勇気の出る名言集

過去に読んだ本で勇気を与えられた言葉のアンソロジーです。

2019年09月

無境界―自己成長のセラピー論
ケン・ウィルバー
平河出版社
1986-06





  • この原初の境界は、さまざまな角度から見ることができるものであり、数多くの名前をもっている。それは、自分と自分でないもの、内側のわたしと外側の対象のあいだの還元不可能な分離である。それは、知る主体と知られる客体の分裂であり、有機体としてのわたしと環境との隔たりである。それはいま本を読んでいる「わたし」と読まれているページとのあいだの溝、すなわち体験者と体験される世界との溝なのだ。このように原初の境界の「内側」には、主体、思考者、感覚者、見る者であるわたし「自身」が存在し、もう一方の側には、わたしとは別の異質な外の物体の世界、環境、すなわち非自己が存在する。
  • 無境界の自覚である統一意識のなかでは、自己感覚が拡大し、かつて非自己と思われていたあらゆるものがそこに含まれる。アイデンティティ感覚が全宇宙すなわちあらゆる世界に移行し、高次も低次も、顕在も非顕在も、聖も俗も含まれるのである。
  • 問題は、単一の活動である見るという体験に対して「見る人」「見ること」「見られるもの」という三つのことばをもっていることにある。これでは一つの水の流れを「流れるものが流れることを流れた」と表現しかねない。これは完全な重複である。実際には一つのものしかないところに、三つの要素を導入しているのだ。ところが、われわれはアダムのことばの魔術にかかっているために、見る人という個別の実体があり、「見ること」と呼ばれる何らかのプロセスをとおして、「見る人」がまた別の「見られるもの」の知識を獲得するものと思い込んでいる。そして、当然自分のことを、見られるものから完全に切り離された単なる見る人であると考えてしまう。一度しか与えられないわれわれの世界は、このようにして真っ二つに割られる。「内側の見る人」が深淵なる溝をはさんで、「外の見られるもの」と対峙するのである。
  • このように、世界と切り離されたところに分離した自己はない、という避けることのできない結論が明らかになってくる。あなたは自分が個別の体験者であると思い込んできた。だが、それを実際に探そうとするやいなや、それは体験のなかへと消え去っていく。アラン・ワッツはつぎのように語っている。「あるのは単に体験だけである。体験を体験しているものなどはありはしない。聞くことを聞き、見ることを見、匂いを嗅ぐことを嗅がないように、感覚を感じるわけでも思考を考えるわけでも、気持ちをもつわけでもない。<わたしは気分がいい>というのは、いい気分が存在しているという意味である。<わたし>と呼ばれるものがあり、それとは別に気持ちと呼ばれるものがあって、その二つを合わせて<わたし>は気分がいいのを感じるという意味ではないのだ。現在の感覚以外に感覚があるわけではない。そのときの感覚が何であれ、それが<わたし>なのだ。現在の体験と切り離されたところに<わたし>を見出だした人も、<わたし>と切り離されたところに何らかの体験を見出だした人もいない。ということは、その二つは同じ者だということである」
  • これは、あなたが気がついていようがいまいが、いま、この瞬間の意識状態が統一意識であることを意味している。いま、この瞬間、あなたはすでに宇宙であり、現在の体験の全体性にほかならない。あなたの現在の状態はつねに統一意識なのだ。統一意識の最大の障害と思われている個別の自己は幻想にすぎないからである。分離した自己を破壊しようとする必要はない。最初からそんなものは存在しないからだ。それを探しさえすれば、見つからないことがわかる。この見つからないということ自体が統一意識の確認となる。言い換えると、「自己」を探し、それを見出だせないときには、あなたは一時的に真にリアルな統一意識の状態に入っているということである。
     この話は最初、奇妙に聞こえるかもしれない。だが、分離した自己は存在しないというのはあらゆる時代の神秘家や賢者たちが断言してきたことであり、永遠の哲学の中核をなすものである。この洞察を説明する文章は無数にあるが、ブッダの有名な一説がそのすべてを物語っている。
  •   あるのは苦しみのみ、苦しみ
      行為はあっても、その行為者はいない
      ニルヴァーナはあっても、それを求める者はいない
      道はあっても、それを旅する者はいない
  • 一般にあらゆる苦しみからの解放につながるといわれるのは、まさにこういった理解である。前向きにいえば、自己が全一であることに気づくと、自分自身の外に苦しみを与えることのできるものは存在しなくなる。その宇宙の外には、衝突を起こすようなものは何もないのである。後ろ向きにいえば、この理解があらゆる苦しみからの解放であるのは、それが苦しむべき自己が存在するという概念からの解放だからだ。
  • ウェイ・ウ・ウェイはつぎのように語っている。
      何故あなたは不幸なのだろうか
      あなたが考えること
      あなたが行なうことの
      九九・九パーセントが
      あなた自身のためであるにもかかわらず
      あなたなどないからだ
  • 苦しむのは部分だけであり、全体ではない。神秘主義者がこの理解を「後ろ向きに」語るとつぎのようになる。「部分というものが幻想であることに気づくと、苦しみから解放される、苦しむべき分離した自己などないからだ」。そして、「前向きに」語るとつぎのようになる。「あなたはつねに全体であり、自由と解放と輝きしか知らない。全体を悟るということは、部分にすぎない苦しみと痛みと死の運命を逃れることである」。
  • 部分などないことに気づくとわれわれは「全体」へと下降する。自己などない(そして、これはいま、この瞬間に起こっている)ことに気づくと真のアイデンティティがつねに至高のアイデンティティであることがわかってくる。無境界の自覚の絶えざる光のなかでは、かつて内側の分離した自己と想像していたものが外の宇宙と一つになってしまう。そして、これこそがあなたの真の自己なのだ。どこを見渡しても全面に本来の面目があるばかりである。

無境界―自己成長のセラピー論
ケン・ウィルバー
平河出版社
1986-06





  • 光と影、長と短、黒と白などが個別のものであり、区別されねばならない、というのは偽りである。それらは互いに独立してはいない。同じものの異なった側面であり、リアリティではなく、関連性を語ることばなのだ。存在とは互いに排除しあうような特徴をもたないものである。本質において、物事は二つではなく一つなのだ。(『楞伽経』)
  • あらゆる対立が一つであることがわかると、進歩への衝動はどうなるのだろうか、という疑問がわいてくる。おそらく、その衝動はなくなるだろう。それにともなって、「隣の庭の芝生は青い」という幻想を温床とする奇妙な不満もなくなるはずだ。だが、この点ははっきりさせておかなければならない。わたしは医学、農業、テクノロジーの進歩が止まってしまうといっているわけではない。進歩が幸せを生むという幻想を抱かなくなるだけである。境界が幻想であることを看破すると、いま、ここで、アダムが堕落の前に見た状態の宇宙を見るからだ。有機体的な統一、対立の調和、われわれ振動的存在の遊戯をめでる肯定と否定のメロディー。対立が一つであることがわかると、不一致は一致となり、戦いは踊りとなり、かつての敵は愛人となる。そうなると、全宇宙の半分だけではなく、そのすべてと親しむ立場に立つことになる。
  • 究極的な形而上学の秘密をあえて簡単にいってしまうとすれば、この宇宙には境界はない、ということである。諸境界はリアリティの産物ではなく、リアリティの地図を製作、編集するわれわれのやり方の産物である。幻想なのだ。領域の地図を作ることには何の問題もない。だが、両者を混同することは決定的な誤りである。
  • この新たな数というメタ境界をとおしてギリシア人は微妙な葛藤、微妙な二元論の導入に成功し、それはバンパイヤーが犠牲者をむさぼり食うようにヨーロッパ人に襲いかかった。この抽象的な数という新たなメタ境界は具体的な世界をあまりにも超越していたために、人は具体対抽象、理想対現実、普遍対特殊という二つの世界に住むようになってしまった。その後、二千年にわたり、この二元論は十二回もその形態を変えることになるが、それが根こそぎにされたり、調和されることはほとんどなかった。それは、合理対浪漫、観念対体験、知性対本能、秩序対混沌、心対物質の戦いとなった。これらの区別はすべてしかるべきリアルな線に基づいていたが、これらの線は、一般に境界と戦いへと堕落してしまったのである。
  • テイヤドール・シャルダンは、この縫い目のない衣をつぎのように論じている。「具体的なリアリティとして見た場合、宇宙の素材はそれ自体分割できるものではなく、一種の巨大な原子のように全体として唯一不可分にされている・・・ますます強力になる方法を使って、さらに深く物質を洞察していくにつれ、物質の各部分の相互依存性にわれわれはとまどう・・・その縁をすりへらすことなくこの織物を切り刻み、部分を取り出すことは不可能である。」
  • 無限な法界においてはいかなるときであれ、あらゆる物がそれぞれ、わずかな欠落さえない完全無欠な状態で、あらゆる(ほかの)物を含んでいる。そのため、一つの物体を見ることは、あらゆる物体を見ることであり、その逆もしかりである。これは原子という極致の宇宙のなかの一個の小さな粒子が、未来とはるかな過去を有する無限な宇宙のなかの、無数の物体と原理を完全無欠な状態で実際に含んでいるということである。(ガルマ・チャン)
  • 大乗仏教では宇宙は広大な珠玉の網にたとえられている。そこでは一つの珠玉の輝きが、すべての珠玉に含まれ、すべての珠玉の輝きが個々の珠玉に含まれている。「すべては一であり、一はすべてである」と仏教ではいわれている。これは、きわめて神秘的かつ前衛的に聞こえるかもしれないが、まず、現代物理学者が説明する素粒子についての今日の見解を聞いていただきたい。「これを日常的なことばでいうと、個々の粒子は他のあらゆる粒子からなっており、それぞれの粒子も、同じような形で同時に他のすべての粒子からなっている」
  • 本質的には、現代科学と東洋哲学の大いなる類似性とは、両者がリアリティを境界や個別の物としてではなく、不可分な諸パターンの非二元的なネットワーク、一つの巨大な原子、すなわち無境界の縫い目のない衣と見ていることにある。
  • 仏教でリアリティが空であるというのは、境界がないという意味である。あらゆる実態が単にどこかへ消え去り、純粋に真空な無、無分別な一元論の混沌が残るという意味ではない。鈴木大拙は空に関してつぎのように述べている。「それは多様性の世界を否定するものではない。そこには山があり、桜の花は満開で、秋の夜の月光は格別明るい。だが、同時にそれらは単なる特殊なものではない。それらはわれわれにより深い意味を呼び起こしてくれる。それらは、それらではないものとの関連で理解される」
     重要なのは、世界が境界のないものと見られると、あらゆる物事が――すべての対立と同様――相互に依存し、浸透しあっている、と見られるようになることである。喜びが苦痛、善が悪、生か死と関連しているように、あらゆる物は、「それらではない物と関連している」。
  • 物理学者や東洋の賢者が、すべては空である、すべては二つではない、あらゆるものは相互に浸透しあっている、というとき、彼は物事の違いを否定し、個性を無視して世界が均質なものだといっているわけではないのである。世界は、あらゆる種類の特徴や外観や線を含んでいるが、それらはすべて一つの縫い目のない場に織りこまれている。
     つぎのように見ることもできる。あなたの手はもちろんあなたの頭とは違う。頭と足とは違う。足は目とは違う。しかし、それらがすべて一つの身体を構成しているものであることは、明らかに認めることができる。そして、あなたの身体は、あらゆる部分で自らを表現している。すべては一つであり、一つはすべてなのだ。同様に無境界の領域では、すべての物事が均等に一つの身体を構成している。法身、キリストの神秘的身体、ブラフマンの普遍的場、タオの有機体的パターンを構成しているのだ。
  • リアリティが無境界であることを明らかにすることは、すべての争いが幻想であることを明らかにすることである。そして、この究極の理解こそがニルヴァーナ、モクシャ、解放、覚醒、悟りと呼ばれる対からの解放、分離という魅惑的なヴィジョンからの解放、幻想の境界の鎖からの解放である。これを理解したうえで、われわれはこれから一般に「統一意識」と呼ばれるこの無境界の自覚を探ることになる。あらゆる境界はいかなるものであれ、統一意識の障害となる。そして、あらゆる境界がこの原初の境界に基づいているところから、これを看破することはすべての境界を看破することになる。ある意味で、これは非常に幸運なことだ。もしわれわれがすべての境界に個別に取り組んでいかなければならないとしたら、それらすべてを解消し、「対(ペア)からの解放」をなしとげるには一生、いやおそらく何回も生まれ変わらなければならないだろう。ところが、原初の境界に焦点を合わせれば、われわれの仕事は大きく単純化される。ちょうど、さまざまな境界のブロックが逆三角形を構成し、そのすべてが頂点をなすブロックの上にのっているようなもので、そのブロックを取り除けば、伽藍全体が崩壊するのである。

無境界―自己成長のセラピー論
ケン・ウィルバー
平河出版社
1986-06





  • 相対立するものを分離し、肯定的な一半を執着や追求の目標とするのは、進歩的な西洋文明――その宗教、科学、医学、工業――を際立たせる特徴のようである。進歩とは結局、否定的なものから離れ、肯定的なものに向かって進歩することである。ところが、医学と農業に明らかに余裕が出てきたにもかかわらず、何世紀にもわたって肯定的なものを強調し否定的なものを排除しようとした結果として、人類が自らに満足し、より幸福で平和になったことを示す証拠はこれっぽっちもない。実際には、その逆であることを示す証拠がふんだんにある。現代は「不安の時代」であり、疫病的な欲求不満と疎外の「未来ショック」の時代であり、富のまっただなかの倦怠と豊かさのまっただなかの無意味さの時代である。
  • 「進歩」と不幸はとどまることのない同一のコインの表裏かもしれない。進歩の衝動は、現在の時代に対する不満を示唆しているそのために、進歩を求めれば求めるほど不満がつのるのである。盲目的に進歩を追求することで、われわれの文明は不満を制度化してしまった。肯定的なものを強調し、否定的なものを除去しようとするあまり、肯定とは否定に基づいてのみ定義されることを完全に忘れてしまったのだ。もちろん、相対立するものは夜と昼ほど違うかもしれないが、もっとも重要なのは夜なくしては昼を認識することすらできないということである。否定的なものを破壊するということは、同時に肯定的なものを楽しむ可能性をすべて破壊することにほかならない。このように、この進歩という冒険に成功すればするほど、われわれの失敗は顕著なものとなり、不満感も高まってくる。
  • 是非には違いがあるのだろうか
    善悪には違いはあるのだろうか。
    他人が恐れることを恐れる必要があるのだろうか。無意味なことだ!
    有無は共に生じ、
    難易は互いを前提として成立し、
    長短は互いを引立てる、
    高低は相対的であり、
    前後は互いにあい従う。      (『老子』)
  • 荘子は、これをくわしく説明する。
     このように、誤りなくして正しいとか、悪政なくして善政だけを口にするのは、宇宙の偉大な原理、生命の本性を理解していない証拠である。地なくして天の存在を語り、陽なくして陰の原理を説いたとしても、それはまったく不可能なことだ。にもかかわらず人々は相変わらずその手の議論をしている。そのような人々は愚か者か無頼の徒であろう。
  • もしこれまでいわれてきたことが真実であれば、リアリティとは二コラウス・クザーヌスが対立の一致と呼んだものである。推論的な思考は、クザーヌスが神と呼ぶ究極のリアリティの一側面しか表すことができない。その無限な多様性を語りつくすことはできないのだ。つまり、究極のリアリティとは対立の統一なのだ。(ルードリッヒ・フォン・ベルタランフィ:生物物理学者)
  • われわれは境界の魔術、すなわちアダムの罪に呪縛されており、境界線自体の性質を完全に忘れてしまっている、というのが事実であろう。いかなるタイプの境界線も、真の世界そのもののなかには見出だすことができず、唯一、地図製作者の想像のなかに存在するからだ。もちろん、自然界のなかには、大陸とそれらを取り囲む大洋のあいだに存在する海岸線のようなさまざまな種類の線がある。実際、自然のなかには多種多様な線や面が存在する一葉の輪郭と有機体の皮膚、地平線、木の年輪、湖岸、光と影の面、あらゆる物体を環境と分ける線、これらの面と線が存在するのは明らかである。
     だが、たとえば陸と水のあいだの海岸線のようなこれらの線は、ふつうわれわれが考えているように単に陸と水の分離を表しているわけではない。・・・これらのいわゆる「区分線」は、同時に陸と水が互いにふれあう場所をそのまま表している。つまり、これらの線は区分し、識別するばかりか、つなぎ、結合するのである。となると、これらの線は境界ではない。これから見るように線と境界には大きな違いがあるのである。
     さて、重要なのは、線が相対立するものを区分すると同時に結ぶということである。そして、それこそが自然のなかのあらゆる線や面の本質であり、また機能なのだ。それらは表で相対立するものを区分すると同時に、裏でそれらを統一するのである。
  • 重要なのは、自然やわれわれを構成するすべての線が、相対立するものを区別するだけでなく、その二つを結び不可分に統一するということである。線は境界ではないのだ。線は精神的なものであれ、自然のものであれ、論理的なものであれ、単に区分するだけでなく結び合う。一方、境界は幻想そのものである。実際には分離できないものを分離するふりをするのだ。こういった意味では現実の世界には線は含まれているが、真の境界は含まれていない。
     実在する線は、われわれがその両側を分離した関連のないものと思い込んだときに幻の境界となる。その二つの外面的違いを認め、内面的な一体性を無視したときに幻の境界となるのである。内側が外側と共存していることを忘れたとき、線は単に分離するだけで同時に統合はしないと思ったとき、線は境界となる。境界ととり違えさえしなければ、線を描くことには何の問題もない。
  • 快楽と苦痛を区別することには何の落ち度もないが、快楽と苦痛を分離することはできない。
  • 「生きるうえでの問題」の大半は、対立とは互いに分離、隔絶できるものであり。またそうすべきであるという幻想に基づいている。だが、あらゆる対立は、実際には根底をなす一つのリアリティの二つの側面であるために、これでは一本の輪ゴムの両端を完全に切り離そうとするようなものである。せいぜい、激しくちぎれ飛ぶまでどんどん強く引っ張るのが関の山であろう。
  • 世界中のあらゆる神秘的伝統において、対立の幻想を看破した人が「解放されたた者」と呼ばれる理由もこれでわかってくる。なぜなら、彼は対立の「対から解放され」、根源的に意味をなさない問題と、対立の戦いにまつわる葛藤から解放されているからである。彼はもはや平穏を求めて対立を操作し、一方を他方と衝突させようとはしない。そのかわり両者を超越する。善対悪ではなく、善と悪を超えるのだ。彼は生対死ではなく、両者を超越する自覚の中心となる。対立を分離し、「肯定的な進歩」をするのではなく、両者を超越、包括する一つの基盤を発見し、対立、すなわち肯定と否定の両方を統一、調和させるのだ。そして、これから見ていくように、その基盤こそが統一意識そのものである。
  • おのずから来るものに満足し
    対を超え、ねたみから解き放たれ
    成功にも失敗にも、行為さえ執着していないものに、束縛はない。
    嫌うことも求めることもない、その人は永遠に自由である。
    対から自由になったものは、容易に争いから解き放たれるからである。
    (『バガヴァッド・ギーター』:ヒンドゥー教の聖典)
  • 彼らはイエスにいった。では、子供になれば王国に入れるのですか?イエスは彼らにいわれた。あなたが二つのものを一つにするとき、内部を外部、外部を内部、上を下とするとき、そして男を女を一つにするとき、あなたがたは王国に入るだろう。
    (『トマス福音書』)

無境界―自己成長のセラピー論
ケン・ウィルバー
平河出版社
1986-06





  • 本書はわれわれが現在の体験をさまざまな部分に分割し、境界を設け、自分自身、他者、あるいは世界からいかにして絶えず疎外されていくかを探求するものである。たとえば、主体対客体、生対死、心対身体、内対外、理性対本能のように、われわれは自らの自覚を人工的に分割して区分をつくり、体験と体験、生と生が相争うような分裂をつくりだす。このような暴力がまねく結果は、さまざまなことばで語られるが、要するに不幸そのものである。人生が、戦いに明け暮れる苦しみと化すのだ。だが。われわれの体験におけるこれらの戦い一葛藤、不安、苦しみ、苦悩-は、われわれの勝手にでっちあげる諸々の境界によって生み出されるものである。
  • 気がつくと、わたしは炎のような雲に包まれていた。一瞬、火事かと思った。どこか近くが大火事になっているのかと思ったのだ。ところが、つぎの瞬間、燃えているのは自分の内側であることに気づいた。その直後、えもいわれぬ知的な光明をともなった極度の高揚感、歓喜の絶頂がやってきた。そして、宇宙が死せる物質によって構成されているのではなく、一つの生ける「存在」であることを知った。単にそう考えたわけではない。わたしは自らの永遠の生命を自覚した。永遠に生きるという確信をもったのではなく、自分に永遠の生命があることを自覚したのだ。さらに、人類すべてが不死であることを知った。あらゆる物事が協力しあいながら、互いのためよかれと思って働いていること。あらゆる世界の根本原理が、いわゆる愛であること。宇宙の秩序とはそういうものであることを知ったのだ。(R・M・バック)
  • 路傍の塵や小石は黄金のように光り輝いていた。はじめ、諸々の門は世界の果てであった。そのような門の一つをとおして見た緑の木々は、最初わたしを無我夢中にさせた・・・街角で遊びまわる子供たちは、動く宝石であった。彼らが生死するのかどうか、わたしは知らない。だが、あらゆるものがしかるべき場所に永遠にとどまっていた。陽光の下に「永遠」が顕れていたのだ。(トラヘルネ)
  • ふたたび、歓喜がやってきた。言語と絶するめくるめく荘厳さに驚嘆したかのように、歓喜のあまり宇宙は静止していた。無限な全宇宙のなかの唯一の存在。愛のみの完璧な存在・・・天上の至福ともいうべきそのすばらしい瞬間に光明が訪れた。内へと向かう強烈なヴィジョンとともに、宇宙を構成する原子や分子が――それが物質的なものか、あるいは精神的なものか、わたしにはわからない――自らを再統合するのをわたしは見た。コスモスが(不絶の果てなき生命のうちに)秩序から秩序へと移るにつれて再統合したのである。その鎖には何の欠落もなく――一つの輪さえ取り残されはしなかった――すべてのものがしかるべき場所と時間におかれているのを見たときの、このうえない喜び。あらゆる世界、あらゆるシステムが一つの調和した全体に溶けこんでいた。(R・M・バック)
  • 通りはわたしのものであった。寺院も人々もわたしのものであった。空もわたしのものであった。太陽も月も星々も、また、世界すべても同様にわたしのものであった。そして、それを唯一ながめ楽しんでいるのがわたしであった。ぎこちない礼儀作法も境界も隔たりもなく、すべての作法や隔たり、あらゆる宝物とその所有者もわたしのものになっていた。これまでわたしは、わざわざ骨を折って堕落し、この世の汚れた企てを学んできた。いまやわたしはすべてを忘れ、あるがままの幼子に返り、神の王国に入るであろう。(トラヘルネ)
  • 境界の内側にあるものはすべて、「自分」と感じたり、呼んだりしているものである。一方、その境界の外側にあるものは全部、あなたが「非自己」と感じているものである。言い換えると、自分のアイデンティティはすべて、その境界をどこに設けるかにかかっていることになる。
  • この境界線に関して興味深いのは、それがしばしば移行するということである。引きなおすことができるのだ。ある意味で、自分の魂の地図を作りなおし、その領域のなかにそれまで可能だとも獲得できるとも、あるいは好ましいとも思っていなかったものを入れることができるのだ。・・・境界線のもっとも革命的な再製図ないし移行は、至高のアイデンティティの体験で起こる。ここでは、自分のアイデンティティの境界が全宇宙まで拡大するからである。境界線がまったくなくなるともいえよう。
    「一つの調和した全体」と同一化しているときには、もはや外側や内側がなく、境界線を引くことができないからである。
  • 自分のアイデンティティと感じているものが、自らの有機体全体を直接包括せず、自我と呼ばれる有機体の一つの局面だけに限られてしまうのである。つまり、頭のなかの自己イメージとそれに関連した知的、感情的プロセスにアイデンティティをもつのである。自らの有機体全体とアイデンティティを正しくもたないために、その有機体のイメージや心象にアイデンティティをもつのだ。こうして自分を「自我」と感じるようになり、からだは自分に従うものにすぎなくなってしまう。ここで自我、自己イメージをアイデンティティとして確立するもう一つの境界線が生まれるのである。
  • 自然は真実の蛙と虚偽の蛙を生むわけでも、貞淑な木とみだらな木を生むわけでも、正しい海とまちがった海を生むわけでもない。自然のなかには道徳的な山と非道徳的な山は見当らない。美しい種と醜い種があるわけでもない--自然はあらゆるものを喜んで生み出す。そのため、少なくとも彼女(自然)にとってはそういったことは存在しないのだ。自然は絶対に謝らないとソローは語った。自然は正誤の対立を知らず、そのために人間が「まちがい」と思うことを認知しないからである。
  • しばらくのあいだ、アダムの努力は魔術的なすばらしい成果をあげた。そのためアダムは少々生意気になってきた。境界を拡大し、地図のないほうがよい場所についての知識も獲得したのである。この生意気な行動は、善悪の対立の樹とも呼ぶべき知識の樹に集大成されている。そしてアダムが善と悪との対立に気づいたとき、すなわち決定的な境界を設けたとき、彼の世界は崩壊したのである。アダムが罪を犯すやいなや、彼自身がその創造にかかわった対立の世界全体が、アダムを悩ませはしめた。苦痛対快楽、善対悪、生対死、苦労対遊び--相容れない対立全体が人類に襲いかかってきたのである。
     アダムはさらに困った事実に気づいた。あらゆる境界線はまた潜在的な戦線であり、境界を設けることは戦いの準備でもあったのだ。相対立する戦争、死に対する生、苦痛に対する快楽、悪に対する善の苦しい戦い。アダムが学んだのは――もはや手遅れだったのだが――「どこに線を引くか?」は、実際には「どこで戦争が起こるか?」という意味にほかならないということであった。
     事実は単純だ。われわれが争いと対立の世界に住んでいるのは、われわれが境界の世界に住んでいるからである。すべての境界が同時に戦線だというところに、人間のおかれた苦しい立場がある。境界が強化されればされるほど、戦いは苦境に陥る。快楽に執着すればするほど、さらに苦痛を恐れなければならない。善を追求すればするほど、悪に対する強迫観念が強まる。成功を求めれば求めるほど、失敗を恐怖する。生に執着すればするほど、死はより恐ろしいものになってくる。何かに価値を見出だせば見出だすほど、その喪失が怖くなる。つまり、われわれが抱えている問題の大半は、境界とそれが生み出す対立の問題なのだ。

「衆に聞く心」
  • 法を人に説くよりも、人の心を十分に聞くということが最も広く自分が生きるゆえんであると考える。
  • 自分はどこまでも純な自分を失わず、他によって侵されず、移されないようでなければならぬ。かくいうことは、いつまでも自分はかような自分であると固守して成長を心がけないことあると誤解してはならぬのである。多くの人の心を聞けば、自然に自分の内容が拡大されてくる。そこに現るる純一な自分は、広く聞かなかったときの自分と異なった形になるのはもちろんのことである。
     広く万人の心を聞こう、民衆の中に入ろう。妥協をさけ、征服をさけ、民衆の声を聞き、民衆の中に叫ぼう。
「老境の黎明」
  • 死を思うときに世の中の一切がなんでもないような軽い気持ちになると同時に、世の中一切の人のいうていることがみな無理のないように聞こえてきます、みなもっともだと思われるようになってきます。
「霊魂問答」
  • (B)希望のあるのは、本体のある証拠です。影のあるのは、形のある証拠であるように、人間の心にかくありたいという希望の起こるのは、それ以前にかくあるという実在があるからだと哲学者たちはいうております。こうした意見に従えば、貴方が、個人的の霊魂の存在を希望するのは、個人的霊魂の存在するゆえんであるかも知れません。だから、貴方は、貴方の願いのとおりに、貴方自身の霊魂がいつまでも存続するものと思うていたらよいでしょう。
  • (B)私は、死後における霊魂の有無を沙汰する前に、現在における霊魂の有無を考えなければならぬと思う。現在における霊魂の有無を考える前に、まずその霊魂とはどんなものであるかという事を考えなければならないと思う。問題はここから始まり、ここに最後の光が現れてくるのであります。
  • (B)その内から動きだす力が生命の根源であるとも、あるいはまた生命それ自身であるともいわねばなりますまい。霊魂とは、この生命それ自身の名ではありますまいか。ソクラテスが、霊魂とは「我々が動きだそうとするその根本の心である」というておるのは、面白い考え方だと思います。霊魂が、この生命であり、動きだす心であるとするならば、現在の私たちの生活にこれが存在しておる事は、疑うべからざる事である。
  • (B)つぎの内省者は、霊魂を五尺の肉体の上にのみ見ないのであります。かかる人は、自分という事を他に対して考えていない、普通にいうところの自も他も共に超え、共に抱擁した一の世界を認めるのである。こうした魂は、全世界に満ちたものである。だから、五尺の身体が滅しても霊魂は決して滅しないのである。この滅しない霊魂は、五尺の身体に限られたものではないからして、どこにも行くという事もありません。だから、霊魂の行先などという問題は、この霊魂を自覚したものには起こりようのない問題であります。一切処に自己の霊魂を発見したものには、死という特別な恐ろしい事はないのです。死は変化のない一面なのです。死が生なんです。生死は一如なんです。生成変化して行く宇宙の姿そのままが自分の魂の姿なのです。かかる大きな魂に目の覚めた者は、自分の肉体の死におののくような事はないのであります。同時にまた肉体の生を厭うて自殺するような事もないのであります。念々刻々に生成してゆくのが、この魂の自覚者の生活であります。
  • (B)霊魂は自我です。自我の事を霊魂というのです。言葉の上でいうときには、私の霊魂といいますけれども、私というものがあって、その私の所有する霊魂というのでもなく、霊魂のほかに私というものがあって、その私のために所有せられる霊魂でもありません。私のほかに霊魂なく、霊魂のほかに私はないのであります。だから、私がすなわち霊魂なんです。
  • (B)私のほかに霊魂があるならば、私がもし主観であるならば霊魂は客観でなければならぬ。そうした霊魂は物質的な、機械的な運動作用にしかすぎないのである。霊魂というものは、私がというておるその根本の主観であるのである。だから、私の霊魂という事は、私がすなわち霊魂であって、私が何々するといえば霊魂が何々するという事になるのであります。
  • (B)霊魂のほかに宇宙があるならばすなわち霊魂が宇宙を所有しておるというならば、宇宙に対して霊魂は、超越的なものでなければならぬ。そうすると、宇宙という言葉の意味が成立しないことになる。宇宙とは、それ自身全体であって、それ以外に何ものをも存在しない事になる。宇宙とは、それ自身全体であって、それ以外に何者をも存在しないという事を意味する言葉だる。神が宇宙を作ったという言葉がある。こうした時には、神は宇宙以外な超越的なものである。こうした超越的の神の上に自分を見いだしておる人もある。こうした人にとっては、魂が宇宙の外にあるという事になる。しかし私が宇宙というのは、宇宙の外に何ものの存在をも許さないところの、一にして絶対なる存在を宇宙という名をもって現しておるのである。だから、もし神というものがあるならば、それも宇宙の中の一存在でしかない事になる。神や霊魂が宇宙の内の一存在であるとするならば、それが宇宙の一部分を占むるか、宇宙の全部を占むるかの二つの場合でなければならぬ。内省されたる阿頼耶識は宇宙の外にあるものでもなく、宇宙の一部分であるでもなくして、宇宙それ自身なのである。阿頼耶識の活動が主観となり客観となるのであり、認識となり認識せらるものとなるのである。こうした意味で、阿頼耶識の姿であるといってよい。宇宙を静的に見た時に、それが宇宙の現象であり、これを立体的に見た時に、阿頼耶識なのである。ですから、我は宇宙であるという事は、宇宙が我が所有であるという事ではなくして、我が宇宙に満ちておるという事であります。
  • (A)かように承りますというと、霊魂というものは、宇宙に満ちた一つの存在であります。それでは、その霊魂になぜ、我が霊魂だの、彼の霊魂だのと区別をするのですか。
    (B)霊魂は一であります。唯一の存在であります。霊魂には、過去と未来と現在との隔たりはありません。霊的には、国土の境はありません。霊魂の世界は無限であり、絶対であります。ですから霊魂を自覚したものは、広い世界におるのであります。それを、彼の霊魂とか、我が霊魂とかいう事はできないのであります。彼の霊魂の、自分の霊魂のというておる間は、まだ、第七末那識の境地から出られない人の言い分であります。
    (A)かように承りますと、個性の区別などという事は一向ないようでありますが、それについては、どういうお考えですか。
    (B)個性は確かにあります。一の世界に無限の他が存在しております。その一々の他が、その一角において、自己を中心として一の世界を自覚します。他のものがまたその一角に立って、そこを中心として一の世界を自覚します。かくて、多の個性が、多の中心をもって、一の世界を内観します。内観せられた一は絶対の一です。だから、内観する多もまた、一の中に融合しております。しかしながら、その立場において、無限の多があります。その多が個性です。
    (A)霊魂が佛になるという事は、どういう事をいうのですか。
    (B)我々が我々自身の魂を自覚する時に、自覚者と呼ばれるのである。佛陀がそれである。だから、仏陀とは、内省によって阿頼耶識を発見した個性の所有者をいうのである。それで仏陀は唯一者であります。そうしてまた無限に存在するのであります。一佛でありまた多佛であります。内観の地位に立っておる時の佛陀は、唯一者であります。ここには一佛の世界があります。この一佛の世界を反省した場合に、ここに多数の個性のもとに自覚したる多数の佛を見ます。この時は自分もまた諸佛の一人であるのであります。語を換えていえば、向上的な求道者にとっては、常に一佛が現れております。この向上者が直感の目を反省の方向に向けた時に、自分と同じく多くの自覚者の姿を見ます。かくして、多数の佛の世界に入るのであります。この多数の仏陀は、それぞれの違った色彩を持っております。そうして、その各々に、ふさわしい光を放っております。青き色には青き光あり、白き色には白き光あり、赤き色には赤き光あり、黄なる色には黄なる光あり、多くの自覚者は一の世界の上に立ち現れて、それぞれの光を放って輝いておるのであります。
    (A)そんな第八識は私にもあるのでしょうか。
    (B)あるかないか、貴方が内省してみるとよいです。貴方は、五感の世界に飽き足らず、意識の世界にも飽きたらず、頑張ったる自我の世界にも飽きたらず、これらの世界の上に苦悩を感じ、不満を抱き、この境地を解脱して、もっと広い、不滅な世界を求めておるではありませんか。その心こそ、貴方の中心に芽生えておる阿頼耶識の芽であります。その芽を『無量寿経』には「無上正直道の意」と記してあります。「無上正直道の意」が阿頼耶識の発現する芽であります。この心が、菩提を求むる心であり、佛になろうとする願いであります。これを本願ともいわれましょう。根本主観ともいわれましょう。これを発見してこれに信頼する生活者は宇宙と命を一にする無量寿の人であります。この境地を味わうようになると、もはや貴方が初めに問うたような、人間が死んだらどこに行くとか、人間の魂はどうなるのであるというような質問が、出てきようがなくなるのです。この一つの魂に目覚めた者は、闘争的な意識には住してはおりません。哀願的な感傷にも住しておりません。彼は、一切人の悩みを静かに悩みつつ、一切人の望みを静かに一心に生きてゆきます。
  • (B)いつも眼を内に向け、自分の本心に湧いてくる志願を見る事に努力し、その志願のままに生きる事に精進するのです。二の一心不乱の精進によって、至純にして、全き魂の世界が、自然に貴方の前に発見せられるのであります。
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