勇気の出る名言集

過去に読んだ本で勇気を与えられた言葉のアンソロジーです。

2018年02月

増原良彦「歴史を読む知恵」
 知恵というものは、学校で教わった知識を全部忘れてしまったとき、あとに残るものでありましょう。ところが、われわれ日本人は学校でわんさと知識を詰め込まれて、それを後生大事といつまでも持ちつづけています。膨大な知識を持ちつづけているのが日本では優等生なんです。そして、知恵は学校では教えてくれません。知恵というものは自分で身につけるよりほかないのですが、知識の詰め込みにきゅうきゅうとしている日本人ですから、知恵が身につかないのです。

 物理的には、時間は過去-現在-未来へと流れて行く。だが、わたしたちの心理においては、時間はむしろ未来から流れてくる。われわれは明日の心配ばかりしている。そういう心配をしていると、明日のほうから現在の生き方を指示されてしまう。

うつ人もうたるる人ももろともに
   ただひとときの夢のたわむれ 夢窓疎石

「人事を尽くして天命を待つ」といったことばがある。・・・しかし、わたしは、人事を尽くすと天命がわからなくなると思っている。人事を尽くせば尽くすほど人間に欲が出てくるからである。そうすると「まだまだ・・・」「もっともっと・・・」と考えるようになる。

人は、人を幸せにしてあげることはできない。幸せ作りのお手伝いはできるかもしれないけれど、それで幸せになるかどうかは、本人の気持ち次第だからです。(浜尾朱美「何かおもしろいことない?」)

 僕を含めて、やはりゼロよりプラスの方が良いだろうと考えがちなのが現代社会だ。「よし、ゼロになってみよう」と“プラス志向”で“頑張っでしまったりする人などもいる。もちろん、プラス志向は決して悪いことじゃないと思う。けれど、そこまで自分にハッパをかけたり、律したりすることはないんじゃないかと最近思うようになった。(財津和夫「幸せになるための“幸せの準備”」)

 私は人はすべて、自分の人生に起こることに責任を持っている、自分で良いことも悪いことも招き寄せている、と思うようになりました。でも、時々、うまくゆかないことがあると誰かのせいにして、自分が被害者だと思いこんでしまうこともあります。すると気分は落ち込み、ちっとも楽しくなくなり、自分ほど不幸な人間はないとまではゆかないけれど、事故憐憫に陥って、その状態から抜け出すのが難しくなります。不幸を一身に背負ったみたいな顔をして、何日もすごすはめになってしまうのです。でも、自分の責任なんだよね、こんなことになって、こんな気分になっているのは、と思えるようになると、泥沼を抜け出して幸せになれるのです。・・・私達は何かつらいことがあると、つい、自分の外にその原因を求め、責任は自分以外の人や状況にあると考えるくせがついています。・・・でもこれでは、自分の幸不幸は、他人や外側の状況に依存するしかないですよね。・・・そんな時に、自分にも責任があるかしらと思って冷静に自分を見てみると、きっと何か発見できるものです。(山川亜希子「幸せを招くには」)

山本夏彦「その時がきた」

その時がきた
山本 夏彦
新潮社
1996-07





「外交官は自国のためにうそをつく正直な人間である」

 吉田茂がアメリカへ、何かの話しあいをしに行った時、私は彼の横顔に、暗い、真剣な表情を見た。それは、国民の運命を背負っている人の、顔であった。あの小柄な体一身に背負っている姿を私(森茉莉)は見たのである。(新刊「ドッキリチャンネル」)

 よしんば多少の殺戮があったとしても、なかったというのが健全な国民である。イギリス人はイギリスの小中学生に、イギリスが世界中に領地を持ったのは、南アフリカでは首長に懇望されたからであり、エジプトでは王の苦しい財政を助けるためであり、インドでは(以下略)と教えている。
 日本人には噴飯ものだが、イギリス人は大まじめである。どこの国でも自分の国の非をかくすのが当然であり健康である。故に健康はイヤなものである。ソ連も中国も自国の非を青少年に教えない。国民の「誇り」はこの虚偽の上にあるのである。
 ひとり日本人だけありもしない自国の非をあばいて直とするのは、良心的だからである。そして誇りを失ったのである。虐殺は多ければ多いほど中国人の敵愾心を鼓舞する、喜ばせるから言うのは屈折した迎合だと以前書いた。なぜそんなにまでするのかというと、社会主義は正義で、何よりも正義を愛するからである。
 正義と社会主義を実現するためにはどんなウソをついてもいいのである。(「何よりも正義を愛す」)

 女はそれが流行となればそそのかされれば何でもする。・・・けれどもこの世のなかに友はないのである。友のごときものでさえ稀なのである。三十年四十年友に似たものならそれは友なのである。一夫一婦は根本に無理をふくんでいる。けれども人間の考えたもののなかではよく出来たほうだと私は思うのである。(「友に似たもの」)

 私は人の盛りは五年だと思っている。大負けに負けて十年だと思っている。スポーツの選手を見れば分かる。・・・私は一雑誌を主宰して四十年になるが、プランがわいて出て応接にいとまがなかったのは五年もなかった。それなのに雑誌が四十年も続いたのは全盛時代がなかったせいである。満つれば欠くるといって、全盛時代があればあとは衰えるばかりである。命ながければ恥多しという。(「命ながければ恥多し」)

 むかし暖衣飽食、酒池肉林の贅を尽くしたのはひとにぎりの王侯貴族だった。その他大勢は食うや食わずだったから、革命してそのひとにぎりを倒した。その旗じるしはいつも「正義」である。革命党は十年も待たずに同じ腐敗を腐敗して、次ぎなる革命党に倒され、こうして何千年も国は健康を保ってきたのである。いま暖衣飽食して助平のかぎりを尽くしているのは王侯貴族ではない。国民大衆である。もうそれを倒すものはないから、こんどは大衆が丸ごと倒れる番である。(「丸ごと倒れる番である」)

 私は華族も富豪もあったほうがいいと思うものである。手の届かない存在はあったほうがいいのである。戦前は一流ホテルで婚礼の披露をするものがあっても誰も羨まなかった。今はムリをすればできるから、もしできないと天をうらみ親をうらむ。少しでも自分より富んだものがあると心は波たちさわぐ。私たちの心は安まるひまがなくなって何十年になる。(「皇室に藩屏あれ」)

 戦争に善悪正邪をもちこむと永遠に尽きない論争になる。原爆だけは天人ともに許さないとわが国が言えば、原爆のおかげで日本人は死なないですんだとアメリカ人は言う。この五十年何ごとにも「話し合い」でと教えられたが、それが出来ないことかくの如しである。両者は言いあってすでに万巻の書がある。どちらが正義か争えばなお万巻の書が刊行されるだろう。遠山の金さんは喧嘩両成敗と言った。中国の賢人はつとに「春秋ニ義戦ナシ」と言った。何度も繰り返すが千古の金言だからご容赦願いたい。あらゆる戦さはこの一語に尽きる。(「昔は喧嘩は両成敗だった」)

 芥川龍之介は世論はリンチに似ているといった。(「治安はやっぱり世界一」)

 ワイロこそよけれ、ワイロは浮世の潤滑油である。もらいっこない読者は自動的に正義漢になるが一度でももらってごらん。人間というものが分る。古往今来正義の時代は文化を生まなかった。文化は腐敗の時代に生まれたと、むかし渡部昇一は書いた。卓見である。(「ワイロほどいいものはない」)

時代は急速に変りつつある。そして人はすべて日和見主義である。(「君死にたまうことなかれ」)

 前の大戦の時も新聞はわが国をあらぬところへつれ去ったが、次回もつれ去るだろうと言っても蛙のつらに水である。新聞の命はインキの匂いのするまでの二時間である。あとは書き手も読み手も忘れる。読み手が忘れることをあてにして新聞は書いているのである。いつまでも覚えている人は悪い人なのである。(「おぼえているのは悪い人」)

 してみれば公私を問わず失礼感覚はなくなりつつある。近く全くなくなるだろう。(「『失礼感覚』なくなる」)

 人の頭のなかには当人と他人がいて、その他人をして十分発言させなければいけない。投書欄でさえ新聞に不都合な説を一つや半分はのせている。そこへ行くと各界名士は新聞に出て初めて名士だから、新聞の気にいることしか言わない。気にいるオンパレードを誰が読むか。立原は立腹したが名士は電話一つで召集される。気にいらない説は没書になるにきまっているから言わない。私はマスコミにとって名士は昔の奉公人だと思っている。奉公人なら給金をくれる。給金をくれない奉公人だから表向き先生なのである。(「奉公人の自覚がない」)

 硬軟両様いま我々はあらゆるブラックボックスのなかにいるのである。それにもかかわらず平気の平左なのは食べられるからである。貧乏がなくなったからである。食べられる限り国民は怒らない。まして革命はおこさないのである。(「三面記事として書くから分からぬ」)

ルコント・デュ・ヌイ「人間の運命」

人間の運命
ルコント デュ・ヌイ
三笠書房
1994-02


 物質文明が急速に発展したおかげで、人間は明日の奇跡への関心を高め、その奇跡の実現をかたずを飲んで待ちわびるようになった。肝心の問題、すなわち人間の諸問題を解決する時間は、ほとんど残されていなかった。一八八〇年以来、ほぼ休みなくつぎつぎに世に出た信じがたいほどきらびやかな新発明に、人間は魅了されてしまった。それはちょうど、豪華絢爛なサーカスをひと目見ただけですっかり心を奪われ、食べることも飲むことも忘れてしまった子どものようなありさまであった。
 このすばらしい見せ物が現実の象徴となるにつれ、さまざまな真の価値は新しい星の輝きによって色あせ、第二義的なものとなった。この変化はいともたやすく、なんの苦痛もともなわずにおこなわれた。
 精神を麻岸させる懐疑主義や心を破壊する物質主義は、けっして自然についての科学的解釈の必然的な結果ではないのだが、わたしたちは、ついついそう信じ込まされてきた。このような懐疑主義や物質主義と戦おうとするなら、正しい鍵をもちいる必要がある。つまり、敵と同じ武器を使い、敵の土俵で戦わなければならないのだ。相手の間違った信念、あるいは単なる後ろ向きの信念のために、その懐疑論者を納得させられなかったとしても、正直で公平な観衆が戦いの経緯を見守り、どちらが勝利者かを認めてくれる希望は残されている。

 人間を「人間」として特徴づけるのは、まさにその人間の内部における抽象的な観念、道徳的な観念、精神的な観念の存在である。このような観念以外に、人間が誇りうるものはない。これらは人の肉体と同じく現実的であり、肉体だけではとうてい手に入れることのできない価値と重要性とを与えてくれるのだ。・・・したがって、人生に一つの意味を与え、その努力に一つの根拠を与えたいのなら、これらの観念を科学的、合理的に再評価するよう心がけなくてはならない。しかもこれらの観念を進化の中に組み入れ、それらを目や手や明瞭な言語と同じような進化のあらわれと捉えることなしには、その再評価はとうてい達成できないように思われる。・・・人間は激流に流される一本の藁ではなく、連鎖の一つの環(りんく)である。要するに人間の尊厳というのは空虚な言葉ではない。そして、この点を確信せず、この尊厳を手に入れる努力をおこたるならば、人はみずからを獣の水準までおとしめてしまう――これらの点についての証明が、いま必要とされている。
 進化とは、それが究極の目的、つまり遠くにある正確な目的に支配されていることを認めてこそ、はじめて理解できる。この究極の目的の実在を受け入れなければ、進化が物質の法則と絶対に両立しないだけでなく、道徳的、精神的な観念の出現という現象も、まったくの謎として残されてしまうということーーそしてこれこそ重要な点なのだーーを認めざるをえなくなる。

 究極目的論を唱える人々がこれまで犯した最大のあやまちは、進化と適応とを混同し、種だけに限定された適応の奇跡を、すべての生物群をつかさどる進化の無限の推進力と同一視したところにある。
 適応をはかるものさしは「有用性」である。それは種の利益という面に限定されている。だが、適応のメカニズムがいったん動きはじめると、それが盲目的に続き、愚かな働きをし、最後には手に負えないばかりか有害な奇形を生み出す場合もある。

 進化をはかるものさしは「自由」である。それは生命の最初のあらわれ以来、個体を選別する最良の試金石であり、それによって選り分けられた個体こそが、無数の生命体を通じて進化し、「人間」を最後の頂点とする、ただ一つの枝の存続を保証してきたのである。

 適応が、みずからの目的である平衡状態に達しようと盲目的な努力をおこなうのに対して、進化は、不安定さから不安定さへと向かい、完全な適応をとげた安定した組織に出合ったときにのみ進化は止まってしまうのである。

 人間の進化というのは、それ以前の進化と同一の土台の上でおこなわれるのではない。電子の不可逆的な「進化」と原子(電子から成る)の進化とのあいだには、また、原子の不可逆的な進化と生命の進化とのあいだには、また、原子の不可逆的な進化と生命(原子から成っている)のあいだには、知性では越えられない溝があるように思える。生命の進化と人間の進化とのあいだにも、やはりそれと同じ溝があるようだ。・・・人間はいまだに構造上は動物であり、多くの本能を祖先から受け継いでいる。その本能の中には、種の保存に欠かせないものもある。しかしながら人間は、知られざる一つの源流から、動物とは違った本能と人間特有の観念とをこの世にもたらした。この観念は本能とは矛盾しつつも、圧倒的に重要なものとなっている。

 現代では、進化はもはや生理学的な、あるいは解剖学的なレベルではなく、精神的、道徳的なレベルにおいて継続している。わたしたちはいま、進化の新しい局面の夜明けに立ち会っている。だが、それにともなう変化がものごとの秩序に激しい渦をかきたてているため、この事実はいまだ多くの人々の目から隠されている。

 人間は手綱に抗う野性馬に似ている。違うのは、自分で自分に制約を課すという点だ。そして、その制約を自由に拒んだり受け入れたりできるからこそ、人間は最終的にみずからの運命の真の支配者となれるのだ。食欲を満たすだけの存在にとどまるのか、それとも精神性への飛躍をなしとげるのか。その点での自由な選択を踏まえてみずからの運命を支配していくところから、人間の尊厳は生まれるのである。

 死者は自分たちを愛し賞賛してくれた人々の記憶の中に生きつづける。この事実は人間に、人間のみに、個人の感情的な領域を越えて広がる一つの観念をもたらす。人間はこの観念をみずからの外に投影し、死へ旅立った者たちのために新たな客観的存在を作り出す。これは、それまでまったく予想されなかったことだ。

 神が「生命の息を鼻に吹き入れた。そして人は人間に――人間のみに――一つの良心を、つまり選択の自由を与えた、という意味にとってもいいだろう。それ以降、神はこの被造物、つまり人間に対して、他のあらゆる動物に課せられた犯すべからざる命令、生理学的な命令、すなわち動物的な本能に服従することを禁じるのである。
・・・神にそんな真似ができるのも、この新たな生物が自由な存在であるからだ。望みさえすれば人間は、内分泌腺による束縛に終止符を打てるのである。こうして人は、肉体の命令にしたがい、ついには退化して祖先の動物たちと合流するのか、それとも反対に、動物的な本能である衝動と戦い、最終かつ最高の自由の獲得と同時に手にいれた尊厳をしっかり身につけていくのか、という岐路に立たされることになる。

 言語や伝統は数年間で条件反射を作り上げるし、それによって得られた条件反射は、もはや遺伝的な形質へと転換される必要もない。本来なら、この形質転換には実に長い時間がかかるが、言語の助けを借りれば、まるで経験によって得られるいっさいが瞬時に遺伝的な性質を帯びるかのように、すべてが進んでいく。・・・わずか三万年たらずで人間が今日の段階にまで到達したのも、この新しいメカニズムのおかげである。そしてそのために、幾千年ものあいだ脳に刻み込まれた種の記憶は心の奥深い場所にしまいこまれ、環境の変化にただちに適応できる、個人個人の直接的な記憶がそれに取って替わったのである。
 文化という無用なものの出現によって――この無用なという言葉は「生命の維持や防衛に絶対的に必要というわけのものではない」という意味だがーー人類の全史を通じてもっとも重要な日付が刻まれた。文化のあらわれは、進化への方向、すなわち動物から遠ざかる方向へと進む人間精神の歩みを証明している。
 生命の維持や種族の永続に必要とされた他の行為、つまり先祖伝来の行為は、その時点まではなにより重要なものとされたにせよ、いまや二次的な地位に追いやられ、いちばん重要な行為の出現に力を貸すだけの存在となる。人と獣との基本的かつ本質的な違いを証明するには、無用な行為が想像も予測もつかないかたちで誕生してきたという事実を見るだけでいい。過去数十億年をふりかえっても、このような行為に匹敵するものはなに一つ生み出されていない。

・・・現代人が当時(五〇〇〇年前)からさほど進歩しておらず、これらの教えからも読み取れる道徳文明の水準が現在とあまり変わっていないことを如実に示している。同時にわたしたちは、人類最初の道徳法典がそれよりはるか以前に存在していたことを認めざるを得ない。

 善はさらなる進化への歩みに貢献し、わたしたち人間を動物性から遠ざけ、自由へと導いてくれる。悪は進化と対立し、人間を祖先の束縛、すなわち野獣の状態へと逆行させることによって進化から遠ざけてしまう。これを厳密に人間的な見地から言い換えれば、善は人間の個性の尊重であり、悪はこの個性の無視ということになる。
 実際のところ人間の個性の尊重は、進化への働き手としての人間、神との協力者としての人間の尊厳を認めることで成り立つ。この尊厳は、良心とともに生まれた新たなメカニズム、そして進化を自由意志という精神的な方向へ導くメカニズムにもとづいている。責任を抜きにして尊厳を考えることはできないし、人間に与えられた責任は重大だ。自分自身の運命だけでなく、進化の運命も人間の手中にある。いついかなるときも人間は、進化か退化かの選択がおこなえる。

 偉大なキリスト教徒の作家ミゲル・デ・ウナムーノは、一つのみごとな定義を与えてくれている。「神を信じることは、神の存在を望むことであり、さらには神が存在しているかのようにふるまうことである」知性や善意に恵まれた人の中にも、心の中に神の姿を思い描けないから神を信じることはできない、と決めつけている者は多い。だが、正直で科学的な好奇心を持ち合わせた大なら、物理学者が電子の姿を心に描く必要がないのと同じように、神の姿を想像する必要などないはずだ。

 神の存在を証明するのは、わたしたちが神について思い描くイメージではない。それは、神のイメージを作り上げようとするわたしたちの努力なのだ。同じように、美徳とは純粋に主観的な努力の中に存在するものであり、その結果の中に存在するわけではない。結果のいかんにかかわらず、精神的な努力が重要なのであって、まさにその努力こそが人間を向上させてくれる。人間の良心を進化の発展に貢献させ、神の事業に協力させていく要素は、わたしたち自身の中にしか見出せない。

 原罪の物語は、いまだ原始的な存在である人間の良心の目覚めのシンボルと解釈できる。人間が失ってしまった「楽園」、無限の苦悩という代償を払ってでもふたたび取り戻さねばならない。「楽園」のイメージは、実に強烈である。今後数千世紀のあいだ続いていくはずの人間の全ドラマがわずか数行の中に表現されている。

 伝統は脳の進化のプロセスを推し進め、ここ数千年のあいだに驚くべき成果を生んだが、それにもかかわらず、実際の進歩が感じ取れるようになるには、なお多くの世紀が必要とされるだろう。今日まで人間は、みずからの世界を支配することにもっぱら関心を寄せてきた。だがこれからは、人間は自分自身を支配することを学ばねばならないだろう。そのためには、自分の下等な本能だけでなく、機械技術の急速な発展から生み出された、さまざまな習慣をも克服する必要が出てくるだろう。この習慣は「実用的」であり、労働を短縮することによって、いっさいの努力をますます困難にしていく。そればかりでなく、この習慣はきわめて快適である場合が多い。人は気づかぬうちにこの習慣の奴隷となり、それを目的と考えるようになる。・・・人間が自分に与えられたもう一つの役割を理解するには、なおいっそう長い時間を要するのかもしれない。そしてこの役割こそが、外界からもたらされるのでなく、自分の内から生まれ出るいっそう崇高な、かぎりなくより完全な喜びを人間に与えてくれるのだ。

 文明の真の目的は、物理的な努力を軽減するような、珍妙な機械を考え出すことではなく、あらゆる方法で人間の自己改善を助けることであるべきだ。そうしてこそ文明は進化のメカニズムとなり、持続していく。なぜなら文明の堅固さは、すべての個人個人の力が組み合わされるかどうかにかかっているからだ。文明とは、外側からでなく、内側から作り上げられなくてはならない。機械の発達や技術的な解決に頼る文明は、なんであれ、必ず失敗を招くのである。

 今後、「人間」は人間と戦い、精神は肉体の克服につとめなくてはならなくなるだろう。その戦いの準備ができている人は少数だ。それは、あらゆる形質転換のきっかけとなる突然変異のように、きわめて稀なことなのである。

 終局的究極目的論でいう道徳性は、人生から満足や健全な楽しみを奪うどころか、逆に真の人間としてふるまったり欲望や本能への隷属を脱したりすることによっていっそうの満足を与え、人生を豊かにしてくれる。この自由の感情は、みずからが進化の発展に貢献してくれるという確信と結び付いて、人間に無尽蔵の喜びの源泉をもたらしてくれるにちがいない。この喜びは、人間の生理学的な性向や健康状態とは無関係であるため、他の喜びよりも深く、長続きしていく。・・・逆の意味での行き過ぎ、つまり禁欲主義や苦行もまた、同じように有害だ。・・・身体と精神とは全体的な調和を保つべきである。それができてはじめて、万人に必要な寛容と忍耐と慈悲の精神をはぐくんでいける。

 人間的進歩は、進化の道具であり結果でもある個人の努力いかんにかかっている。個人の努力が進化の道具だというのは、無機物を支配する熱力学、進化を無視し退化をもたらす熱力学に対して脳が戦いを挑むからである。また、進化の結果だという意味は、人間の進歩を信じてそれに貢献したいと願うこと自体が進歩そのものだからである。そこが人間と動物を区別するほんとうの違いだ。「知的存在は、自己を超越する手段をみずからのうちにもっている」とベルグソンは語った。人はそのことを知らねばならず、またそれを実現することが肝心である。

究極の目標は、わたしたちの手の届かないところにある。大切なのは、部分的で一時的な成功でなく、努力を継続させることである。もしも失意を味わいそうになったときは、光がわたしたちの内にあること、そしてその光を外部に見つけようとする試みはまったく空しいものであることを思いおこすべきである。

 進化のための人間的な道具である伝統によって伝えられてきた迷信が、進化の道に障害物となって立ちはだかっている事実は、以上のような点から説明できる。そして、わたしたちはふたたび、奇妙な現象に出合う。それは、進化の要因が時間を経るにつれて障害に変わり、それが別の新しい要因と衝突せざるを得なくなるという現象だ。いつでも、どこでも抗争を引き起こすように思えるこの法則は永遠に続いていくのである。

 最高度に自由であることは人間の特徴であり、そうであるからこそ人間はみずからの精神的運命を支配できるのだが、このような自由が確立されたのは、明らかに自分を縛る鎖を断ち切ろうとする意志のおかげなのだ。それまでは他のいかなる生物もこの鎖を意識してこなかった。このことこそ、人間の運命の存在とその現実性の証明である。人間はもはや厳格な物理-化学的な決定論に服従する存在ではない。そのような決定論は、人間をアリや微生物ほどにも個体ほどにも個体としての重要性をもたず、無責任で、個々の識別すらできない一個の粒子のレベルにまで下げてしまうのである。

わたしたちは、心の内にあるものを通してしか自己を高めることはできない。

 科学の後光に包まれた無自覚で虚栄に満ちた人間たちは、過去に人類を導いた精神的な光明など非現実的なものだとうそぶきながら、あいまいな象徴に覆われた不透明な幕をかかげ、その「光明」を隠してしまった。肝心なのはその光が人間として進むべき方向を照らしてくれた、ということであり、いくらその光明自体が自分たちの手には負えないとしても、この現実を否定はできないのだという点を彼らは理解しなかったのである。

 残念ながら常識は、人間がかかわっている精神的な進化への触媒として作用したり、その進化を促進させたりするには十分とはいえない。しかも、常識が進化の道具になったことは一度もなかった。常識とは実利的、利己的な考え方であり、人間の進歩にとっては何の価値もない。

 人間は、おそらく形態学的な面では進化が止まってしまったと思われるが、そのような観点から見れば、人間がみずからに与えられた役割を果たす道は一つしかない。すなわち、自分自身を一つの規範として確立し、それによって道徳的な理想を広め、さらに可能ならばそれを改善、浄化していくことである。

 現代科学は最終的には統計的概念と確立計算とに基づいている。そしてこれらの法則は、わたしたちの宇宙を構成する要素のまったく無秩序な分布を前提条件にしている。もしも、この宇宙(思想へといたった生命世界)のどこかに反偶然の存在の可能性を認めるとすれば、「生命」が別の法則にしたがうということを容認しなくてはならない。さもなければ、宇宙の全構造が崩れ落ちてしまうだろう。結局のところ、生命をもち進化している諸現象の決定要因としては、わたしたちの物理的な宇宙とは無縁の非合理的な作用を容認する必要があるのだ。

 宇宙的な現象は、全体として、荘厳さと、ときには苛酷なもとでの平静さを示しながら続いていくが、わたしたちは、そのいとなみの比類のない偉大さを理解できるところまで、自分を高めていこうではないか。さまざまな批判は、知的な人間なら当然その強化をはかるはずの信仰心を、逆に弱めようとする。読者のみなさんには、自分自身の内から引き出した、いろいろなより深い理由を通じて、このような批判が不毛であり危険であることを、ぜひわかっていただきたいのである。

 人間にはみなその能力の許す範囲で、もっとも完全な人間的理想をめざさなくてはならない。そしてその場合には、神の仕事にみずからを組み入れることによって魂の平穏や内面の幸福、不死を得るという利己的な目的だけでなく、その仕事に進んで協力し、進化が約束した優秀な種族の到来を準備することをも目的としなくてはならない。したがって終局的究極目的論の理論は、すべての人間の間に新しいきずなを、つまり個人的な偏見はもとより、国家的な偏見さえない深遠で普遍的な連帯を作りあげる。

 諸悪の根源は、人間の本質そのものにある。この悪を根絶するには、動物的祖先から受け継いだ本能はもとより、人間的祖先から伝えられた迷信をも無力なのものにし、また制御不能な精神活動や道を踏み違えた野心の病的な増殖を抑えて、その代わりに人間的な尊敬の感覚を植えつけていかねばならない。

 わたしたちはみな多かれ少なかれこうした欲望にとりつかれている。・・・しかしながら、往々にしてこの欲望は当初の目的を通り越し、欲望自体が目的となっていく。多種多様な仮面――貪欲、権勢欲、名誉欲など――をつけたこの欲望は、そのすべてが、向上をめざす真の内的努力に害をおよぼし、真の目的からわたしたちの注意をそらせてしまう。そしてときには、知性がはらむもっとも危険な悪徳、すなわち権力への渇望へと変わることさえある。

 人間にとっては、人間的な尊厳とそこにふくまれるあらゆるものを手に入れることが唯一の目的とされるべきである。言い換えれば、人はすべての知的獲得物、社会から自由な使用を許されているあらゆる施設一学校、大学、図書館、研究所など、宗教が提供しているいっさいのもの、そしてみずからの才能や仕事、余暇を発展させるために与えられたすべてのチャンスを、個性や道徳的自我を改善し、進歩させるべく運命づけられた道具と見なさなければならない。

 人間は、他人を説得したり他人と戦ったりする前に、自己と戦い、自分自身を説得すべきだ。自分に許されたありとあらゆる手段を駆使し、揺るぎない信仰を打ち立てるために精根を傾けるべきだ。たとえそれが人間の尊厳や運命に対する信念にすぎないとしても、そうすべきである。そのための方法は問題ではない。・・・自分が最良の道を選んだなどと得意になってはいけないし、自分の道をたどるよう隣人に無理強いしてもいけない。だれもが脳の構造や遺伝や伝統にしたがいながら、それぞれにもっとも適した道を選んでいるのだ。
 人は他人を支援し、啓蒙し、援助することはできる。だが、それでうまくいく人もいれば、そうでない人もいる。人はみな自分で戦わねばならないし、それなしに進歩は望めない。真理へいたる近道などは存在しないのである。
 大切なのは誠実な努力だけだ。人間同志の精神的な血縁関係を強固にするのはこの努力にほかならず、そこに結ばれるきずなは他のいかなるきずなよりも真実である。いまはごく少数の人々の中にひそんでいる完全な道徳が、進化の結果、キリストによって広められた普遍的理解や愛の教えのように、いつの日か多くの人間の中に花開くだろう。それまでのあいだ、人は、ひたすら自分自身を改善しながらその日の到来を待つしかない。
 自己を完成させるために努力し、心の内なる神殿を築き、自己満足におちいらずみずからを裁くことによって、人間は無意識のうちに一つの魂を形づくる。そしてその魂は周囲へあふれ出て広がり、他人の心の中へしみわたっていく。
 人は自分自身を探し求めることによって兄弟を見出だす。進歩するためには、自分自身と戦わねばならない。自分自身と戦うためには、自己をしらなくてはならない。真に自己を知ったとき、人は寛容を学び、そして自分と隣人を分け隔てる壁は徐々に崩れ去る。個人の尊敬を追求し、それに敬意を払う以外に、人間的な連帯へと向かう道はない。

 知性は、人間の適応や生存や征服に手を貸し、重要な役割を果たしてきたが、それは将来も変わらないだろう。知性は宗教と科学の究極的な和解をもたらすはずだが、それには、宗教がこうした目的を望ましいものだと悟って助力の手をさしのべることが条件となる。・・・目先の利益を乗り越えて進めないような知性、目隠しをされ進化のような現実が見えなくなってしまった知性は、もはや進歩のためのすばらしい道具ではなくなる。そして一つの奇形、一種の怪物となり果てるのだ。その瞬間、知性は知性的であることをやめてしまう。

 どのようにして精神が進化するかは問題ではない。肝心なのは個人の努力なのだ。真の進歩は内面的なものである。そして、それはひとえに道徳的、精神的なところに価値をおき、厳密に人間的な感覚の面において向上をめざす、誠実でひたむきな欲求にかかっている。自己を乗り越えようとする意志、それが可能だという信念、そうすることが進化における人間の役割だという確信それこそが、人間の法則を形づくっているのである。

 個人個人はもとより諸国民にとっても、みずからがなにを望んでいるか知るべき時代が到来している。もしも文明社会が平和を「求める」なら、その問題についての抜本的な検討が必要であることを理解しなくてはならない。

 国家は「人間」のしもべとなり、個人の自由な発展を通じて人間を守り、個人個人にとって価値あるものとならねばいけない。国家は人間を支配すべきではない。一国の価値は、その子どもたちの価値の総和である。個人の発展を追求する代わりにみずからの利益ばかりに目を向ける政府は、退化の道をたどり、人間の尊厳を脅かすことになる。

 戦うことが「法則」であり、またつねにそうであったこと、その戦いの場が物質的な次元から精神的な次元に移ったあとも戦闘の激しさはなんら失われなかったことを思い起してほしい。人間としての尊厳や気高さは、奴隷状態から自分自身を解き放ち、みずからのもっとも深遠な理想にしたがおうとする努力から生まれることを思い起してほしい。・・・神の火花は人間に、自己の内部にのみ存在する。それを軽蔑するのも消し去るのも、あるいは逆に、神とともに働き、神のために努めたいという熱意を示すことによって神へ接近するのも、すべてわれわれ自身が選びとることなのだ、ということを。

今回は、アレックス・カーの「美しき日本の残像」から

美しき日本の残像 (朝日文庫)
アレックス・カー
朝日新聞出版
2000-09-14


 二十世紀に入り、人々の生活にいろいろと大きな変化がもたらされたことは言うまでもありませんが、東洋における文化と自然の破壊は、なかでも著しいもので、それは一つの大きな歴史的現象だと思います。ヨーロッパ諸国における産業革命は。ゆっくりとした変化であり、四百年以上もかかっています。それに較べると、中国や日本ではあまりにも急速に起こったといえるでしょう。その上、百パーセント異文化によってもたらされたものです。

 杜甫の詩に「国破れて山河在り」とありますが、日本は逆になってしまいました。「国栄えて山河無し」という状態です。僕にとって一番不思議なのは日本人はその状態に気づいていない事です。・・・皆の頭の中には「亀岡は美しい山に恵まれている」ということしか入っていないのです。でもその美しい山の恵みをすでに粗末にしてきていることに対する意識はほとんど無いのです。

 「中国」という名前でもわかるように、中国人は中国が地球の中心であることを確信しています。一方日本は常に外国から文化をとり入れ受けついできたので、日本人の心の底には自分の国に対する不安がたえずつきまとっているのではないでしょうか。また、日本社会の中では人々は常にお互いの上下関係にコントロールされているので、それが習い性となり、国に対してもランキング付けしないと安心できないのでしょうか。勿論、日本がそのランキングのトップにならないと落ちつかず、攻撃的な日本人論が生まれてくるような気がします。

 考えて見ると、日本の教育システムは平凡な人間を造るのが目的です。言われた通りに平凡にやればいいので、日本人は「平凡」、「つまらなさ」というものに対して慣れています。「つまらなさ」こそが人生だと思っています。もちろん、それは日本社会の大きな弱点だということは言うまでもありません。…われわれは「人生を面白く」というアメリカ教育の要求はひょっとしたら残酷なものかも知れません。大体の人の生活はつまらないものですから、失望するに決まっています。一方日本人はつまらなさに不満を感じないように教育されていますので、きっと幸せかも知れません。

 こうして自然を賛えることはもう現在の人たちには理解できないことかも知れません。この間、友人はこう言いました。「ただ山の自然を見に行くことは退屈な事です。することがあって、初めて自然が面白くなる。例えばゴルフとかスキーとか」。ひょっとしたらそのすることのあっての自然しか今の人たちにはわからないのかも知れません。だから自然を破壊してゴルフ場やスキー場を次々建てなければならないのでしょう。でも僕の自然は中国の詩人の自然、または芭蕉の俳句の自然です。古池に蛙が飛び込む、その音だけで嬉しくなる、あとはすることがありません。

 今の日本を見ていると、時々こういうことを思います。人類が宇宙に移る時代が来たら、日本人は一番スムーズに宇宙の生活に馴れるでしょう。その理由は宇宙には木、草、花、動物、美術、文化的な町並みなどがないからです。宇宙船の中、あるいは月の上の植民基地はアルミと蛍光灯の世界です。ほかの国の人達は時々自然の森や生まれ故郷の美しい町並みを思い出して、地球に帰りたくなる。けれども、日本人は日本を思い出すとアルミサッシ、蛍光灯、空に聳える鉄塔、コンクリートとガラスの町しか思い浮かばないので、月での生活とそう変わらないはずです。気持ち良く月の暮らしを続けていくでしょう。

 あぶり餅屋はけっして派手なところではありません。畳は古くて黒い。庭はあまり丁寧に手入れしていないし、少し「Poor」な味さえします。しかし、今の「金持ち日本」はどこに行ってもお金の臭いが強すぎると思います。どこもきれいになり過ぎて、「無菌室」の完璧さになっています。でも、真青な畳、真白の木だけが美しいものではありません。リッチな環境だけが寛ぎを与えるものではないでしょう。どこか人間の心の底に「Poor」というものに対して安心感があるのではないでしょうか。

 日本人観光客が静けさに耐えられない気持ちよりも、禅寺の住職さんたちの心境の方が不可解です。竜安寺の入場券の裏に「静かに心眼をひらき自問、自答する」と書いてありますが、お寺の関係者はその意味を忘れているようです。京都の静けさはだんだんとなくなりつつありますが、まだまだ(禅寺以外に)静かな所がたくさん残っています。智積院の庭、鴨川の畔などで、せわしい日常生活から逃げることはできます。

串田孫一「曇時々晴」

 仕事や相談事と遊びや御馳走とを一揃にして考えるのは以前から好まないが、その傾向は段々ひどくなって来た。御馳走したり遊ばせたりして一方の相談をうまく都合のいいように纏めようというのであったら、卑しい政治家の扱いと同じことをされているようで我慢ができない。(「乗り遅れ」)

 最後の夏だと呟きながら庭の花を眺め楽しんでいる彼は、小学校になった夏の休みに、宿題の一つとして絵を描いて九月からの学期のはじめに提出するように言われた。・・・その時彼は如雨露を描いた。絵を描くのが好きか嫌いかは別として、何を描いてもいいと言われれば、一應あれこれ迷うのが当然であろうが、迷う容子は全くなく、自分が描くならばこれしかないというように如雨露を台に載せ、それを真横から描いたそうである。
 それだけではない。その時提出した絵が上出来で、先生に特別褒められた訳でもないが、その後も絵の宿題が出れば必ず如雨露を描き、それが何枚も何となく保存されているという話であった。斜め、真正面、上から見たもの、転がしてあるものなど、さまざまの絵があると聞くと見せて貰いたいと思った。
 会って話していると、口数は少なく、極く普通の青年に見えるが、変わった人だと思った。題材を決められた時は別であるが、自分で決める時は迷わず如雨露を描く。年をとり、あれこれ考えるのが面倒になると、何事も一つ方式に決めて置く傾向が現われるようであるが、これは迷いに耐えられなくなった上での手段である。然し、少年時代にこれと同じような傾向が現われるのは餘り例がない。この人は単に変わった人であるというだけでなく、一種の人物でもあるように思えた。(「最後の夏」)

 何事も自分のことは一番判りにくいが、密かに過去を想い返してみると、晴れたり曇ったりと言うよりも、曇り時々晴であって呉れるのが一番願わしい。その時々晴というのも豫め期待してその通りに晴れることはない。散歩の途中で、突然雲の僅かな隙間から日光が洩れて来て、そこではじめてほっとしたように、思い掛けない歓喜の時が向うから訪れて呉れる。それはほぼ間違いはないが、待ち望む可きことではない。それと同時に、その歓喜の時がどの位持続するかは全く豫測出来ない。長く続けば輝かしいものも色槌せてしまう。そんなに儚いものをどうして本気になって、長く長くこの侭であるようにと願うのだろう。(「曇時々晴」)

 人間が過去を振り返って自分の辿って来た踏跡を想い出した時に、或る人は、したい放題に過ごして来たと思ったり、また別の人は、やってみたいと思ったことで、何一つ願いが叶えられた例がないと淋しそうな溜息を洩らす。これだけのことで、この二人の過去を比較など出来るものではない。まして第三者が、望み通りの生き方をして来た人を、ただそれだけで仕合せな人だと羨んだり、一方の人に同情を寄せたりするのは、聊か滑稽である。(「空気銃」)

 焚火のために成る可く燃え易い枯木を集め、小さく積み上げて火をつけたのは確かに私であった。それはストーブでも同じことである。だが一度燃え上がってしまうと、火は自分の流儀で燃えたがっている。それは炎と煙と舞い上がる火の粉の群を見ていると、どうしてもそう思われて来る。燃えるという、偉大でもあり、恐ろしくもある現象の中で、それぞれが役割を担っている。それだからこそこの現象が自然であって、一つの素晴らしい舞台を作っている。・・・火の粉となって炎から舞い上がってからは如何にも侈く消えて行くけれども、生命としてはそれぞれの木を育て葉を繁らせ、花を咲かせて実をならせ、長い歳月を木と共に地上に過ごして来た生命の終わりとして、満ち足りて何處かへ飛んで行く。そしてそれを見送ったものが灰として残る。(「旅立つ火の粉」)

 結局、密かに求めているのは内面の平穏なのだろうが、自分一人の努力で平穏であり続けようと思っても、殆ど不可能に近い程難しい。その平穏が、淮もが願う平和に繋がっていると言ったら、餘り飛躍し過ぎると言われるだろう。
 然し自分の努力で内なる平穏を保てないならば、何かに頼ることにもなろうが、それよりも気に懸かるのは、平穏な生活を否定したい気持ちがあることである。
 静かな生活ぶりだと人から言われると、どうも向きになってそれを否定しようとするのは、理想主義に燃えて、もっと素晴らしい世界を創造しようと夢みているのならいいのだが、どうもそんな心構えからのことではないらしい。(「内面の平穏」)

 市内電車というのは、今は都電と言って東京にはほんの僅かばかり残っているが、これが縦横に走っていた時代は実に便利な乗物だった。・・・だが電車の方も運転の失敗によって脱線をしたり、ポールで架線を切ったり、長い間立往生することがあった。脱線した電車を線路に戻すのも、櫓を組んだ山車のような車がやって来て、架線を繋ぐ危険そうに見える修繕をした。何回見ていても物珍しく、みんな電車から降りて、まるで自分達は幸運だったように語り合いながら、修繕が終わるまで飽きずに見物していた。時間を気にして苛々しているような人もいなかった。たった二、三分発車が遅れたり、駅と駅との中間で、電車が臨時停車でもすると、自分のこれからの人生がすっかり狂ってしまいそうな表情になる人のことを想うと、僅かの間に随分人間が変わったものだと思う。(「故障」)

 僻むとは何だろうか。物事を率直に受け取らないことである。私にとって不可能な事柄は日に日に自然に増殖している。したくないことはもうしなくてもいいよ、と肩を叩きながら言って呉れる人はいるか、それは我侭放題を許して呉れるという意味ではない。否々ながらも出来ていたことが、もう何としても出来ない、そしてまた、したくもない。そういう時に、この頃すっかり僻んでしまったと言われる。
 いよいよ夕暮である。そろそろ歩き出さなければならない。急がずに、転ばないように。(「赤と黄色の光」)

 人の心も天気によく似たところがあって、晴れることも曇ることもある。雨風の強い荒天の日もあり、さまざまに変化する。快晴が幾日も続くと、そろそろ崩れるだろうと思うように、心を踊らせるような悦びが次々に起こると妙に不安になる。然しこの心の天気は、自分の外での出来事との、避けようのない巡り会いであると同時に、それを心がどう受け止めるかに捕って人々の間に差が出来て来る。自分の心の傾向もその時々の複雑な条件によって異なるので、大雑把にしか判らない。「曇時々晴」


竹内久美子「そんなバカな!――遺伝子と神について」
 我々は何かの分野で成功を収めたり、世間から立派な人間であると賞賛されたり、あるいはその人なりに充実した人生を送るというような具合には必ずしも設計されていない。個々の人間は利己的自己複製子(セルフィッシュレプリケーター)の乗り物(ヴィークル)として初めて平等である。遺伝子は乗り物の上に乗り物を作らないし、乗り物の下にも乗り物を作らないのである。


会田雄次・伊藤昌哉「日本を愛する」
 私は、現代という時代を、近代が終わった時代と捉えています。といってもいわゆるポスト・モダン論とかいう「新しがり」的意見に流されてのことではありません。もっとも長期的な展望においてのことです。近代というのは、いわゆる「民主主義」と「キリスト教」と「近代科学思想」という理想を調和させ、社会を導いていこうとするものです。これで近代人類は永遠に発展し、栄えてゆくという信念が持てた。ある意味では幸せな時代です。ところが、この三つの理想は決して絶対的真理でも普遍的理念でも何でもない。逆にそれを無理やり推し進めてゆくと、地球上の全地域で、「無原則で、無限な騒乱」、破壊と騒乱が来ると覚悟しなければならない。それを身を以て悟らざるをえなかったのがこの二十世紀でしょう。

これから先の人類は、大変な事態を迎えることになるだろう。
人類の生き方とは、氷の上に乗って川を下っていくようなものだ。
すべての価値が、たえず根本的に変化する。
昨日までの真理が、今日から間違いになる。
昨日までの美が今日から醜になる。
昨日までの善は、今日から悪になる。
その逆も起こる。 ディルタイ(1833-1911)

 そういう変動が、とめどもなく進んでいくのが、これから先の時代なのだ。しかも、人類の拠って立つ物質的精神的基盤は氷なのだから、すべてはやがて解けて流れて人類は滅びる。何万年先とかそういうものでなく、何百年といった私たちが肉体的実感として想像できる期間内に確実に滅びる。

 世界がそうなのだ。そういうことをはっきり見据えて、しかも気も狂わず、ヤケのヤンパチにならず、毎日を働いて、社会秩序を維持していくという、途方もない困難な課題を、これから先の人は背負っていかなければならないだろう、という意味のことをディルタイは言っているのです。
 歴史的に見ても、敗戦を経験して敗北を自覚し、反省して自立を目指した国は、どこも逞しい立ち直りを見せ、反省しなかった敗戦国はそのまま亡国の道を辿ります。勝っても、戦いによって露呈した自国の欠陥を直視し、その是正に努めず、いたずらに傲慢になった国が衰退することは世界史の法則のようなもので、それは今度の大戦の結果を見ても明らかです。

 内外の危機に直面した今こそ、これでいくという哲学が必要なのです。それを示せなければ、復活も再生もないでしょう。

 ドイツでは敗戦憲法はおろかあの変な日本文を一字も変えることができないままで来ています。それはなぜかと言えば、“奴隷”の無責任さの中に日本人全体が漬かったままだからです。奴隷は言葉を持ちません。動物と同じで、奴隷には言葉がない。見渡せば日本は今、奴隷の民ばかりの状態です。だから、政治家のみならず、官界、マスコミ界など日本全体に、言葉(ロゴス)、人を人たらしめているものがない。言葉を持てば私たちの精神は奴隷の怠惰から脱し、国も独立自尊、自主自立の誇りを回復できます。本当の言葉を日本人が持つ。志のある、魂のある言葉というのが神の声です。本当の言葉の力です。その声を聞けばわれわれはもう何も恐れることはない。
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