下記の仲間。
日本語アレコレの索引(日々増殖中)
http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-306.htmlhttp://mixi.jp/view_diary.pl?id=1486031711&owner_id=5019671
「事実」と「意見」【1】mixi日記2010年10月17日
テーマトピは下記。
【事実と意見(『J301』7課)】
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=57120385
質問の全文。
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『J301』7課本文の第二段落についての質問です。
(1)一般的に、日本以外の多くの国では、お礼のことばは一回きりで済ます場合が多いようだ。
(2)ただ、ここで肝心なことは、彼らは決して恩を忘れているわけではないということである。
(3)それは、ひとたびこちらからお願いごとをすると、恐縮してしまうほど精一杯尽くしてくれることでもわかる。
(『J301』7課本文第2段落)
教科書の本文の右側のページに「文章の型」というものがあり、7課では事実と意見を意識して抜き出す活動が組まれています。
そこでは、上で引用した本文第二段落の(2)の文が「事実」に分類されています。
「事実」というのは、他者でも確認可能な内容、正誤判断が可能な内容を指すと理解しています。「肝心なことは~ということである」という表現は筆者が言いたいことをクローズアップさせたもので、筆者の意見に相当すると考えられます。つまり、当方の分析だと、(2)は筆者の意見の方に分類することになります。
どのように考えれば(2)が「事実」に分類されるんでしょうか?
『J301』が7課で想定している事実と意見の判別式をご存知ありませんか?
もしくは、『J301』の方針は知らないけど、こう考えれば(2)は事実だよ、というものでも構いません。
または、『J301』を扱ってらっしゃる方がこの部分をどのように処理されているかでも構いません。
情報をお待ちしています。よろしくお願いします。
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この問題は「深い」。考えだすとドツボにはまる。
文章の読解の根源にかかわる重要な問題のような気もするし、考えれば考えるほど単なる屁理屈の領域のような気もしてくる。
とりあえず「1」のコメントを回収しておく。
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いつも有用なコメントを参考にさせていただいているお礼に何か書こうと思いましたが、この内容は……。
このトピに関連する日記も拝見しました。
当方には、(2)は「意見」としか思えません。さらに言えば、(1)(3)も「意見」ではありませんかね。文章の全体像が見えれば少し事情がかわるのかもしれませんが。
(1)一般的に、日本以外の多くの国では、お礼のことばは一回きりで済ます場合が多いようだ。
どこが「一般的」なのかサッパリわかりません。せめていくつか例示してくれれば話は別かもしれませんが。
「多い」とか「少ない」はなんらかの統計データでもつけない限りは「事実」にはならないでしょう。さらに言えば、統計データをつけても事実とは限らない……。
もっと一般性のある「意見」なら、別に統計データもいらないのでしょうが。
しかも「ようだ」じゃ……。
書き手が実際に目撃(体験)した話ならいざ知らず。
(2)ただ、ここで肝心なことは、彼らは決して恩を忘れているわけではないということである。
論理が飛躍していて、「意見」としても説得力が感じられません。
「彼らは決して恩を忘れているわけではない」を「事実」だと解釈するなら、書き手は超能力者の類いでしょう。
(3)それは、ひとたびこちらからお願いごとをすると、恐縮してしまうほど精一杯尽くしてくれることでもわかる。
これも飛躍が過ぎるような……。
普遍性をもつ「事実」と解釈するのはむずかしいでしょう。
「意見」と「事実」と聞くと、すぐに思い浮かぶのは『理科系の作文技術』(木下是雄/中公新書/1981年9月25日初版)です。
以前書いたレビューから引きます。論理的な文章を書くためには重要な心得だと思います。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1266161486&owner_id=5019671
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【引用部】
私の考えでは、以上のような性格をもった理科系の仕事の文書を書くときの心得は
(a)主題について述べる事実と意見を精選し、
(b)それらを、事実と意見とを峻別しながら、順序よく、明快・簡潔に記述する。
ことであると要約できる。この書物のおもな使命はそのやり方を実際的に解説することだが、具体的な解説にかかる前に、(a)、(b)の内容のイメージを与えておく必要があろう。(P.6)
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当方なりにいろいろ考えた結論。
【事実的な結論】
たいていの場合、「事実」か「意見」かは、言い回しの問題でしかない。
【意見的な結論】
あくまでも個人的な感覚だが、たいていの場合、「事実」か「意見」かなんて、言い回しの問題でしかないように思える。
【体験談に持ち込んだ結論】
同じ内容でも、ちょっとした言い回しをかえるだけで「事実」に見えれば「意見」にも見える。いままでにそういう例を数多く見てきた。
もともとの文章は、下記のサイトにあるものらしい。質問者の日記から無断で引く。(←オイ!)
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與神對話(J301の全文を載せている奇特なサイトです。著作権が、が、が)
http://torigod1983.spaces.live.com/?_c11_BlogPart_BlogPart=blogview&_c=BlogPart∂qs=cat%3d%25e6%2597%25a5%25e6%2596%2587
あ、live.comだから大丈夫だとは思いますがセキュリティー対策してからリンク先に飛んでくださいね。
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【全文】
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J301 第7課 あのときはどうも
以前お世話をした外国人留学生に、久しぶりに再会することがあるが、ほとんどの場合、彼らは世話になった礼を言わない。例を言われることを期待するほうがおかしいのかもしれないが、なんだがさびしい。日本人は何か世話になった直後にお礼のことばを述べ、その後も会うたびに、『先日はありがとうございました』『あのときはどうも』『いつぞやはお世話になりました』などと繰り返して言う。これが普通だと思っている日本人の習慣からすると、そのとき一回限りのお礼だけではもの足りなさを感じるのも無理はない。
一般的に、日本以外の多くの国では、お礼のことばは一回きりで済ます場合が多いようだ。ただ、ここで肝心なことは、彼らは決して恩を忘れているわけではないということである。それは、ひとたびこちらからお願いごとをすると、恐縮してしまうほど精一杯尽くしてくれることでもわかる。
日本は義理社会だと言われる。日本の伝統文化をはぐくんできた義理人情は大切にしなければならないと思う。しかし、それが形のものになってはならないと思う。
贈り物も、もらってありがたく思うより先にお返しのことを考える。心から感謝の気持ちを伝えるはずのお礼のことばも、言い忘れては失礼になるという気持ちのほうが強くはたらき、二度も三度も繰り返す。これらは、お礼をしたり、お礼を言ったりすることが形だけのものなってしまった悪い例だ。
贈り物をもらったとき、『ありがとう』の一回きりのことばだけで済ますわけにはいかないだろうが、まるで物々交換のようなお礼のやり取りだけはしたくないものだ。
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こうして全文を読むと説得力は増す。おそらく、「事実率」が高くなっているから。
一般に「意見」よりは「事実」のほうが説得力がある。この場合も、「事実」の割合が高くなったので説得力が増したと考えるのが自然だろう。
たとえば、冒頭の「以前お世話をした外国人留学生に、久しぶりに再会することがあるが、ほとんどの場合、彼らは世話になった礼を言わない」は書き手の体験談であり「事実」だろう。これが前提になっていると、問題になっている部分の説得力が違ってくる。
こういうことをグチャグチャ考えていると、「素朴な疑問」も出てくる。とりあえず3つあげておく。
1)「事実」でありさえすれば説得力があるのか
2)本来、「事実」か否かは説得力とは別の問題ではないか
3)「説得力のある意見」とはなんぞや
それはさておき、この文章全体が「事実」と「意見」のどちら寄りかと言うと、8割方は「意見」って気がする。もう少し「事実」に近づけてもいいかもしれない。いずれにしても、全体の印象としては、いくつかの「事実」を踏まえてはいても「意見」だろう。
ただ、書き方をかえると、印象がかわってくる。
●「事実」&「意見」の変換
問題文に戻って、【事実的な書き方】【意見的な書き方】【体験談に持ち込んだ書き方】に書きかえてみる。
【事実的な書き方】
(1)日本以外の国では、お礼のことばは一回きりで済ます場合がある。
(2)「お礼のことば」がたった一回だからといって、彼らが恩知らずなどとは言えない。
(3)逆にこちらからお願いごとをすると、こちらが恐縮してしまうほど精一杯尽くしてくれるからだ。
【意見的な書き方】
(1)一般的に、日本以外の多くの国では、お礼のことばは一回きりで済ます場合が多いように思う。
(2)ただ、ここで肝心なことは、彼らは決して恩を忘れているわけではないということだろう。
(3)逆にこちらからお願いごとをすると、お礼のことばを繰り返さない人たちのほうが精一杯尽くしてくれる傾向がありそうな気がするのは私だけだろうか。
【体験談に持ち込んだ書き方】
(1)日本以外の多くの国では、お礼のことばは一回きりで済ます例をよく見聞する。
(2)ただ、彼らは決して恩を忘れているわけではないことを私はよく知っている。
(3)こちらからお願いごとをすると、恐縮してしまうほど精一杯尽くしてくれるのは、むしろお礼のことばを繰り返さない人たちなのだ。
同じようなことを書いていても、ちょっと書き方をかえるだけで「事実」にも「意見」にもなる気がする。そう考えると、設問自体がホニャララな気もしてくる。まあ、そういう小手先のテクニックを抜きにして「事実」と「意見」を見分ける訓練は重要だろう。
この問題の場合は、問題文が不適切なんだと思う。たとえば第1段落の文章なら、順に「事実」「意見」「事実」「意見」と言われれば、「まあそうでしょうね」と素直にうなずける気がする。
「意見」のニュアンスが強くなるキーワードは見当がつく。1)~3)の分類はかなりいい加減。1)と3)に本質的な違いはないことは後述する。
1)「思う」「考える」などの「あからさま主観」
2)「一般的」「よう」「らしい」「だろう」「かもしれない」などの「曖昧表現」
3)「多い」「肝心」などの「実は主観」
こういうことを書いていると、以前「赤い本」に書いた内容と関係する部分が多い気がしてきた。
「事実」と「意見」【2】mixi日記2010年10月17日から
【「事実」と「意見」に関する「
赤い本」の関連項目】
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●言葉をかえて文末に変化をつける
【練習問題8】
「~いると思います」のいう表現を、別な表現に書きかえてください。
文末に変化をつけるためのもっとも簡単な方法は、語彙をふやすことです。
一例だけあげておきましょう。本書でたびたび用いてきた表現なので、お気づきのかたもいると思います。このような小手先のテクニックを、「語彙」などというとおしかりを受けるかもしれませんが。
たったいま使った「~いると思います」という表現は、次のように書きかえることができます。
~いると予想されます
~いると思われます
~いることでしょう
~いるでしょう
~いるはずです
~いる気がします
~いるかもしれません
ほかにもいろいろな表現がありますが、これ以上並べるのはやめておきます(「~いると思います」が、「~ヘンだと思います」なら、多少書きかえ方がかわってきます)。
こういう安易な書きかえは、言葉の厳密な意味を尊重されるかたにはおすすめできません。当然のことながら、ここに並べた言葉はそれぞれ意味が違っているからです。個人的には、後ろのほうの表現ほどクダけた感じになる気がしても、「意味に大きな違いはないことが多い」と割り切ることにしています。
注目していただきたいのは、この表現のなかに、マス、デス、ショウ、マセンの4種類の文末が含まれていることです。つまり、言葉の厳密な意味にこだわらなければ、前後の文末に応じて4つのなかから自由に選べることになります。本書をここまでお読みになったかたなら、これがどれだけ便利なことかおわかりいただけるはずです。たとえば、次のような使い方をしています。
〈原文〉(文末に「~と思います」が続く文章)
文末が単調になると、文章も単調になると思います。それを防ぐには、文末に変化をつければよいと思います。そのためには、語彙をふやすのがもっとも簡単な方法だと思います。
〈書きかえ文〉(言葉をかえて文末に変化をつけた文章)
文末が単調になると、文章も単調になると思います。それを防ぐには、文末に変化をつければよいでしょう。そのためには、語彙をふやすのがもっとも簡単な方法かもしれません。
ちなみに、本書では不要と思われるデショウも使われています。これも文末に変化をつけるための苦肉の策とお許しください。このほかにも文章がヘンになっているところは、たいてい文末に変化をつけるために表現をかえているところです。文末に注意して読むと、変化をつけるためのヒントになるかもしれません。
語彙を豊富にするのは文末に変化をつけるひとつの便法ではあります。しかし、しょせん小細工にすぎません。ここで例にあげた「~と思います」の場合はいろいろな文末に書きかえられますが、別な言葉にかえても文末はかわらないことが多いからです。(「ここがヘンだよ『日本語練習帳』」p.110~112)
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「事実」と「意見」【1】で書いた〈「意見」のニュアンスが強くなるキーワード〉として下記をあげた。
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1)「思う」「考える」などの「あからさま主観」
2)「一般的」「よう」「らしい」「だろう」「かもしれない」などの「曖昧表現」
3)「多い」「肝心」などの「実は主観」
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1)と2)に本質的な違いのないってことだろう。
ちょっと考え方をかえよう。
一般の人が書く文章って、「事実」と「意見」のどちらが多いのだろう。
よく考えると、「事実」を書いている文章なんてほとんどない気がする。
たとえば、新聞記事。一部のルポなどを除くと、基本的に「事実」だろう。ムヤミに「意見」を書かれては困る(「どんな事実を取捨選択するか」という部分に「意見」が入る余地は大いにあるが)。
一般の人が新聞記事を書く機会は少ない(笑)。
あえて言うと、旅行記の類い(日記もかな?)をなんの感想(「事実」か「意見」に分ければ「意見」)も入れずに淡々と書けば、「記録」であり「事実」だろう。しかし、実際には、なんらかの感想が入ってくる。そこが増えれば増えるほど、「事実」からは離れる。
そういうものを例外とすれば、あとはほとんどが「意見」だ。すべての文の後ろに「~と思う」が隠れていると考えたほうがいい。
これは逆の考え方もできる。どうせ〈すべての文の後ろに「~と思う」が隠れている〉ことが前提なら、いっそ全部削除してしてしまえばいい。
そうすることによって、単なる「意見」が「事実」のような印象になる。
「文章読本」の類いが「断定調で書け」と繰り返しているのは、そういうことなのかもしれない。この点については何度も言及した。個人的には、ムヤミな(誤用か?)断定調は押し付けがましくて嫌い。読んでてムカツいてくる。文章の問題は微妙な話が多いので、そうそう断定できるもんじゃない。ホニャララなことを断定調で語っていると、単なる●●にしか見えない。
同じような内容でも、曖昧な表現を避けて断定調で書くことによって説得力が増す。それは、「意見」を「事実っぽく」するってこととほぼ同義。
そんな結論でいいのか?
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あとがきにかえて
──新聞の文章について考える
どうにかこうにか、ここまでたどりつきました。
辛抱強くお読みくださったかたに、深く感謝いたします。感謝の気持ちを込めて書きたいことがいろいろありますが、すべてを書いていると、まだまだ終わりそうにありません。書き残してしまっている「新聞の文章」の問題にふれて、「あとがき」にかえさせていただきます。
本書で「避けたほうが無難」などとしている表現のなかには、新聞で見かけるものがたくさんあります。書き手が意識しているものは、次のとおりです。
1)「自然の美しさを実感。」のような不自然な体言止め
2)〈気象予報士は苦笑しながら「あしたは晴れるでしょう」。〉のような省略形
3)リード特有の(複雑な構造の)長い一文
4)常用漢字表にこだわった「まぜ書き」
5)「~といえよう」などの堅苦しい印象の表現
3)以外は、ふつうの雑誌などでも見かけることがあります。「新聞のほうが少し使用頻度が高いかな」という程度のことです。3)も新聞の記事スタイルにかかわる特殊な形で、批判されるようなものではありません。いずれも個人的な感覚にもかかわることで、重大な欠点と呼べるようなものではないはずです。言葉の誤用がきわめて少ないという点でも、新聞は信頼できます。こういった理由から、★ページでは「明文」のお手本として新聞をおすすめしました。ビジネス文書やそれに近い文章を書くためなら、「明文」のレベルで十分なので、新聞をお手本にすれば問題はありません。
これは、あくまでもビジネス文書などを書くときに限った話です。もう少し上のレベルを目指すのなら、新聞の文章がお手本になるとは限りません。ここから先は、本書の役割を外れて、内容にかかわることにもふれることをご了承ください。
●「結論先行」にこだわる必要はない
新聞の文章は、原則的に「結論先行」になっています。まず事件の概略を伝え、しだいにくわしく掘り下げていく形です。ビジネス文書などのための「文章読本」も、ほとんどが「結論先行」をすすめています。この影響で、「結論先行」のほうがわかりやすい文章になる、と誤解している人も多いようです。
すべての「文章読本」が、「結論先行」をすすめているわけではありません。なかには、「起・承・転・結」こそが文章の王道、と主張しているものもあります。
どちらの主張が正しいのでしょうか。
どちらも正解ですし、どちらも間違いです。どういう書き方をするべきなのかは、「文章の内容による」としかいえません。
ビジネス文書などに限れば、「結論先行」のほうがよいことが多いのは事実ですが、例外もたくさんあります。極端に短いものを除けば、「起・承・転・結」で書いても構いません。「結論先行」のほうが書きやすいので、「慣れない人はそうしたほうがいいことが多い」ぐらいのことはいえそうですが。
「文章読本」を読んでいて、恐ろしい記述を目にしたことがあります。その本には次のようなことが書かれていました。
「私は~」で始まって「~と思う」で終わる一文が長いと、読み手が戸惑ってしまう……ここまではそのとおりです。
最初に文章の枠組みをはっきりとさせることが必要である……たしかにそういうことが多いでしょう。
このあとに提示されている書きかえ案の冒頭の一文は、「私は次のように考える。」になっています。わかりやすくはありますが、これは日本語の文章としては相当異様です。せめて「私は〇〇について……のように考える。」ぐらいにしないと、「結論先行」にすらなっていません。
これほど極端ではなくても、「結論先行」の文章は、事務的で味気ないものになりがちです。
第1章で、「箇条書きは、文章の書き方としては、変則的なものと考えるべき」と書きました。ふつうの文章で箇条書きを多用すると、味気ない感じになるからです。「味気ない」が抽象的に感じられるかたには、実例として本書をあげておきます。本書の文章が説明調で味気なくなっている原因のひとつは、わかりやすさを重視して箇条書きを多用していることです。
味気ない文章になるという点で、「箇条書き」と「結論先行」は似ています。ふつうの文章では、どちらも極力使うべきではありません。
事件を報道するときには「結論先行」になっている新聞の文章も、「読みもの」的な記事は、別のパターンになっていることが多いはずです。その場合、「起・承・転・結」になっているものもあれば、なっていないものもあります。どういうパターンを選ぶのかは、あくまでも内容しだいです。
●書き手の感情を優先させる
新聞記事には、「~と思う」などの表現がほとんど出てきません。記者の個人的な感情は極力出さない表現を選んでいるからです。そのかわりに、間接的に感情を表出するいい回しをしていることは多いようですが。
ふつうの文章を書くときには、話がまったく別になります。
「~と思う」に類した表現を多用するのはよくありません。この点は本書でもふれたとおりですが、書き手の感情を無理に抑えようとすると、文章の個性が失われがちです。書き手の感情を優先させたほうが個性的でイキイキとした文章になります。「感情を前面に押し出せ」とまではいいませんが。
●ツマラナイ一般論なら書かないほうがマシ
新聞の文章の最大の欠点は、「おもしろさ」に欠けることです。これは文章の欠点というよりも内容の欠点というべきであり、「欠点」ではなく「特徴」と呼ぶべきかもしれません。
新聞の最大の使命は、事実を正確に報道することです。そこに「おもしろさ」がはいりこむ余地はありません。同じ事件を扱っても、週刊誌などは憶測をまじえて過激に書く傾向があります。どちらを好むのかは趣味の問題であっても、「おもしろさ」の点では週刊誌などに軍配を上げざるをえません。
新聞と週刊誌などを比べると、発行部数にも大きな違いがあります。多くの読者を対象にする新聞は、意見が書かれる場合も、ほとんどが当たりさわりのない見解です。多くの読者の反感を買うような極論を書くと、多大な影響が生じてしまいます。
この点も、新聞が「おもしろさ」に欠ける原因かもしれません。正確さを重視して書いた文章や、当たりさわりのないことを書いた文章は、「おもしろさ」に欠ける嫌いがあります。
ふつうの文章では、そういう書き方は避けるべきです。「ウソを並べたてろ」とか「非常識なことを書きたてろ」ということではありません。「ツマラナイ一般論なら書かないほうがマシ」ということです。間違いがなくて無難なことだけを書こうとすると、たいてい常識的でツマラナイ内容になってしまいます。だれでも知っているようなことしか書かれていない文章は、読み手を退屈させるだけです。
少し乱暴なことをいうなら、一般論に反する内容のほうが、読み手の興味を促します。「そんな考えは浮かばない」とおっしゃるかたは、一般の人が知らないことを書けばよいのです。多くの「文章読本」にも書かれているではありませんか、「体験談をまじえなさい」と。
短めに済ませるつもりだったのに、また長々と書いてしまいました。
デス・マス体を使うと、どうしても文章が長くなる気がします。この点も、個人的にデス・マス体が嫌いな理由のひとつです。「金輪際イヤだ」とまではいいませんが、「当分の間デス・マス体の文章は書きたくない」というのが現在の偽らざる心境です。
【最後の研究課題】
「あとがきにかえて」の文体が、それまでの文体と明らかに違う点を、2点あげてください。
(「ここがヘンだよ『日本語練習帳』」p.303~310)
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長々と引用して、思うことはたったひとつ。(←オイ!)
「体験談」最強(笑)。
〈「事実」と「意見」【1】〉で、【事実的な書き方】【意見的な書き方】【体験談に持ち込んだ書き方】って書き分けを試みた。ちょっとした思いつきだったが、けっこう重要な話って気がしてきた。
「事実率」を上げたほうが説得力が増すなら、「体験談」を盛り込めばいいってこと。
脚色の部分を無視するなら、「体験談」は「事実」100%。そりゃ説得力あるって。多少ムチャな話でも、実話だったら許される。「体験談」こそは最強の「事実」文なのだ。
↑の「あとがきにかえて」で体験談を推奨したのは、〈一般の人が知らないこと〉を書くため。言いかえれば、「おもしろい話」を書くため。
それだけじゃなかった。とりあえず「体験談」であれば、「何を根拠に……」とか「ありえない……」といったツッコミを受けなくて済む。どんなにバカげた話でも、「事実」なんだから。
o( ̄ー ̄;)ゞううむ
やはり「体験談」は最強。何かを主張したいことがあるなら、それを補強する「体験談」を持ち出せばいいんだ。
そんなに都合のいい「体験」はしていない? そのときはさぁ……(黒笑)。
「事実」と「意見」【3】2010年10月21日
テーマトピは下記。
【事実と意見(『J301』7課)】
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=57120385
トピのコメントを見ていると、トピ主ってたいへんなんだな、と思う。あれをコントロールするには、明確な方針と相当の根気強さが必要な気がする。イチバン多くコメントを入れている?人の意見が二転三転しているような気もして、当方はリタイヤ寸前(泣)。
それはさておき、「事実」と「意見」の考え方が人によって相当違うことがわかる。
「事実」と「意見」の区別って、文章を書くときでも文章を読むときでも、基本中の基本だと思っていた。こんなに意見が分かれていいのだろうか。
すんごい簡単な例をあげる。子供が作文を書いたとしよう。
1) ボクのお父さんは警察官です。
2) ボクもお父さんのような警察官になりたいと思います。
1)は事実で、2)は意見(「希望」でも「願望」でもいいけど、「事実」と「意見」に分けるなら間違いなく「意見」だろう)。1)がウソの場合は……とか意地悪を言ってはいけない。
これが下記ならどうなるか。
1)-2 ボクのお父さんは立派な警察官です。
2)-2 だからボクもお父さんのような立派な警察官になりたいと思います。
1)-2は「意見」。「立派」か否かは主観でしかないから、「意見」にしかならない。下記ならどうなるか。
1)-3 ボクのお父さんは3回も警視総監賞を受けた警察官です。
1)-4 ボクのお父さんは3回も警視総監賞を受けでいるので、立派な警察官なんだそうです。
1)-5 ボクのお父さんは3回も警視総監賞を受けた立派な警察官です。
1)-3は「事実」。
1)-4は「ウワサ」? 「一般論」? いずれにしても「事実」ではないから「意見」でしかない。書き手の「意見」ではないが、第三者(あるいは「世間」)の「意見」。推測の「そう」あってもなくても、しょせん「意見」。
1)-5のように、推測の「そう」を削除しても、断定調で書いても、やはり「意見」でしかない。
ただし、「3回も警視総監賞を受けたのは、過去に3人しかいない」とかいう情報が入ってくると、かなり微妙になる。そうなると、「事実」にしてもいいかな、って気がする。
トピの話に戻ろう。
【原文】
(1)一般的に、日本以外の多くの国では、お礼のことばは一回きりで済ます場合が多いようだ。
(2)ただ、ここで肝心なことは、彼らは決して恩を忘れているわけではないということである。
(3)それは、ひとたびこちらからお願いごとをすると、恐縮してしまうほど精一杯尽くしてくれることでもわかる。
〈「事実」と「意見」【1】〉で、【事実的な書き方】として、下記のように書いた。
(1)日本以外の国では、お礼のことばは一回きりで済ます場合がある。
(2)「お礼のことば」がたった一回だからといって、彼らが恩知らずなどとは言えない。
(3)逆にこちらからお願いごとをすると、こちらが恐縮してしまうほど精一杯尽くしてくれるからだ。
各文に含まれていた曖昧表現を、書きかえている。
(1)一般的→削除/多くの→削除/多い→ある/ようだ→削除
「一般的」にしても「多い」にしても、レベルはいろいろある。「何を根拠にそんな●●なことを……」ってこともあれば、「そりゃそうだろうね」ってこともある。ただ、「事実」であることや、説得力を考えるなら、このテの言葉は極力避けるべきだろう。
(2)肝心→削除
(3)わかる→削除
↑のような曖昧表現があると、文章は「事実」から遠くなる(印象が生まれる)からだ。
もうひとつ重要なポイントがある。
(2)の原文には「決して恩を忘れているわけではない」とある。これはムチャだろう。(3)に根拠があったとしても、そんなことは言えるわけがない。
たとえば、(2)を以下のような文にかえても、文章としてはおかしくない。だからと言って(2)'や(2)''が「事実」なんことはない。ちなみに(2)''の最後に「気がする」をつけても文章は成立する気がする。それでも「事実」なんだろうか。
o( ̄ー ̄;)ゞううむ
我ながら、強引なことを書いている(笑)。
(2)'諸外国では、他人に親切にするのは当然のことなのだ。
(2)''彼らの中には感謝の言葉などとは別に、ある意味腹黒いとまで言える独特の損得感覚がある。
何より気になるのは「決して」と強調の副詞までつけて「恩を忘れているわけではない」と断定している根拠は何なのかってこと。(3)が根拠だと言うのなら、↑に書いたように「当然のこと」と考えているのかもしれないし、「独特の損得感覚」に基づく行為かもしれない。
これが【事実的な書き方】にした「恩知らずなどとは言えない」なら、まだマシで、「事実」に近い(印象が生まれる)。トピのコメントでは「12」に近いかもしれない。ただ、これがホントに「事実」だと主張する自信はない。
トピのコメントを読んでいると、ほかにもよくわからなくなってくることがある。
●「前提」って「事実」なのだろうか
「前提」は、「事実」である場合も「事実」でない場合もある。
「~という前提」などと言う場合の「前提」は「仮説」に近くないか? 「前提」を「根拠」と言いかえても同じだろう。
「意見」を「主張」と言いかえることはできても、「事実」を「前提」に言いかえるのは無理な気がする。その「前提」なり「根拠」なりが「事実」か「意見」かを考えるのが先だろう。
「意見」はいくら積み上げても「意見」でしかない。その「意見」が説得力をもつか否かはまた別の話だけど。
もし「前提」が「事実」なら、「~は事実という前提で」ってのはどういうこと?
●日本人は意見を主張しないのか
日本人の悪いクセとして「一般に」言われること……自分の意見をハッキリ言わない。それはそうだと思う。
ただ、別の面も指摘される。自分の意見を、さも一般論のような形で言う。たとえば、「思う」と言うべきところを「一般に」「いわれる」などと言う。曖昧なだけではなく、一種の責任転嫁とさえ言える。
たとえば、トピに書いてあるコメントは「事実」と「意見」のどちらが多いか。書き方をどうするかは別として、おおかたは「意見」だよ。〈「事実」と「意見」【2】〉参照。たまーに〈「事実」に基づいた「意見」〉もあるけど。
たとえば、「自分はこう思う。だから~だろう」というのは〈「意見」に基づいた「意見」〉。「それは~ということだ。だから~だろう」と断定調で書いても同じこと。ちゃんとした根拠を示さなければ、単なる「意見」。その「意見」がもんのすごく説得力があっても、とりあえずは「意見」。それが「事実」か否かは、別の話だろう。
「辞書にこう書いてある。だから~だろう」というのは〈「事実」に基づいた「意見」〉。辞書に書いてあることがホントに事実か否かはまた別の話。基本的に辞書の記述は「事実」だが、まれにウソも書いてある。それでも、とりあえず「辞書にこう書いてある」こと自体は間違いなく「事実」。さらに言えば、「自分はこう思う」よりはずうーっと信用できる。
【追記】
●話し手(書き手)にとっての「事実」って……
トピのコメントのなかに、「話し手(書き手)にとっての事実」みたいな言い方が出てくる。
それって「事実」なんだろうか。
「話し手(書き手)にとっての事実」ってのは、一般に「主観」とか言われるものだろう。「主観」って、「事実」と「意見」のどちらに近いのだろう。
こうなってくると、何がなんだか……。