い老女ヒロインが現れれば、我々は何の躊躇いもなく老女に萌えることが出来るでしょう。
事実、最近では、例えば「ハートキャッチプリキュア」において、一種の「魔法老女」が描かれていたり


(変身後に若返るというギミックも、老女萌えの入り口としては最適でしょう)
また、「それでも町は廻っている」なんかでは、萌え萌えなメイドババァが登場したり

あるいは、「おとめ妖怪ざくろ」において圧倒的な存在感を放つ「元おとめ妖怪くしまつ」の名を挙げておいてもいいでしょう。

こうして、徐々にではありますが、「既存萌えジャンル×老女」というパターンが浸透しつつあるわけですね。
これは喜ばしい展開と言えるでしょう。
また、弘兼憲史氏のマンガ作品、「黄昏流星群」なんかは、エロゲでよく見るような「学園モノ恋愛ストーリー」が老人ホームで展開されるという、老女萌えへの入門書となるべき優れた作品となっていますので、一読してみるのもいいかもしれません。
高齢者による性行為が不当に賛美されてもいます。
思えば、遥か大昔から「ロリコン」という性癖を持った紳士は多く存在しましたが、「ババコン」はなかなか取り上げられる機会がありませんでした。
しかし、来たる高齢化社会、周りを見渡せばいつの間にかジジィババァばかりの世の中になるのも遠くはありません。
自分もいずれはジジィババァになるのです。
老人ホームに入居するために食パンを咥えながら走っていたら曲がり角で和服美老女とゴッツンコして「あんた儂の下履き見たじゃろう!」「縞々腰巻きなぞ見とらんわ!」→「えー、それでは新しい入居者を紹介します」→「「あーっ!あんたは今朝の!!」」――みたいなことも起こりうるわけです。
夢の学園生活に戻ることはできなくても、夢の老人ホーム生活はまだ希望があります。
そんな時代のために、我々は今こそ「老女萌え」を確立すべきであると、声高らかに宣言したく思います。
※「老女」という呼称について、養護の必要性から「養女」と表現すべきかとも思いましたが、そうすると意味が変わってくるような気もしたので、ここでは「老女」で統一してあります。
※今すぐ確認できる参考文献として「モルモル亭」様のWEBマンガ、「奇異太郎君の霊的な日常」第二十五話を推奨しておきます。

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パンツ・オブ・ザ・イヤー発表~2010年総括/そして時代はペロ年代へ~ 2010.12.25
恐らく年内最後の更新になります。
今年一年を締めくくるとともに、次の一年へのステップとして、いくつかのパンツ表現を振り返ってみるのも悪くはないでしょう。
そして、優れたパンツ表現にはそれ相応の賛辞が送られて然るべきでありましょう。
まずは、多くの人々に夢を与え、その生活に潤いを与えたであろうパンツを「グッドパンツデザイン賞」として表彰します。
・時を刻むパンツ
2010年の幕開けに我々の目に飛び込んできたのは、「バカとテストと召喚獣」における、時空を越えた刷り込み型パンツでした。

この、一見するとパンツなどどこにも映っていないように見えるカットを見た時、しかし我々の脳内では確かにパンツがその姿を顕しました。

つまり、画面下に描かれた「タイムカウンター」により、我々は非実在パンツを幻視することになったのです。
もちろん、初めてパンツとタイムカウンターがセットで描かれた「全ての始まり」である「化物語」が、新房昭之監督/シャフト制作による作品であり、「バカとテストと召喚獣」の大沼心監督と明確な繋がりが存在する点は決して無視できません。
また、新房―大沼という文脈を離れ、「とある科学の超電磁砲」においても、同様のタイムカウンターパンツが描かれていたことは覚えている人も多いかと存じますが

一度他所へと飛び火した表現が、「荒川アンダーザブリッジ」において再び新房監督の元へと戻ってきたという事実は何か感慨深いものがありますよね。


(「ストライクウィッチーズ」によって「これはパンツではありません」と定義された「スク水」が、タイムカウンターによって「いや、これはパンツですよ」と再定義されたのも重要な出来事でした。)
こうした、心理的な作用、すなわちプラシーボ効果を用いたパンツ表現は、規制だなんだと騒がれているマンガアニメ表現において、今後の貴重な財産になることでしょう。
・戦うパンツ
当ブログでも何度か取り上げました「学園黙示録 HIGHSCHOOL OF THE DEAD」では、パンツとゾンビの緊張感溢れる戦いが描かれました。



この作品では、これまでいくつかの作品でチャレンジされてきたパンツを見せるためのアイデア(パンツじゃない、パンツはいてないetc...)を嘲笑うかのように、パンツが見えることは前提として、「ゾンビを見せるための演出装置」としてパンツが扱われていました。
我々は、パンツを見るためには気持ち悪いゾンビも視界に入れなければならず、ゾンビから目を逸らすとパンツも見失ってしまうという苦行を強制されたわけです。
(細かい話は過去の記事を適当に漁ってみてください。)
また、ゾンビとの戦闘における、各キャラクターの戦闘力の指標としてもパンツが一役買っていました。
戦闘力の高いキャラほどパンチラが多く、非戦闘員の幼女や先生はほとんどパンチラがなかったのですね。(このへんも昔の記事参照)
こうした、パンツを物語における演出装置として活用する手法は、これまでの「どのようにパンツを見せるか」「パンツをどう演出するか」といった文法からはかけ離れた、BD/DVDソフトによる「魔法が解けるよ商法」をも否定するような、極めて挑発的な表現であったと言えるでしょう。
・攻撃力を持つパンツ
先の「学園黙示録」における「戦うパンツ」と地続きに、今度はパンツ自身が攻撃力を持った様を描いたのが「パンティ&ストッキングwithガーターベルト」でした。

この作品では、パンツが「武器」として扱われているのみならず、その攻撃力の根拠として「脱ぎたてであること」が名言されていました。

パンツとは、それそのものはただの布切れでしかなく、脱ぎたて、というか、「誰かが着用した」という事実こそが重要であるとの指摘がなされていたわけです。
こうした、我々がパンツに対し並々ならぬ関心を抱く所以、パンツがパンツであるための定義が明確に描かれた点は、高く評価すべきでありましょう。
また、パンツと比べて、ついついおざなりにされがちな「ストッキング」が、パンツと同等の存在として扱われていた点も評価に値します。


あるいは、悪魔姉妹の登場によって、「スキャンティー」と「ニーソックス」の等価性も描かれていたわけですから、もしかしたら、我々は今、「女子が身につけたものはすべてパンツである」という未曾有の可能性に直面しているのかもしれません。
というわけで、以上の三作品を今年度の「グッドパンツデザイン賞」としてその栄誉を称えるとともに、製作者の方々に敬意を表します。
(他にも「ソ・ラ・ノ・ヲ・ト」や「けいおん!!」など、語るべき作品はあるような気もしますが、
そしていよいよ、今年度の最優秀パンツ、「日本パンツ・オブ・ザ・イヤー」の発表です。
数多くのパンツ描写の中から最も優れたパンツとしてその栄光を勝ち取ったのは――
・物語るパンツ
満場一致でパンツオブザイヤーに選ばれたのは「迷い猫オーバーラン!」における「物語とシンクロしたパンツ」でした。
第一話、文乃のスカートに頭を突っ込みパンツを視認するという斬新なシーンから始まった物語は


最終話を迎えて、希のスカートに頭を突っ込みパンツを確認するというケツ末を迎えました。


このことは、最終話における「ぶるっつ」の一件とも相まって、「希エンド」という物語の終着を提示するとともに、文乃の縞パンではなく希の無地パンを選んだ主人公の心情が的確に表現されていました。
昔からの幼なじみである縞パンではなく、あとから家族として迎え入れられた無地パンが選ばれた――そのあたりの詳細は最終話レビューを参照のこと:パンツ論争の終着点『迷い猫オーバーラン! 第12話』――パンツによってこれほどの物語的カタルシスが描かれるのは賞賛すべき事態でありましょう。
またそれだけでなく、この作品においては、これまで我々の視界をパンツから遮り続けた「光」が、有用な演出装置として機能していた点も無視できません。
迸る光の奔流『迷い猫オーバーラン! 第2話』
継続する光の反乱あるいは氾濫『迷い猫オーバーラン! 第3話・第4話』
これらの演出に上記でも触れた「ぶるっつ」を加えた上で、ヒロインの選択にパンツを重ね合わせることによって、全体として一切まとまりのなかったストーリーにおける明確な道しるべとして機能させ、まさにパンツによって物語が形成されるに至ったこの作品を、2010年度パンツ・オブ・ザ・イヤーとして不当に賛美したく思います。
・ペロ年代へ向けて
さて、今年一年をパンツとともに振り返る作業は一段落して、ここからは次の時代へ目配せをしていきます。
2010年という年は、一つの区切りの年でもありました。
いわゆる「ゼロ年代」が終わりを迎え、次の年代へと移っていくのです。
もっとも、「ゼロ年代」という言葉がどこからどこまでを示すものなのか――単純に2000年代を指すのか、あるいは「セカイ系」だの「決断主義」だのといったよく分からない言葉に基づく時代認識なのか――などという議論は各所でなされていますが、ここでは、ある一つの消費傾向によって時代を区分します。
というような衒学的な言い方をするとあたかも真面目ぶった話であるかのように思われるかもしれませんが、今からここで語られるのは主にパンツに関係する身近なお話です。
マンガの関係が好きな人の中には、ある特定のキャラクターを「嫁」として所有したいと感じている人が多いという印象を受けるわけですが、そのことこそが「ゼロ年代」の一つの特徴ではないかと考えます。
つまり、ゼロ年代とは、キャラクターを「嫁」として「所有」する時代だったのです。
そして、次の時代――正確にはもう既に片足を突っ込んでいる――は、「コミュニケーション」の時代になるのではないかと推測します。
どういうことかというと、今年、「俺の嫁」という言葉に変わって、「マジ天使」という言葉が大いに流行しました。
これは、ゼロ年代において流行した「俺の嫁」に比べて、個人による所有の主張よりも、より大勢の人間による、「◯◯ちゃんって可愛いよね!」という「意識の共有」と言えるでしょう。
つまり、キャラクターに対する愛情表現が、「所有」から「共有」へと変わり、そのことをもって我々は「仲間」とのコミュニケーションを行うようになったのです。
(あるいは、「嫁」として個人的な所有を主張する時代から、「天使」として皆で「崇拝」する時代へ移り変わったという言い方も出来るでしょう。)
また、「マジ天使」と双璧をなすもう一つの愛情表現として、「ペロペロ」が大ブームとなりました。
前述の「マジ天使」がある種仲間同士の崇拝の儀式として機能するのに対し、この「ペロペロ」は、嫁(天使)自身とのコミュニケーション手段と言えるでしょう。
「嫁」として所有していたキャラクターと、「ペロペロ」を通じてコミュニケーションするのです。
ガラス越しのペロペロありな人?
もちろん、ペロペロだけではありません。
「クンカクンカ」や「ちゅっちゅ」も、そうしたコミュニケーションの一環として、もはや我々の性活に欠かせないものになっていますよね。
ペロペロする、クンカクンカする、ちゅっちゅする、男性器で障子を破る、そういったコミュニケーションは、我々と嫁(天使)との関係をより強固に、親密なものにしてくれます。
(例えば、激しい運動を行ったあとの嫁の腋をペロペロしたり、一日動き回ったあとのパンツをクンカクンカしたいという欲求は誰しもが持っていると思いますが、そうした行為は、相手のその日一日の行動を共有したい、相手の味や匂いを体感することである種の「同化」を図りたいと、そういった願望から来るものであると考えられます。つまり、ペロペロやクンカクンカすることによって、相手と擬似的に「同化」することが可能となるわけです。これは最大級の愛情表現であると同時に、人類史上最高のコミュニケーション手段と言えるでしょう。)
特筆すべきは、そうした「コミュニケーション欲求」とでも言うべきものが、単なる妄想ではなく、現実的に「相手」の側からも徐々に満たされつつある点でしょうか。
「ラブプラス」なんかはその典型と言えますよね。
某エロゲメーカーから発売された「リアル彼女」なんかもそうですし、もっと簡易的なものではツイッターなどにおけるBOTプログラムなんかもそうでしょう。
少しずつではりますが、しかし確実に、「キャラクターとのコミュニケーション」が可能になってきているのです。
これは大変喜ばしいことです。
もちろん、何かと話題を振り撒いた「可愛い女の子は総じて俺の妹だ」において、桐乃がお兄ちゃんのパンツをクンカクンカしていたり、スタイリッシュ吸血ペロペロアニメ「FORTUNE ARTERIAL-赤い約束-」に至っては、エリカ様による首筋ペロペロのみならず、支倉君の匂いの染み付いたアイテムをクンカクンカする様までもが描かれていたりなど、我々はついに嫁の方からもクンカクンカされるようになってきた、という事実を見過ごすことは出来ないでしょう。
ガラス越しのペロペロではなく、生の双方向ペロペロによって、おもしろくて未知で愛おしい反応を得ることが可能になる時代はすぐそこまで来ているのです。
そして、そんな新たな時代、コミュニケーションの時代を、今ここで「ペロ年代」と名付けます。
嫁を天使として共有し、ペロペロを通じてコミュニケーションする時代、それが、ペロ年代。
この新たな時代に立ち会えたことに、大きな喜びと期待を感じつつ、今日はこのあたりで筆を置かせて頂きます。
御性聴ありがとうございました。

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敢えて今語りたいパンツのこと~アカシックパンツ論へ向けて~ 2010.09.20
パンツの話をします。
この世の中にパンツが嫌いな人がいるとも思えませんし、今さらこのような場でパンツの良さについて語ることに意義を見つけることも難しいでしょうし、今我々が語るべきなのは「パンツの意味」ではなく「パンツの可能性」であるという点は百も承知です。
ただ、「可能性」について言及する前に、今一度、パンツとは何なのか、なぜパンツなのか、そういったことを改めて考えてみることもまた一興なのではないでしょうか。
というわけでパンツの話をします。
◯個性としてのパンツ
以前当ブログでは「縞パン人気」についての記事を捏造したことがありました。
ここでは、「縞パン」について『少女性と成熟性の狭間、“成長途中”あるいは“発展途上”とでも言うべき微妙な立ち位置を明確に演出するツール』とか何とか、よく分からない理屈を述べていましたが、要は「個」を演出するための装置としてパンツが有用であるということだけ押さえて頂ければよいでしょう。
例えば、人気アニメ「ストライクウィッチーズ」なんかでは、顔と名前は一致しないけれども顔とパンツ(のように見えるズボン)は一致する、という視聴者は数多く存在するでしょうし、実際彼女らがはいているパンツ(のように見えるズボン)は、それをはく人物の“キャラクター性”を表現するのに一役買っています。
EX1.幼さ/未熟さを思わせるスク水(のように見えるズボン):主人公っぽい人

EX2.少女性の表出である縞パン(のように見えるズボン):幼女っぽい人

EX3.

こうした「パンツによって与えられる個性」は、何も今に始まった話ではなく、また、フィクションの世界だけの話とも限りません。
多くの人は「黒/レース=大人/ビッチ」「柄モノ=子ども」「白=純血」といったごくありふれた“イメージ”を抱いているでしょうし、実際にそうしたイメージを自己表現として取り入れる女性も少なくはありません。
つまり、パンツは我々のイメージによって「個性」を与えられ、また、パンツによって我々自身も「個性」を与えられるという相互関係が成り立っているのです。
◯マンガ・アニメ的パンツ
さて、前項ではパンツのイメージによる個性の付与について簡単に振り返りましたが、本項では、まるでどこかで聞いたようなキーワードを
日本のアニメにおける「パンツ規制」の存在は読者諸兄もご存知のことでしょう。
力学に反した鋼鉄スカートや過剰な光線などが生み出す例のアレです。
そうしたパンツ規制へのカウンターを意図してのものなのかどうかは分かりませんが、昨今、いくつかの重要なパンツ表現が生み出されたことは指摘する価値があるでしょう。
前項でも名前を挙げた「ストライクウィッチーズ」では「パンツじゃないから恥ずかしくない」という、「パンツという存在の否定」が行われましたし、また、この秋からアニメ二期が放映される「そらのおとしもの」では、パンツが空を飛ぶという俄には信じがたい光景が描かれもしました。
これらに共通するのは「パンツという存在の歪曲」であり、我々が現実世界でも目にすることのできるような「死なないパンツ(ただの布切れ)」に、「死ぬパンツ(生命力をもった何か)」を重ね合わせることにより、マンガ・アニメ独自のパンツを生み出すことが出来たわけです。
我々はここに「マンガ・アニメ的想像力」の極地を見出さずにはいられません。
つまり、「ストライクウィッチーズ」において「パンツではない」と否定された「パンツにしか見えない何か」は、逆に言えば、「ズボン(性的ではないもの)」に、「パンツのような形状(性的なもの)」を宿らせることによって、オタク的想像力による「パンツの認識」と、定義の歪曲による「パンツ規制の回避」を同時に成立させることが可能となったのです。
「ひだまりスケッチ」や「けいおん!」で描かれた、パンツが見えるであろう瞬間にパンツを思わせる「柄」のカットを挿入するという手法にも同じことが言えるでしょう。


我々は直接「澪の縞パン」を見たわけではないにも関わらず、この時、誰もが「澪は縞パンをはいている」と認識しました。
これも「オタク的想像力によるパンツの認識」であり、つまりは「ただの縞模様(性的ではないもの)」に、「パンツが見えたであろうアングルのカット(性的なもの)」を重ね合わせた結果であると言えます。
こうした表現は、現実世界では決して見ることのできない、まさしく「マンガ・アニメ的パンツ」であると言えるでしょう。
◯記録メディアとしてのパンツ
さて、ここまでは大まかに「パンツ表現」についての話でしたが、いよいよここから「そもそもパンツとは何なのか」という命題に移っていきたいと思います。
皆さんもご存知の通り、パンツには様々な機能が期待されています。
例えばウィキペディアの「下着」の項目では
着用する事により、その上の服を身体からの汚れから守り、体の保温、快適さ、加えて衛生を維持する。
と解説されていますし、また、スカートファッションなどにおいては、通常人に見せるべきではない部分を「隠す」ための最終防衛ラインとしても機能するでしょう。
こうした一般的に考えられる機能に加えて、ここでは「記録メディア」としての有用性に着目します。
まず、通常考え得る限り「身体に密着している時間が最も長い着衣」はパンツである、ということに我々は目を向けなければなりません。
日常生活において、部屋着、制服(外出着)、寝間着など、「上着」は一日の内に何度か着替えることもあるでしょうが、パンツをそう何度もはきかえることはないでしょう。
そして、長い時間を「宿主」と共に過ごしたパンツには、宿主の身体(の中心核)から分泌される何らかの物質が徐々に蓄積されていくのです。
この、パンツに蓄積される成分は、その日飲んだもの、食べたもの、運動量、健康状態、これらの要素によって日々性質が変化します。
宿主の身体から滲み出る何かしらが、どれだけの分量で、どのような成分バランスで付着するのか、それはその日の行動によって大きく変わってくるわけですから、言わばその宿主が一日を生きた証であると言っても過言ではありません。
持ち主の「生きた証」が刻み込まれたパンツは文字通り「活動記録」として機能するのです。
我々は、例えば好きな女の子のパンツをクンカクンカしたりペロペロしたりすることによって、その女の子の一日を共有し、身体的な接触程度では到底得ることのできない真の同一化を図ることも可能となるのです。
この大きな可能性を見過ごすことなど決してあってはならないでしょう。
CDやDVD、写真や日記などに続く記録メディアとしてパンツの有用性をもっと多くの人が認識すべきではないでしょうか。
◯アカシックパンツという概念
「アカシックレコード」という言葉をご存知の方は多いでしょう。
人類を含む、過去から未来までの全ての宇宙の歴史が記録されているという概念です。
パンツにも似たような性質を見出すことが可能だと考えます。
前項においてパンツとは記録メディアであると述べましたが、パンツに蓄積された記録、即ち宿主から分泌される何らかの物質は、例え洗濯したとしても完全に消えてなくなることはありませんし、そもそも「誰かが着用したパンツ」という「歴史」はどうやっても消すことなど不可能でしょう。
一日家でゴロゴロした日、よく動いて汗をかいた日、何かしら性的な行為を行った日……そうした日々の活動記録が徐々に蓄積され、その人の歴史が記憶されていくのです。
また、最初の項で述べたように、パンツには「個性」が付与されもします。
イメージによる個性の付与もそうですし、例えば「勝負パンツ」と定義されたパンツには「勝負師」としてのアイデンティティが宿るでしょう。
こうして、「歴史(記憶)」と「個」を与えられたパンツは、もはや一人の人格として動き始めます。
そして、仮にですが、全人類のパンツを一箇所に集めたとしたら、そこは全ての人の全ての歴史が記されたデータベースとして機能するはずです。
これが「アカシックパンツ」の概論です。
もっとも、この論は未だ完成に至っていない試論であり、まだまだ研究の余地がありますので、今回は大まかな概念の提示に留めておきます。
と、いったあたりでパンツの話はお終いです。
まだ他にも「ガラパゴス化するパンツ」や「ポストモダンパンツ」など語れることはありそうですが、そのあたりはまたの機会にということで。
ではっ。