水の音、無形の雫

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2013年秋期新作アニメレビュー 『凪のあすから』   2013.10.11

テーマ:アニメ・感想 - ジャンル:アニメ・コミック

『凪のあすから』を視聴するにあたって、われわれは『フラクタル』あるいは『true tears』を思い出さずにはいられないでしょう。

一つは、ヒロインと「海」との関わり。
『フラクタル』ではヒロインが海に飛び込み

fu1.jpg


『凪のあすから』ではヒロインが海から引き上げられました。

nagi1.jpg


これは明確に対比として描かれておりますが、逆に、共通する点も挙げられます。
第二話で言及された「お女子様」です。

nagi2.jpg


お女子様とは、海神様(=産み神様)に供された生贄の女子の代替品、すなわち「ダッチワイフ」の言い換えですが、ダッチワイフと聞いて思い出すのはもちろん、『フラクタル』において「性的な用途での開発」によって誕生した「触れるドッペル」ことネッサ(CV:花澤香菜)ですよね。

fu2.jpg

※当ブログでも、『フラクタル』とダッチワイフについては過去に言及しているので参照のこと。
人間らしい性生活を推奨するオリジナニーアニメ 『フラクタル』

「お女子様」というダッチワイフの存在が明らかにされたところで本筋の方に目を向けてみると、ヒロインの名前「まなか」に隠されたある仕掛けに気づきます。(映画も公開された人気アニメにおいて「あなる」などというきわめてメッセージ性の高い名前のヒロインがいましたが、それはさておき)
「まなか」の「ま」とは、「間」すなわち空洞を意味していますので、「間(ま)膣内(なか)」という名前は、そのままダッチワイフをあらわしていると。事実、まなかの膝から生えた魚からは、ダッチワイフ(あるいはその簡易版であるオナホ)にローションを垂らし魚肉ソーセージめいた器官を挿入した時に発する空気の漏れる音に酷似したブヒッという音が鳴るわけです。この魚は「空気抜き」用の穴であると推測できます。

nagi3.jpg


このことから、まなかとは、性の象徴をつとめるキャラクターであると言えます。
だからこそ、地上への生活に踏み出してすぐに、他の誰よりも早く痴情に目覚めることになったわけですね。
※ダッチワイフといえば『かんなぎ』を思い出す方も多いかと存じますが、長くなりそうなのでそのあたりはまたの機会に譲ります。
かんなぎ再考――フラクタルを評価するための前段階として――


さて、このアニメでは『フラクタル』のほかに、『true tears』との共通点も見ることができます。
例えば、魚と言われれば『true tears』で描かれた「ブリ大根」を思い浮かべない人はいないでしょうが

tori.jpg


キャラクター原案として「ブリキ」がクレジットされているわけですから、あとは大根の登場に期待したくもなるでしょうし、地上での活動によってまなかたちのウロコが剥がれ落ちる様は、鶏小屋に散乱する、抜け落ちた羽根を思い起こさせます。(そうなってくると「アブラムシ」に対応するであろう「フナムシ」の行方も気になりますよね。)
そして何より目を奪われるのは、町中を縦横無尽に“飛び回る”魚の群れ。

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このアニメでは、海中と陸上の生活に大きな差異が無いように描かれています。火(御霊灯)を使って料理をし、テレビではニュース番組が流れ、「メスのにおい」で女の子の発情期を知る。これらはわれわれが住む陸上の生活と何ら変わりません。
唯一違うのは、「空」を飛んでいるのが「魚」であるという点です。魚の群れといえば、意識の高い視聴者であれば誰もが精子の群れを連想することかと思いますが――前述のように、ダッチワイフというモチーフや、産み神様の存在を考えれば尚更――このアニメにおいては、「魚」とは陸上における「鳥」を意味します。
なぜなら、このアニメは、海面(=空)の向こうへと「飛ぶこと」をテーマにした物語であり、飛べる(飛ぼうとする)存在と、飛べない(飛ぼうとしない)存在の葛藤を描くことが――少なくとも序盤の――大きな主題と言えるからです。
また、松尾芭蕉の句<魚鳥の心はしらすとし忘れ>や、現代的な遊戯の一つである「魚鳥木」、喪中の精進のための慣例「魚鳥止め」といったように、古くから「魚」と「鳥」は一括りにされてきました。
ゆえに、地上(=空の向こう)の生活へ順応せんとする姿勢を見せるまなかと、頑なに海中の生活に執着する光、この二人の対照的な姿に、われわれは思わず、飛べるニワトリ・雷轟丸と、飛べないニワトリ・地べたの姿を重ねあわせてしまうことになりました。なお、雷轟丸はタヌキに食われ、まなかはブタ(くさい人間)に喰われようとしています。


ところで、第一話において、このアニメがどういったアニメなのかを端的にあらわす場面がありましたよね。

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地上における学校生活の中で足がもつれて転ぶ場面です。
地上での足のもつれ→地上でのもつれ→地上のもつれ→痴情のもつれ

そうした中、第二話では、「飛ぼうとする存在」であるまなかの未来を暗示するかのようなエピソードが描かれました。

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すでに「飛んだ存在」である、光の姉・あかりです。
地上のブタとの痴情が知られ、何らかの処罰を課せられそうになりました。これは既に地上での痴情に片足を突っ込んでいるまなかの身に起こりうる未来であり、あかりとは「未来において失敗したまなか」なわけです。順当に考えるとそうした古い慣習に立ち向かうような話になっていくのでしょうが、現段階において、あかりの行動(地上の男との痴情)およびその結果は、まなかのそれとの相似になっています。
またこのエピソードでの大人たちの対応、その思想は、光が感じている地上への嫌悪と相似であると言えます。つまり、地上の男との痴情を経験した(これからする)あかりとまなか、地上への嫌悪を持つ大人たちと光が、それぞれ対応した入れ子構造になっているということです。
加えて、光個人の内面においても、地上への嫌悪が、そのまま「まなかの痴情」への嫌悪にスライドしている点にも言及する必要があるでしょう。したがって、この物語を「NTR」と評するのは間違いであると言えます。光の憎悪は幼なじみを寝取られたことではなく地上での痴情そのものへと向けられているわけですから。

前述したように、『true tears』の相似であるかのようなこのアニメは、作中の描写においても、様々に入り組んだ相似形の人間模様が見て取れます。こうした入れ子構造、すなわちフラクタル構造こそがこのアニメの本質なのでしょう。

以上。



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