勇気の出る名言集

過去に読んだ本で勇気を与えられた言葉のアンソロジーです。

2019年07月

「ロック、バークリ、ヒューム」 見えるもの、見ているもの
  • <家や山や川や、一言でいえばあらゆる可感的事物が、知性によって知覚されるのとは別個に自然的ないし真実の存在を有する、という説は、人々のあいだに奇妙に流布している説である。しかしながら、こうした原理がいかに多くの信憑と黙諾とをもって世間で迎えられようと、これを胸中で問題にするものがあれば、私に間違いのないかぎり、その人は、この原理が明々白々たる矛盾を含むことを看取できよう。なぜなら上述の事物は、私たちが感官によって知覚する事物ではなくてなんてあるか。そして、私たち自身の観念ないし感覚のほかに何を私たちは知覚するか。また、これら観念のどれかが、或いはそのなんらかの組合せが、知覚されずに存在するとは、誰にもわかるように背理ではないか。>(バークリ『人知原理論』)
  • 見えているから、それは在るのだ。これは大常識である。誰もが同意するように、バークリも力強く同意する。それは君たちが見ているそのままの姿でそこに確かに存在している。ただし、君たちの他に、ではない、君たちの心の中に、だ。この明々白々たる事実に気づくまで、君自身の思考を冷静に観察してみたまえ、と。痛快なのは、当然予想される浅薄な反論を見越して応酬する彼の文章、それは、ほれぼれするほど鮮やかなものだ。諧謔もある。哲学の文章はかくありたいと思う、もう一方の典型だ。
    <しかし、観念を飲食したり観念を着たりすると言うのは甚だ耳障りに響く、かように諸君はおっしゃる。私はそうだと承認する。けだし、観念という言葉は日常の談論では、事実を呼ばれる可感的性質の種々の組合せを標示しないのであり、かつ確かに、言葉の馴染んだ使い方と変わった表現は耳障り滑稽に響くであろう。とはいえ、これは本書の命題の真理性にはかかわりない。その命題は、他の言葉でいえば、私たちが感官によって直接に知覚するものを食べかつ着ると言うのに他ならないのである。いったい、硬軟・色彩・味・温暖・形状などの性質は一つに組み合わされて、さまざまな食料や衣料を組成するが、そうした性質は、すでに明示されてあるように、これを知覚する心のうちにのみ存在する。そして、このことが、それらの性質を観念と呼ぶ意味の全部である。この観念という言葉は、仮にもし事物という言葉と同じほど日常に使用されていたとすれば、後者と同様に耳障りにも滑稽にも響かなかったであろう。今私は、表現の適性を論議しているのでなく、表現の真理性を議論しているのである。それゆえ、もし諸君が私に同意して、私たちは感官の直接対象を、すなわち、知覚されずには、換言すれば心の外には、存在できない感官の直接対象を、飲食し纏うのであると認めるなら、私は、そうした感官の直接対象を観念と呼ぶより事物と呼ぶ方が習慣にいっそう適合すると即座に許そう。>
  • <しかしながら、きわめて精妙な形而上学的反省がわれわれにはほとんど、あるいは少しも影響しないとは、なんということを、いま、言うてしまったことか。私の今の感じと経験からこうした考えを見直し、異を唱えざるを得ないほどである。人間の理性に見られるこれらさまざまな矛盾と不完全さとを強烈に見せつけられて動揺を与えられ、頭は熱して、私は今にも全ての信念と推論を斥けてしまいそうであり、どんな意見を見ても他の意見よりいくらかもっともらしいとか、よさそうだとか思うこともできないでいる。私はどこにいるのか、何なのか。私はいかなる原因から私の存在を得て、いかなる状態へ帰るのだろうか。私は誰の好意を求めようとするのか。そして私は誰に何か影響を与え、誰が私に何か影響を与えているのか。(中略)
     全て何かを推論し、信じるものは確かに愚かであるが、もし、私も同じように愚かでなければならないのなら、せめて私の愚かさを自然で快適なものにしたい。私かこの自分の傾きに強く逆らう場合があれば、その抵抗にはもっともな理由があるはずである。もはや、私がこれまでに出会ったような恐ろしい孤独、荒涼とした道に迷いたくない。これらが私の落胆と気ままさの気持ちである。実際、哲学はこうした気持ちに打ち勝つだけのものは何も持たず、哲学が勝利を期待できるのは、理性や説得の力よりも、まじめで、さっぱりした構えが立ち戻ることからである、と認めざるを得ない>
     こんなに率直かつ救われない哲学的告白を私は他に読んだことがない。煎じ詰めれば彼は、誰のどんな哲学説だろうが、それどころか自分自身が考えていることさえ自分には信じられない!と悲鳴を上げているのだ。何だってこんなことになっているのか、それこそ私の知ったことではないが、いったん始まってしまった根源的懐疑というものは必ずや、行きつくところまで行かずにはすまないのだ。自分の立っている足元まで自分の足すくってしまって、そこに宙吊りになったまま、あとは死ぬまで生きるだけ、せめて、その愚かさを自分で快適なものにしようと努めながら。
  • ヒュームが破壊したもの三つ、「物質」と「自我」と「因果関係」、こう聞いただけでも、それじゃああとにはいったい何か残っていると言えるのか、と叫び上げたくなるではないか。彼が「物質」を斥けるのは、心が確かに経験するのは常に何がしかの知覚でしかないから、それら以外に実体的な何かを想定する必要はない、というバークリと同じ理由による。彼がバークリを越えてゆこうとするのは、その「心」なるものも、よくよく観察してみると、何がしかの感情や快苦といったものでしかないから、特別絶対の何かなどではない、「自我」などという実体も不要な虚妄だと言い放つことによってだ。ここにあの有名な「自我とは継起する知覚の束である」の文句が来る。
     そう言われればそういうものにもなり得てしまう可塑性こそが、この「自我」なるものの厄介なところで、ヒュームの見解もひとつの意見だ。にしても、束が束としてあり得るのなら、それを束ねる何かが必ず要るはずで、そうでなければ先の引用で悲鳴を上げているのはいったい誰なのか、という問いが残る。自我についての彼の結論は、そこに至るまでの諸推理ほどには面白くない。何と言っても面白いのが、合理論においてはその必要性を疑われることの決してなかった因果関係を疑い、検査してゆくその過程だ。
  • 私は、自分の頭蓋を叩き割って覗き込んでみたいと鋭く衝動する、しかし、そこにはきっと、自分の頭蓋を叩き割って覗き込んでいる自分の姿が見えるだけのはずなのだ。どうあれ、いったん疑い始めるや、ああ、事態はこんなふうになるしかないのだ。追い詰めて追い詰められたヒュームもそこに居直って、常識的に生きてやる!と宣言している。
    <私は自然の流れに身を委ねて、感覚機能にも知性にも従順であってよいのである。というより、そうでなければならないのである。しかも、私か懐疑的な態勢と原理とを最も完全に示すのは、この盲目的な従順においてなのである。>
  • 科学的認識は最終的には蓋然的であり、客観性とは公共性の別称であるとは、今日の科学者たちの間ではもう了解済みであるらしい。しかし彼らにおいては、それら経験的なものの不確かさが、そのまま「自分が居る」ということの不確かさであるというふうには、必ずしも、直結しない。常識を「常識!」と、極度に意識しつつ一瞬一瞬を生きつないでいるという非常識、こういう人々を私たちは、科学者とは別に、「哲学者」と呼んでいる。めそめそ悩めるような余裕さえ、ないのだ。

「スピノザ、ライプニッツ」  整然たる宇宙、乱反射する宇宙
  • 人間という存在は、観念からみれば精神、ものからみれば身体である、と彼(スピノザ)は言っているのだ。
  • cogitoを完遂するとegoは消失する、そのときそれは神のcogitoに成り変わっている、したがって宇宙とは神の自己思惟の所産である。この過程をつづめて言えば「我即自然」、ただし、これは私の直感である。そして、その「我」は、あの「我」でも、どの「我」でもいいのではなくて、スピノザが絶対に認めなかったまぎれもない他でもないこの「我」でなければならないのだが、・・・。
  • 人は普通、大事な自分の人生に降りかかった災厄が、「永遠の相の下に」決定されている宿命だ、宇宙的規模では帳尻が合っているのだ、とはなかなか認めたくないのである。しかし私には、こういう視点をとらないことの方が、ずっと困難なことのように思われる、心情的にではなく論理的にだ。暗い気持ちになる前に冷静に読んでみましょう、スピノザは、「諦めろ」と言っているのではなく、「ただそのことだ」と言っているのだ。ちっぽけなegoも、様々な出来事も、それだけではあり得ないものであるということに気づいたなら、いったい私たちは何に執着して、何について嘆くことができるというのだろう。嘆くべきではないと言っているのではない、嘆くことはできない、と言っているのだ。
  • <われわれの意識する想念(パンセ)が、たとえどんなに微小でも、そこには対象のもつ多様性がつつみこまれている。そのことに気づいたとき、われわれは単一な実体であるはずの自分自身のなかに、多の存在を確認するのである。とすると、魂が、単一な実体であることを認めるかぎり、だれしもモナド(一般)のなかにこのような多があることを、認めないわけにはゆかない。>
  • 在るものとは、それ以外の一切のものによってそのものであるとか、在るものとは、そのもの以外の何ものでもないとかは、ちょっと反省してみれば誰しもすぐ気がつくはずの世界の事実であるのに、形而上学的感受性のごそっと欠落した現代人には、これが全然、わからない。
  • この宇宙には、私以外の魂と、こうでしかあり得なかった人類の歴史とが確かに存在する、私もそう言い切ってしまいたい、しかし、どうしても最後のところで私にはそれが言えない。「私」は、永遠にひとつきりで宇宙を映している唯一のモナドである。それでも人類というそれぞれ唯一のモナドたちの全集合は、ひとつの同じ歴史の夢を一緒に見ていると言いたい、しかしそう思っているものも、私=モナドひとつきりの夢だと言える余地は、絶対に残る。なぜなら、私を私と言えるのは、この宇宙で私だけだからだ。私は知らない、何ひとつ断言できない。史上に現われた全哲学説は、その哲学者=モナドが、なぜだか生来のその気質にしたがってみているこの不可解な宇宙についての彼ひとりの夢である。

「ウィトゲンシュタイン」  考えるな、見よ
  • ウィトゲンシュタインに後続する科学(哲学)者たちは、この一節を、見事に逆の側から読んだ。すなわち、答えられないような問いは、問いとして消滅してしまったのだ、と。いや、まさしくその通りなのだ。答えがないとわかりきっているものを、いつまでもイジイジと問うている必要なんか、ちっともないのだ。しかし、そのとき、ひとつきり問題が残る。にもかかわらずなお「我々の生」がここにあるというこのことだ。君は、このことに驚きを覚えないのか。この自明さにおいて他に驚くべき何かあるというのか。
    <神秘的なのは世界がいかにあるかではなく世界があるということなのである。>
「デカルト」  疑うことを、信じられるか
  • 前例をみない徹底的な「我思う(コギト)」が、近代世界の礎になったと人は言う。しかし、私は言いたい、そしてまた、それは言われるべき時期に来ているとも思う。彼のcogitoの不徹底こそが逆に、今日の自然科学の華々しい成功と、人間主義(ヒューマニズム)の諸価値体系を導き得たのだと。考えてみよう、各々の瞬間が常に始まりであるような、デカルトのあの若々しい方法にも私はまた倣って、さらに疑い抜いてみよう。
    <いまや私はただただ真理の探求にのみとりかかろうと望んでいるのであるから…ほんのわずかの疑いでもかけうるものはすべて、絶対に偽なるものとして投げすて、そうしたうえで、まったく疑いえぬ何ものかが、私の信念のうちに残らぬかどうか、を見ることにすべきである>(『方法序説』)
  • しかし、思っているものは私に決まっているじゃないか、こう思わせてしまうのが、「私」という言葉が、精神である限りの人間を欺き続けている最大の陥穿なのだ。デカルトほど周到な人にしてさえ、それに躓いて、しかも躓いたことに気づかなかったと私は確信する。彼は『序説』で、全てを疑い尽くしても疑っているその「思い」だけは存在するという事実に気づいて、「私は考える、ゆえに私は在る」を哲学の第一原理と認め、そのあと、では「私とは何であるか」の吟味に取りかかって、こう結論している。
    <すなわち、私は一つの実体であって、その本質あるいは本性はただ、考えるということ以外の何ものでもなく、存在するためにはなんらの場所をも要せず、いかなる物質的なものにも依存しない、ということ。したがって、この「私」というもの、すなわち、私をして私たらしめるところの「精神」は、物体から全然分かたれているものであり、さらにまた、精神は物体よりも認識しやすいものであり、たとえ物体が存在せぬとしても、精神は、それがあるところのものであることをやめないであろう、ということ。>
  • 「思っているものが在る」、それはこんなにも悩ましく生々しい哲学の第一原理だ。しかし、それに「私」の語を与えてはならない。それを「私」と呼んではならない。そのとき思考の思想への硬直化が始まる。無言のideeを堅持せよ、無音のideeで前進せよ。「私」は、どのように巧妙な言語化からも永遠に逃れ去る或るもの、疑っても疑っても疑い尽くせないものがある、それは今こうして考えているまさにそのことだ!と、デカルトが声無く直知したその刹那、人類の哲学の問いと答えは、そこで果てていたのだ。「私」が「私」を言語によらずに追い詰めてゆく過程を、言語によって表現してみると以下のようになる。
    我在る、ゆえに我在り→我在り→在り!→!→?→??
     デカルトはcogitoを「明証」と感じて決して「不思議」とは感じなかった、彼のこの、その意味では潔い気性こそが、もう一方の実体すなわち物質に相対し、それらを解明、支配してみせようという高らかな意志となり得たのだ。
  • デカルトの二元論の「矛盾」と、学者たちは口を揃える。しかし、精神と身体は別物であるにもかかわらず両者は結合しているという事実の、いったいどこが矛盾だというのか。矛盾であるのは、不可分の精神が不可分な肉体に閉じこめられ得ると考えていることの方で、それらが結合しているという不思議は、ただ認識されるべき事実としてあるだけだ。人間が思想を所有するということの不思議は、ただ認識されるべき事実としてあるだけだ。人間が思想を所有するということについての、決定的な無知がある。・・。「精神全体が身体全体と合一しているように思われる」健全なデカルトが、なぜ「動物機械」という逆説を、一方で所有することができたのかということだ。見るがいい、デカルトは、心身問題について、ちっとも悩んでなどいないのだ!
  • 思想とは矛盾を解決するための「説明」だと思っている学者たちには、『情念論』のあの特異な位置は理解されていないだろう。デカルトはその30節において、
    <精神は身体のあらゆる部分をひっくるめた全体に合一していること>を述べたあと、31節でこう述べる。
    <脳のうちには一つの小さな腺があり、精神は他の部分よりも特にこの腺において、みずからの機能をはたらかせること>
  • 精神と物質は別物であり、また、脳を持たずに考えた経験が私には未だないのであれば、私は自分が脳によって考えているとは言えない、むしろ言う必要がない。もしも、これら唯心論を唯物的に語ろうとするなら、それは唯脳論になるはずだ。神秘主義者プロティノスの、そのあたりの説明の仕方はさすがに大らかで、精神は身体のどこに在るということはない、それは光が空気をのあらゆる部分に臨在ししかも空気と混合することはない、空気が光の外へ出たとき光の一かけらももつことはできないが、光の内へ入れば全部が隈なく照射される、というふうに詩的に語っている。
  • 書斎の懐疑か街頭の懐疑かは、どちらでもいいのであって、どちらであるにせよ、君の懐疑がどれはどのものであるかは、君の生き方そっくりそのままなんだよ、としう恐いことをデカルトは言っているのである。

「神秘主義」  わたしが神だ
  • ゴルフをしたことのない人にゴルフの楽しさを説くことの徒労、に類することは誰も認めるだろうに、こと思想となると人は、自分に実感できないものは誤っているか不要であると断じたがる。もしも、体験というものが本来的に公共性を欠くということをその根拠として挙げるのなら、誰もが生きているというこのことは、この世で最も公共的な体験ではないか、と神秘主義なら答えるだろう。神秘主義の言葉が限りなく体験に近いのはこのためだ。それが扱うのは、理屈ではなくて、生なのだ。言葉自体が、現在する生なのだ。鍵穴に鍵がうまく嵌まりさえすれば、それは生きている誰をも拒まない。鍵とは何か、自分が居るということを「不思議」と感じるその気持ちだ。その気持ちのないところには、神秘主義の言葉は決して開かれない。「自分が居る」ということを、社会と物質との加減乗除の解以上には疑わない人だけを、神秘主義は拒むのだろう。
  • <観られなければならない当のものは、自分以外のいっさいのものから自分自身を引き払って、どこかほかのところに存在するというのではないからである。むしろこれに触れることのできる者のためには、それは現にそこにあるというかたちで存在しているのであるが、しかしそのような接触の能力をもたない者に対しては現存しないのである。>(プロティノス『エネアデス』)
     これではミもフタもないではないかと人は言うだろう。ところがその同じ彼が、こうも言う。
    <われわれがここに説いていることは別に新しいことではないのであって、今ならぬ昔においてすでに言われたことなのである。ただそれはすっかり明けひろげては言われなかったので、今ここに説かれている思想のようなものが昔からあったということに関しては、プラトンその人の書物が証拠となって、われわれの説くところに保証を与えてくれるのである。>
  • たとえば思い出してほしい、誰も皆、子供の頃に教わって、疑いなどしなかったはずだ。お金よりも心が大事だとか、幸福はお金で買えるものではないとか、肉体は儚いが心はずっと変わらないものだとか。陳腐にすぎることには必ずや根拠がある。歴史が絶えずそれを、より堅固なものへと鍛え上げているのだ。
     倫理的な資質をもつということと、性善説を疑わないということとは同じであるに違いない。人間は皆、性悪でどうしようもないと思っている魂が、あんなにも遠く高く行けるはずがない。プロティノスの壮麗な宇宙生成論、しかしそれは夢物語ではない、もしくは純正なる夢物語である。知性に透視され、透明になった自分(の魂)とは、実は、あの一者であるか、あるいは無限にそれに近似する。この事実に気づくためには、特別な修業や瞑想術、すなわちあれら抹香くさい行為は全然必要ないと私は思っていたのだが、プロティノスも論理によってそれを掴む方法を挙げていた。
    <ところで、魂には正や美について推理する部分があって、これは正しいかどうか、あれは美しいかどうかということの、答えを求めて推理が行なわれたのだとすると、何かまた確固不動の正なるものが存在していて、そこからちょうどまたこの推理が魂の領界内に生ずるのでなければならないことになる。そうでなければ、どうして推理できるであろうか。そしてまた時によって魂はそれらについて推論することもあり、推理しないこともあるとするならば、そういうふうに推理するのではなくて、いつも正を把持している知性というものが、われわれのうちになければならないことになるし、また知性の根源とも原因ともなるもの、すなわち神もまた、なければならないことになる。>
  • <それ故に私は、神が私を神から脱却せしめ給うように神に願う。なぜならば、私の本質的な存在は、われわれが被造物の原因として把えるような神を超えているからである。存在を超え一切の区別を超えているところの神のその存在のうちに私自身在ったのである。そこで私は私自身を欲し、私自身を認識し、私であるこの人間を作った。それ故に、私の時間的な生成ではなく私の永遠なる存在からすれば、私が私自身の原因なのである。・・・私の誕生において万物が生まれたのであり、私は私自身と万物との原因であった。もし私が存在しなかったならば、「神」も存在しなかったであろう。神が「神」である原因は私なのである。もし私が無かったならば、神は「神」でなかったであろう。こういうことを知らなければならないというわけではないが。>(マイスター・エックハルト「説教」)
  • 気負って言うこともない、「私が居る」ということは、それほど不思議なことなのだ。心理学や社会学、脳生理学が大真面目に取り組んでいる「自我」なんてものは、こういう言語道断な自我に比べれば、こすれば落ちる表皮の垢みたいなもので、生活上の便宜としてだけ頭の隅においておけばいい。妄想だと思うなら、「私とは何か」という問いを、経験やら肉体やら生活環境その他一切ぬきで、純粋に知性の力だけで、どこまでも推進していってみよ。神の問題を避けて通れると思うなら、それはまだまだ足りない証拠。神でおしまいにするか、しないか、抛げてしまうかはその人の気質。エックハルトは西洋では珍しく、神で留まることを肯じなかった人だ。信仰さえ踏み越えて立ち上がる渇える知性のその孤独は、凄まじいほどだ。こんなところまで行ってしまって、いったい彼は、あとどうするつもりだろう。
    <私が神から流出した時、万物は「神在り」と語った。このことはしかし私を浄福ならしめることは出来ない。なぜなら、その場合私は私を被造物として認識するからである。しかし突破において私は、私自身の意志、神の意志及び神のあらゆる働き、神自身、その一切から脱却する。突破において私はすべての被造物を越えており、私は神でも無く被造物でも無い。むしろ私は、私があったところのもの、今それであるところのもの、これからいつまでもそれであるだろうところのもので現にある。(中略)
     この説教が理解できない人は、そのことで心を悩まさないでほしい。なぜならば、人がこの真理と等しくなっていない間は、その人はこの説教を理解し得ないであろうから。なぜならば、それは神の心から一切の媒介なしに直接現われ来った一つの、覆いなく露な真理であるから。
     このことを永遠に経験するという仕方でわれわれが生きることができるように、神がわれわれを援け給わんことを。アーメン>(マイスター・エックハルト「説教」)

「ニーチェ、ベルクソン」 神を殺したわたくしの死
  • 赤い花を赤い花と思うな、何かを何かであると思うな、主語と述語を固定したとき無限の可能性が失われる、しかし全ての自覚的な表現者と自覚的な生活者は皆、脂汗の滲むような行き止まりのその認識に耐えているのだ。耐えてそこから還ってきているのだ。「AはBである」という形式を信じるために、神やイデアを連れてくるのも方策なのだ。そうとでもしなければこの世の誰が、思考すること、語ること、自分が居るというこのことに、平然としてなどいられるものか。認識の行ったきり、その人はニーチェでなくとも、どこかの病院の一室で、ひたすら絶句しているのだろう。
    「善悪」の問題ではない、還らなければならない理由が見つからないというこのことが、まさに彼らが彼岸から還ってきていない理由なのだ。
  • 無いものは考えられない、在るものしか考えられない、しかしその在るもの、この思考形式でしか考えられないのだから、考えられた途端にそれはウソになる、こういう当たり前のことを大発見のように騒いでいるから、気のひとつも変になるのだ。少なくとも一神教の伝統をもたない国では、彼が行ってしまった向こう側のような意識の在り方は、そう珍しいものではないのだが、彼はたったひとりの生涯でもってプラトン以降二千年の論理(ロゴス)をひっくり返してしまった、と、自分で思った。
  • ギリシア人は「在る」とは何かと考えた。中世、「在る」は神と同じになった。デカルトが、「神」のこちら側に「自分」が在ることに気がついた。そして、ニーチェは「神」を殺して「自分」が神になった、なろうとした。確かになったのだろう、じじつ還って来なかったのだから。「神」とは、認識すなわち行為するための仮留めの釘に他ならないのであって、釘がはずれてタガがバラけてしまえば、私たちは何ひとつ、認識できない。より正確には、神である自分には敢えて認識する「必要」が、もうないのである、もちろん、そんな自分が「在る」ことの理由も見事に霧散する。近代的自意識なるものを徹底すると、人生は再び自然現象に似てくると私が言ったのはその意味だ。それでも、ふいと、「在る」ことを持て余すようなときには、何でもよい、その都度自分で価値をでっち上げながら、世界は最初からそのようであるか、そのようであるべきであるかのように振る舞ってみるがよい、そうすれば世界はそのようであるだろう、ニーチェが「力への意志」と言っていたのは、そのことに他ならない。道徳の神は死んだが、「在る」の神は決して死なない。すなわちそれは、「在る」の神なく生きている自分である。
「キリスト教哲学」  知らんがためにわれ信ず
  • 信仰心の昂じるところ、人は、罪のないところにも無理矢理罪を見つけ出そうとするようになるから、それは、卑屈さ、ずるさと時に表裏なのだ。じじつ、こんなにも熱く神に罪を告白しているアウグスチヌス、しかし、実はそこには神は、ない、としたら、神はいったいどうやって自分と想いを処するつもりか。神は裁くものだという観念自体が、人間の救いなのだ。神は裁きも罰しもしないという想定に、人はよく耐えられない。
  • 音声以前の言葉とは何か。それは、言葉の「意味」である。万物の存在、それは名付けである。「光」と言って、光は、在った。「光」と言えば、光に染まるこころ。私たちが、言葉の機微にふれて感応することができる存在である限り、創造の業は、この今をも貫く永遠であると言えるのだ。むろん、アウグスチヌスが、こんなふうにそれを言ったわけではない。彼は、「ヨハネ福音書」冒頭の、あのすばらしい行文。「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった」を、ギリシヤ人がそうしたように素直に「言(ロゴス)」と読むことは、もはやできなかった。彼にとって「ことば」は「御言」、肉身キリストによって伝えられるべき教えと決まっていたからだ。にもかかわらず、うそをつききれない誠実なアウグスチヌスは、前の音声についての考察のあとで、ちらっとこぼしている。<では、主なるわが神よ。それはいったいなぜでしょうか。ある程度、私にもわかります。けれどもどうしてそうなのか、はっきり説明することができません>
  • つまるところ、『神学大全』は、壮大な辻棲合わせの書と言っていい。合理であろうと不合理であろうと、信じる人は信じるのだから、信仰に論証など、あっても同じ、なくてもいいのである。(じじつトマス(・アクィナス)自身、グレゴリウスの言葉を引いて、のっけから厚かましくも宣言しているのだ。「人間理性によって検証されうることならば、わざわざ信仰するに値しない」と!)
     ならば彼は、「神の存在証明」とは、「存在の存在証明」に等しい無意味のはずなのだが、仔細に読んでみると、神が証明したかった神の「存在」とは、人間知性のうちで捉えられる概念的存在のそれではなくて、人間知性の外に実在する神、その「存在」であるらしい。考えられたり考えられなかったりする概念的存在の神よりも、そんなことにかかわりなく存在する実在的存在の神の方が、「神」なしと言う者に対して協力であると考えたのだろう。
     しかし私はいまだかつて、誰であれ「実在する」という言い方で言おうとしたそのことを、理解できたことがない。哲学の仕事とは、思想を構築することになく思想の方法を問うにあるとするなら、神についての問いは、「神はありやなしや」ではなくて、「神はありやなしやとは何か」であるべきなのだ。 ところが、中世哲学の目は何よりもまず、存在することが証明されることに決まっている神の「存在」へと向かい、その存在を認識する人間知性の分析へは余り向かわない。(それはカントを待つことになる。)しかし私たちが、概念的存在にせよ実在的存在にせよ、そも「存在するとは何を意味するか」と正当にも問うことができるのは、それを認識する人間知性の形式が知られてからのことではないのか。
  • キリスト教が、断固として「無からの創造」を手離さないのも、このためだ。つまり、raison d'etre。 世界の存在は、意志された、在ったことには理由があるのでなければ、絶対に困るのだ、じじつ私は困っている。神を信じることのできない私には、この人生の日々が、いったい何のために何なのか、さっぱりわからない。「生きんがためにわれ信ず」、しかし、それは、何がため?
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