勇気の出る名言集

過去に読んだ本で勇気を与えられた言葉のアンソロジーです。

2022年04月

  • 「九徳」(『尚書』)
    一、寛にして栗(寛大だが、しまりがある)
    二、柔にして立(柔和だが、事が処理できる)
    三、愿(げん)にして恭(まじめだが、ていねいで、つっけんどんでない)
    四、乱にして敬(事を治める能力があるが、慎み深い)
    五、擾にして毅(おとなしいが、内が強い)
    六、直にして温(正道率直だが、温和)
    七、簡にして廉(おおまかだが、しっかりしている)
    八、剛にして塞(剛健だが、内も充実)
    九、彊にして義(強勇だが、義い)
  • 「子供は理屈はわからなくても、お手本を見て倣うものです。模倣模倣というけれども、模倣は感化で、人間の本質です。子供は何もいたずらに模倣するのではない。化せられるのです。そこに家庭における父母の道徳実習のデリカシー、微妙さがある。家庭における子供の躾ということは、子供を叱ったり、強制することではない。父母のあり方が、自然にお手本になることなのです」(『新編 経世瑣言』)
  •  (安岡)先生はよく『筍子』の中に出てくる言葉を引用して、「人間の自由は物質的満足の得られること通(障害物の何もない道)にあるのではない。窮しても苦しまず、憂えても意衰えざるにある。禍福終始を知って惑わぬことにある」とおっしゃっていました。
  • 現代人は一般に根気がない、粘りがない。迫力がない。魂がないとよくいわれることである。インテリ階級ほどそうである。これは教科書と新聞雑誌万能の弊によることが甚大であると思う。
     久しい間邦人は学問は学校でやるものだと思ってきた。学校を出ることを卒業というてきた。これで終わったと思うから、ヤレヤレと緩みを覚え、それから次第に勉強を怠って、結局新聞雑誌しか読まない。実務に関する知識や技術は自然に習得するとしても、人間としての教養はだんだんなくなってしまう。アメリカあたりで大学を出ることをCommencement(出始め)というのはよい言葉であると思う。
     日本の教科書ではほとんど教科書が万能で、その教科書がまた単なる編纂物であって、魂が入っていない。国語にしても外国語にしても、一学期に何十頁ぐらい読んで、単語を覚えたり、文法をひねくっていたりしていて、何で精神なんかに触れることができようか。修身や歴史の教科書などにしても、物理や化学の教科書と一向変わらぬ冷々淡々たるものではないか。
     素養をつけようと思うものはこんなことではいけない。よろしく権威のある書を読んで精読し、また終始史記とか通鑑とか、源平盛衰記でも太平記でも、何によらずこれはと思う大部な書をぐんぐん通読する癖をつけねばならない。それでないと魂が移らない。力がつかない。そういう場合にはいわゆ る「甚解」――こまかい専門的解釈などの必要はない。小説を読みふけるようにすればよいのである。(『新編 経世瑣言』)
  • 何が正しいのかを考え、それを求める。常に傲ることなく内省し、至らないところがあれば恥じかしこまり、改める。自分たちばかりの利益ばかりでなく、公共全体の利益に心を及ぼしていく。そうした義の心、倫理観を持たなければ、平和に繁栄することがない。進歩というものがない。
  • 企業というものは、大きな組織力を持てば持つほど、何が人のため、社会のために役立つか、何が正しいかということを常に考えながら行動していかないと疲れえる。
     なぜ疲れるかというと、儲けのことばかりで、世の中の役に立っているのかどうかわからないような仕事をしていても面白くないからです。やはり人間というものは使命感を持って仕事をしていると楽しいに、活力が出てくるんです。これが商売の本道というものでしょう。
  • 商売というものは、顧客に利益があるから成り立つ。自分の儲けはその後にあるのだという根本を、日本の企業はもう一度しっかりと肝に据える必要がありそうです。
  • 道徳を忘れた経済は罪悪であると(二宮尊徳は)言う一方で、「経済を忘れた道徳は寝言である」とも言っている。…よりよい社会を実現させていくためには道徳と経済とがバランスのとれた形であり、相互に補強し合っていくようでなければならないというわけです。



  • 「功利学問は、まず第一に若人の純真な生命を毒し、思惟や情意を荒ませる。その結果、知識階級に低級狡猾な、そかもごまかしの巧い利己主義者ばかりがふえ、それらの人間が追々あらゆる社会的地位を占めてゆくために、社会生活の全般にわたって段々「純真な人間」の活動がはばまれて、狡智な動物、便利な器械が横行するようになる。知識や技術や免状資格が幅をきかせて人間の力量や徳操などは、おいて問われなくなる。これは人間が個人的精神的に死んでしまって、組織の中に化石し去らんかぎり耐えがたい問題であるとともに、このような社会はやがて早晩、日新の造化(造物主。天地宇宙)から遺棄される日が来ねばならない。
     真の社会はあくまでも人間社会の天地でなければならぬ。人々は各々人となり、人を知り、人を愛し、人を楽しむ社会でなければならぬ。イギリス人の一自慢に「フランス人はとかく人について何の試験に及第したかというような資格免状を問題にし、ドイツ人は何の知識を持っているかを論じ、アメリカ人は何ができるかというような才能を訊ねるのに対して、イギリス人はいかなる人物かという本質を問題にする」と言うのが、イギリス人のこの壊抱は、実は最も東洋人の主眼とするところである」(安岡正篤「東洋倫理概説」)
  • 「単に衣食の手段となれば、職業はつまらない。意気や張りや熱や力は、我々がより大きく生きんとするところに生ずるものである。自ら口を糊することぐらいは天然に動物が行っている。それを人間が苦しんで骨折らねばできぬとあっては、情けなくなるのが当然である。
     そこで第一になるべく骨惜しみをする。できるだけ安易にして何とかその日その日を済ませようとする。まして生存競争が烈しく、単に衣食の手段に過ぎぬ職業すら各人に得がたくなり、うっかり失敗でもしようものならば、いつそれをも奪われるかもしれぬということになれば「功あるを求めず、過ちなきを求む」で、ますます無為姑息になるをまぬがれない。しかるに人は労働をいとえば、心身は自然に沈滞し、志気阻喪し、閑居してあらゆる不善をする。
     第二に己が才能を顧みず、ひたすら安楽な職業、有利な職業を求める。近代人にとって、あらゆる感覚的享楽に都合のよい都会地の、しかも群集の中に己をくらまして放縦な生活をしながら、大量生産の粗製品に世をあざむく商標を粘って投げ売りするにも等しい学校に何年か籍を置いて、どこか官庁なり会社なりの組織体に使用人として入り、俸給生活をするぐらいの安楽で且つ有利なことはないのである。
     この就職学問、俸給取り根性、労働忌避、唯物的享楽主義者がどれほど人を毒し、国家社会を腐らせているか測り知れない。」
  • 「選挙演説会で国民大衆に大げさな正義を主張したり、時局に便乗してたくみに事新しく筆陣を張るものがあったとて、よめゆめ偉い人かと迷わされてはならぬ。その人の何でもない日用尋常の言動によく注意をしよう。案外化猫や古狸の正体が何でもない事にチラチラばれるものである。偉大な修行などというと、どんな奇抜な人間離れしたことをするかなどと思う間は、まだ何をわかっておらぬのである。尋常日用の工夫に徹するのが大修行なのである。
     大いに悟りを開こうと思って、まず仏という偉大な者の秘儀をつかもうとあせっておる僧に、逍州和尚は答えた、朝飯は食ったか。はい、いただきました。ならば食器をよくかたづけなさいと。」(安岡正篤「百朝集」)
  • 「人間の躾にしても、礼儀作法にしても、本来正しく自然な姿を求めるもので、実に合理的なもの」
  • 「家庭における子供の躾にしても、子供を叱ったり強要したりすることではない。父母のあり方が自然にお手本になることなのです」
  • 道の中に、分けて言えば宗教と道徳とがあるのです。この精神、この内容、これを豊かに、明らかに持つ限りにおいては、浄土宗であろうが、聖道門であろうが、つまり仏教であろうが、キリスト教であろうが何であろうが構わない。この本質を失うに及んでは、いかなる一宗一派も皆あれは宗教としては堕落であります。また宗教性つまり偉大なるもの、高次のものを敬仰する祭りを持たない戒律なんてものは、これは形式道徳、生命を失った型の如き道徳で、これは本当の道徳じゃない。(『運命を開く』)
  • たとえば、ここに一つの花園がある。その花を栽培するために各自雑草を刈り、掃除をし、花を育てて折るのを楽しむのは道徳である。
     そのために互いに約束して花を折るのを禁じ、労働を課し、違反するものがあればそれ相当の罰を加えるのは法律法である。それとはおのずから異なり、花も育てる、草も刈るが、同時に花は花ながら、草は草ながらに、すべて天地生成化育の心を敬い楽しむのを宗教という。(『東洋倫理概論』)
  • 道徳や信仰は、上人の言葉の通り本能的にならねば本当ではない。もっと極限すれば、我々が空気を吸収し、水を飲むように、自然にならねばならぬ。こ利益があるからだの、人が言うからだのというのでは、為にするところある不純なものである。文明人がこうならねば、文明は罪悪であり、無意義である。(『百朝集』)
  • どのような国、どのような民族においても「信」、つまり人の言葉が心と一致しているのは、もっとも大切になれる。伝え方がうまくなくて誤解を生むということはあるでしょうが、嘘がない限り信はきっと通じる。奥ゆかしさも通じる。道徳の根本精神というものは、全世界共通、人類共通のものだと考えていいと思うのです。

「人生二度なし」森信三の世界
神渡 良平
佼成出版社
2018-02-01


  • 「私たちは自分に与えられている使命を、日常の生活を通して、かすかな響きとして気付いているような気がします。使命は与えられているものでもあり、また自分で創り上げ、育てていくものであるというのが私の感慨です。いわば天との共同作業ではないかと思うのです。人生は受け身と積極のくり返しであり、言葉を替えて言えば、静動の二面であり、そのくり返しが人生だと思っています。待っては働きかけ、種を蒔いては待つのが生きることのようです」
  • 「自分で自分を育てていくのが私達の人生のようです。人は自分に与えられた出来事に真正面から取り組むことによって、魂が育てられていくように思います。そして長いようでいて実に短い人生を卒業させていただくのだと思えます。複写ハガキを書くことは相手様と共に育てられる作業だと言えるようです」(坂田道信)
  • 「真理は現実を変革する威力をもつものでなければならぬ」
  • 鍵山は、『真に剛に徹せんと欲するならば、須らく柔に徹すべし』という言葉にも教えられたという。それはある「やさしい人は傷つきやすいので、シビアな現実社会では生きていけず、無能だと見られがちです。やさしさに徹すれば、だまされたり、馬鹿を見たりします。だからみんな心を鬼にして、もう馬鹿にされないぞと身構えるのです。
     でも森先生は、強さというのはやさしさの極致にあるのだと教えておられます。そこに至る過程では、だまされたり、馬鹿を見たりするかもしれないが、そういうことの末に、少々のことでは動じない、真に強い人間になっていくというのです。私はこの文章を読んだとき、私が歩んできた道は間違っていなかったと確信しました」
  • 「礼を正し、場を浄め、時を守る」だ。
    鍵山はこの言葉をこう解釈し、実生活に応用してきた。
    「森先生はものごとを身心一如、物心一如と捉え、目に見えないものは目に見えるものを通して現れると考えていらっしゃいました。この言葉もそうで、『礼を正す』という抽象的なことは、『時を守り』『場を浄める』という具体的なことで表現されているというのです。そこで気付きました。私が長年掃除を徹底してやってきたのは、従業員、お取引先の方々に敬意を表し、礼を正していたことなのだったと」
  • 「夫婦というものは、良きにつけ悪しきにつけ、お互いの業を果たすために結ばれているように思います。このことがわかって腰が座わるまでは、夫婦間は何かと揺れ動くものです。
     だから夫婦のうち、どちらかが、相手を言葉によって直そうとしないで、相手の不完全さをそのまま黙って背負っていくしかないようです。夫婦関係というものは、結局どちらかが、こうして心の態度を確立する外はないように思います」
  • 「心は見えないから、まず見える体の方から押さえてかからねばならぬ。それゆえ、心を正そうとしたら、まず体を正し、物を揃えることから始めねばならぬ。靴を揃えること一つが、いかに重大な意味を持つかわからぬような人間は、論ずるに足りない」
  • 「心をきれいにしようとしたら、場を清めることが大切だ。物を大切にすることは、心を大事にすることであり、人を大切になることだ」
  • 「いやしくも、ひとたび真の志が立つならば、それは事あるごとに、常にわが念頭に現れて、直接間接に、自分の一挙手一投足に至るまで、支配するところまでいかねばならぬと思うのです。そもそも人がその一言を慎み、一つの行も疎かにしないということは、その根本において、その人がその人生に対して志すところが高く、かつ深いところから発するのだと言えましょう」(田舞徳太郎)
  • 「第一は、人間は不完全な存在だと気付くことです。それに気付けば、より完全を目指し、夢や理想に向かって敢然と生きることができます。言い訳をして逃げに人生を送っている人は、この気付きが浅い人だといえます。」
     第二は、時間の有限性に気付くことです。森先生はこのことを、『人生二度なし』と言われています。時間の大切さに気付いていない人は、すべての事柄を粗末に扱い、人生も無意味に過ごしてしまいます。時間は有限です。だが、有効に使うならば、決して短くはない。偉大なことを成し遂げるには、十分なほどに豊富です。
     以上にことに気付くと、人間は必然的に、『自分は何を成すために生まれてきたのか』を自問するようになります。使命感に目覚めれば資金も技術も問題ではなくなってきます。生きるとは、ただ単に生き長らえることではありません。いのちを生かすとは、何かにいのちを懸けることです。いのちを生かすとは、何かにいのちを懸けることです。何かにいのちを懸けてこそ、結果を出すことができるのです」(田舞徳太郎)
  • 「われわれ人間は自分自身の意志と力によって、この地上に生まれてきたのではなくて、結局、大宇宙というか、絶大無限な宇宙生命によって、この地上にその生を与えられた訳です。われわれ人間はある意味では、神からこの世に派遣せられたものといえます。したがっていかなることがこの自己に課せられた使命なのか、突き止めなければなりません」(行徳哲夫)
  • 「『念々死を覚悟して、初めて真の“生”となる』という一語は、結局私の宗教観のギリギリのところでの表現です。人生を全充実において生きるためには、“死”を自覚して初めて可能なことです」
  • ある哲人の「言葉の威力」についての詩
    言葉はいのちそのもの
    言葉は我がものになっているか
    言葉を使いこなしているか
    言葉の中にいのちがみなぎっている
    自信に満ちているか自由奔放であるか
    平気で大胆に使っているか
    言葉はいのちの発動である魂の息吹である
    言葉は威力を持っている
    人を動かし、自然すら動かす雨も降らし、風をも吹かす
    言霊というのはこのことである
  • 「言葉の響きは偉大である。一語一音の差に天地を分かつほどの相違がある。それゆえに言葉の味わいに徹するのは、そのままいのちに徹するの謂といってよい」

「人生二度なし」森信三の世界
神渡 良平
佼成出版社
2018-02-01


  • 「これを読むと、『百千の灯あらんも、われ待つ灯は一つ』という言葉を思い出します。巷には子どもたちを誘い込もうとする色とりどりの灯が競い合っています。しかしこの子のお母さんのような人が家庭にいてくださり、心の灯をかかげていてくださるなら、灯を間違える子どもは一人もいないでしょう。
     子どもにとって、お母さんが他の人とも違うところはどこでしょうか。世界三十何億のすべての人が『あの子はだめだ』と見放し、見捨ててしまっても見放すことも、見捨てることもできない最後の人、それがお母さんという人ではないでしょうか」(東井義雄)
  •  「子どもたちはみんな、――大人だってやはりそうなんですが、こんなふうにしみじみと自分の心に触れてくる者を求めています。それなのに私たちは、忙しい、忙しいと言って、心と心の触れ合い、いのちといのちの出合いを粗末にしてしまってはいないでしょうか。
     私たちは御仏から頼まれて、新しい魂を育てさせていただいているのです。だから、あだやおろそかな対応はできません。努力をして、子どもの魂に向き合うことをしなかったら、生き生きとした魂は育ちません。ちょっとの時間を工夫して、魂に向き合うことが大切なのです。それが子育てを託された親の務めではないでしょうか」(東井義雄)
  • 「人間はこれだと思います。親の真実の愛に目覚めた瞬間、涙がこぼれ、素直な気持ちになるんですね。人間に屑はありません。誰でもどこかに値打ちを持っているものです。子どももそうです。その値打ちを見つけ、それが発現するまでじっと待ち、自信と誇りを育ててやれば、やけを起こしたり、ぐらぐらすることはなくなるものです。」(東井義雄)
  • 「教育とは教育技術のことではありません。いかに生きるべきか、この人生をどうまとめ上げるかと四苦八苦し、闘っている先生の真剣な姿勢が言外に子どもに伝わり、子どもたちに学ぶ姿勢ができ上がるのです。だから教育とは第一義的には自分自身の問題だと心すべきです」(東井義雄)
  • 「教育とは魂の呼応だ」
  • 「批評眼は大いに持つべきですが、批評的態度は厳に慎むべきだと思います。他を批判する目を自分に返照して、反省すべきです。人から批判されたとき、直ちに論駁するというのは未熟な証拠です」
  • 死を覚悟してこそ、人生は光る。もう時間がない、目覚めるのが遅すぎたと嘆くなかれ。もう時間がないと思うからこそ、時間をないがしろにしないし、漫然と過ごしているときの二倍も三倍も密度の濃い時間を過ごせるというのだ。
  • 「私は教育とは自己中心性を取ることではないかと考えています。トインビーも『自己中心性を取ることが教育の眼目だ』と言っていますし、仏教では“無明”と言い、私たちの平易な言葉では“気まま”と言います。生徒の気ままを取ろうと思ったら、まず自分の気ままを取らなきゃいけません。私の場合、便所と玄関と職員室の掃除を重要視しました。便所が臭くては底の抜けた桶みたいなもので、どれだけ教育という水を注いでも抜けてしまいます」(綱沢昌永)
  • 「生命の弾力は、読書を介してその固形化を防ぎ得べし。故に人は読書を怠らば、心の大根にすが入り始めしものと思ふべし。かくいふは、何も読書が人生最上の目的などではなけれど、しかもその最上なるものが、読書を欠いては得られぬことを知るを要す」
  • 「森先生は授業の初めに、自分が感動した本を紹介されました。するとぼくらは読んでみようかなと動機づけられるのです。そして読むうちに面白さがわかってきて、今度は自分から本を読むようになりました」(綱沢昌永)
  • 「…『生命の呼応』という人間最深の秘儀が無かったとしたら、この世はいかに成り行くことであろう。げに教育的営為とは、このような人間生命の呼応に成立する人間最深の秘儀といってよい」名は、強さというのはやさ
  • 「いかに苦痛に満ちた生であろうとも、『生を与えてくださった』ということほど大なる恩恵はこの地上にはありません」そして一箇の親への感謝から始まって、宇宙根本生命の発見に至るべきことを説いた。
    「親への孝養とは単に自分を生んでくれた一人の親を大事にするだけでなく、親への奉仕を通して、実は宇宙の根本生命に帰一することに他なりません」
  • 「この天地に生を享けたものに、落ちこぼれなどあるはずはありません。すべては光る存在なのに。最近、落ちこぼれなどという言葉が使われているようですが、これほど人間の本質を見失っている言葉はありません。競争原理という価値観でものを見るから、優秀だとか落ちこぼれとかいう見方をしてしまうわけで、これほど生命を傷つけるものはありません。」(坂村真民)

「人生二度なし」森信三の世界
神渡 良平
佼成出版社
2018-02-01


  • 「われわれ人間はただ一人の例外もなく、自分の意志でこの地上に生まれてきた者はない。そしてこの点に対する認識こそ、おそらくは最高最深の叡智といってよい。さればわれわれ人間は、それぞれ自分がこの世に派遣せられた使命を突き止めなければなるまい」
  • 「一切万有は神の大愛の顕現であり、その無量種の段階における発現というべきである」
  • 「救いとは、自分のような者でも、なおここにこの世の生が許されているという謝念である」
  • 「逆境は神の恩寵的試練である。苦しみや悲しみの多い人は、自分は神に愛されているとわかったとき、すでに本格的に人生の軌道に乗ったものといってよい」
  • 「九十九人が川の向こう岸で騒いでいようとも、自分は一人スタスタと、わが志したこちら側の川岸を、わき目もふらず歩いてゆくほどの覚悟がなければならない」
  • 「一剣を持して立つという境涯に到って、人は初めて真に卓立して絶対の主体が立つ。甘え心やもたれ心のある限り、とうていそこには到り得ない」
  • 「人間のいのちが互いに相呼応し共感し得るということは、何たる至福というべきであろうか。この世に、これに勝るいかなるものがあろうか」
  • 「畏友というものは、その人の生き方が真剣であれば必ず与えられるものである。もし出会えていないとすれば、それはその人の生き方が、まだ生温かくて、傲慢な証拠という他あるまい」
  • 「師は居ながらにして与えられるものではない。『求めよ、さらば与えられん』というキリストの言葉は、この場合、最深の真理性を持つ」
  • 「私には何もできませんが、ただ人さまの偉さと及び難さを感じる点では、あえて人後に落ちないつもりです」
  • 「真に心深き人とは自己に縁ある人の苦悩に対して深く共感し、心の底に『大悲』の涙をたたえつつ、人知れずそれを噛み味わっている底の人であろう」
  • 「祖先の血は即今この吾において生きつつある。この理が真にわかったとき、人は初めて人生の意義がわかりかけたといえるし、同時に、天地の実相の一端に触れたといえよう」
  • 「親の恩が解らなかったと解ったときが、真に解り始めた時なり。親恩に照らされて来たればこそ、即今自己の存在はあるなり」
  • 「職業とは、人間各自がその生を支えると共に、この地上に生を享けたことの意義を実現するために不可避の道である。されば職業即天職観に、人々はもっと徹するべきだろう」
  • 「人間は他との比較をやめて、ひたすら自己の職務に専念すれば、おのずからそこに一小天地が開けてくるものです」
  • 人はそれぞれ、他の人にはない煌きを持って生まれてくる。しかしながら貶されたり馬鹿にされたりして意気消沈し、いつしか自信喪失して、それを失ってしまうことが多い。しかし、もし誰かが見守り励ましてくれ、落ち込んだときにも勇気づけて再び立ち上がらせてくれたなら、苦楽を乗り越えて、見事な人生を形作るだろう。その意味で、森は人々にとって、ますます慈愛の母のような存在になっていった。
  • この世のすべては天に所属するものであって、自分は一時的に預かっているに過ぎないと思えるようになると、低いレベルの所有観念から解放されて、自由の天地に羽ばたくようになる。
  • 掃けば散り払えばまたも塵積る人の心も庭の落ち葉も(古歌)
  • 「わが呼吸(いき)の底をささえて生きませる神の御国に還りゆく身は」
  • 「これの世に派遣(つかわ)しませし大御旨果しも得せで迎へとられる」
  • 「人間は神の御国ゆ生(あ)れしゆえ神の御国に迎えとらるる」
  • 「絶対不可避なる事は、即絶対必然にして、これ“天意”と心得べし」
  • 「中にゐて中と思はぬ霞かな娑婆即寂光浄土」
<% for ( var i = 0; i < 7; i++ ) { %> <% } %>
<%= wdays[i] %>
<% for ( var i = 0; i < cal.length; i++ ) { %> <% for ( var j = 0; j < cal[i].length; j++) { %> <% } %> <% } %>
0) { %> id="calendar-476316-day-<%= cal[i][j]%>"<% } %>><%= cal[i][j] %>
最新コメント
<%==comments[n].author%>
<% } %>
アプリでフォローする
QRコード
QRコード

このページのトップヘ

'); label.html('\ ライブドアブログでは広告のパーソナライズや効果測定のためクッキー(cookie)を使用しています。
\ このバナーを閉じるか閲覧を継続することでクッキーの使用を承認いただいたものとさせていただきます。
\ また、お客様は当社パートナー企業における所定の手続きにより、クッキーの使用を管理することもできます。
\ 詳細はライブドア利用規約をご確認ください。\ '); banner.append(label); var closeButton = $('