勇気の出る名言集

過去に読んだ本で勇気を与えられた言葉のアンソロジーです。

2023年08月

禅の境涯―信心銘提唱
沢木 興道
大法輪閣
1997-11-01


  • 実のところは、内緒でお経を誦むのが本当のお経である。人知れず心の中に本物を持つということが、わしは宗教というものであろうと思う。
  • 「ただ暫く吾我を忘れて潜かに修す。すなわち菩提心の親しきなり」(道元『学道用心集』)
  • わしの信心というのは清き心、心の清らかなること、透明なること、透き通る気持ちになること。…そうすると、心を信ずる信心。信心ということは、心を信ずるということです。…この心という字を首楞厳経というお経の中には常住の理を信ずるとある。これを意味から言うと、間違いのない。過去現在未来、間違いのないところの道理を信ずるということです。これなら本当の信心でしょう。
     常住の理を信ずる。中途半端な、いい加減な、不十分な、ごまかしのものを、いい加減に信ずるんじゃあない。これこそ間違いのないところの道理を信ずる。そう信ずるのでなければダメである。この常住の理を信ずる。それを名づけて信心という。
  • そこで、信心ということは、言葉を換えて言うと、本当の自分を信ずることじゃ。我々は物を信ずると言うくせに、信ずる自分を持っておるのか、おらないのか。信ずる自分があるのかないのか。
  • 因縁生というものは、かりに一時ぎり、その時ぎりに出来るものじゃ。ちょうど雲が出来てくる。ふわっとお多福みたいな雲が出来る。あれは因縁生じゃ。気圧やら気流やら、いろいろな都合で、雲がふわふわ出来る。それが気候やら。お天道様やらの都合で、お多福みたいになったり、龍みたいな格好になったり、鱗みたいな格好になったりする。それは因縁生で決まりはないのだ。
  • 父母もその父母も我が身かな 我を愛せよ我を愛せよ(二宮尊徳)…そうすると四方八方みな我が身、宇宙いっぱい、広大無辺の自分というものが…。
  • こういうことを、涅槃経の中には悉有仏性。この我が身、この我が身が仏性。ここでは信心の心という。ここで心というのは、つまり三界唯一心、心外無別法。一切の根源を心という。これを法華経では諸法実相ともいう。
  • めにみえぬかみの心に通ふこそ ひとの心のまことなりけり(明治天皇)
  • 至道ということは、それは神様の道、仏様の道。人間のこしらえたものではない。根から生えたものなら、何にもどうせんでもいい。それを道元禅師は、眼は横、鼻は縦と言われた。
  • 真っすぐにすっとこう入って行く。その真っすぐにすっと入って行くのが非常に難しい。真っすぐにポッと入れん。いわゆる素直でない。で、素直なものなら回わり道をせずすうっと入る。ところが、邪魔な妙なものがたくさん入っておる。これを先ず学問というか、邪魔をする。ああも言えるのではないか、こうも言えるのではないかそう言えばしようがない。こうしよじゃないか。――遠回りして、とうとう入れ物のぐるりから中へ入らないでしまう。そこが唯嫌揀択です。ただ揀択を嫌う。
  • 人間というものは、寒い時に「ああ寒い寒い」と言うと、余計に寒い。その時にそっとしておると、そんなでもない。暑い時に「ああ暑い暑い」と言うだけで、だんだん汗が出てきて、余計に暑くなってくる。不景気の時は余計に不景気、かなわん時には余計にかなわん。ここに我々はそれに囚われるのですね。いわゆるその囚われによって心病が起こる。心病を患う。それは一種の精神病です。
  • お釈迦様の言葉の中に、「黄金は毒蛇」という言葉がある。黄金は毒蛇。それから老子の言葉の中に、「美好は不祥」という言葉がある。
  • 人生には人間の目に見えん深い深い深さがある。それが玄旨です。この玄旨を知っておれば、そうバタバタせんでもよい。玄旨を知らんと、バタバタせんならん。金がなければ金がないと言う。
  • どんな良い細君を持っても、どんな良い婿さんを持っても、それで幸福とは言えない。不幸はいくらでも考え出せる。人間というものは不幸を考えている。自分の頭の中で、不幸や災難を組み立てよる。面白いのじゃ。
  • 面白くない世の中を面白く(高杉晋作)過ごすは人の心なりけり(野村望東尼)
  • この世界は好うしたもので、自分一人の気の持ちようと覚悟次第で、どうにでもなる。そのどうにでもなるものを、自分勝手に、握りっ屁のように、自分一人で思い出しては涙を流し、歯ぎしり噛んで苦しんでおるが、実際はどうでもない。

41歳からの哲学
池田 晶子
新潮社
2004-07-17


  • ほとんどの人は、善悪とは社会的なものだと思っている。人に迷惑をかけなければ何をやってもいいのだと、実のところは思っている。「自分さえ善ければ善い」という言い方が、端的にそれである。これをもう少し巧みに言うと、「自分に正直に生きたい」となる。自分に正直に買春し、自分に正直に殺人するのも、法律に触れなければ、善いことなのである。
     しかしこれは間違いである。善いということは社会にとって善いことなのではなく、自分にとって善いということなのである。おそらく、殺人者は言うだろう。「自分にとって善かったから殺したのだ」と
     この時の「自分」が問題なのである。普通は人は、自分は自分だ、自分の命は自分のものだと思っている。だから、自分の生きたいように生きてなぜ悪いという理屈になる。
     むろん悪くない。いや正確には、人は自分が善いと思うようにしか生きられない。だからこそ、それを善いとしているその「自分」の何であるかが問題なのである。
     自分の命は自分のものだ。本当にそうだろうか。誰が自分で命を創ったか。両親ではない。両親の命は誰が創ったか。命は誰が創ったか。
     よく考えると、命というものは、自分のものではないどころか、誰が創ったのかもわからないおそろしく不思議なものである。言わば、自分が人生を生きているのではなく、その何かがこの自分を生きているといったものである。ひょっとしたら、自分というのは、単に生まれてから死ぬまでのことではないのかもしれない。
  • 気づいてのち知る善悪は、何がしか「天」とか「自然」とか、そういったものに近いはずだ。人が、個人などという錯覚を信じ、天を忘れるほど、世は乱れるのは当然である。しかしそれも、たかだかここ数百年のことにすぎない。古人たちは知っていた「天網恢恢疎にして漏らさず」。
  • わからないことをわかる方法は、哲学ではなくて科学ではないかと言う人もあろう。しかし、あれはあれで問題がなくはないのである。科学によればすべてがわかると思い込むとは、わからないということがわかっていない。遺伝子がすべて解読されたところで、人が生きて死ぬということそのものの謎は、ほんの少しも動いていないのである。
     にもかかわらず、科学者が言うからそうなのだと、現代人のほとんどは思い込んでいる。これは立派に宗教である。
  • 楽しいお墓ウォッチング。墓地は、死ぬという全くわけのわからない事態に対処するために、人類が編み出した涙ぐましい知恵の集積である。そう思ってあれらを見ると、全く違う世界が届けるのである。死ぬということは、どう考えても相当に変なのである。
  • 死ぬということと、死体になるということは、よく考えると同じことではない。なるほど他人にとっては、死ぬということと死体になるということは、同じことであるように見える。しかしそれは、「私は死んでいる」と死体は言わないということにすぎない。死んだ本人が死んで存在しなくなったのかどうか、生きている我々には、やはりわからないのである。
     わからないからこそ、葬式をするのである。考えるほどに、死ぬとはどういうことなのか、その人は死んだのかどうか、わからなくなる。それで、わからない死を、わかったことにするために、葬式が要るのである。わからなくないのになぜそれが可能かというと、そこに死体があるからである。物としての死体がそこにあるから、それをもって、その人は死んだということに、とりあえず「する」のである。その意味では、死とは、社会的な決め事以外のものではない。それ以外に、死なんてものは、この世の中のどこをどう探しても存在していないのである。
     このように、葬式とは、死んだ者の問題ではなくて、生きている者の問題なのである。…死んだ者を前にして、何もしない、何も反応しないということが、われわれにはできないのである。なぜか。
     生きている者が死ぬ、動いていた者が動かなくなるとは、驚くべきことだからである。
  • 世の中とはかなり可笑しなものである。霊は存在するかと改めて問われれば、誰もが困る。なのに、日常生活では何ら困ることなく、誰もが霊の存在を認めている。つまりそれが何なのだか理解していなことを、しかし平気で、人は生きているのである。これを我々の常識という。常識のすることは、我々のさかしらな理解を超えて過たないのである。
  • 科学が証明できるものは物質に限られる。霊なんてものは、見えも触れもしないのだから、物質ではない。したがって、そんなものの存在を科学で証明できないのは決まっている。だからと言って、これは、その存在を信じるか信じないかということとも違う。
     肉体ではないところの自分は物質ではないが、自分の存在を信じるか信じないかとは誰も問わないであろう。自分の存在は、科学による証明なんぞぬきで、誰もが頭から認めている。これは我々の大常識である。それなら、なんで死んだ人の存在ばかりが、特別扱いされることになるのか、逆に私は不思議である。霊の存在が、なんでそんなに不思議なことなのか。
  • 霊の存在ばかりを不思議がる人は、自分が存在するということの不思議を知らないのである。そんなことは当たり前だと思っているのである。そうだ、当たり前だ、この当たり前の驚くべき不思議に、なぜあなたは気がつかないのだろう。
     見えるか見えないかということが、不思議か不思議でないかの境い目であるらしい。それなら、見えるということの方は、なんで不思議なことではないのか。目があるのだから見えるのは当たり前だと思っているのである。しかし、なんだって、目なんてものがあって、なんだって、見える世界を見たりしているのか。これは全くとんでもないことではないか。
     見えるものは何であれ存在するのである。夢ですら、存在しなければ見えないのである。ところで、目は閉じているのに見えているあれの存在を、なぜ人は不思議がることをしないのか。見えない幽霊の存在なんぞより、この方が私にははるかに不思議である。
  • 自分を超えたものを認めるということは、本当に大事なことである。それのみが、我々の人生を豊かにする。認めるためには、特別な修行も勉強も要らない。万物が存在していることの不思議に、気がつくだけでいいのである。そしたら神仏の名前なんて、本当に何でもいいのである。
  • 死んでのち何もないということなど、人はどうしても考えられないから、骨にすら話しかけたりするのである。なるほど、すべては、本当は無いものを在るとしている自分の心の投影なのかもしれない。しかしそれなら、必滅の肉体を本当に在ると思っているのもまた同じく、自分の心の投影であろう。肉体も世界も、この世の一切合切は、心が自ら作り出している幻影であろう。

41歳からの哲学
池田 晶子
新潮社
2004-07-17


  • 過去も未来も名も肉体も、死ぬ時にはすべて自分からなくなるのである。自分は誰でもない、ただの自分になるのである。人はそれを思って恐怖するが、しかしそれは生まれる前の状態に同じである。けれども人は、それを思って恐怖することはない。「失う」と思うから恐怖なのだ。「手放す」と思えばいい。握り締めていたものどもを手放すのだと。しょせんこの世のことではないか。
  • この世で生きるということは、体をもって生きるということである。体は自然だから、変化する、壊れる、やがてなくなる。健康とは、そういう自然の事柄に寄り添うというか、いやむしろ離れて見るというか、流れに逆らわず舵を取るような構えのことだろう。体は人生のお荷物だというのは逆、体は人生を渡るための舟なのである。
  • 人間が動物と異なるのは、生死の何であるかを考える機能、すなわち精神を所有しているところにある。精神は、誰もが等しくそれを所有しているところにある。精神は、誰もが等しくそれを所有して生まれてきたはずのものである。なのに、ほとんど使用されることもなく、どころかその存在すら知られることもなく終了される人生とは、いったい何か。私には、そのような人生は、完全に無内容なものに見える。快楽の追求のためにのみ若さに執着し、中身は無内容のまま年老いたそのような人にこそ、皮肉なことに、「老醜」という形容がふさわしくないか。
  • じっさい、老いるということは、これを否定しさえしなければ、きわめて豊かな経験なのである。四十を過ぎて、私はこのことを実感する。何というのか、この玄妙な味わい人生の無意味もまた意味のうち、意味でも無意味でもない在ることそのもの、存在と時間、時間の時熟。自身の人生を歴史として味わえる成熟とは、そのまま人類の歴史である。飽きないのである。このまま六十、七十の歳を迎えるものなら、どのような思索の深みに遊べるものか、ワクワクするところがある。
     人生の快楽は、快楽としてむろんある。だからこそ人として生まれて、この快楽を知らずに死ぬのはもったいない。金もかからない。中高年の皆さん、考えることなら、今すぐ始められますよ!
  • じっさい、誰のためでもなく、自分のためである。自分のために善く生きるのでなければ、何のための自分の人生だろう。自分のクローンを作りたいと望む人など、よほどの悪趣味でなければいないと思うが、たとえば我が子のクローンならどうだろう。子供は死んだが、また同じのも作ればいい。そんな子供が、はたして大事か。人生が価値であるのは、それが一回的だから価値なのである。取換えのきくものは、価値ではなくなるのである。
  • 観念としての死とは、要するに、現実の死ではないところの死である。しかし、現実の死、つまり自分が現実に死ぬ時には、自分に死ぬのだから、自分が現実に死ぬのではない時の死は、すべて観念としての死である。ということは、生きている限り、人間にとっての死は、すべて観念だということである。死は現実にはあり得ないという、驚くべき当たり前のことである。
     当たり前、よく考えると確かにこの通りなのだが、当たり前のことほど人は考えないものだから、多くの人はこの当たり前に気づかないまま、一生を終えることになる。それが他人事ながら、もったいないと言えばもったいないような感じがする。
  • 我々は、生きることからは逃げられても、無くならないということから逃げられるものではない。そのことをどこかで知っている我々は、それを指して、「後生が悪い」と、正しく言ってきたのである。
  • 無は存在しないから、無なのであろう。無が存在したら、それは無ではないであろう。なんで死んですべてを無にするなんて芸当が、我々に可能なものであろうか。
     じっさい、こんな理屈は、考える必要すらないのである。理屈以前のたんなる事実、犬が西向きゃ尾は東みたいなもんである。なあんだ、というようなもんである。とはいえ、だいたいにおいて、当たり前なことほど人は気づかないものである。当たり前なことほど、難しい理屈に聞こえるものである。けれども、右のような理屈が、そんなふうに聞こえ、めんどうくさくて死ぬ気がなくなったというのなら、それはそれで、無用の用というものであろう。
  • 我々は、毎晩眠るけれども、眠る時はいつだって独りである。二人で並んで眠ろうが、大勢ごっちゃになって眠ろうが、眠る時、眠り込む時には、必ず独りである。隣りの人と一緒に眠って、一緒に夢を見るということは、絶対にない。眠るということは、完全に独りきりの、自分だけの出来事なのである。
     これを敷延すれば、目覚めている時だって、同じである。人は、目覚めている世界には大勢の人がいるので、大勢の人と共に生きていると思いがちだけれども、そうではない。大勢の人が生きているその世界を見、その世界を生きているのは、どこまでもこの自分でしかない。自分というのは、眠っていようが起きていようが、完全に独りなのである。
  • 大人たちがパニックになるのは、実は自分たち自身が、善悪の何であるかを知らないからに他ならない。知らないものは教えようがない。彼らは、自分たち自身の無内容を改めて知り、実はそのことに慌てているのである。

41歳からの哲学
池田 晶子
新潮社
2004-07-17


  • 人生の快楽を追求するより先に、そも人間とは何かを追求する方が先であろう。快楽だけなら、サルだって知っている。なにゆえの快楽なのかを考えるから人間なのである。しかし、きょうび「考える」など言って、その意味すら理解しないサル化人類が大量に出現している。携帯でテレビを観るサルである。サルは自分がサルであることを自覚しない。「自覚する」とは、精神を所有する人間にのみ可能な行為だからである。
  • リニアモーターカーの実現が近いとかニュースで言っていた。「東京大阪間が一時間も夢ではない」。しかし、そんなことを夢見た人が、はたしているのだろうか。東京大阪間が三時間だった時に、一時間であればいいと夢見た人が。
     そんな人はいないはずだ。三時間なら三時間で、それに見合った予定を人は立てていたはずだ。なのに、技術の側の勝手な進歩で、列車は勝手に速く走り出した。それに合わせて、人は予定を立てなければならなくなった。便利になるほど、時間は早い。忙しくなるほど、時間はなくなる。そうやって、忙しい忙しいと生きていたら、なんと死ぬ時がそこに来ていた。いったい人は、何のために何をしているのやら。
  • 人生の時間は有限なのである。全く当たり前のことなのだが、いつも人はそれを忘れる。忘れて他人事みたいに自分の人生を生きている。時間は前方で流れるものと錯覚しているからである。人生は、生から死へと向かうもの。死は今ではない先のもの。しかしこれは間違いである。死は先にあるものではない。今ここにあるものだ。死によって生なのであれば、生としての今ここに、死はまさにあるではないか。
     こういう当たり前にして不思議な事実に気がつくと、時間は前方へ流れるのをやめる。存在しているのは今だけとわかる。流れない時間は永遠である。一瞬一瞬が永遠なのである。有限のはずの人生に、なぜか永遠が実現している。永遠の今は、完全に「自分のものである。人生は自分のものである。この当たり前には、生きながら死ななけりゃ気がつかない。身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。
  • 自分とは、精神である。精神であるところの自分を信じなさい。自分を信じられなければ、他人も信じられない。自分を信じるということと、他人を信じるということは、全く同じことである。なぜなら、人間の精神は、それ自体で自他を超えているからである。
  • 言葉は交換価値なのではなくて、価値そのものなのだ。相対的な価値ではなくて、絶対的な価値なのだ。誰でも使えるタダのものだからこそ、言葉は人間の価値なのだ。安い言葉が安い人間を示すのは、誰もが直感している人の世の真実である。安い言葉は安い人間を示し、正しい言葉は正しい人間を示す。それなら、言葉とは、価値そのもの、その言葉を話すその人間の価値を、明々白々示すものではないか。
     だから人は言葉を大事にするべきなのである。そのようにして生きるべきなのであある。自分の語る一言一句が、自分という人間の価値、自分の価値を創出しているのだと自覚しながら生きるべきなのだが、こんなこときょうびの人には通じない。
  • 世の中には、世の中には役に立たないことをする人が必要なのである。そのような人こそが、本当は役に立つのである。「無用の用」、役に立たないことを考える人がいなくなれば、世の中どうなるか、明らかであろう。金もうけに奔走しながら真理を見失い、今や人々、自分が何のために何をしているのかを、全く認識していない。
  • なべて権利というものの考え方は、人間を卑しくする。生きるのに権利、死ぬのにも権利、命は自分のものだと思っているからだが、その命そのものは自分で得たものではない。命は天与のものである。それを認めるなら、権利など誰にも与えられる必要もないと、気がつくはずなのである。
  • 考えることは喜びである。…生きながら生死の謎を考えるということは、ある意味では、すでに生死を超えることである。そんなふうにして生きるということは、人生を本当に味わい深くする。ましてや、この楽しみには、それこそお終いということがな生涯現役、死んでも続くのである。…結局のところ最大の謎は死ぬということなのです…
  • 子供を産むということは、損得の問題なのだと人は錯覚するのは、子供というのは、自分が産むものだと思っているからである。…子供とは、自分が作って、自分が産むもの、子供を産むのは自分の意志だと、人は思っているが、しかし、これは間違いなのである。…天の授かりものであるところのものを、人間社会の損得の秤で量るのはおかしい。いや、その量りようがないところのものを量れると思うから、せっかくの人生も、損得で量るつまらないものになるのである。
  • 生まれた子供は自分ではない。自分が作って、自分が産んだのだから、子供は自分の子供だと人は言いたくなるのだが、しかし、自分が産んだ子供は自分ではない。他人である。他人の人生を気の毒がるのは、失礼であるか、むしろ傲慢である。
  • 物事は、なるようになっていて、ならないようにはなっていない。これは偉大な真理である。宇宙の真相である。なるほどそれを運命というのなら、運命なのかもしれない。しかしそれは、そう生きればそれが運命であるという、当たり前のことでもある。裏から言えば、運命は、人生は、生きてみなければわからない。遺伝子なんて説明は、このわからないことをわかったと思わせるだけのものである。生きてみるなら、それは全く同じことなのである。

41歳からの哲学
池田 晶子
新潮社
2004-07-17


  • 要するに、誰も責任などとりたくないのである。自分で自分の責任をとって生きるのなどイヤなのである。だから他人に責任を要求する。自己責任をとらない人ほど、自己責任を要求する。しかし、そんなことは、やっぱり不可能なのである。他人にそれを要求したところで、生きるのは自分でしかないからである。「責任」とは、「生きる」ということ以外の何であるか。
  • 保険とは、お互いが、いつ死ぬかというわからなさに賭ける一種の博打だというなら、私のような者でも納得できる。博打には博打の腹の括り方というものがあるだろう。博打に統計をもち込むのは、姑息であるか、野暮である。
     科学技術とは、わからないことをわかったと思わせる一種の詐術である。しかし、人生は、わからないから生きられるのである。
  • 景気のよい時代に、自分の青春が遭遇したのは、たまたまのことである。それは、自分が凄かったのでも自分が偉かったのでもない。たまさかの僥倖なのである。たんなる現象である。たんなる現象をたんなる現象だと認識していないから、景気が悪くなれば、自分も終わりのような気持ちになる。しかし、景気がよかろうが悪かろうが、自分が自分であるということには、何ら変わりはないではないか。
  • 人生の価値は、生活の安定や生命の保証にあると思っていると、そのこと自体で、人は萎えてくるように思う。倒産から脳梗塞まで、人生にはいろいろあるのが当たり前だからである。むろん、それはそれで本当に大変なことである。けれども、そんな大変なことどもを、どれだけ萎えずに生き抜くことができたか、それこそが人生の価値なのだ。そう思っていた方が、逆に生き易いような気がする。
  • 適宜要件を入れておくと、適宜相手に伝わるというのがいいらしい。なるほどそれは便利なことではあるが、必ずしも必要なことではない。ビジネスのためには必要だというのは、わからなくはない。しかし、ビジネスは自分の人生にとってどのように必要なのかを、たまには考えてみるのもよろし。経済効率を至上とする文明における、自分の生き死にの意味について。
  • で、そういったビジネス以外の場面での、通信手段の発達が、また別の問題を生むようである。つまり、ガラクタに等しい情報群の、無制限垂れ流し熟考する前に、すぐに言いたがるという傾向。すなわち、あれらが人をいかに痴呆化しているかということについての恐るべき無自覚。
  • 自分を認めてもらうために他人に認めてもらう必要はない。空しい自分が空しいままに空しい他人とつながっていく、なんで空しくないことがあるだろうか。人は、他人と出会うよりも先に、まず自分と出会っていなければならないのである。まず、自分と確かに出会っているのでなければ、他人と本当に出会うことなどできないのである。
     見も知らない人と愚にもつかない話をするよりも、得体の知れない人と、無体なセックスをするよりも、独りである方がいい。独りで自分と話している方が、はるかに豊かである。それを知らないのは、楽しみや喜びというのは、全部外界にあるものだ、外界から与えられるものだと、深く思い込んでいるからである。家に引きこもって、パソコンだけで人とつながっている人とて同じである。他人によらなければ、自分の存在理由が見出せないのである。
     しかし、そんなことはないのである。たとえばこの、自分の存在理由とは何かと、考えているだけでも、日がな一日退屈しない。じつに充実した時間が過せるのである。存在理由がありやなしやが問題なのではない。そんな問題など最初からないと看破することですら、心地よい解放である。快楽である。他人の存在など必要ない。お金は一円もかからない。こんなに手軽で安上がりな人生の楽しみ方は、他にはないのである。
  • 己れの無力さ、すなわち無知に目覚めるということは、じつは気持ちのよいことである。無知は知の始まり。我々の文明が、いかなる勘違いの上に、危なっかしくも成立していたものであったかを知るのなら、それもひとつの勉強であろう。とは言え、人間は、さほど賢くもない。だから、天災は忘れた頃にやってくると言う。
  • ひとつの事柄を述べるために、なんであのようにワーワーギャーギャー騒ぐ必要がああるのか。そも述べるべき事柄がないから、ああやってワーワーギャーギャー騒ぐことになるのである。つまりそれは無内容なのである。無内容なものは、何時間眺めようが無内容である。賢くなるどころか、馬鹿になる一方なのは決まっているではないか。あるいは内容のあることを述べている場合もあるかもしれない。しかし、次々に変わってゆく映像は、人に考える暇を与えない。人は、考えるためには、一度は必ず映像を離れる必要がある。一方的に映像を受けとる習慣は考えるという人間を人間たらしめている根幹の部分を、気づかず磨滅させるのである。
  • 私は、人間というのは本当に馬鹿だなあと、こんな時つくづく思う。「楽しめる」「楽しい」ということが、人生の至上の価値だと思っているのだ。むろん、苦しいよりは楽しい方が、その意味では価値である。しかし、楽しいという価値を至上として追求し、これを実現してきた結果、それが価値ではなくなってしまうという逆説に気づかないのである。「いつでもどこでも」それを楽しめるようになれば、そんなものが楽しいものではなくなるのは当たり前ではないか。楽しいということは、それが稀であるから楽しいのではないか。
<% for ( var i = 0; i < 7; i++ ) { %> <% } %>
<%= wdays[i] %>
<% for ( var i = 0; i < cal.length; i++ ) { %> <% for ( var j = 0; j < cal[i].length; j++) { %> <% } %> <% } %>
0) { %> id="calendar-476316-day-<%= cal[i][j]%>"<% } %>><%= cal[i][j] %>
最新コメント
<%==comments[n].author%>
<% } %>
アプリでフォローする
QRコード
QRコード

このページのトップヘ

'); label.html('\ ライブドアブログでは広告のパーソナライズや効果測定のためクッキー(cookie)を使用しています。
\ このバナーを閉じるか閲覧を継続することでクッキーの使用を承認いただいたものとさせていただきます。
\ また、お客様は当社パートナー企業における所定の手続きにより、クッキーの使用を管理することもできます。
\ 詳細はライブドア利用規約をご確認ください。\ '); banner.append(label); var closeButton = $('