2015年05月の朝日新聞から
下記の仲間。
日本語アレコレの索引(日々増殖中)
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-2828.html
日本語アレコレの索引(日々増殖中)【14】
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1935528999&owner_id=5019671
mixi日記2015年02月28日から
【索引】
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-244.html
●朝日新聞から──番外編 よく目にする誤用の御三家
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-122.html
●朝日新聞から──ではない 世に誤用の種は尽きまじ
「7割以上が間違ったら、もうそれは誤用ではない」のか?
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-194.html
【2015年05月】
15-05-01
13日
言葉は時代で変わる
金田一秀穂・杏林大教授(日本語学) 確かに、明治の頃は、夏目漱石や森鴎外が「全然」の後に肯定の言葉を続けていました。ただ、漱石が使ったことを大義名分に、肯定で使っていいとはなりません。時代とともに、言葉の使われ方は変わるからです。
「全然」は昭和になって打ち消しの言葉を伴うべきだと考えられるようになりました。平成になると再び肯定の言葉を伴う使い方も出てきました。「全然OK」「全然、大丈夫」はどこか違和感もありますが、実は「心配ない」「問題ない」という否定・打ち消しなんですよ。
「とても」という言葉も、以前は「とてもできません」のように、打ち消しを伴った歴史があります。芥川龍之介が大正末頃に「最近の人は肯定で使う」と文句を言いましたが、今はそんなことを言う人はいません。(朝刊16面)
先日書いた話。ほかの一般人のコメントいついて書きだすとキリがなくなる。それ以上に自分で〝抑え〟がきかなくなる気がする。
【資料】「全然OK」 朝日新聞から
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1942748608&owner_id=5019671
金田一先生のコメントに少し補足しておく。
〈漱石が使ったことを大義名分に、肯定で使っていいとはなりません〉
おっしゃるとおり。そもそも……という論理で「全然+肯定」を認めることはできない。それは当時は使った、ってだけの話。
〈「全然OK」「全然、大丈夫」はどこか違和感もありますが、実は「心配ない」「問題ない」という否定・打ち消し〉
それはどうなんだろう。
【よくある誤用18──ラ抜き言葉 的を射る/的を得る 全然+肯定形】
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n121646
「全然ダメ」「全然違う」「全然別(のこと)」あたりは「全然+否定的な肯定形」だろう。でも、「全然OK」「全然、大丈夫」は疑問が残る。とは言いつつこのへんまではアリの気がする。
じゃあ「全然忘れていた」(=すっかり)はどうなの?
「全然いい」(=全然OK)はどうなの?
ほとんど「very」(とても)の意味で使う「全然おいしい」はアリなの?
当方は受け付けない。
〈芥川龍之介が大正末頃に「最近の人は肯定で使う」と文句を言いました〉
それは有名。下記でしょ。
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-1641.html
↓
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/3745_27318.html
==============引用開始
『澄江堂雑記』
二十三 「とても」
「とても安い」とか「とても寒い」と云ふ「とても」の東京の言葉になり出したのは数年以前のことである。勿論「とても」と云ふ言葉は東京にも全然なかつた訣ではない。が従来の用法は「とてもかなはない」とか「とても纏まらない」とか云ふやうに必ず否定を伴つてゐる。
肯定に伴ふ新流行の「とても」は三河の国あたりの方言であらう。現に三河の国の人のこの「とても」を用ゐた例は元禄四年に上梓された「猿蓑」の中に残つてゐる。
秋風やとても芒はうごくはず 三河、子尹
すると「とても」は三河の国から江戸へ移住する間に二百年余りかかつた訳である。「とても手間取つた」と云ふ外はない。
二十七 続「とても」
肯定に伴ふ「とても」は東京の言葉ではない。東京人の古来使ふのは「とても及ばない」のやうに否定に伴ふ「とても」である。近来は肯定に伴ふ「とても」も盛んに行はれるやうになつた。たとへば「とても綺麗だ」「とてもうまい」の類である。この肯定に伴ふ「とても」の「猿蓑」の中に出てゐることは「澄江堂雑記」(随筆集「百艸」の中)に辯じて置いた。その後島木赤彦さんに注意されて見ると、この「とても」も「とてもかくても」の「とても」である。
秋風やとても芒はうごくはず 三河、子尹
しかしこの頃又乱読をしてゐると、「続春夏秋冬」の春の部の中にもかう言ふ「とても」を発見した。
市雛やとても数ある顔貌 化羊
元禄の子尹は肩書通り三河の国の人である。明治の化羊は何国の人であらうか。
==============引用終了
問題は、なんで芥川の話を出したかってこと。
はじめの段落に続くなら、文豪の時代の話はあまり参考にならないということだろう。
ただ、2つ目の段落の次にもの話が来ると、「そのうち全然も制約がなくなる時代が来る」って意味にもとれる。
あえてまぎらわしく書いてるんだろうか。
15-05-02
14日
一礼した後、駒を打つ音が部屋に響いた。(朝刊30面)
加藤勇介記者。新聞とは思えない情緒的な文章が気になった。決してくさい書き方が鼻をついたという意味ではない。細かく書きはじめると性格が悪くなりそうなので、最後に全文をひいておく。各自ご判断ください。さて↑の話。将棋の描写で「打つ」はあり得ません。古くから「将棋指し」「碁打ち」に決まっている。困ったことに、合駒を「打つ」とは言う(笑)。でも「駒を打つ音」はなし。「駒を盤に打ちつける音」ならアリ。もっと素直なのは「駒音」。
==============引用開始
(いま子どもたちは)将棋指し:1 ゲームより「羽生2世」
◇No.906
パチ、パチ、パチ。
白髪の交じった年配の男性と、小学生の男の子が将棋盤を挟んで向かい合う。「お願いします」。一礼した後、駒を打つ音が部屋に響いた。
東京都八王子市にある「八王子将棋クラブ」。雑居ビルの3階に雑然と将棋盤とパイプ椅子が並ぶ。窓に貼られた粘着テープは看板代わり。「将棋」と読める。どこにでもあるような将棋クラブは、全国有数の名門として知られる。
(以下略)
==============引用終了
15-05-03
24日
かつてはタイトルをほしいままにしたものの、ここ1、2年はタイトルからごぶさた。(朝刊24面)
春秋子記者。ここまで行くとさすがに誤用だろう。「名声をほしいままにする」のよう抽象名詞なら、原義に近い気がする。さらに言うと、なぜ「タイトル」が2回出てくる。この体言止めも相当イヤ。
15-05-04
24日
風呂か
ら上がり、奥の定位置に向かう際、大勢の報道陣に囲まれていた照ノ富士には一目もくれなかった。(朝刊22面)
巌本新太郎記者。日に日に報道陣との仲が険悪になっていく白鵬の話。悪意さえ感じる。それはおくとして、この「一目」はなんて読むのだろう? 当方の語感だと「一瞥もくれなかった」になる。
15-05-05
25日
白鵬ぶぜん(朝刊23面)
記者不明。かつては朝青龍に枕詞だった「ぶぜん」が、このところ白鵬に使われるのをよく見る。↑は見出し。本文中に「ぶぜんとした表情で」とある。
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●朝日新聞から──番外編 よく目にする誤用の御三家
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-122.html
●朝日新聞から──ではない 世に誤用の種は尽きまじ
「7割以上が間違ったら、もうそれは誤用ではない」のか?
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-194.html
【2015年05月】
15-05-01
13日
言葉は時代で変わる
金田一秀穂・杏林大教授(日本語学) 確かに、明治の頃は、夏目漱石や森鴎外が「全然」の後に肯定の言葉を続けていました。ただ、漱石が使ったことを大義名分に、肯定で使っていいとはなりません。時代とともに、言葉の使われ方は変わるからです。
「全然」は昭和になって打ち消しの言葉を伴うべきだと考えられるようになりました。平成になると再び肯定の言葉を伴う使い方も出てきました。「全然OK」「全然、大丈夫」はどこか違和感もありますが、実は「心配ない」「問題ない」という否定・打ち消しなんですよ。
「とても」という言葉も、以前は「とてもできません」のように、打ち消しを伴った歴史があります。芥川龍之介が大正末頃に「最近の人は肯定で使う」と文句を言いましたが、今はそんなことを言う人はいません。(朝刊16面)
先日書いた話。ほかの一般人のコメントいついて書きだすとキリがなくなる。それ以上に自分で〝抑え〟がきかなくなる気がする。
【資料】「全然OK」 朝日新聞から
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1942748608&owner_id=5019671
金田一先生のコメントに少し補足しておく。
〈漱石が使ったことを大義名分に、肯定で使っていいとはなりません〉
おっしゃるとおり。そもそも……という論理で「全然+肯定」を認めることはできない。それは当時は使った、ってだけの話。
〈「全然OK」「全然、大丈夫」はどこか違和感もありますが、実は「心配ない」「問題ない」という否定・打ち消し〉
それはどうなんだろう。
【よくある誤用18──ラ抜き言葉 的を射る/的を得る 全然+肯定形】
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n121646
「全然ダメ」「全然違う」「全然別(のこと)」あたりは「全然+否定的な肯定形」だろう。でも、「全然OK」「全然、大丈夫」は疑問が残る。とは言いつつこのへんまではアリの気がする。
じゃあ「全然忘れていた」(=すっかり)はどうなの?
「全然いい」(=全然OK)はどうなの?
ほとんど「very」(とても)の意味で使う「全然おいしい」はアリなの?
当方は受け付けない。
〈芥川龍之介が大正末頃に「最近の人は肯定で使う」と文句を言いました〉
それは有名。下記でしょ。
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-1641.html
↓
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/3745_27318.html
==============引用開始
『澄江堂雑記』
二十三 「とても」
「とても安い」とか「とても寒い」と云ふ「とても」の東京の言葉になり出したのは数年以前のことである。勿論「とても」と云ふ言葉は東京にも全然なかつた訣ではない。が従来の用法は「とてもかなはない」とか「とても纏まらない」とか云ふやうに必ず否定を伴つてゐる。
肯定に伴ふ新流行の「とても」は三河の国あたりの方言であらう。現に三河の国の人のこの「とても」を用ゐた例は元禄四年に上梓された「猿蓑」の中に残つてゐる。
秋風やとても芒はうごくはず 三河、子尹
すると「とても」は三河の国から江戸へ移住する間に二百年余りかかつた訳である。「とても手間取つた」と云ふ外はない。
二十七 続「とても」
肯定に伴ふ「とても」は東京の言葉ではない。東京人の古来使ふのは「とても及ばない」のやうに否定に伴ふ「とても」である。近来は肯定に伴ふ「とても」も盛んに行はれるやうになつた。たとへば「とても綺麗だ」「とてもうまい」の類である。この肯定に伴ふ「とても」の「猿蓑」の中に出てゐることは「澄江堂雑記」(随筆集「百艸」の中)に辯じて置いた。その後島木赤彦さんに注意されて見ると、この「とても」も「とてもかくても」の「とても」である。
秋風やとても芒はうごくはず 三河、子尹
しかしこの頃又乱読をしてゐると、「続春夏秋冬」の春の部の中にもかう言ふ「とても」を発見した。
市雛やとても数ある顔貌 化羊
元禄の子尹は肩書通り三河の国の人である。明治の化羊は何国の人であらうか。
==============引用終了
問題は、なんで芥川の話を出したかってこと。
はじめの段落に続くなら、文豪の時代の話はあまり参考にならないということだろう。
ただ、2つ目の段落の次にもの話が来ると、「そのうち全然も制約がなくなる時代が来る」って意味にもとれる。
あえてまぎらわしく書いてるんだろうか。
15-05-02
14日
一礼した後、駒を打つ音が部屋に響いた。(朝刊30面)
加藤勇介記者。新聞とは思えない情緒的な文章が気になった。決してくさい書き方が鼻をついたという意味ではない。細かく書きはじめると性格が悪くなりそうなので、最後に全文をひいておく。各自ご判断ください。さて↑の話。将棋の描写で「打つ」はあり得ません。古くから「将棋指し」「碁打ち」に決まっている。困ったことに、合駒を「打つ」とは言う(笑)。でも「駒を打つ音」はなし。「駒を盤に打ちつける音」ならアリ。もっと素直なのは「駒音」。
==============引用開始
(いま子どもたちは)将棋指し:1 ゲームより「羽生2世」
◇No.906
パチ、パチ、パチ。
白髪の交じった年配の男性と、小学生の男の子が将棋盤を挟んで向かい合う。「お願いします」。一礼した後、駒を打つ音が部屋に響いた。
東京都八王子市にある「八王子将棋クラブ」。雑居ビルの3階に雑然と将棋盤とパイプ椅子が並ぶ。窓に貼られた粘着テープは看板代わり。「将棋」と読める。どこにでもあるような将棋クラブは、全国有数の名門として知られる。
(以下略)
==============引用終了
15-05-03
24日
かつてはタイトルをほしいままにしたものの、ここ1、2年はタイトルからごぶさた。(朝刊24面)
春秋子記者。ここまで行くとさすがに誤用だろう。「名声をほしいままにする」のよう抽象名詞なら、原義に近い気がする。さらに言うと、なぜ「タイトル」が2回出てくる。この体言止めも相当イヤ。
15-05-04
24日
風呂か
ら上がり、奥の定位置に向かう際、大勢の報道陣に囲まれていた照ノ富士には一目もくれなかった。(朝刊22面)
巌本新太郎記者。日に日に報道陣との仲が険悪になっていく白鵬の話。悪意さえ感じる。それはおくとして、この「一目」はなんて読むのだろう? 当方の語感だと「一瞥もくれなかった」になる。
15-05-05
25日
白鵬ぶぜん(朝刊23面)
記者不明。かつては朝青龍に枕詞だった「ぶぜん」が、このところ白鵬に使われるのをよく見る。↑は見出し。本文中に「ぶぜんとした表情で」とある。