築城での演習内容などを議員団会議で貰った。
参加規模がスゴイ
芦屋基地も春日基地も、み~んな参加させられる。
沖縄県民は県外移設の意思表示をしたけれど、福岡にもいらんばい
日本国中、ど~っこもいらんっちゃないと。
平成22年度日米共同統合演習〈実動演習〉について
参加規模がスゴイ
芦屋基地も春日基地も、み~んな参加させられる。
沖縄県民は県外移設の意思表示をしたけれど、福岡にもいらんばい
日本国中、ど~っこもいらんっちゃないと。
平成22年度日米共同統合演習〈実動演習〉について
雪路さんと二人で上妻へ。
雪路さんは付け替え、私はリハビリ。
帰りの車中で忘年会の話に。
私、「今日から10日間で忘年会が3つよ。虫歯の治療を昨日から始めて神経とったばっかしなのにしかもみ~んな遅刻して参加よ、会議が入っとうき。ま、晩ご飯食べにいきようと思えばいいけどね。しかも来週の2つはサンピア福岡よ。全医労退職者会は、ウエルサンピアが民間になるまえからずっとやきね。」
話は続きがあるけれど省略
家に帰り着くと郵便受けにクラス会の案内
見ると会場サンピア福岡
来年の話ではあるけれど、定例の1月の第2日曜やきすぐくるばい。
こげなことは何度も同じ場所が続いていいと
イ・マ・カ・ラ・楽しみ~
4年前は一人寂しく上妻のベッドの上やったきね~
まりちゃん、予定に入れたよ~
食事中に録画していたテレビドラマを観るのが唯一の楽しみ
何も無いので仕方なく家族が録画していた国会中継を。
アッ、あの図は色がくっきり・わかりやすい、と。
早速公開しとこ。
大門さんの本も買うとうとばってまだ読んどらんとよ。父、お薦めよ
今から会議やき、夜はわからんもんね~か
何も無いので仕方なく家族が録画していた国会中継を。
アッ、あの図は色がくっきり・わかりやすい、と。
早速公開しとこ。
大門さんの本も買うとうとばってまだ読んどらんとよ。父、お薦めよ
今から会議やき、夜はわからんもんね~か
この一ヶ月まともにニュースも
まとめて一ヶ月、ではないけれど、数日分の日刊紙。日本政府のやりかたに
国民・国土のことをなあも考えとらんっちゃね~
TPP問題はしっかり訴えていかないけんね~
この辺では、丹精込めたミカンを切り倒させられたり、
米の代わりに大豆を作れば、この先、どげなるかわからんし
そげなともみ~んな根こそぎ農漁業・畜産をつぶしてしまうとがTPPたい
将来を見据えて、とか、地球のことを考えて、とかせんとかね~政府は。
輸出大企業が儲かればいいとかね~
お知らせ
TPP問題で農業シンポジウムを県委員会と地区委員会の共催で行います。
日時 12月11日 10時~
会場 宗像市中央公民館
※ 詳細はコチラ ⇒ TPP問題、農業と地域経済を考えるシンポジウム
まとめて一ヶ月、ではないけれど、数日分の日刊紙。日本政府のやりかたに
国民・国土のことをなあも考えとらんっちゃね~
TPP問題はしっかり訴えていかないけんね~
この辺では、丹精込めたミカンを切り倒させられたり、
米の代わりに大豆を作れば、この先、どげなるかわからんし
そげなともみ~んな根こそぎ農漁業・畜産をつぶしてしまうとがTPPたい
将来を見据えて、とか、地球のことを考えて、とかせんとかね~政府は。
輸出大企業が儲かればいいとかね~
お知らせ
TPP問題で農業シンポジウムを県委員会と地区委員会の共催で行います。
日時 12月11日 10時~
会場 宗像市中央公民館
※ 詳細はコチラ ⇒ TPP問題、農業と地域経済を考えるシンポジウム
戸田さんに「少しの間無料の駐車場は?」と男性が。
学校の先生で街頭指導のため駅頭へ。
以前あった駐車場が無くなっていたのでたまたま端っこに立っていた戸田さんに質問
話は新しい駐車場のことにまで及び、訊かれた私は、「駐車場はできます。料金が無料かどうかまでは」と今朝答えたばっかりやったとよ
議案の中に、自動車駐車場条例を改正することについて、が。
見たら今までと同じ最初20分は無料よ。
ま、駅のお迎えやったらこれくらいの時間でいいのかな
あとは1時間100円よ。昨日の30分200円に比べたらはるかに安いばい。昨日が高すぎ
昨日停めたのは、朝6時半から夕方5時半までよ。
もう、あそこには短時間しか停めんきね。
よ~と見らんやった私が悪いとばってね~
3100円ちゃついていこうごとあったばい。
ばってお金入れんとバーが上がらんしね~
今日は県の議員団会議。朝立ちを早めにきりあげる。
「そこは私の立ち位置ですから」と言った人と会ってしまった。
狭い通路やき仕方がないとばって、「おはようございます」とすれ違おうとすると、「私は9月1日から41回も立っているんですよ。もう68ですよ」と。
「68ならまだ、Yさんが」と、夫の同級生の名前を。
「ああ、あの方69ですからね」と。
そして手のひらを上に上げながら「松尾先生はそれより、、」と。
「ご想像にお任せします」と言って立ち去ったけれど69より上ちゅうたら わたしゃいくつね!!
だいたい先生とか呼ばれたくないき、この前、「先生と言わないでください」と。
「松尾さんでいいですか」と会話を交わしたばかりなのに
「そこは私の立ち位置ですから」と言った人と会ってしまった。
狭い通路やき仕方がないとばって、「おはようございます」とすれ違おうとすると、「私は9月1日から41回も立っているんですよ。もう68ですよ」と。
「68ならまだ、Yさんが」と、夫の同級生の名前を。
「ああ、あの方69ですからね」と。
そして手のひらを上に上げながら「松尾先生はそれより、、」と。
「ご想像にお任せします」と言って立ち去ったけれど69より上ちゅうたら わたしゃいくつね!!
だいたい先生とか呼ばれたくないき、この前、「先生と言わないでください」と。
「松尾さんでいいですか」と会話を交わしたばかりなのに
11月2日、恒例の新婦人高齢者を囲むつどいが。
新婦人の会員さん・家族が囲まれたり囲んだりよ。
今年のメインは、先日NHKで放送されたシベリア抑留者の話を聞くこと。
戸田さんのお父さんもよ。ちっちゃい時から聞かされていたんだって。
事務所はみ~んなそっちに行き、ひとみちゃんが留守番よ。
もちろん戸田さんもお話を聞きにね。
聞きたかったなあ、と思いながら日刊紙を。そしたらシベリア抑留の記事が。
すごい偶然やね~
記事スキャンするより、みんなに知ってほしかったきデータベースで
見れるまでまっとったと。まっとう間に忘れるとこやったけどね
じゃ、コピーするばい
戦後65年/伝えよう侵略戦争の真実/
シベリア抑留/上/草の根食べ鉄道敷設2010.11.02 日刊紙
笹田克己さん(88)=三重県菰野町=は、2006年に地元の9条の会に招かれて抑留体験を話しました。以来、町主催の「平和祈念トーク」などさまざまな場所で、「人が人として扱われず死んでいく戦争、もう二度とあってはならない」と体験を語ってきました。■ソ連兵が銃を 笹田さんは1939年に中国・奉天の424部隊に入隊しました。45年8月8日、侵攻してきたソ連軍の戦車に降伏。終戦を迎えました。
ソ連のナホトカ経由で日本に帰ろうと、手袋や靴下を詰めこんだ大きな荷物を持ち、ソ連の貨物列車に乗りこみました。
しかし、列車は西へ向かい、丸2昼夜かかってエスベストコーバヤ駅に着きました。さらに一昼夜、飲まず食わずで歩き続け、山深い奥地の収容所に。
鉄道のレールを敷設する労働。他の班が伐採した後に、日本の枕木の3倍ぐらいの太さの枕木を敷きます。大変なのが、長いレールを設置する作業でした。
「10人ほどで息を合わせて持ち上げるのですが、みんな腹がすいて力が入らない。ソ連兵が『早くしろ』というように、銃を構えてせかしていた」 作業の途中で動けなくなる仲間もいました。
「私たちには助ける余裕なんてない。そのまま置いていった。見殺しです」 1日16時間近く働いたのではないか、と言います。食事は、昼は200〓ぐらいの薄い黒パン、夜は黒パンか少々の雑穀のおかゆ。野草を探し、その根を缶で煮て食べました。1週間もたたないうちにやせ衰え、あばら骨が浮き出しました。厳しい労働の一方、十分な食事も、眠るときかぶる物もありませんでした。■零下30度以下 「朝、『なかなか起きてこない』と見にいくと、息絶えている仲間がいた。飢えと零下30度を下回る寒さで、最初の冬を越えて春を迎える間に、仲間が次々と死んでいった。18、19歳の未来ある青年ばかりだった」 地面が硬く凍って掘れないので、ソ連兵は服をはいだ死体を一輪車で裏山に運んで、谷底に捨てました。
笹田さんは、レール敷設の労働を経て、山中の道路を行き来する自動車の監視活動に約1年8カ月、携わりました。収容所より山奥で、オオカミがうろつく場所。昼はソ連兵が1人来ますが、夜は一人っきりです。山小屋の中で火をたきながら、オオカミに襲われないかと、気が気ではありませんでした。
その後、さらに、病人ばかりがいる収容所に転送され、「生きて日本に帰ることはない」と思っていた笹田さん。帰国が決まったときは驚きました。しかし、4年のシベリア暮らしで体はすっかり衰弱し、ナホトカの港から引き揚げ船に乗り込むときは、桟橋を四つばいではって上りました。
「私は『生きる執念の強さ』で生き残ることができた」 戦後65年、抑留体験者が次々と亡くなっています。
「私は『生かされている』と思っている。生きている限り、体験を語り続けていきたい」 (つづく)
戦後65年/伝えよう侵略戦争の真実/
シベリア抑留/中/森林伐採、仲間は凍死2010.11.03
終戦の半年前、中国東北部のソ連国境近くで彗陽工兵隊に入隊し、爆弾を抱いて地面をはい、ソ連軍戦車へ向かう訓練を続けていた鈴木恒雄さん(83)=愛知県東海市=。「何度も死に直面した」と話します。■小枝が凶器に 19歳だった鈴木さんはソ連兵に森林伐採作業に携わることを命じられ、1945年9月に中国・牡丹江付近からソ連に入りました。すでに雪が降り始めていました。
2人組で刃の両側に取っ手のついた長さ1〓ほどのノコギリを扱い、直径1〓以上あるマツをひきます。
「いてつく地域では、なんでも〓凶器〓になる。鉄かぶともなく、直径5〓ほどの小枝でも、頭に当たれば死亡、手足に当たっても骨折です。腰まで雪につかっての作業で、木が倒れる方向が分からず、逃げ切れない者が続出しました」 人知れず雪の中になぎ倒され、凍死していた仲間もいました。鈴木さん自身も、伐採した原木を満載した木製ソリの荷崩れで4〓ばかり飛ばされたものの、下敷きにならずに助かった経験がありました。
吹雪や冷たい風の日の外気は零下40度。顔にタオルを巻きつけてもまつげやまゆげが凍り、触るとポキポキ折れました。鼻の頭が凍傷で白くなり、手で摩擦してなおそうとすると激痛を伴いました。
伐採した丸太を組んだだけの収容所はすき間だらけで、暖房は、出入り口と奥の壁の前のまきストーブ2台のみ。蚕棚のような2段ベッドの下段だった鈴木さんは、「毛布2枚にくるまっても寒く、隣の仲間と背中をくっつけ暖をとり合って眠りました」と、話します。
三度の食事は1枚の黒パンと具のないスープのみ。「いつも腹が減って、つらかった。食事の分配の際は、みんな目の色を変え、見ていました」 空腹を満たすため、大きな松の実を拾って食べました。
栄養失調、寒さ、伐採中の事故で、最初の冬を越えることなく、多くの仲間が亡くなりました。「私は若さと気力で、なんとか生き延びられました」 春になると、労働は農作業に。バレイショの植え付けのために地面を掘り起こし、あぜをつくりました。
鈴木さんたちは野草を摘み、収穫し残されたくず芋を拾い、飢えを満たしました。■命あるかぎり 年月を経るに連れ、抑留者の食事内容や待遇は次第に改善されました。
「忘れられないのは、私がソリから崩れ落ちた原木に吹き飛ばされたときのこと。一番先に助け起こしてくれたのは、ソ連兵でした。絶対的権力をもった天皇が支配していた資本主義国・日本の兵士との違いを感じました」 「人が人を殺す戦争は愚かなこと。戦争をしてはならない」と話す鈴木さん。小学校の元同級生や職場の元同僚に、抑留体験をつづった冊子、「しんぶん赤旗」の「侵略戦争の真実」や沖縄の米軍新基地建設計画に反対する行動の記事のコピーを郵送してきました。八十数人だった同級生の数は年々減り、この夏の同窓会の参加者は11人でした。
「生きている限り、戦争反対の意思を発していきたい」 (つづく)
戦後65年/伝えよう侵略戦争の真実/
シベリア抑留/下/監視され続けた人生2010.11.04
終戦まで「関東軍」情報部で、補助憲兵として情報収集やスパイの取り締まりをしていた朝田巖さん(89)=宮城県大崎市=。ソ連・タイセットから、さらに55〓の奥地でシベリア第2鉄道敷設のための森林伐採の労働に従事。飢えと厳寒の中を生き延び、1948年10月18日、京都・舞鶴港に帰国しました。
しかし朝田さんを待っていたのは、「シベリア帰り」としてのスパイ容疑でした。■港では尋問が 港に着いた夜、朝田さんは兵舎2階の一室に呼び出されました。写真と指紋がとられた後、「ハラダ」と名乗る日系2世の進駐軍兵士が、「捕虜になる時、偽名を語り、それがばれたことがあっただろう」「ソ連が黙っておまえを帰国させるわけがない。何か約束して帰ってきたはずだ」などと尋問します。朝田さんが、「何も約束していない」と否定しても、聞く耳をもちません。
「ハラダ」は、子ども用の木のいすに腰掛けた朝田さんの太ももの上に向かい合うように馬乗りになり、「何を約束してきたんだ。正直に言え」と責めます。体重をかけて、朝田さんの背中をいすの背板に押し付けました。
「最初は『何も約束していない』と否定していたのですが、後はただ黙って痛みに耐えるしかありませんでした」。朝8時すぎから夜10時近くまで、食事と少しの休憩を除き2日間、尋問が続きました。
入隊前、中国東北部で日本人学校の教師を務めていた朝田さん。「一生、おまえを監視し続ける。二度と公職(教職)には就かせない」と解放されました。
その後、朝田さんは、香川県の実家に3日間滞在。土建会社経営の長兄を岩手・平泉町に訪ね、経理の仕事を始めました。
半月後、駐在所の呼び出しに応じて出向くと、3人の進駐軍兵士が待ち構えていました。
「尋問はされませんでしたが、『ソ連から連絡があったら、私たちに知らせなさい』と、その方法を約束させられました」 翌49年4月、結婚し、同県陸前高田市に転居。しかし、そこにも連絡が入り、盛岡市に呼び出されました。以降、1カ月に1回、盛岡や仙台に呼び出され、抑留時のソ連部隊や兵舎の様子を聞かれました。進駐軍の本部が東京に移ってからは、一昼夜かけ都内に通いました。
「呼び出しの内容は、家族にもだれにも話すな」と言い渡され、妻にも理由を述べず表情のない顔で出かける朝田さ
ん。妻のマレ子さんは、「とても不気味な感じを受けました」と振り返ります。■教職に戻れず 「呼び出しは今日で終わりだ」と告げられたのは、56年のことでした。
「転居をくり返しても、呼び出しが追いかけて来る。ハラダに言われた『一生、おまえを監視してやる』の言葉が頭を離れませんでした。『いつ殺されるか』と常に不安でした」 その後、朝田さんは薬種商の資格をとり、のちに自分の店を持つまでになりました。
「結局、教職に戻ることはできませんでした。いまも悔いが残ります。たくさんの人に死と悲しみをもたらし、人生を狂わせる『侵略戦争』。私もその被害者の1人だと思います」 (この項おわり) (川田博子が担当しました)
新婦人の会員さん・家族が囲まれたり囲んだりよ。
今年のメインは、先日NHKで放送されたシベリア抑留者の話を聞くこと。
戸田さんのお父さんもよ。ちっちゃい時から聞かされていたんだって。
事務所はみ~んなそっちに行き、ひとみちゃんが留守番よ。
もちろん戸田さんもお話を聞きにね。
聞きたかったなあ、と思いながら日刊紙を。そしたらシベリア抑留の記事が。
すごい偶然やね~
記事スキャンするより、みんなに知ってほしかったきデータベースで
見れるまでまっとったと。まっとう間に忘れるとこやったけどね
じゃ、コピーするばい
戦後65年/伝えよう侵略戦争の真実/
シベリア抑留/上/草の根食べ鉄道敷設2010.11.02 日刊紙
笹田克己さん(88)=三重県菰野町=は、2006年に地元の9条の会に招かれて抑留体験を話しました。以来、町主催の「平和祈念トーク」などさまざまな場所で、「人が人として扱われず死んでいく戦争、もう二度とあってはならない」と体験を語ってきました。■ソ連兵が銃を 笹田さんは1939年に中国・奉天の424部隊に入隊しました。45年8月8日、侵攻してきたソ連軍の戦車に降伏。終戦を迎えました。
ソ連のナホトカ経由で日本に帰ろうと、手袋や靴下を詰めこんだ大きな荷物を持ち、ソ連の貨物列車に乗りこみました。
しかし、列車は西へ向かい、丸2昼夜かかってエスベストコーバヤ駅に着きました。さらに一昼夜、飲まず食わずで歩き続け、山深い奥地の収容所に。
鉄道のレールを敷設する労働。他の班が伐採した後に、日本の枕木の3倍ぐらいの太さの枕木を敷きます。大変なのが、長いレールを設置する作業でした。
「10人ほどで息を合わせて持ち上げるのですが、みんな腹がすいて力が入らない。ソ連兵が『早くしろ』というように、銃を構えてせかしていた」 作業の途中で動けなくなる仲間もいました。
「私たちには助ける余裕なんてない。そのまま置いていった。見殺しです」 1日16時間近く働いたのではないか、と言います。食事は、昼は200〓ぐらいの薄い黒パン、夜は黒パンか少々の雑穀のおかゆ。野草を探し、その根を缶で煮て食べました。1週間もたたないうちにやせ衰え、あばら骨が浮き出しました。厳しい労働の一方、十分な食事も、眠るときかぶる物もありませんでした。■零下30度以下 「朝、『なかなか起きてこない』と見にいくと、息絶えている仲間がいた。飢えと零下30度を下回る寒さで、最初の冬を越えて春を迎える間に、仲間が次々と死んでいった。18、19歳の未来ある青年ばかりだった」 地面が硬く凍って掘れないので、ソ連兵は服をはいだ死体を一輪車で裏山に運んで、谷底に捨てました。
笹田さんは、レール敷設の労働を経て、山中の道路を行き来する自動車の監視活動に約1年8カ月、携わりました。収容所より山奥で、オオカミがうろつく場所。昼はソ連兵が1人来ますが、夜は一人っきりです。山小屋の中で火をたきながら、オオカミに襲われないかと、気が気ではありませんでした。
その後、さらに、病人ばかりがいる収容所に転送され、「生きて日本に帰ることはない」と思っていた笹田さん。帰国が決まったときは驚きました。しかし、4年のシベリア暮らしで体はすっかり衰弱し、ナホトカの港から引き揚げ船に乗り込むときは、桟橋を四つばいではって上りました。
「私は『生きる執念の強さ』で生き残ることができた」 戦後65年、抑留体験者が次々と亡くなっています。
「私は『生かされている』と思っている。生きている限り、体験を語り続けていきたい」 (つづく)
戦後65年/伝えよう侵略戦争の真実/
シベリア抑留/中/森林伐採、仲間は凍死2010.11.03
終戦の半年前、中国東北部のソ連国境近くで彗陽工兵隊に入隊し、爆弾を抱いて地面をはい、ソ連軍戦車へ向かう訓練を続けていた鈴木恒雄さん(83)=愛知県東海市=。「何度も死に直面した」と話します。■小枝が凶器に 19歳だった鈴木さんはソ連兵に森林伐採作業に携わることを命じられ、1945年9月に中国・牡丹江付近からソ連に入りました。すでに雪が降り始めていました。
2人組で刃の両側に取っ手のついた長さ1〓ほどのノコギリを扱い、直径1〓以上あるマツをひきます。
「いてつく地域では、なんでも〓凶器〓になる。鉄かぶともなく、直径5〓ほどの小枝でも、頭に当たれば死亡、手足に当たっても骨折です。腰まで雪につかっての作業で、木が倒れる方向が分からず、逃げ切れない者が続出しました」 人知れず雪の中になぎ倒され、凍死していた仲間もいました。鈴木さん自身も、伐採した原木を満載した木製ソリの荷崩れで4〓ばかり飛ばされたものの、下敷きにならずに助かった経験がありました。
吹雪や冷たい風の日の外気は零下40度。顔にタオルを巻きつけてもまつげやまゆげが凍り、触るとポキポキ折れました。鼻の頭が凍傷で白くなり、手で摩擦してなおそうとすると激痛を伴いました。
伐採した丸太を組んだだけの収容所はすき間だらけで、暖房は、出入り口と奥の壁の前のまきストーブ2台のみ。蚕棚のような2段ベッドの下段だった鈴木さんは、「毛布2枚にくるまっても寒く、隣の仲間と背中をくっつけ暖をとり合って眠りました」と、話します。
三度の食事は1枚の黒パンと具のないスープのみ。「いつも腹が減って、つらかった。食事の分配の際は、みんな目の色を変え、見ていました」 空腹を満たすため、大きな松の実を拾って食べました。
栄養失調、寒さ、伐採中の事故で、最初の冬を越えることなく、多くの仲間が亡くなりました。「私は若さと気力で、なんとか生き延びられました」 春になると、労働は農作業に。バレイショの植え付けのために地面を掘り起こし、あぜをつくりました。
鈴木さんたちは野草を摘み、収穫し残されたくず芋を拾い、飢えを満たしました。■命あるかぎり 年月を経るに連れ、抑留者の食事内容や待遇は次第に改善されました。
「忘れられないのは、私がソリから崩れ落ちた原木に吹き飛ばされたときのこと。一番先に助け起こしてくれたのは、ソ連兵でした。絶対的権力をもった天皇が支配していた資本主義国・日本の兵士との違いを感じました」 「人が人を殺す戦争は愚かなこと。戦争をしてはならない」と話す鈴木さん。小学校の元同級生や職場の元同僚に、抑留体験をつづった冊子、「しんぶん赤旗」の「侵略戦争の真実」や沖縄の米軍新基地建設計画に反対する行動の記事のコピーを郵送してきました。八十数人だった同級生の数は年々減り、この夏の同窓会の参加者は11人でした。
「生きている限り、戦争反対の意思を発していきたい」 (つづく)
戦後65年/伝えよう侵略戦争の真実/
シベリア抑留/下/監視され続けた人生2010.11.04
終戦まで「関東軍」情報部で、補助憲兵として情報収集やスパイの取り締まりをしていた朝田巖さん(89)=宮城県大崎市=。ソ連・タイセットから、さらに55〓の奥地でシベリア第2鉄道敷設のための森林伐採の労働に従事。飢えと厳寒の中を生き延び、1948年10月18日、京都・舞鶴港に帰国しました。
しかし朝田さんを待っていたのは、「シベリア帰り」としてのスパイ容疑でした。■港では尋問が 港に着いた夜、朝田さんは兵舎2階の一室に呼び出されました。写真と指紋がとられた後、「ハラダ」と名乗る日系2世の進駐軍兵士が、「捕虜になる時、偽名を語り、それがばれたことがあっただろう」「ソ連が黙っておまえを帰国させるわけがない。何か約束して帰ってきたはずだ」などと尋問します。朝田さんが、「何も約束していない」と否定しても、聞く耳をもちません。
「ハラダ」は、子ども用の木のいすに腰掛けた朝田さんの太ももの上に向かい合うように馬乗りになり、「何を約束してきたんだ。正直に言え」と責めます。体重をかけて、朝田さんの背中をいすの背板に押し付けました。
「最初は『何も約束していない』と否定していたのですが、後はただ黙って痛みに耐えるしかありませんでした」。朝8時すぎから夜10時近くまで、食事と少しの休憩を除き2日間、尋問が続きました。
入隊前、中国東北部で日本人学校の教師を務めていた朝田さん。「一生、おまえを監視し続ける。二度と公職(教職)には就かせない」と解放されました。
その後、朝田さんは、香川県の実家に3日間滞在。土建会社経営の長兄を岩手・平泉町に訪ね、経理の仕事を始めました。
半月後、駐在所の呼び出しに応じて出向くと、3人の進駐軍兵士が待ち構えていました。
「尋問はされませんでしたが、『ソ連から連絡があったら、私たちに知らせなさい』と、その方法を約束させられました」 翌49年4月、結婚し、同県陸前高田市に転居。しかし、そこにも連絡が入り、盛岡市に呼び出されました。以降、1カ月に1回、盛岡や仙台に呼び出され、抑留時のソ連部隊や兵舎の様子を聞かれました。進駐軍の本部が東京に移ってからは、一昼夜かけ都内に通いました。
「呼び出しの内容は、家族にもだれにも話すな」と言い渡され、妻にも理由を述べず表情のない顔で出かける朝田さ
ん。妻のマレ子さんは、「とても不気味な感じを受けました」と振り返ります。■教職に戻れず 「呼び出しは今日で終わりだ」と告げられたのは、56年のことでした。
「転居をくり返しても、呼び出しが追いかけて来る。ハラダに言われた『一生、おまえを監視してやる』の言葉が頭を離れませんでした。『いつ殺されるか』と常に不安でした」 その後、朝田さんは薬種商の資格をとり、のちに自分の店を持つまでになりました。
「結局、教職に戻ることはできませんでした。いまも悔いが残ります。たくさんの人に死と悲しみをもたらし、人生を狂わせる『侵略戦争』。私もその被害者の1人だと思います」 (この項おわり) (川田博子が担当しました)
昨日朝、段差がなくなった場所を撮っておこうとデジカメを取りに。
写真を撮りだすと駅周辺にいた人たちと戸田さんとの話がはずむ。
「買い物の重い荷物を持ったままバスを待つのは大変。ベンチが・・・」と。
そういえば、事務所にこられる人たちは、ギリギリまで事務所にいてバスへ。
戸田さんからは「今日市役所に行かれるならどうしたらいいか・・・・」と。
市役所には行ったけれど福間庁舎。来週、津屋崎庁舎に行くか
♥ More..Open
写真を撮りだすと駅周辺にいた人たちと戸田さんとの話がはずむ。
「買い物の重い荷物を持ったままバスを待つのは大変。ベンチが・・・」と。
そういえば、事務所にこられる人たちは、ギリギリまで事務所にいてバスへ。
戸田さんからは「今日市役所に行かれるならどうしたらいいか・・・・」と。
市役所には行ったけれど福間庁舎。来週、津屋崎庁舎に行くか
♥ More..Open
布団に入る時、10℃。
ワッこりゃ朝は冷えるばい、と。
ところが二度寝して目が覚めた6時は、11℃
???と外に出れば雨上がり。納得
念のため傘持参。のぼり二本と傘は持ちづらい。左手は松葉杖やしね~
初めての経験
女性がつかつかつかと駆け寄り「がんばってね。足、どうしたと?」と、私の手を握りしめた。ものすご~くあったかい手に思わず
サッと女性は去って行ったけれど誰かは???
横に立っていた戸田進一さんに「誰?」と言われたけれど???
「同級生やろか?」と私が答えると、戸田さんすかさず「違うやろ。まだ、上よ。」と。
完璧私が候補者と思うとうよね~
ま、本番になったら戸田さんがタスキをかけるきわかるたい
初めての経験2
初めてが2つというのもおかしいばって。
男性がゆっくりと近づいて来て、「ながい間お疲れ様でした」と。
顔は知っとうばってどこの誰かは???
こげなこと言われたとは初めてやき嬉しかったね~
駅に何年も立つと顔馴染みさんが。この男性もその内のお一人かな
ワッこりゃ朝は冷えるばい、と。
ところが二度寝して目が覚めた6時は、11℃
???と外に出れば雨上がり。納得
念のため傘持参。のぼり二本と傘は持ちづらい。左手は松葉杖やしね~
初めての経験
女性がつかつかつかと駆け寄り「がんばってね。足、どうしたと?」と、私の手を握りしめた。ものすご~くあったかい手に思わず
サッと女性は去って行ったけれど誰かは???
横に立っていた戸田進一さんに「誰?」と言われたけれど???
「同級生やろか?」と私が答えると、戸田さんすかさず「違うやろ。まだ、上よ。」と。
完璧私が候補者と思うとうよね~
ま、本番になったら戸田さんがタスキをかけるきわかるたい
初めての経験2
初めてが2つというのもおかしいばって。
男性がゆっくりと近づいて来て、「ながい間お疲れ様でした」と。
顔は知っとうばってどこの誰かは???
こげなこと言われたとは初めてやき嬉しかったね~
駅に何年も立つと顔馴染みさんが。この男性もその内のお一人かな
アンケートをお願いしたら、うちの近くの人から回答が。
駅、自由通路の段差に車が、と。
歩く時に押す車よ、シルバーカーというのかしら?
お名前書いていただいていたので戸田さん、早速一人で。
詳しく話を聞き、それをひとみちゃんが区長さんに。
土日は市役所お休み。区長さん、月曜日に要望書を市に提出。
ほんとは戸田さんを同行させて写真を撮りたかったけれど
「一人でいいばい」と、区長さん。
で、出すのはお任せして、現場での戸田さんを写真に。
それが昨日。そして今朝、市役所から見に。
そこで、ひとみちゃんと立ち話、となったとばって、職員も危ないですね、と。
昨日、ついでに直してもらえたらいいなあ、と水たまりの写真をメールで。
こちらは、だめみたい。どうしても、どこかに水たまりができるみたいよ。
おっきなお金を使えばいいっちゃろうばって。
ま、段差だけでも早く良くなればいいか
駅、自由通路の段差に車が、と。
歩く時に押す車よ、シルバーカーというのかしら?
お名前書いていただいていたので戸田さん、早速一人で。
詳しく話を聞き、それをひとみちゃんが区長さんに。
土日は市役所お休み。区長さん、月曜日に要望書を市に提出。
ほんとは戸田さんを同行させて写真を撮りたかったけれど
「一人でいいばい」と、区長さん。
で、出すのはお任せして、現場での戸田さんを写真に。
それが昨日。そして今朝、市役所から見に。
そこで、ひとみちゃんと立ち話、となったとばって、職員も危ないですね、と。
昨日、ついでに直してもらえたらいいなあ、と水たまりの写真をメールで。
こちらは、だめみたい。どうしても、どこかに水たまりができるみたいよ。
おっきなお金を使えばいいっちゃろうばって。
ま、段差だけでも早く良くなればいいか
11月3日は近所の保育園の30周年式典におよばれよ。
それが、うちからちょっとだけ離れた「ひびき」で。
式典のあと、5階のレストランで昼食でも、と何がおいしいか
叔母に教えてもらって行ったのに、5階は貸切で昼食食べれず
選対会議が3時からよ。こりゃ岡垣まで行けるばい、と。
「乗せて帰って」と言った議員さんもいたけれど断り
(みなさん、バスで。私、懇親会には参加しないのでひとみカーで)
母が私の同級生のお父さんが亡くなったのでものすごく心配して
「K子ちゃんところに行ったね!」と何度も何度も。
で、せっかく近くまで来たきね。
レストランが開店してたらわからんやったね~
福間に引っ越して50年以上よ。
友人には、高倉様の時、チラッと会ったことはあったけど
家に行くのは引っ越して以来よ。
従兄弟に昔の道よ、と聞いていたので行ったのはよかったけれど
手前に新しい家が、道が、で、たずねて、バックして友人宅へ。
年賀状も高校ぐらいから出さずじまいだし、顔が、と
なんのこたあない、高校の時もらった写真そのままよ。
私はわからんやったろうね~
紹介いろいろしたばい。最後に体重が増えたことを。
そしたら「痩せとったよね」と。
K子ちゃんのお母さんは、少し認知症があるけれど、内臓は丈夫だって。
お父さんが亡くなった後のお母さんのことを心配していたので
母に報告すると、こちらも少し・・・・で自分があれほど言っていた
ことまで忘れる始末よ。
何のために行ったのか。
収穫はあったばい。
県の赤旗まつり以来、気になって気になって仕方がなかったとが解決
岡垣の候補者紹介の時、「岩崎○○さん」と女性の名前が。
「う?岩崎?」と。小学校の同級生に「岩崎さん」が。
同級生は男性やけど、もしかしたら、と。
訊くつもりやったら、K子ちゃんのほうから、「○○ちゃんの奥さんが
立候補するとよ」と。
(私の紹介をする時、息子と私と孫が写った「日本共産党」と書いてある
名刺を。で、岩崎さんの話に)
私の記憶では、小学校の近くに住んどんしゃった、と。
そっちのお母さんと私の母も同級生か友人かでこどもの時はよく話を
聞かされたばって、帰って母に言っても「岩崎さん」が誰か全然・・・
収穫もう一つ
何年も前に、叔母たちと行ったと思うとばって、山田峠の近くの窯に。
そこの女性が、Ⅰ子さんじゃないかしら。絶対そうよ」と思ったけれど
やはり高校以来の不義理のために声をかけきらず、そのままに。
で、K子ちゃんに「I子ちゃん、どうしてる?」と。
そしたら教えてくれ、間違いなし、というのが。
長年の胸のつかえがとれたようよ
♥ More..Open
それが、うちからちょっとだけ離れた「ひびき」で。
式典のあと、5階のレストランで昼食でも、と何がおいしいか
叔母に教えてもらって行ったのに、5階は貸切で昼食食べれず
選対会議が3時からよ。こりゃ岡垣まで行けるばい、と。
「乗せて帰って」と言った議員さんもいたけれど断り
(みなさん、バスで。私、懇親会には参加しないのでひとみカーで)
母が私の同級生のお父さんが亡くなったのでものすごく心配して
「K子ちゃんところに行ったね!」と何度も何度も。
で、せっかく近くまで来たきね。
レストランが開店してたらわからんやったね~
福間に引っ越して50年以上よ。
友人には、高倉様の時、チラッと会ったことはあったけど
家に行くのは引っ越して以来よ。
従兄弟に昔の道よ、と聞いていたので行ったのはよかったけれど
手前に新しい家が、道が、で、たずねて、バックして友人宅へ。
年賀状も高校ぐらいから出さずじまいだし、顔が、と
なんのこたあない、高校の時もらった写真そのままよ。
私はわからんやったろうね~
紹介いろいろしたばい。最後に体重が増えたことを。
そしたら「痩せとったよね」と。
K子ちゃんのお母さんは、少し認知症があるけれど、内臓は丈夫だって。
お父さんが亡くなった後のお母さんのことを心配していたので
母に報告すると、こちらも少し・・・・で自分があれほど言っていた
ことまで忘れる始末よ。
何のために行ったのか。
収穫はあったばい。
県の赤旗まつり以来、気になって気になって仕方がなかったとが解決
岡垣の候補者紹介の時、「岩崎○○さん」と女性の名前が。
「う?岩崎?」と。小学校の同級生に「岩崎さん」が。
同級生は男性やけど、もしかしたら、と。
訊くつもりやったら、K子ちゃんのほうから、「○○ちゃんの奥さんが
立候補するとよ」と。
(私の紹介をする時、息子と私と孫が写った「日本共産党」と書いてある
名刺を。で、岩崎さんの話に)
私の記憶では、小学校の近くに住んどんしゃった、と。
そっちのお母さんと私の母も同級生か友人かでこどもの時はよく話を
聞かされたばって、帰って母に言っても「岩崎さん」が誰か全然・・・
収穫もう一つ
何年も前に、叔母たちと行ったと思うとばって、山田峠の近くの窯に。
そこの女性が、Ⅰ子さんじゃないかしら。絶対そうよ」と思ったけれど
やはり高校以来の不義理のために声をかけきらず、そのままに。
で、K子ちゃんに「I子ちゃん、どうしてる?」と。
そしたら教えてくれ、間違いなし、というのが。
長年の胸のつかえがとれたようよ
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人を乗せるたびに、荷物をポンポン車の後ろに。
デジカメもそれでしばらく行方不明。
やっと探し出し少しは撮ってみたけれど公開する時間無く後悔するばかり。
久しぶりに早めに帰りついたので、せめて写真だけでも公開し~よを
まず、1番に撮ったのがダチュラ。そして、「虹」のかけ稲
今年は異常に暑く、ダチュラは花が咲かないだけでなく、葉が
夫は、「おっきい葉やき、水分蒸発させないように自分で葉を落とし
とったい」と言うけれど、ほんとのところは
中間は葉が無く、涼しくなって伸びた新芽に蕾がいっぱい
この写真から1週間近く経つので、満開よ。玄関先まで匂うばい
近所迷惑かな
ひとみちゃんが好きでも、ご近所はわからんきね~
「虹」の田んぼは、今年はジャンボタニシに食われてどうなることかと
でも、掛けられるだけあったっちゃね~
次はもちろん、戸田さんよ。
週5日朝立ちしようとい、やっとデジカメで。
ま、写りはよくないけれどね。
駅舎1階のコンビにがampm(?)からファミリーマートへ。
店も変わるけれど、私たちの横に立つ人も変わるばい。
♥ More..Open
デジカメもそれでしばらく行方不明。
やっと探し出し少しは撮ってみたけれど公開する時間無く後悔するばかり。
久しぶりに早めに帰りついたので、せめて写真だけでも公開し~よを
まず、1番に撮ったのがダチュラ。そして、「虹」のかけ稲
今年は異常に暑く、ダチュラは花が咲かないだけでなく、葉が
夫は、「おっきい葉やき、水分蒸発させないように自分で葉を落とし
とったい」と言うけれど、ほんとのところは
中間は葉が無く、涼しくなって伸びた新芽に蕾がいっぱい
この写真から1週間近く経つので、満開よ。玄関先まで匂うばい
近所迷惑かな
ひとみちゃんが好きでも、ご近所はわからんきね~
「虹」の田んぼは、今年はジャンボタニシに食われてどうなることかと
でも、掛けられるだけあったっちゃね~
次はもちろん、戸田さんよ。
週5日朝立ちしようとい、やっとデジカメで。
ま、写りはよくないけれどね。
駅舎1階のコンビにがampm(?)からファミリーマートへ。
店も変わるけれど、私たちの横に立つ人も変わるばい。
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久しぶりに久しぶりにパソコン開く。
中国からのメールあり、メールニュースありでなかなかブログには
メールニュースで知ったとばって不破さんの連載が始まるんだって。
ちょっとだけ紹介、ね
*:--☆--:*:--☆--:*:--☆--:**:--☆--:*:--☆--:*:--☆--:*:--☆--:*:-
お知らせ 「読売」連載に不破氏登場 来月から30回 「時代の証言者」
*:--☆--:*:--☆--:*:--☆--:**:--☆--:*:--☆--:*:--☆--:*:--☆--:*:-
「読売」朝刊に連載中の「時代の証言者」に11月1日から、日本共産党の
不破哲三社会科学研究所所長が登場します。毎週5回(金、日曜日を除く)で、
連載は30回ほどになる予定です。
同紙の11月の紙面PR版では、「『共産党』不破哲三さん編」として
次のように紹介しています。
「戦後間もない1947年、16歳で共産党に入党した不破哲三さん。
70年に40歳の若さで党書記局長に就任してからは党の指導者として、
戦後の共産党と政治の激動の中を歩んできました。
国内では、常に野党の立場で時の政権と厳しく対峙(たいじ)しました。
国際的には『自主独立』を掲げ、旧ソ連や中国の共産党とも論争した半生を
振り返ってもらいます」
もう昨日から始まっとっちゃね。
ばって、うちがた「読売」とりよらんもんね~
そのうちどっかから流れてくるやろ
中国からのメールあり、メールニュースありでなかなかブログには
メールニュースで知ったとばって不破さんの連載が始まるんだって。
ちょっとだけ紹介、ね
*:--☆--:*:--☆--:*:--☆--:**:--☆--:*:--☆--:*:--☆--:*:--☆--:*:-
お知らせ 「読売」連載に不破氏登場 来月から30回 「時代の証言者」
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「読売」朝刊に連載中の「時代の証言者」に11月1日から、日本共産党の
不破哲三社会科学研究所所長が登場します。毎週5回(金、日曜日を除く)で、
連載は30回ほどになる予定です。
同紙の11月の紙面PR版では、「『共産党』不破哲三さん編」として
次のように紹介しています。
「戦後間もない1947年、16歳で共産党に入党した不破哲三さん。
70年に40歳の若さで党書記局長に就任してからは党の指導者として、
戦後の共産党と政治の激動の中を歩んできました。
国内では、常に野党の立場で時の政権と厳しく対峙(たいじ)しました。
国際的には『自主独立』を掲げ、旧ソ連や中国の共産党とも論争した半生を
振り返ってもらいます」
もう昨日から始まっとっちゃね。
ばって、うちがた「読売」とりよらんもんね~
そのうちどっかから流れてくるやろ