時々、“買わない理由”をチラシの裏に書いたりするんだけど、自分でもしっくりこないことが多々あるんだよな。
何度かアウトプットを試みても、どうにも御託ばかりになってしまう。
手がかりが欲しくて他人の“買わない理由”とかも見聞きするんだが、俺と同レベルのことしか語ってなくて共感の一歩手前くらいをなぞってる感じ。
で、最近ちょっと青天の霹靂だったのが、そういう“買わない理由”を揶揄してるコメントを見かけたこと。
そもそも「買わない理由そのものがナンセンスなんじゃないか」って視点があることに、そういえばそうだな~てなったというか。
生活必需品とか金欠だとかでもない限り、あるモノを買わない理由なんて、ぶっちゃけ大した理由なんてないんだよ。
「本当に買うつもりがないモノ」ってのは認識外に存在する(選択肢すらない)ものだから。
そういう感覚ってのは結局のところパーソナルだったりプライベートなもの由来だから、客観的だったり普遍的に述べようとすると、理屈は通っていても本質からどんどん遠ざかっていく。
「買う理由がない」と表現すること自体は可能だけど、本質的な部分で「買わない理由」を述べることってかなり難しい。
だから大抵の場合“買わない理由”は御託まみれになってしまう。
まあ、それでも他人に尋ねられたら、本質的な回答ではなくても御託を並べるしかない時はある。
けど、誰に聞かれたわけでもなく自ら“買わない理由”をつらつらと語る奴がいる(まあ俺なんだけど)。
考えるに、あれは“自分自身を納得させるための儀式”みたいなもんだと思ってる。
他人に尋ねられた際に“買わない理由”を述べるのは、その他人に納得してもらうためにやるわけだが。
ということは誰に言われるわけでもなく自らやる場合、納得させる対象は自分自身ってことになる。
前項でも書いたけど「本当に買うつもりがないモノ」は認識の外にあるから、買わない理由を述べる必要すらない。
でも、世の中には「認識内にあって、なおかつ買うつもりがないモノ」も勿論ある。
上手くいえないんだけど、そういうモノに対して「それを買わない自分自身を納得させてやりたい」ってなる時があるんだよな。
ネットに限った話でもないけど、世の中には嘘か本当か分からない話が跋扈してるわけだけど。
そういう話に一丁噛みするとき、俺がよく使うフレーズが「もし本当なら~」とか「おかしいと思ってたんだよね~」だった。
なんでかっていうと、これって“半端なリテラシー仕草”なんじゃないかと思ったからだ。
それを言語化できるようになったのは最近で、きっかけは『チャンスの時間』って番組だった。
その番組の企画で、芸人たちがギャンブルで持論を展開していくのをドキュメンタリー風にやるってのがあって。
バッテリィズのエースだっけか、そいつが数回目のレースで消極的な賭けをしたわけ。
で、レースには負けたんだけど、その際に「あんまり賭けなかったから実質的には勝ち」みたいな言い訳してて。
つまり「一応は賭けたけど、“負けそう”という予感が当たっていたという意味では自分は正しかった」という主張なわけ。
番組内でもネタ扱いされていたけど、実際これって大した理屈じゃないよな。
少額とはいえど負けて損はしているわけで。
あの場面でのマストはもちろん“的中させる”ことで、次点で“そもそも賭けない”ことだろう。
消極的な選択を“不幸中の幸い”と解釈するならまだしも、それを“勝ったも同然”と主張するのは無理がある。
そして勝ったとしても消極的な選択が功を奏しただけに過ぎず、少額ベットだから儲けも少ないので情けない立ち回りなのは変わらない。
何が言いたいかっていうと、「もし本当なら~」とか、「おかしいと思ってたんだよね~」みたいなのはこれに近いスタンスなんじゃないかな~と。
嘘か本当か分からない話だけど“一応は賭けてみた”という状態。
「半信半疑なんですよ、だから自分にはリテラシーがあるんですよ」っていうアピール。
それで本当だったら「一応は賭けていた自分が正しい」となるし、嘘だったら「鵜呑みにはしていなかった自分が正しい」となる。
特に「おかしいと思ってたんだよね~」的なムーヴが一番ダサいというか、半信半疑の“半疑”の方が当たっただけじゃんっていう。
両方賭けて片方が当たっただけのことを「俺って冴えてる~」みたいにいってることを自覚してしまった。
前回、九九の一の段が微ストレスって話をしたけど、声を大にしてまで言いたいことではない。
まあチラシの裏ってカテゴリつけて書いたわけだし、“微ストレス”って表現したわけだし。
微ストレス要素って、それをやるときにちょっと引っ掛かりは覚えるんだけど、その“引っ掛かり”を言語化するほどではないんだよな。
もし言語化したとしても声を大にするほどではないから広まらないし、作り手も深刻に考えず放置し続ける。
怒りとか不平不満って、それが言語化されたり周りで見聞きすることで熟成されやすいけど、微ストレス要素ってその域に達しない。
最近ちょっと微ストレスを感じたのが「爽」っていうアイスクリーム。
最近は暖かくなってきたのもあって、ちょっと清涼感のあるアイスに切り替えようと久々に「爽」と向き合ってみた。
で、改めて感じたのは、あいつカップの形状が四角いからちょっと食べにくいんだよな。
丸みのあるスプーンで食うんだから、カップも丸いほうがいいに決まってるのに「爽」は四角い。
じゃあ、なんで四角いのか気になって調べてみたんだけど、そっちのほうが目立つかららしい。
食う側の体験を多少損ねても、商業上そもそも手に取ってもらわなきゃ話にならんのだから、それをくだらん理由とはいわないけども。
ブランドとして認知されてる今の現状ならさすがに変えても良くないか、とも思ってしまう。
更に言うと、あれ手前の縁あたりに僅かな返しができてて、そこで引っ掛かるんだよ。
ユーザビリティの観点でみれば、「爽」のカップは明らかに課題が残ったまま放置されてると思う。
でも、そういうものも所詮は微ストレス要素でしかないから言語化すらされず、されても声が大きくないから見過ごされるんだよな。
よくよく考えてみると、九九の一の段って気持ち悪いのかもな。
初っ端から「いんいちがいち」だもんな。
もし「九九の中で一番イヤなの決めようぜ」ってなったら上位にいきそうではある。
あと、実質1ずつ増えていくだけだし、掛け算を覚えていくうえでほぼ役立たずなんだよな。
とはいえ「いらない」かっていうと勿論そんなことはないんだけど
掛け算を覚えるために1桁の自然数同士で順番にやっていこうって趣旨だし、「1は簡単すぎてやる意味ないから飛ばそうぜ」とはいかないってのも分かる。
でも、やってて虚しくなりやすいから、もし飛ばしていいんだったら飛ばすだろうけど。
リトライ性の高いゲームをやるときに、セーブポイントから所定のステージまで移動する時の感覚になるというか。
あれこれ必要性だの風情だのを語りつつも、もしショートカットとかスキップ機能あるならお前ら躊躇なく使うんだろっていう微ストレス要素。
どんな名作でも、どれだけ賞賛されていようとも、否定的な意見というものは存在する。
つまり大局的に見れば、世にある作品は全て賛否両論ある、といえる。
でも、そういった名作ないし駄作といわれるものの評価傾向を語るときに賛否両論とはいわない。
だから、ある程度の賞賛と批判が入り混じっている状態ってのは当然みんな感覚的に分かってはいるけど。
じゃあ、どれくらいかっていうと決まってないし、決まってたとして把握できるかっていう問題もあるし。
一応、参考としてsteamの場合、好評率が40%〜69%で賛否両論らしい。
自分の肌感とも近いし、おおよそ半分くらいの賛否ってことだから、大半の人にとってそれくらいだろうとは思うんだけど。
これも、あくまでsteam内でのレビューに限った話で厳密性はない。
そういえば友達が「賛否両論っていうとき、大抵は“否”のほうが多いよね」って言ってたのを思い出す。
自分としては、そうとは言い切れないとも思うんだけど。
まあ、少なくとも「“否”側に無視できないパワーがある状態」とはいえると思う。
さっきのsteam基準でいえば、69%好評でも賛否両論判定なわけだけど、それだけあったら好評扱いでもいいじゃんとも思うわけ。
でも「3割近く、その作品に否定的な人がいる」って、割と無視できない割合だとも思うんだよね。
こういうとき、自分がよく思い出すのが『鈴木先生』の酢豚の話で。
給食の酢豚を存続させるかどうかで、「好き」、「食べられる」、「食べられない」の三択で生徒にアンケートとるって展開になるんだけど。
「好き」と「食べられる」の数が圧倒的で、「食べられない」と答えたのは1クラスにつき数名ほど。
だけど一人の先生が「これって本当に少ないんですか」って言いだすわけ。
育ち盛りの生徒が、給食メインのおかずである酢豚を食べないで午後の授業を受けることになる、それが1クラスに数名いる。
それを取るに足らないと認識していいのかと。
他の先生も「無理して食べさせるよう教育するくらいなら、もっと人気のおかずに替えたほうがよくね」とか言い出す。
結局は酢豚がなくなって、当時読んだときは、ああ多数決ってわけにはいかないんだな、“否”より多ければいいってわけでもないんだなって。
そういえば「玉石混交」っていうのも、どれくらいの割合なんだろうか。
賛否両論と同じくらいの割合でいいんじゃねと思いつつ、感覚的には石めっちゃあるとも思う。
玉の輝きが目立つだけで、石の方ががめっちゃくっちゃあるって印象。
国民は税金払ってるけど、国家はあまり国民を守ってるそぶり見せないよね。たとえば、イラクだっけ?ボランティアが誘拐されたとき、なぜかボランティアが非難されたよね。「自己責任」とか言ってさ。日本政府は特に何かをしたわけでもなく、ちょっと飛行機をチャーターしただけだし。はっきり言って日本は日本人守ってないよ。守る気も無いみたいだけど。
増田におけるその憎悪の対象が犯罪者とか、ニートとか主婦とか女性だったりするところを見ると、ここも所詮働き盛りの男社会であることを実感させられる。「Mixiって女性社会だったんだね。」なんて話題もその典型で、ネット上の世論は全て一部の男性社会によって形成されている現状が見え隠れしている。これでは昔どこぞの英国人が「新大陸発見したどー」と騒いでいるのと同レベルだ。そこにはすでに人が住んでいたにも関わらず、学校で教えるアメリカの歴史はそこから始まるという、社会が抱えるいびつさがある。
憲法は国を縛るためのものなのに、いつのまにか国民の行動規範を説明するのに使われる不思議。「法律違反じゃなかったら何をしてもいいの?」とか聞いたことない?労働や倫理やマナーを語るのに憲法持ち出してきた時点で何かずれてるんだよ。
自分のアイデンティティ確保の手段が他人への攻撃でしかないのか、とか言いながら他人を攻撃している自分に陶酔する。
今の年金システムって自転車操業だとは思わないの?金が無いから、今の世代の分をまわすなんて、人類最後の世代は年金かけても、老後には年金もらえませんって公言してるようなもんじゃないか。大体、最初にかけた人の金はどこに消えたんだよ。
・ある趣味で、もう一段上のレベルにいこうと思い書籍やらを揃え「よし、今週中にこれを読んでマスターするぞ」とか思うと好きな趣味なのに何故か微妙に嫌になる。枕もとにその書籍を置いておいてもつい漫画に流れたりしてしまう
・「今しかないんだから」とかいわれると発奮するどころか「今しかないのに、失敗したら、どうしよう。どうなってしまうんだろう」と怖くなって結局最初から自分でその今を潰してしまったりする
「今しかないんだから」とかそういう事いわれるとホント全然できなくなる。逆に「いいよ別に、いくらでもできるし」なんて言われると、割と成功する。典型的プレッシャーに弱いタイプという事か?それにしても俺の場合かなりそれが顕著で情けない限り。しかし、「今しかないんだから」とかそういうプレッシャーをかける人間がずっと存在するってことは、やはりその言葉で「よーし!がんばるぞ!」と発奮できる人間が居るって事なんだろうか?俺には信じられないことなのだが。プレッシャーをバネにするとかもう意味すら理解できないからねこれ。大体自分から気合を入れてもあんまりうまくいかなかったりするし。「まあいいや、どうでも」とか「やっつけ仕事だ」とかいうときがなんだかんだ一番いい気がすんだよね。何だろねこれ。
なるべく気負わない(実行できなくても気負わないようにと意識するだけでも変わる)
敢えて気負わない為に最初は適当に始める
後の事は考えない
プレッシャーに最初から逃げるんじゃなく一度プレッシャーの中に身を置いて我慢した上で「後の事は考えない」スキルと上手く調整してプレッシャーを締め切り効果として使う
完璧主義にならない
とにかく「とりあえず一通り」「締め切りまでに一応完成(完璧でなくても)」という感じの心構えでいく
完璧にしたいなら↑これをクリアしたあとにやればいいと念頭に置く事で完璧主義をなくす
適当すぎるとか一応完成なんかじゃ質が悪くなるのでは→と思うが、基本的にそもそも完璧主義的な性格なのでおそらく「自分の感覚で適当すぎる」ほどにやってちょうどいいくらいになるだろうと思われるので気にしない