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『凪のあすから』カンチョーがブームになった5つの理由 2014.01.21
いよいよ2クール目に突入した『凪のあすから』。第13話で光とまなか(と要)が行方不明になってから5年後に舞台を移しています。
あかりさんには晃という息子が生まれ、地上に取り残されたちさきは立派な雌に成長しました。
1クール目ではまだ生理が来ていなかった美海も、第14話でついに初潮を迎えましたよね。
光がいなくなったことによる精神的ショックの影響で、「潮留」という苗字のとおり、潮が留まってしまっておりましたが、マン月の夜、帰還した光に人工呼吸した際に女性ホルモンが活発化、最高潮に達し、ついにその時がやって来たわけです。おめでとう。
そうした中、美濱では今、空前の「カンチョーブーム」が起こっています。
以下にその理由を考察します。
1.まず、あかりさんとその旦那、至との性生活についてです。
この決して広いとは言えない(リビングに勉強机が置いてあることからも分かるように)アパートで、セックスをして、「産み神様」のご加護のもと、晃を身ごもったわけです。もちろんそのようすは麩のスキマから美海も覗き見ていたことでしょうし、巡り巡って、今度は成長した晃が覗き見るようにもなるわけです。ところがどうでしょう、この古アパートに四人ぐらし、旦那の収入がどの程度かはよく分かりませんが(第15話では家のローンがたんまり残っていることが名言されている)、ただでさえこのご時世に「三人目」の子供は二の足を踏んでしまっても不思議ではありません。
つまり、あかりさんは晃を産んで以降、アナルセックスをしているということです。もちろん、避妊具を着用すれば解決する問題ではありますが、思春期の女の子もいるご家庭では使用済みの用具の処理にも気を使いますし、旦那が不感症である可能性を否定するだけの根拠が提示されてもいません。
したがって、「親のしていることを真似する」という特性を持つ、幼い子供が、父が母にそうしているように、団地妻的なエロさを持つ雌のケツに、ズブリと、行ってしまうのも仕様のないことだと思われます。
2.シリーズ構成を務める岡田麿里が脚本を担当した第14話では、執拗に「食事」が描かれました。
おじいちゃんの入院先での病院食。
美海とあかりさんが料理をする回想シーン。
別の回想では、木原一家の朝食風景。
学者先生へのお・も・て・な・しの食卓もありました。
こうした、食事(あるいは料理)描写へのこだわりは、岡田麿里の過去に担当した作品でも随所に見られましたが(『true tears』でのぶり大根および鶏の唐揚げ、『とらドラ!』でのトンカツ、『フラクタル』での豆スープなど)、食事とは、常に「排泄」と対になっているものです。
「食べたら出す」というのは生き物にとってなくてはならない大切なサイクルですが――たとえば、死期が近づいている(らしい?)おじいちゃんは「食欲がない」「味がうすい」などと言って食事を残しており、一方で、回想シーンにおいて、新たな生命の誕生を待つあかりさんと美海が楽しげに食事をつくる場面が描かれる、という対比がなされていたりもします――これらの食事シーンは、単にフード理論的な演出表現として描かれているのではなく、「食事」によって「排泄」という対概念を想起させることで、視聴者に「肛門」の存在をつよく意識させるためのものだと考えられます。
3.ここで少し視点を変えて、ちさきと紡の関係を考えてみましょう。
多くの視聴者は「若い男女(それも、エロい身体の雌とクールで優しいイケメン)が5年間も一つ屋根の下で暮らしてナニもないはずがない」と疑問に感じておられると思います。まったくその通りで、第14話の後半、ちさきが木原家に拾われてから徐々に打ち解けていくまでがダイジェストで流れます。
失意に沈むちさき。
それを見守る紡。
朝チュン。
先ほども挙げた朝食風景(少し笑顔を取り戻している)。
漁に出る紡。
雄々しく勃起する男根。
男根の根本で手を振るちさきは満面の笑みです。
これらの光景から、ちさきと紡は滅茶苦茶セックスしていると推測できます。
ただし、通常考えうるセックスとは少し違います。そうです、ここでもアナルセックスがおこなわれていました。
一つには、ちさきは光に好意を持っており、出来ることなら彼にこそ処女膜を破って欲しいと思っています。だから、膣への挿入はどうしても避けたい。
もちろん紡もそれはわかっており、しかもいいヤツなので、そこまでのことを求めようとはしません。
導き出される結論は、アナルですよね。
加えて、続く第15話(この回も岡田麿里脚本でした)のこのシーン。
ハサミを取りにちさきの部屋へ行った紡が、ノックもせずにドアを開け、お着替え中のちさきを目撃してしまうという場面です。(このあとティッシュ箱でオナフィッシュを制作したのかどうかは分かりません。)
ここでは、「帰っていたことに気付かなかった」と、もっともらしい言い訳をしていますが、この言い訳はちさきに対してというよりは、むしろ視聴者へのミスリードを促すためのものでしょう。なぜなら、帰っていることに気付いていようがいまいが、女性の部屋を開ける際にはまずノックをするのがシンシの嗜みであり(便所のドアはその限りではない)、逆にノックもせずに無造作に開け放つことができるのは、紡がこの部屋を定期的に開け閉めしている(=定期的に夜這いに来ている)証左であると言えるからです。「開け慣れている」といえば分かりやすいでしょうか。
そして、このとき、ちさきから「どうだった?」と聞かれています。「あの頃と変わった?」と。
それに対して紡は、「あの頃は見たことないから。わからない」と答えます。
このやりとり、不可解ですよね。このときの質問者の前提は「見られたことがあるはずだ(=見られるような状況になった記憶がある)」という具合でしょうか。一方、回答者のほうには「見たことがない(=見た記憶がない)」という前提があります。
つまり、前提となる記憶に齟齬があるため、同じ一つの事象に対して認識の違いが発生しているわけです。
これ、正確には恐らく「あの時と変わった?」「あの時は見えなかった」ということなんだと思います。紡視点で考えると、正しくは「見たことがない」のではなく「見えなかった」のです。だから、「見られたことがある」という前提と「見たことがない」という回答に食い違いが生まれたと。
では、なぜそのような認識の齟齬が発生したのでしょう。考えられるのは「滅茶苦茶セックスしたときにちさきの側には見られたという認識があったが、実際には紡からは見えていなかった。なぜなら背後からアナルに突っ込んでいたからだ」という可能性です。
ちさきは5年前(1クール目)の時点でも既にエロい雌の身体をしており、男子どもからジロジロと性的な目で見られ続けてきました。だから、他人の視線に敏感になっていた。ゆえに、バックからのアナルセックスの最中にも、とうぜん(全てを)見られているものだと思いこんでいたわけです。ところが実際には、バックから責めていた紡からは背中ぐらいしか見えていなかったと。
さらに、この問答のあと、紡は思い直し、ちさきに対して「変わった」と告げます。無論それは、自らが拡げたアナルのことを指しています。「以前よりも綺麗になった」すなわち、日常的にアナルセックスをするようになったため、より丹念に洗浄するようになったということです。
以上のことから、いま現在、ちさきのアナルはガバガバであると断言します。
そして特筆すべきはこの第15話のラスト、光と再開するシーン。ここでは「変わっちゃって(アナルを開発されちゃって)ごめん」と告げるちさきに対し、光から「お前ぜんぜん変わんなくて(処女膜はキープされていて)安心した!」との所見が述べられます。
そうです、昔からの幼なじみであった光には、ちさきの処女膜から声が出ていることがちゃんと感じ取れたわけです。アナルはガバガバであっても処女膜だけは守り通す、幼なじみの絆が描かれた、感動的な場面であるとともに、紡と光の、それぞれの「見た/感じた」ものが対比された優れた演出でした。
なお、光の鋭敏な嗅覚は第一話の時点で既に示されており(潮のにおい、ブタ臭い、など)、そんな光と親戚関係にある晃もまた、優れた嗅覚によってちさきのアナルが開発されていることを感じ取ったものだと思われます。それゆえの、カンチョー。
4.このように、ここまで色々と述べてきましたが、この作品がアナル拡張アニメすなわち「アナニメーション」であることは明白であり、それはたぶん、岡田麿里シリーズ構成で昨年には劇場版も公開された人気アニメのコイツとも無関係ではありません。
「あなる」という名前には、その本人よりもむしろ、「めんまの中の人」に「あなる!あなる!」と発声させることにこそ意義があったものだというのは羞恥の事実です。もう何ヶ月も前から伏線は張られていたわけです。
5.そもそもですよ、われわれは何よりもまず『凪のASSから』というタイトルの時点で、この作品がアナニメーションであることに気づいておくべきでした。
無邪気にも「これはダッチワイフアニメだ!」なんて言っていた自分が恥ずかしい。
2013年秋期新作アニメレビュー 『凪のあすから』
もちろん、まなかは相変わらず海の底ですし、まだすべてが明らかになったわけではありませんので、「産み神様」の正体とともに注意深く見守っていく必要があります。
事実、アナルセックスと平行して「妊娠・出産」というテーマも克明に描かれており、この作品はもしかしたら現代における処女膜信仰へのカウンターたり得るのかもしれません。
以上。
『のんのんびより』を振り返ります 2013.12.21
ド田舎において今もなお夜這いの風習が残っているというのは読者諸兄もご存知のとおりです(「コミックLO」をはじめとする多くの学術書にもその事実が記されています)。特に、限界集落のような、極端に人口の少ない地域ではなおさらです。なぜなら、若い女を共有財産とし、性行為を継続し子作りを習慣化しなければ、いずれ村そのものが消滅してしまいかねないからです。
ですから、『のんのんびより』第一話において、れんちょんが「膣内(なか)当て!膣内(なか)当てがアツいと思いますが!※1」と訴えたり、頻繁に「にゃんぱすー※2」という淫語を口にするのも納得できようというものです。
また、その膣内(なか)当ての最中には、東京から転校してきためちゃシコな身体の小学五年生が「鍵」を落とす場面が描かれ、元来この村では鍵を閉める習慣がない(=いつでも夜這いを受け入れられる体制が整っている)ことが語られます。
ところで、最近は「クレイジーサイコレズ」という言葉が流行っておりますが、そこまではいかなくとも、『きんいろモザイク』や『ゆゆ式』などを見ても分かるように、女学生の集団を中心としたアニメでは往々にして「百合」を意図した描写が目立つ――あるいは、そう解釈したい視聴者が多い――ものです。このアニメでもそれは例外ではなく、ごっつええ身体の小学五年生がクレイジーでサイコなレズであるかのように描かれています。
しかしこのドスケベな身体の小学五年生、都会からの転校生だということは、身も蓋もない言い方をすれば「よそ者」であると言えます。実際、前述の「鍵」に関するエピソードをはじめ、ファッションや習慣など、村とは違った文化圏からやってきた存在であることが度々強調されています。つまり、他の多くのアニメと違って、このアニメにおいては「百合=異質なもの」として位置づけられているわけです。
このことから、このアニメからは、百合だのレズだのといった生産性――事実として子供がつくれるか否かという点において――のない性癖ではなく、「膣内(なか)“当て”」に重きを置いた雄と雌による性行為こそがアツいおこないであると主張したい意図が読み取れます。
だから、たとえば第三話における、ヌレヌレでグチョグチョでトロトロにふやけた箇所に若い茎をズブリと挿入する作業※3の最中に、夏海の方から「足腰には自信がある」という自己PRがなされたとしても不自然なことではありません。
(なお、後にブラコンであることが判明する夏海ですが、お兄ちゃんのことをカカシ=つっ勃っているだけで役にたたない人=下手だと批評しているあたり、すでに夜這いの関係を持っていることが示唆されています。)
また、第五話では、おナスやキュウリ、ニンジンといった、「自習」に使用するための野菜が、100円という子供にもお求めやすい価格で、それもプライバシーを尊重し顔を見られる心配のない無人販売方式で売られていることが明らかになりました。
もちろんトウモロコシもあります。
奥に見えるオクラはれんちょん用のものでしょうか。サイズも柔らかさもピッタリだと思います。見たところ15本ぐらいは入っているので、二日に一回「自習」したとしても一ヶ月持ちますし、一ヶ月で100円なら小学一年生のお小遣いの範囲にも収まるでしょう。
事実、れんちょん自身の口から「一人遊びは得意なのん」と第七話で語られてもいます。
自習といえば、オナじく第七話、柔らかかったり硬くなったりグニグニと形を変えたりするモノを集団で弄ぶ場面では、コマちゃんが「クリオナコ※4」を作成し、年長者として自習への意識の高さをアピールしています。(もしかしたら、先ほどのオクラは元々コマちゃん用だったのかもしれません。)
この学校の女生徒たちは、性に対して貪欲で、きわめて自主性の高い娘たちであることが伺えます。
そんな彼女たちですから、ウサギ小屋に閉じ込められた際にも、冷静な判断が可能となります。
まだこの土地での性生活に慣れていないグレイトフルな身体の小学五年生が「ママが支柱を作ってくれるって言ってたのに!支柱!支柱!支柱!」と、硬くて丈夫な棒状のモノの不在を嘆き取り乱していたとしても、すかさず「三日ぐらいなら大丈夫」とキュウリ(双頭)やタマゴといった代替案をプレゼンテーションすることができるわけです。(このときれんちょんが、タマゴを使用できる=割れる可能性が低いと判断した根拠として、クレイジーな身体の小学五年生は東京にいたころに援助交際を繰り返したことで既にガバガバになっていることを知っていたからだと推測できます。)
さて、続いて第八話における「大人の話」および「シャセイ」に関してですが、残念ながら原稿用紙が切れてしまったので次回に譲ることとします。次回は第八話から1クール目の最終回までのレビューを、2クール目が始まるまでにはカキたいと思います。※5
※1膣内(なか)当て 性教育を目的とし、精子が膣を経て卵子に当たる(当てる)までのプロセスをヒトとボールに見立てたスポーツ。幼少の頃から「タマ」に慣れさせるという側面もある。全国的に流行している、戦艦レシピを回して艦隊のアイドルを引き当てるエクストリームスポーツ「那珂当て」とは無関係のため注意が必要。
※2にゃんぱすー 「娘」を意味する「ニャン」と「プッシー」の訛りである「パスー」が組み合わさったことば。女性器そのもの、または女性器を活用する行為の隠語。
※3古来より日本ではこれらの作業を行う時期には豊作祈願の乱交パーティーが開かれていた。
※4クリオナとネコ(=挿入される側)を組み合わせた創作物。
※5現在ゴーストライターを募集中である。
*
そういえば、今年もアレの時期がやってきましたよね。
そうです、シンシアニメです。
【速報!!】号外シンシアニメ 性教新聞【冬コミC85】
コミックマーケット85(3日目)
日時:12月31日(火)10:00~16:00
会場:東京国際展示場(東京ビッグサイト)
サークル名:シンシアニメ
配置場所:西れ-32b
※今回は西館です。ご注意を。
今回は、いつもとは趣向を変えて「新聞」というかたちになりました。そのお値段なんと100円! コミケだけの膣外(おもて)なし価格となっております。(決して思うように原稿が集まらなかったがコピー本にするのは格好悪いから号外にしてごまかそうとか、そういうのではありません。)
会場にお越しの方はぜひお勃ち寄り頂いて、声や精液をかけていただければと思います。
よろしくお願いいたします。
それでは、コミケに剥けて最後の追い込みの方へエールを送りつつ。
2013年秋期新作アニメレビュー 『凪のあすから』 2013.10.11
『凪のあすから』を視聴するにあたって、われわれは『フラクタル』あるいは『true tears』を思い出さずにはいられないでしょう。
一つは、ヒロインと「海」との関わり。
『フラクタル』ではヒロインが海に飛び込み
『凪のあすから』ではヒロインが海から引き上げられました。
これは明確に対比として描かれておりますが、逆に、共通する点も挙げられます。
第二話で言及された「お女子様」です。
お女子様とは、海神様(=産み神様)に供された生贄の女子の代替品、すなわち「ダッチワイフ」の言い換えですが、ダッチワイフと聞いて思い出すのはもちろん、『フラクタル』において「性的な用途での開発」によって誕生した「触れるドッペル」ことネッサ(CV:花澤香菜)ですよね。
※当ブログでも、『フラクタル』とダッチワイフについては過去に言及しているので参照のこと。
人間らしい性生活を推奨するオリジナニーアニメ 『フラクタル』
「お女子様」というダッチワイフの存在が明らかにされたところで本筋の方に目を向けてみると、ヒロインの名前「まなか」に隠されたある仕掛けに気づきます。(映画も公開された人気アニメにおいて「あなる」などというきわめてメッセージ性の高い名前のヒロインがいましたが、それはさておき)
「まなか」の「ま」とは、「間」すなわち空洞を意味していますので、「間(ま)膣内(なか)」という名前は、そのままダッチワイフをあらわしていると。事実、まなかの膝から生えた魚からは、ダッチワイフ(あるいはその簡易版であるオナホ)にローションを垂らし魚肉ソーセージめいた器官を挿入した時に発する空気の漏れる音に酷似したブヒッという音が鳴るわけです。この魚は「空気抜き」用の穴であると推測できます。
このことから、まなかとは、性の象徴をつとめるキャラクターであると言えます。
だからこそ、地上への生活に踏み出してすぐに、他の誰よりも早く痴情に目覚めることになったわけですね。
※ダッチワイフといえば『かんなぎ』を思い出す方も多いかと存じますが、長くなりそうなのでそのあたりはまたの機会に譲ります。
かんなぎ再考――フラクタルを評価するための前段階として――
さて、このアニメでは『フラクタル』のほかに、『true tears』との共通点も見ることができます。
例えば、魚と言われれば『true tears』で描かれた「ブリ大根」を思い浮かべない人はいないでしょうが
キャラクター原案として「ブリキ」がクレジットされているわけですから、あとは大根の登場に期待したくもなるでしょうし、地上での活動によってまなかたちのウロコが剥がれ落ちる様は、鶏小屋に散乱する、抜け落ちた羽根を思い起こさせます。(そうなってくると「アブラムシ」に対応するであろう「フナムシ」の行方も気になりますよね。)
そして何より目を奪われるのは、町中を縦横無尽に“飛び回る”魚の群れ。
このアニメでは、海中と陸上の生活に大きな差異が無いように描かれています。火(御霊灯)を使って料理をし、テレビではニュース番組が流れ、「メスのにおい」で女の子の発情期を知る。これらはわれわれが住む陸上の生活と何ら変わりません。
唯一違うのは、「空」を飛んでいるのが「魚」であるという点です。魚の群れといえば、意識の高い視聴者であれば誰もが精子の群れを連想することかと思いますが――前述のように、ダッチワイフというモチーフや、産み神様の存在を考えれば尚更――このアニメにおいては、「魚」とは陸上における「鳥」を意味します。
なぜなら、このアニメは、海面(=空)の向こうへと「飛ぶこと」をテーマにした物語であり、飛べる(飛ぼうとする)存在と、飛べない(飛ぼうとしない)存在の葛藤を描くことが――少なくとも序盤の――大きな主題と言えるからです。
また、松尾芭蕉の句<魚鳥の心はしらすとし忘れ>や、現代的な遊戯の一つである「魚鳥木」、喪中の精進のための慣例「魚鳥止め」といったように、古くから「魚」と「鳥」は一括りにされてきました。
ゆえに、地上(=空の向こう)の生活へ順応せんとする姿勢を見せるまなかと、頑なに海中の生活に執着する光、この二人の対照的な姿に、われわれは思わず、飛べるニワトリ・雷轟丸と、飛べないニワトリ・地べたの姿を重ねあわせてしまうことになりました。なお、雷轟丸はタヌキに食われ、まなかはブタ(くさい人間)に喰われようとしています。
ところで、第一話において、このアニメがどういったアニメなのかを端的にあらわす場面がありましたよね。
地上における学校生活の中で足がもつれて転ぶ場面です。
地上での足のもつれ→地上でのもつれ→地上のもつれ→痴情のもつれ
そうした中、第二話では、「飛ぼうとする存在」であるまなかの未来を暗示するかのようなエピソードが描かれました。
すでに「飛んだ存在」である、光の姉・あかりです。
地上のブタとの痴情が知られ、何らかの処罰を課せられそうになりました。これは既に地上での痴情に片足を突っ込んでいるまなかの身に起こりうる未来であり、あかりとは「未来において失敗したまなか」なわけです。順当に考えるとそうした古い慣習に立ち向かうような話になっていくのでしょうが、現段階において、あかりの行動(地上の男との痴情)およびその結果は、まなかのそれとの相似になっています。
またこのエピソードでの大人たちの対応、その思想は、光が感じている地上への嫌悪と相似であると言えます。つまり、地上の男との痴情を経験した(これからする)あかりとまなか、地上への嫌悪を持つ大人たちと光が、それぞれ対応した入れ子構造になっているということです。
加えて、光個人の内面においても、地上への嫌悪が、そのまま「まなかの痴情」への嫌悪にスライドしている点にも言及する必要があるでしょう。したがって、この物語を「NTR」と評するのは間違いであると言えます。光の憎悪は幼なじみを寝取られたことではなく地上での痴情そのものへと向けられているわけですから。
前述したように、『true tears』の相似であるかのようなこのアニメは、作中の描写においても、様々に入り組んだ相似形の人間模様が見て取れます。こうした入れ子構造、すなわちフラクタル構造こそがこのアニメの本質なのでしょう。
以上。