人の本棚を見るのが好きだ
人の本棚を見るのが好きだ。その人が何を読んでいるか/積んでいるかが見える。その人に抱いているイメージとのギャップ(or フィット)が目に見えるので愉しい。既知の本と未知の本の相対位置から、その人の人となりを割り出す。その人なら"その本"を読んでるはずなのに、目に付くトコにない――さては…と邪推する。未知の本だらけなら、その小宇宙に驚嘆する。
わたしと似ていて、わたしと違うところを探す。
「本棚.org」 や 「はてな100冊読書」といった、読書情報を共有するサービスもある。しかし、それは【公開】を意識した取捨選択の結果なので、ヨソイキの本棚ともいえるだろう。しかも、ほとんどが「消費」するサイドだろう。
ここでは、著名人、特にモノ書きを生業とする人に焦点をあて、その書斎と本棚を紹介する本――「センセイの書斎」をご紹介。
細密画のようなイラストで、センセイの書斎を俯瞰している。本棚の「間取り」だけでなく、デスクの場所、デスク周りの小物までを執拗なほど詳細に描き出そうとする…が、いかんせん、莫大な蔵書量に圧倒される。アウトプットとして本を出す人は、インプットにどれだけの本を必要とするかを想像するとクラクラしてくる。
林望――古典籍からアンアンまで、リンボウ先生のふみくら
荻野アンナ――豚と駄洒落が飛ぶラブレーな本棚
静嘉堂文庫――九百歳の姫君、宋刊本が眠る森
南伸坊――シンボーズ・オフィス、本棚はドコ?
辛淑玉――執筆工場に散らばる本の欠片
森まゆみ――書斎とお勝手のミニ書斎
小嵐九八郎――作家が放浪するとき、本は…
柳瀬尚紀――辞書と猫に囲まれて
養老孟司――標本と図鑑にあふれた書斎
逢坂剛――古書店直結、神保町オフィス
米原万里――ファイルと箱の情報整理術
深町眞理子――翻訳者の本棚・愛読者の本棚
津野海太郎――好奇心のために、考えるために
石井桃子――プーさんがどこかで見てる書斎
佐高信――出撃基地は紙片のカオス
金田一春彦――コトバのメロディを聞き書きするひと
八ヶ岳大泉図書館――ある蔵書の幸せな行方
小沢信男――本棚に並ぶ先輩たちに見守られて
品田雄吉――映画とビデオに囲まれた書斎
千野栄一――いるだけで本が買いたくなる書斎
西江雅之――本のコトバを聞き取って
清水徹――至高の書物を求めて
石山修武――居場所へのこだわりを解放する
熊倉功夫――茶室のような書斎を持つひと
上野千鶴子――三段重ねなのに、100%稼動中の本棚
粉川哲夫――移動、解体、組み立てをくり返す書斎
小林康夫――「雑に置くこと」の美学
書肆アクセス――ゆったりなのにワクワクさせる棚の妙
月の輪書林――調べ、集め、並べては手放す古書目録の本棚
杉浦康平――書斎を流動する本たち
曾根博義――重ねず、積まず、五万冊すべてが見える書棚
まず、何人かいるだろうとアタリを付けていたが、いわゆる「書痴」は皆無だった。本が持ち主をトリコにしてしまい、マニアックなデッドストック化している書斎は、所詮アマチュアなんだろう。
共通するのは、圧倒的な「量」だ。「量は質に変換する」まさにその現場がここ。ある部分を書く/翻訳するために執念深くモト本を追いかけ・手に入れる執拗さは、どのセンセイも一緒。ただし、手に入れた本をどう扱うかは、てんでばらばらで興味深い。しかも、それぞれのやり方が(その人にとって)理に適っていて、そこがまた面白い。
本をどう集め、どう読み、どう置いているかは、本との修養が必要だという。その修養の結果が「見える化」されている。
プライベートな本棚を見せるということは、歯医者に口の中を見せることと同じ。食生活と食習慣が丸見えなように、蔵書は人格を丸見えにする。皆さんよく快諾されてるよなぁと思っていると、上野千鶴子氏のこのセリフが目にとまる。
「本棚を人に見せると人格がわかられてしまうから、自宅は絶対に見せません。自宅は別人格なんです。ほほほ」
やっぱりね。
ありがちな出だしと、究極の結末はこれだろう→曾根博義氏が示してくれた。「みんなやるでしょうけど…」で始まる遍歴をまとめると…
ありがちな蔵書管理遍歴
- まず本棚に二重三重に入れる
- それからあまり使わない本はダンボールに入れて押し入れに詰め込む
- イナバの物置を買って庭に置く
- ↑しかし、あそこにあると分かっていても、取り出せなくなる。図書館orなじみの古書店のほうが早い
- ↑結局、本の背が見えるような形で置かなければ、本を持っていてもしょうがないことに気づく
- 近所に部屋を借りる(経済的理由で断念)
- トランクルームを借りる(次に何を入れたらいいかで1年悩む)
- ↑結局、置く場所が離れていたらダメなんだということに気づく
その後つくりだした、重ねず、積まず、五万冊すべてが見える書棚は圧巻の一言に尽きる。これ以外にも、31人の本との収容もとい修養の成果は、蔵書管理に悩んでる方にとって参考になる…かも?
達人たちの管理術
- 重厚な本は上下逆さまにして本棚に並べる。なぜか? 手にするとき、背を抑えてクルリと回転させて持つため。腱鞘炎予防(柳瀬尚紀)
- 必要な部分だけ「ちぎる」。後は捨てる。ちぎった部分は封筒に入れて管理する。仕事が終わって一定の時間(2年)経ったら、それも捨てる(辛淑玉)
- 本棚は全て「フタ」をしてある。背表紙が見えると気になって仕方が無いから(南伸坊)
- 神田古書街のド真ン中に書斎を設ける(逢坂剛)
- ごっそり図書館に寄贈して、仕事の必要に応じて送ってもらう(金田一春彦)
- 三段重ねて収納。インデックスはダンボールのセパレータ。キーは著者名でソート。書名→著者名の検索や、同姓・共著の場合はネットで調べる(上野千鶴子)
- 本は溜めない。仕事をするときは空いている会議室に全部持ち込む。PCを活用して仕事をする環境を移動→解体→組み立て可能にする。ただし資料一式は財団法人の施設に寄贈:自分はその館長(粉川哲夫)
あと、わたしのような「図書館派」は、ただ一人を除いていない。その一人、熊倉功夫氏が以下のように述べているが、それでも数万冊の蔵書があると申し添えておこう。
図書館にあるものは図書館に頼る。理由:阪神大震災で書斎の椅子の上に「国書総目録」がうず高く積み上がっているのを見て、「本は個人で持つものではない」と実感
いちばんグッと胸にきたのは、米原万里氏の書斎。
Faxやチケットの半券、レシートをクリアファイルで管理し、思い出すきっかけとしていたり、本1冊書く資料をダンボール単位で保管したりと、機能的な整理術が紹介されている。残念なことに、本年鬼籍に入られたので、これらはどうされたのだろうと勝手に心配する。さらに、「とっておきの楽しみのための本リスト」の中に、「ローマ人の物語」シリーズがあったので、ご存命なら来月出る完結巻を手にとられたであろうなーと思ったり。
仮に、わたしが立派な書斎を持っていたとしても、死後は処分されるんだろうなぁ…と考えて無常を感じたり。あるいは、父が愛読してたソルジェニーツィンが、今ではわたしの積ン読ク山に刺さっているのを見ると、この山はわが子も登頂するのだろうか…と独りほくそえんだり。
例外:持ち主が他界し、残された蔵書の幸せな行方は→「八ヶ岳大泉図書館――ある蔵書の幸せな行方」をどうぞ。こんな余生(?)を過ごしているなら本たちも本望だろう。
紹介が長々となってしまったが、「人の本棚を見るのが好き」な方にはうってつけの一冊といえる。著名なあの人が蔵書管理で同じ悩みを抱えているのを知ると、なんだか笑みがこぼれてくるから不思議だ。

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コメント
なるほど参考になります。
以前、あるサイトのオフで立花隆先生のお宅を取材したことがあります。彼の書架を見ていて、本棚というものは、データベースそのものであることを実感しました。最近では、ネットを外部データベースとして認識する風潮がありますが、そういった言動には、どうしても本能的な違和を感じてしまいますね。
「ネットで調べれば…」などというのは、「百科辞典で調べれば…」と同義であって、百科辞典に書かれた項目の「説明文」が作品かといえばそうではない訳で。なんせ、人間は二人以上いればその認識は微妙に違っていて当然といえるほど不完全な存在でして、ネット上の情報は一面的で深みに欠けます。書籍は、相互に意思が通じてるというフィーリングがあって、壮快感を感じることができます。これはネットにはない感覚です。
ネットと印刷媒体という二極分化はこれからさらに進むでしょう。ですが、私はこれからも積読を続けるでしょう。今後を楽しく生き抜くために、それがどうしても必要だから。
投稿: キョン吉 | 2006.09.13 07:46
> キョン吉 さま
立花先生の本棚をリアルでご覧になったのですか…うらやましい限りです。確かに本棚はデータベースなのかもしれません。ただし、持ち主にしか引けない、正規化されていないデータベースなのかもしれませんね。
ネットと印刷媒体については、キョン吉さんとは異なる意見を持っています。わたしは、むしろ両者は互いに取り込みあってゆくような気がします。ネットがリアルを、リアルがネットを侵蝕しあって、ちょうどエッジに相当する部分で話題になっているのが「いま」なんじゃないかな、と考えています(例えば、電子新聞やGoogle Book Searchとか)
投稿: Dain | 2006.09.14 00:57