(3)【熱海】太宰よ、死に場所を探してたのかい?
- 2022/05/26
- 00:46
アカオフォレストの帰りに起雲閣(きうんかく)を見学した。熱海の三大別荘。
1918年、初めの持ち主である、開運王とも呼ばれた実業家・政治家の内田信也により内田別邸として建築されたのが、この起雲閣の始まり。
その後、1925年に鉄道王の異名を持つ根津嘉一郎(南青山の根津美術館の初代持ち主)の手に渡り、「根津熱海別邸」として、意匠を凝らした洋館や庭園の整備が進められた。
第二次世界大戦後の1947年、桜井兵五郎が旅館「起雲閣」として開業してからは、山本有三、志賀直哉、谷崎潤一郎、太宰治といった日本を代表する文人たちに愛され、特に舟橋聖一や武田泰淳は、その代表作をはじめとする数多くの作品をここで執筆した。
そして、2000年に熱海市は、この由緒ある建物と庭園を文化と観光の拠点とするために整備し、一般公開している。
大鳳という部屋は、10畳の居間と8畳の次の間からなる二間続きの座敷で、庭側の三方に畳廊下を廻している。
壁の色は、旅館の起雲閣になってから塗り替えられた。太宰治は、1938年3月18日から二泊、大鳳の部屋に山崎富栄を伴って、滞在している。
二人で入水自殺する三ヵ月前のことだった。二人はどのような心境で、この部屋から庭園を眺めていたのだろう。
創設時(1919年)の歪んだガラス窓からは、根津嘉一郎の手がけた庭園を真下に見ることができる。写メでは、年季の入った歪んだガラス窓が映せないのが残念。
根津嘉一郎は山梨県の出身。故郷に流れる笛吹川を想い、「根津の大石」の傍を流れるように池を配したのだろうか。
豪華なサンルーム。天井は日本初のステンドグラス職人が手がけたものだ。
タイル張りの床も美しい。タイルの床が印象的なサンルームは、アールデコのデザインを基調としている。
天井と共に、屋根もガラスで葺かれていて、これらは鉄骨によって支えられている。
玉姫・玉渓の間。根津嘉一郎により、1931年に着工、翌1932年に完成したこの部屋は、サンルーム、これに続く玉姫、そして主室となる玉渓の三部屋からなっている。
玉姫は、チェダー様式に名栗仕上げを取り入れたヨーロッパの山荘風の仕上がりを見せている。
しかし、暖炉の覆いには、サンスクリット語の飾り、入口の天井には、竹があしらわれるなど、独特の空間となっている。
主室となる玉渓。
初霜。起雲閣ゆかりの文豪の間。
1947年11月と1948年3月に山本有三が滞在。
1948年3月15日に志賀直哉、谷崎潤一郎が来館。山本有三、志賀直哉、谷崎潤一郎の三人で文芸対談を行う。
1948年3月18日に太宰治が部屋「大鳳」に一緒に入水した山崎富栄と宿泊。この前後3月7日〜3月31日に起雲閣別館に滞在して、『人間失格』を執筆。
1951年に船橋聖一が来館。この頃からたびたび滞在し、執筆を行う。
1958年6月4日に三島由紀夫が新婚旅行で「孔雀」(玉渓との説もある)に宿泊。
1959年に武田泰淳が「孔雀」に滞在し、執筆を行う。
1948年3月15日、谷崎潤一郎、志賀直哉、山本有三が文芸対談をした時の写真。
1995年6月20日に玉渓で行われた第一回 文化座談会「あたみ21」。司会の当時の熱海市長・川口市雄氏、杉本苑子氏、池田満寿夫氏、佐藤陽子氏の写真。
太宰治執筆の地・起雲閣別館。1948年3月7日〜3月31日、太宰治は起雲閣別館に滞在し、『人間失格』を執筆。
多くの著名人に愛された起雲閣別館は、惜しまれながら、1988年に取り壊された。
1918年、初めの持ち主である、開運王とも呼ばれた実業家・政治家の内田信也により内田別邸として建築されたのが、この起雲閣の始まり。
その後、1925年に鉄道王の異名を持つ根津嘉一郎(南青山の根津美術館の初代持ち主)の手に渡り、「根津熱海別邸」として、意匠を凝らした洋館や庭園の整備が進められた。
第二次世界大戦後の1947年、桜井兵五郎が旅館「起雲閣」として開業してからは、山本有三、志賀直哉、谷崎潤一郎、太宰治といった日本を代表する文人たちに愛され、特に舟橋聖一や武田泰淳は、その代表作をはじめとする数多くの作品をここで執筆した。
そして、2000年に熱海市は、この由緒ある建物と庭園を文化と観光の拠点とするために整備し、一般公開している。
大鳳という部屋は、10畳の居間と8畳の次の間からなる二間続きの座敷で、庭側の三方に畳廊下を廻している。
壁の色は、旅館の起雲閣になってから塗り替えられた。太宰治は、1938年3月18日から二泊、大鳳の部屋に山崎富栄を伴って、滞在している。
二人で入水自殺する三ヵ月前のことだった。二人はどのような心境で、この部屋から庭園を眺めていたのだろう。
創設時(1919年)の歪んだガラス窓からは、根津嘉一郎の手がけた庭園を真下に見ることができる。写メでは、年季の入った歪んだガラス窓が映せないのが残念。
根津嘉一郎は山梨県の出身。故郷に流れる笛吹川を想い、「根津の大石」の傍を流れるように池を配したのだろうか。
豪華なサンルーム。天井は日本初のステンドグラス職人が手がけたものだ。
タイル張りの床も美しい。タイルの床が印象的なサンルームは、アールデコのデザインを基調としている。
天井と共に、屋根もガラスで葺かれていて、これらは鉄骨によって支えられている。
玉姫・玉渓の間。根津嘉一郎により、1931年に着工、翌1932年に完成したこの部屋は、サンルーム、これに続く玉姫、そして主室となる玉渓の三部屋からなっている。
玉姫は、チェダー様式に名栗仕上げを取り入れたヨーロッパの山荘風の仕上がりを見せている。
しかし、暖炉の覆いには、サンスクリット語の飾り、入口の天井には、竹があしらわれるなど、独特の空間となっている。
主室となる玉渓。
初霜。起雲閣ゆかりの文豪の間。
1947年11月と1948年3月に山本有三が滞在。
1948年3月15日に志賀直哉、谷崎潤一郎が来館。山本有三、志賀直哉、谷崎潤一郎の三人で文芸対談を行う。
1948年3月18日に太宰治が部屋「大鳳」に一緒に入水した山崎富栄と宿泊。この前後3月7日〜3月31日に起雲閣別館に滞在して、『人間失格』を執筆。
1951年に船橋聖一が来館。この頃からたびたび滞在し、執筆を行う。
1958年6月4日に三島由紀夫が新婚旅行で「孔雀」(玉渓との説もある)に宿泊。
1959年に武田泰淳が「孔雀」に滞在し、執筆を行う。
1948年3月15日、谷崎潤一郎、志賀直哉、山本有三が文芸対談をした時の写真。
1995年6月20日に玉渓で行われた第一回 文化座談会「あたみ21」。司会の当時の熱海市長・川口市雄氏、杉本苑子氏、池田満寿夫氏、佐藤陽子氏の写真。
太宰治執筆の地・起雲閣別館。1948年3月7日〜3月31日、太宰治は起雲閣別館に滞在し、『人間失格』を執筆。
多くの著名人に愛された起雲閣別館は、惜しまれながら、1988年に取り壊された。