水の音、無形の雫

アニメやゲームのレビュー、日常の様々な事象に関する考察など。C86・3日目東P21a

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便所論壇創設者・岡田磨里からのメッセージをお読みください 『あなる→いろは』   2011.04.27

テーマ:アニメ・感想 - ジャンル:アニメ・コミック Tag [あなる]

前期の「フラクタル」「放浪息子」に続き、今期も「花咲くいろは」「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」という二本の岡田磨里アニメが放映されています。
GOSICKなんて最初からなかった

今、このタイミングで岡田磨里を論じるというのも些か安易に過ぎるかもしれませんが、しかしやはり、我々はどうしても「あなる」という名前の想像力への言及を避けることができません。

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例えば、ビッチ風のファッションに身を包んではいるものの実際には誰よりも純粋でツンデレで巨乳でオタク趣味――という分かりやすい釣り針に引っ掛かった豚どもを駆逐するかのように

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「中古」疑惑が浮上した件について、まるで「かんなぎ」の再放送に合わせたかのような戸松遥のCV起用であったり、また「DZ」という文字列が後背位での性行為の様に見えなくもない、といった指摘もなされたりはするでしょうが、しかし今ここで語られるべきなのはそういった安易な処女/非処女考察などではありません。
ここでは、「あなる」という名前について考えてみたいのです。

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まず「あなる」という名前は、岡田磨里氏が「あれを外すと物語にならない」とまで言って強引に挿入した名前であるというのは押さえておかなければなりません。(決して、将来有望な新人声優にあなるあなると連呼させるためだけの名前ではない)
加えて重要なのは、「死者」である「めんま」というキャラクターの存在です。

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この、「死」というキーワードと「あなる」という名前は、ある一つのことばで接続されます。
そうです、死者への手向けの花であり、また、アナルを意図する「菊」であります。
「あなる」とは「菊門」であり、菊のイメージは「めんま(=死者)」へと繋がるわけです。

つまり、「あの日見た花」とは、めんまの葬式で見た「菊」のことであり、「僕達はまだ知らない」というのは、記憶の改竄――主人公たちがめんまの死を受け入れることが出来ていない/めんまの死という現実からの逃避――を意味するのですね。
そして、この物語は、めんまのお願い(その「お願い」があなる開発なのかどうかはまだ分かりませんが)を叶えるという名目のもと、それぞれが死と向き合い「あの日見た花(=菊)」の名前を思い出す話になるのではないか――――といったような物語考察も実は心底どうでもよくて、本題はもっと別のところにあったりします。
表題にある通り、岡田磨里からのメッセージについてです。

その話をするためにまず、今期のもう一本の注目作品、「花咲くいろは」を召喚します。

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ここでも一つの「名前」に着目しましょう。
主人公である「緒花」という名前です。
作品タイトルが「花咲く」であることから分かるとおり、この「緒花」という名前は、どちらかと言えば「花」の方に比重が置かれているのでしょう。
そして「花」と聞いたら当然のように皆さんは「便所」を思い浮かべるでしょう。
つまり、「緒花」とは「ちょっとお花を摘みに……/ちょっとお花畑に……」の「お花」、すなわち「汚花」のことであると言えます。(「お花を摘みに…」という言い回しは女性がよく使いますが、岡田磨里氏も実は女性であるという点は忘れてはならない。)

要するに平たく言えば緒花ちゃんは「うんこ」であると言えるわけですが、そのうんこは果たしてどこから排泄されるのでしょうか。
そうですよね、うんこは通常「あなる」から排泄されますよね。
ここが一番のポイントです。
「あの花」において岡田磨里氏が大きなこだわりを見せた名前である「あなる」、そして、氏の一声によって当初の設定/物語から大きく改変されたらしい「花いろ」という作品、その主人公、緒花。

これらの要素を鑑みると、今期、岡田磨里氏から何かしらのメッセージが発されるとしたら、それは「あなる」から排泄された「お花」であるところの緒花ちゃんの口を通して、すなわち、緒花ちゃんこそが今期の岡田磨里氏の代弁(大便)者であると言えるわけです。
第3話において、緒花ちゃんがエロ小説家に作家論を説くようなシーンがありましたし、また作品全体にも「働く」とはどういうことか、というようなメッセージ性を感じ取っている人は多いようです。そういった、緒花ちゃんによってダイベンされる氏のメッセージを、我々は今後も注意深く汲み取る必要があるのでしょう。
(このようなメッセージの発信方法は、きわめて「便所的」と言えるでしょうし、「放浪息子」及び「フラクタル」によって便所論壇を立ち上げた岡田磨里らしい表現方法であると思います。)


ちなみに、「緒花」という名前の「緒」の部分にも、なかなか意味深いものを感じておりまして、たとえば「緒」という漢字には「いとぐち」という読み/意味合いがあったり、また、「情緒」という言葉のように「こころ」をあらわす文字としても機能します。
なので、「いとぐち」とは「糸口=意図口」であるとか、作家の「こころ(=氏の心情)」が云々といったような考察は、まあ特に面白いものでもないかもしれませんが、上記の緒花=岡田磨里のダイベン者説を裏付ける糸口としてここに追記しておきます。

(まあ何にせよ、今期は「花いろ」と「あの花」を比較して語る人は多いでしょうし、またそうした安易な比較考察を批判する人も同じぐらいいるでしょうが、この二つの作品は「あなる→汚花」というこれみよがしな糸(意図)で接続されているわけですから、並べて語るなという方がホビロンなのでありましょう。)


以上。













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緊急特集・魔法少女まどか☆マギカ――最後に救われたのは誰だったのか――   2011.04.23


ついにと言うべきかようやくと言うべきか、冬期最大の話題作、魔法少女まどか☆マギカが最終回を迎えましたね。
読者諸兄においても、その結末に関しては様々な解釈/感想が持たれているでしょうし、多くの人のあいだで既に、「ほむほむはまどかから貰ったリボンを絶対に洗濯などしていないだろうし、貰ってしばらくの間は毎晩クンカクンカペロペロしていたはずだ」とか、「ほむほむはリボンよりもパンツを貰う方が幸せだったのではないか」などといった議論が盛んに行わていることでしょう。
そして、一アニメファンとして、やはりそうした議論の波にはぜひとも乗っておきたいと、そう思うわけでありまして。

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さて、まずは最終話の一つ前、第11話の内容を簡単に振り返ってみると、そこではまどかの途方も無い魔力の由来が、因果律平行世界といったSF用語を駆使しつつ語られました。
曰く、ほむほむのループによっていくつもの平行世界の因果が収束されることになったと。
そしてその結果、まどかは途方も無い魔力を手に入れることになった。
なるほど確かに、当ブログで提唱しているアカシックパンツ論を援用すれば一定の理解が得られます。
つまり、ほむほむがループすることによって、その都度まどかのパンツには味や匂いが蓄積されていく、という理屈ですね。

また、この回では、ほむほむとワルプルギスの夜との死闘が描かれもしました。
最終話との連続放送だったこともあり、派手なラストに目が奪われがちではありますが、このバトルシーンもなかなかに面白かったのではないでしょうか。

そして最後、ほむほむの魔力が尽き、グリーフシードも真っ黒に染まろうかという中、ついにまどかが戦場へとあらわれ――――というところで最終回へ。
この流れも、連続して見ると印象が薄れがちですが、仮にここから一週間の間おあずけ状態になると思うと、ハッピーエンドにもバッドエンドにも転がりそうな、次回への想像を掻き立てられるいい切り方でしたよね。


―― 一方そのころリオとリナは最後のゲートバトルを繰り広げていた。

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いよいよもって最終回、まどかはついに魔法少女になることを宣言するわけでありますが、ここで注目されたのは契約に際しての「願い」の内容でした。
まどかが魔法少女になる場合の願いの内容は、多くの人によって様々な予想がなされていましたが、その答えは、「過去から未来すべての魔女を生まれなくする」というもの、つまり、魔法少女→魔女というシステムそのものの破壊でした。

その際、まどかは過去から未来すべての魔法少女の希望/絶望をかいま見、また、ほむほむのループの歴史も視認することになります。
ほむほむの行いがようやく報われるとともに、まどかのパンツを盗んだり靴下の匂いを嗅いだりしていたこともバレバレユカイです。
しかし、まどかはそれらの行為すらも受け入れ、「希望」に変えてしまうのです。


―― 一方、リオとリナはそれぞれの過去と向き合っていた。

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そしてついに、まどかによる時空改変が始まります。
世界中にそげぶ弾幕をバラ撒き、絶望に染まる魔法少女たちを救済していきます。
卑弥呼(らしき少女)やクレオパトラ(らしき少女)やジャンヌ・ダルク(らしき少女)、果てはヴァルキュリア(的な少女)など、歴史の教科書に載っているような人物が実は魔法少女であったと思わせる演出はベタながら面白かったですよね。


―― 時を同じくしてリオはゲートバトルに勝利、ついにレインボーゲートが起動。

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すべての絶望を希望に変え、魔法少女→魔女というシステムは根本から書き換えられます。
宇宙の再編という途方も無い作業が行われるわけです。
(その際には、ほむほむとのニュータイプ会話が行われるなど、「お約束ごと」も決して忘れません。)


―― その時、リオはアルティメットロールルーラーを発動し、世界中にラッキーをバラ撒いていた。

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果たして、まどかの「願い」は成就され、世界中の魔法少女は救済されたのでした。
もっとも、これが「救済」と呼べるのか否かは解釈が分かれるところかもしれません。
なぜならば、魔法少女→黒化→死という根本的な問題は解決されず、また、そうした問題を解決してしまう(具体的には、さやかが死なないようにする)と、今度は世界の歴史そのものが変わってしまうというパラドックスに陥るのです。


―― ちょうどその頃、リオの「願い」が成就され、世界同時多発ラッキーによって世界中の人々が救済された。

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さて、こうして振り返ってみると、「まどか☆マギカ」において描かれた「世界救済」は、あくまで「魔法少女」に対する救いであり、一般人(特に、この作品においてはゴミクズ以下の存在としてしか描かれなかった「男」)にとっては感知することのできない、身も蓋もない言い方をすれば「ありがたみを感じづらい」救済システムでした。
まどかが救ったのはセカイではなく魔法少女だったわけです。

一方、「Rio RainbowGate!」では、セカイ中の人間に認識される形ですべてをダイレクトに救済してみせました。
Rioによる世界救済(=世界同時多発ラッキー)は、一人一人それぞれの事情に考慮した救いの道、言わば幸福の個別指導でありました。
過去、人知れずセカイを救っていたヒーローは沢山いましたが、公衆の面前であれだけの規模の幸福を撒き散らしたのはRioが初めてなのではないでしょうか。

また、まどかの魔法少女救済のプロセスは、過去(及び未来)の因果に干渉し既存のシステムを書き換えるというものでしたが、Rioの場合は、過去も未来も変えることなく、現在の「ありのままの世界」を「そのままの形」で救ってしまいました。
しかも、実質的には「自己犠牲」によって成り立ったまどかの「願い」とは真逆に、Rioは一切の犠牲を払うことなく世界救済を成立させてしまったわけです。

そしてなにより、そうしたプロセスを、因果律だの平行世界だのループだのエントロピーだの謎の白い液体だのといった使い古しのSF用語に頼ることなく、「資質」というたった一言ですべてを乗り切ってしまった「Rio RainbowGate!」こそが、冬期アニメの覇権を握る作品であると強く断言したく思います。

まどかマギカという作品は、時に「エヴァンゲRioン」なんかと比較されもしますが、何のことはない、世界同時多発ラッキーによって人類補完計画を上書き/克服し、誰よりも、視聴者たる我々を救済してくれたのは他ならぬRioだったのです。
2011年、我々はついに、Rioによって「セカイ系」の呪縛から解放されました。


以上、「緊急特集・Rio RainbowGate!――最後に救われたのは誰だったのか――」でした。













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2011年春期新作アニメレビュー(3) ~Rio的な~『そふてにっ』   2011.04.17


第三弾にして惜しくも最終回となりました春期新作アニメレビューですが、今回は、今期のRio枠である「そふてにっ」に関してです。

まず最初に言っておくと、今期の学園ゆるふわ日常系アニメとしては、その名通り「日常」や、あるいは「Aチャンネル」あたりの人気が高そうですが、これらが主に女子高生の話であるのに対し、この「そふてにっ」は女子中学生の話である点は強調しておきたく思います。
女子高生よりも女子中学生の方がいろいろ捗ります。

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さて、この作品では、ソフト◯ニス部の女子中学生たちが手に握った棒状のものを振り回しつつ柔らかいタマを弄り回す(野外で)、といった光景が描かれていますが、その際には、鮮やかな色彩のカットが挿入されたり

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頻繁にタイポグラフィが用いられたり

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脳内ビジョンとして、テレビゲーム的なシミュレーションイメージが描かれるなど

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新房/シャフトアニメでよく見られるような演出に目が行く人も多いでしょう。
そういった部分に関しては、監督・シリーズ構成を務める上坪亮樹氏が、シャフトアニメにも多く携わっており、要するに新房フォロワーである、という事実を述べるだけで事足りるかもしれませんが、しかしこの作品の本質はただのシャフトオマージュに留まらないところにあるわけです。

例えば、女子中学生たちによる生着替えのシーンなんかでは、「お兄ちゃんのことなんか全然好きじゃないんだからね!(略称:ちんこ好き!)」で見られた規制表現であるアニマルガードが採用されていたり(ガードが入る基準も、恐らくは「おちんこ好きだ!」と同じく何かしらがハミ出ているか否かだと推測します。アップになるキャラは牛さんガードが入るが引きのキャラにはガードが入らない、つまりアップになった際に不都合なもの、具体的には処理し忘れたムダ毛などが映り込むのを回避するための規制、と考えるのが妥当でしょうか。)

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股間のソフト◯ニスが思わずハード◯ニスになって


また、今期の話題作の一つである「シュタインズ・ゲート」からテレポートされてきた「ゲルバナ」が足と腰に纏わり付くこともあれば

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股間のソフトバナナが思わずハードバナナに


「けいおん!」から持ってきたとしか思えないカエルさんが現れたりもするでしょう。

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股間のソフトギー太が思わずハードギー太


あるいは、けいおん!と言えば、第2話Bパートの登校シーンで「遅刻ちこくー」と赤いモノの乗った食パンを咥えながらダッシュする明日菜の姿に

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同じく赤いモノが乗った食パン齧りつつダッシュする唯の姿を幻視した人は多いと思います。

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加えて、その際には、新キャラ・エリザベスとの遭遇を果たしていたわけですが

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この食パンを一斤丸齧りする姿が、「日常」でのはかせのロールケーキ丸齧りとダブって見えたならば

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この作品が、京アニへのリスペクトも欠かさない作品であることが分かるでしょうし、また、イギリスからのぱつきんっの留学生という要素だけ見れば

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前期の人気作品「IS」への目配せをも感じ取らずにはいられません。(原作ではこのイギリス人留学生はもうちょっと後になってから出てくるらしいのですが、なるほど確かに、ISにおける金髪イギリス人(テニス部所属)の人気が冷めやらぬうちに、という思惑は納得ができますよね。)

こういった、(先述のシャフト的演出も含め)様々な作品の要素をパクr融合させ見事にチャンプルーした作風を、我々は前期にも目撃していました。
今現在、一期が“改めて”放映されている「Rio RainbowGate!」ですよね。

例えば、随所に見られる肌のハイライト(特にお乳)なんかを見比べてみたり

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同じXEBEC制作であるとか、主題歌でのULTRA-PRISMの起用であったりだとか、そういった共通項も確かに存在はしているわけですが、しかし重要なのはそれらよりも、やはり先述したように、様々な作品の相似形――すなわち、他の数々のアニメのフラクタル図形――になっているという点でありましょう。
もちろん、どこかで見たような設定や演出が頻繁に見受けられる作品というのはいくつか存在しますが、ここで最も重要なポイントは、(Rioとそふてにっ両作とも)いろいろな作品から抜き出した要素が極めて高いレベルでドン滑りしているという点にあります。
このことを我々は「Rio的」と表現せずにはいられません。
そして、その「Rio的」という感覚は、何もただスベっていることを指すだけの言葉ではありませんよね。


「日常系」というバズワードに支配されて久しいアニメ界隈でありますが、一般的に想起されるであろう「日常系」のテンプレを考えてみると、露骨なパンツ描写(あるいは卑猥な表現)があったり

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中心人物に「男」が存在していたり

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あまつさえ、恋愛要素を思わせるような素振りがあってはならないはずです。
しかしこの作品においては、これまでの所謂「日常系(または空気系)」と呼ばれるような、ひらがな四文字アニメではあまり見られなかった光景が度々目撃されます。
つまり、既存のテンプレートから微妙に外れていると言えます。(そもそも作品タイトルが「そふてに!」ではなく「そふてにっ」となっている点をみても若干外しているのが伺える。)

複数の作品の要素を継ぎ接ぎし、ひらがな四文字(+「っ」)というタイトルで、女の子5人組の部活ものという、ある種の優等生的な萌えテンプレを目指す一方で、既存ジャンルからは微妙な逸脱を見せる。
こうした批評的な姿勢をこそ我々は「Rio的」と呼んでいるのでしょう。

そして、そうしたこの作品の批評性は、作画面からも大いに感じ取ることが出来るはずです。

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遠近感が狂っていたり、一筆書きのような平易な線描であったりなど、キャラも背景も全体的にのっぺりとした、立体感の欠片もない平面的な作画になっています。
もちろん、おっぱいの作画にしても

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大小様々そろっていますが、どれもXY軸の円周が違うだけで、Z軸のベクトルはすべて均一であることが伺えます。
もはや立体感などというものは存在せず、ただただ平面的な世界が広がっているのです。
そしてこのことは、我々に一つの疑問を投げかけてくれます。
つまり、「二次元とは何なのか」という極めてラディカルな問題です。

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そこでは、ミクロな視点で言えば「谷間の存在論」、すなわち「二次元」という世界において「乳の奥行き」である「谷間」というものは存在し得るのか否か、また、そもそも二次元(=平面)の世界では「乳の大小(巨乳/貧乳)」という概念は実は存在しないのではないか、そういった、我々が今まで見て見ぬフリをしてきた問題が語られもするでしょうし、視点を広げると、「二次元嫁」とはどういった存在か、我々は今までどういった世界の物語を見てきたのか、といった問題にも直面することになります。
そして、そうした問題提起を考えると、この作品から「リアル=三次元」への批評的な姿勢をも感じ取らざるを得ないでしょう。
この作品はこれから先のペロ年代において、非常に重要な議論の場となるはずです。


さて、以上のように、この作品の構成や批評性の高さに目を向ければ、なるほど正しく「Rio的」な作品であり、今期アニメの中心核となり得る存在であることが分かると思います。
一期が“改めて”放映されている「Rio」は、「アニメを見るとはどういうことか」を考えさせられる作品でしたが、この「そふてにっ」では、「アニメの世界とはどういう世界か」を深く考えさせられます。

もしかしたら、これらの重要な問題を指摘してくれる素晴らしい作品に出会えた奇跡、実はそれこそが世界同時多発ラッキーによってもたらされた最大の幸福なのかもしれません。


以上。













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