「神秘主義」  わたしが神だ
  • ゴルフをしたことのない人にゴルフの楽しさを説くことの徒労、に類することは誰も認めるだろうに、こと思想となると人は、自分に実感できないものは誤っているか不要であると断じたがる。もしも、体験というものが本来的に公共性を欠くということをその根拠として挙げるのなら、誰もが生きているというこのことは、この世で最も公共的な体験ではないか、と神秘主義なら答えるだろう。神秘主義の言葉が限りなく体験に近いのはこのためだ。それが扱うのは、理屈ではなくて、生なのだ。言葉自体が、現在する生なのだ。鍵穴に鍵がうまく嵌まりさえすれば、それは生きている誰をも拒まない。鍵とは何か、自分が居るということを「不思議」と感じるその気持ちだ。その気持ちのないところには、神秘主義の言葉は決して開かれない。「自分が居る」ということを、社会と物質との加減乗除の解以上には疑わない人だけを、神秘主義は拒むのだろう。
  • <観られなければならない当のものは、自分以外のいっさいのものから自分自身を引き払って、どこかほかのところに存在するというのではないからである。むしろこれに触れることのできる者のためには、それは現にそこにあるというかたちで存在しているのであるが、しかしそのような接触の能力をもたない者に対しては現存しないのである。>(プロティノス『エネアデス』)
     これではミもフタもないではないかと人は言うだろう。ところがその同じ彼が、こうも言う。
    <われわれがここに説いていることは別に新しいことではないのであって、今ならぬ昔においてすでに言われたことなのである。ただそれはすっかり明けひろげては言われなかったので、今ここに説かれている思想のようなものが昔からあったということに関しては、プラトンその人の書物が証拠となって、われわれの説くところに保証を与えてくれるのである。>
  • たとえば思い出してほしい、誰も皆、子供の頃に教わって、疑いなどしなかったはずだ。お金よりも心が大事だとか、幸福はお金で買えるものではないとか、肉体は儚いが心はずっと変わらないものだとか。陳腐にすぎることには必ずや根拠がある。歴史が絶えずそれを、より堅固なものへと鍛え上げているのだ。
     倫理的な資質をもつということと、性善説を疑わないということとは同じであるに違いない。人間は皆、性悪でどうしようもないと思っている魂が、あんなにも遠く高く行けるはずがない。プロティノスの壮麗な宇宙生成論、しかしそれは夢物語ではない、もしくは純正なる夢物語である。知性に透視され、透明になった自分(の魂)とは、実は、あの一者であるか、あるいは無限にそれに近似する。この事実に気づくためには、特別な修業や瞑想術、すなわちあれら抹香くさい行為は全然必要ないと私は思っていたのだが、プロティノスも論理によってそれを掴む方法を挙げていた。
    <ところで、魂には正や美について推理する部分があって、これは正しいかどうか、あれは美しいかどうかということの、答えを求めて推理が行なわれたのだとすると、何かまた確固不動の正なるものが存在していて、そこからちょうどまたこの推理が魂の領界内に生ずるのでなければならないことになる。そうでなければ、どうして推理できるであろうか。そしてまた時によって魂はそれらについて推論することもあり、推理しないこともあるとするならば、そういうふうに推理するのではなくて、いつも正を把持している知性というものが、われわれのうちになければならないことになるし、また知性の根源とも原因ともなるもの、すなわち神もまた、なければならないことになる。>
  • <それ故に私は、神が私を神から脱却せしめ給うように神に願う。なぜならば、私の本質的な存在は、われわれが被造物の原因として把えるような神を超えているからである。存在を超え一切の区別を超えているところの神のその存在のうちに私自身在ったのである。そこで私は私自身を欲し、私自身を認識し、私であるこの人間を作った。それ故に、私の時間的な生成ではなく私の永遠なる存在からすれば、私が私自身の原因なのである。・・・私の誕生において万物が生まれたのであり、私は私自身と万物との原因であった。もし私が存在しなかったならば、「神」も存在しなかったであろう。神が「神」である原因は私なのである。もし私が無かったならば、神は「神」でなかったであろう。こういうことを知らなければならないというわけではないが。>(マイスター・エックハルト「説教」)
  • 気負って言うこともない、「私が居る」ということは、それほど不思議なことなのだ。心理学や社会学、脳生理学が大真面目に取り組んでいる「自我」なんてものは、こういう言語道断な自我に比べれば、こすれば落ちる表皮の垢みたいなもので、生活上の便宜としてだけ頭の隅においておけばいい。妄想だと思うなら、「私とは何か」という問いを、経験やら肉体やら生活環境その他一切ぬきで、純粋に知性の力だけで、どこまでも推進していってみよ。神の問題を避けて通れると思うなら、それはまだまだ足りない証拠。神でおしまいにするか、しないか、抛げてしまうかはその人の気質。エックハルトは西洋では珍しく、神で留まることを肯じなかった人だ。信仰さえ踏み越えて立ち上がる渇える知性のその孤独は、凄まじいほどだ。こんなところまで行ってしまって、いったい彼は、あとどうするつもりだろう。
    <私が神から流出した時、万物は「神在り」と語った。このことはしかし私を浄福ならしめることは出来ない。なぜなら、その場合私は私を被造物として認識するからである。しかし突破において私は、私自身の意志、神の意志及び神のあらゆる働き、神自身、その一切から脱却する。突破において私はすべての被造物を越えており、私は神でも無く被造物でも無い。むしろ私は、私があったところのもの、今それであるところのもの、これからいつまでもそれであるだろうところのもので現にある。(中略)
     この説教が理解できない人は、そのことで心を悩まさないでほしい。なぜならば、人がこの真理と等しくなっていない間は、その人はこの説教を理解し得ないであろうから。なぜならば、それは神の心から一切の媒介なしに直接現われ来った一つの、覆いなく露な真理であるから。
     このことを永遠に経験するという仕方でわれわれが生きることができるように、神がわれわれを援け給わんことを。アーメン>(マイスター・エックハルト「説教」)