勇気の出る名言集

過去に読んだ本で勇気を与えられた言葉のアンソロジーです。

2021年10月

二宮尊徳

  • 「たたりは自分で招く」
    世にいわゆるたたりが来るということは、自分が招くのである。仏教で殺生を戒め、人心がこれを信ずるから、それでたたりというものがあるのだ。もし生きものを殺してたたりが来るのであれば、人の食物はことごとく生きものではないか。鶏はみみずをついばみ、へびは鶏卵を呑み、犬はきつねを咬むが、何のたたりもありはしない。なぜならば、大が小を食い、強が弱を呑むのは自然の勢いだからである。
  • 「求める前に働け」
    貧乏人が飯にありつこうとするとき、農家に行って、主人にむかい、「よくお手伝いしますから、まず飯を食わして下さい。」と言っても、主人は決して承知すまい。ところが、もし、「きょうはよいお天気で田を耕すのにもってこいです。私はのろまですが、どうか手伝わせて下さい。」と言って、ひとがどうあろうとも構わず、力をつくして手伝いをすれば、主人は必ずお礼に飯や酒を出すに違いない。これが自然の人情であって、万事みなこのとおりである。いわゆる「己を舎(す)てて人に従い、」「事を先にして得ることを後にすれば、」「天下服せざるものなし。」なのである。また、駕籠をやとった人が中途で駕籠から降り、その上酒代までやれば、かごかきでありがたがらないものはない。古語に「孝弟の至りは神明に通じ、」「思わずして得、」「為すことなくして成る。」いうのは、このことである。
  • 「かえって多忙を求める」
    なまけ者がある。暑い時にはそっと涼しい所をさがしてなまけ、寒い時にはきっと暖かい所を見つけてなまける。また人にやとわれれば、きまって忙しい家をきらう。けれども忙しいのをきらえば、かえって必ず忙しい家にやとわれるはめになる。これは理の当然なのだ。たとえば、かりに酒屋にやとわれて、その忙しいのに閉口しているとき、たまたま山寺のひまそうなのを見ると、あそこにやとわれたいなと思う。ところが山寺では、年末の忙しい時になって、初めてこれをやとう。だから行って見るとはなはだ忙しい。そこでまた出てよそに行く。行けば行くほど、ますます忙しい家にやとわれるのである。中庸に、「患難に素にて患難に行い、君子入るとして自得せざるなし。」とあるが、その男もよく忙しいのを辛抱して自得したならば、必ずひまな時がやってくるものなのだ。
  • 「目先の利をはかる者は貧」
    貧富の本は、利をはかることの遠近にある。遠い先の利益をはかる者は、木を植えてその生長を楽しむ。穀物の種をまくなどはもとよりである。だから富裕がその身を離れない。ところが、手近の利益しか考えられない者は、穀物の種まきさえ先が遠すぎるとする。木を植えるなどはなおさらのことで、ただ目前の利益を争い、種をまかずに刈りとろうとする。だから貧困がその身を離れないのだ。いったい、種をまかずに刈りとる道理がどこにあろう。春まいて秋刈りとる、これが万世不易の仕事であって、年々これを努めてゆけば、その利益は尽きることがない。経文にいわゆる、「福寿の海無量」とは、このことなのだ。
  • 「富を保つ道」
    人に貧富があるのは、自然に陰陽があるのと同じことだ。陰が極まれば陽が生じ、陽が極まれば陰が生じるのと同様に、貧が極まれば富が生じ、富が極まれば貧が生ずる。このように陰陽貧富が循環してやまないのが天の道であって、これに対して、みずからつとめて富を保つのが人の道である。その道とは何をいうかといえば、分度がそれである。分を立て、度を守れば、その富は極まることがない。極まることのない富をもって人を救えば、上は天命にかない、下は人心に合するわけで、富を保つ道として、これにまさるものがあろうか。
  • 「貧富は偶然ではない」
    人に貧富があるのは、決して偶然ではない。必ずよってきたるところの原因がある。およそ金は、倹約する者に集まり、おごる者から散じてゆくのだ。つまり、百両の収入で百両の支出をする者は、貧乏もせず富みもしない。百両の収入で八十両の支出をする者は、金が集まって富み、百両の収入で百二十両の支出をする者は、金が散じて貧乏する。してみれば、貧富の本は、支出が分外に進むか、分内に退くかの二途にあるわけだ。分内に退く者は天理に合するから、なすことが必ず成功し、自然と富裕が来る。分外に進む者は天理にそむくから、なすことが必ず失敗し、自然と貧困が来るのである。貧富はどうして偶然と言えようか。
  • 「陰徳と陽報」
    古人の言葉に、「陰徳あれば必ず陽報あり。」とある。これを農事に励むこと、学問につとめることにたとえよう。春から夏にかけて耕作除草に努力するのはすなわち陰徳であって、秋みのりを得るのが陽報である。朝早くから夜おそくまで、学問に苦心するのは陰徳であって、禄位や名誉を受けるのが陽報である。芝を刈る子どもがやかましく叫び、学生が声高く読書するのも、もとより陰徳である。なぜなら陽報を得るもとだからだ。世人が、ただこっそり金を施すのを陰徳だと考えているのは、一を知って二を知らないものである。
  • 「忘恩と報恩」
    事の成否は、恩を忘れないか恩を忘れるかにかかっている。前に受けた恩を忘れず、これに報いようと心掛けるものは、する事が必ず成功する。前の恩を忘れて、これからの恩徳をむさぼり取ろうとするものは、する事が必ず失敗する。だから成功と失敗の分かれ目は、恩を忘れないか恩を忘れるかにあるのだ。

二宮尊徳

  • 「事あらかじめすれば立つ」秋の川で魚をとろうと思う者は、夏の間に網を結んでおかなければ、それができない。春の田に堆肥を入れようと思う者は、冬の間に落ち葉を掻いておかなければ、それができない。秋のみのりを得ようと思う者は、春から夏にかけて耕し草とりに勤めなければそれができない。中庸に、「事予めすれば則ち立つ。予めせざれば則ち廃る。」とあるのは、これを言うのだ。
  • 「経書は氷、注脚はつらら」
    もし、実践から得た、生き生きとした温かい心で読むならば、たちまち氷の解けるようき明らかになり、注脚など用いる必要がなくなる。なぜならば、経書にしるされた道というのは、人間が日常生活に当然踏み行うべき道だからである。
  • 「私の読書法」
    あるときは柴かりの道で読誦し、あるときは、耕作の暇々に読み、あるときは人が寝静まってからそっと起きて、そうしてようやく四書だけ一通り習ったのである。その中で、いろいろ考えたすえ意味のわかったことは一字一句でも一生これを実行してきて、なお行い尽くせないでいる。今の儒者は千万巻をあさり読んでいるが、どうやってそれを実行するつもりだろう。行わなければ読まないのと同じだ。まことに、実行がすたれていること久しいものである。
  • 「百両を千万両に」
    いま、川水を引いてこれを何万町歩の田にそそぐとした場合、水がまっすぐに海に流れこんでしまうのと、灌漑して田を養ってから海にはいるのとで、川水の分量にはもとより増減がない。金もこれと同じことだ。金持の家から出て金持の家にはいるだけなら、川水がそのまま海にはいるようなもので、百両はただ百両の働きをするばかりだ。ところが、もしわが無利息金貸付法によって、これを貧乏人の家に及ぼし、繰り返し繰り返し貸し付けていならば、その恵み潤すところ、ちょうど川水が田を養って海にはいるように、貧しい家はそれで富み、衰えた村はそれで復興し、そうして千両万両の働きをする。しかも、出し入れするのは、ただ元の百両だけなのである。
  • 「最大の利益と最大の損失」
    世間の人は、あれは損だ、これは得だと言い合って、互いに財利を争い、西に東にかけまわって、ただそればかりに夢中になっている。しかしこれは、こちらで得をすればあちらで損をし、あちらが得をすればこちらが損をするというだけの話で、全国を通じてみれば差し引き損得はないのだ。そもそも田畑山林こそは、本当の財利の本なのだ。ところがその田畑が労力を失って荒れ地となり、山林は野火を出して材木を失い、その上民家に延焼したりして、戸数人口がばらばらに減り、村落が廃墟となってしまっている。これこそ実に、一国の損である。また、農夫も本当の財利の本だ。ところが村民こぞって遊惰に甘んじ、酒やばくちで日を暮らし、耕作除草は怠るし肥料はやらぬしで、秋の収穫がひどく減ってきている。こういうのを一町村の損といおう。更にまた、耕作出精も真の財利の本だ。それなのに、あるいは農具がないとかを口実にして、丈夫なからだでぶらぶらと日を過ごしたり、あるいは借金のために走りまわって日を費し、秋の収穫をすっかり利息にあてたりしている。こういうのが一家の損なのである。実に、一国一家の損失で、これほど大きいものはない。わが無利息金貸付法は、こういう損失を除くものなのだ。この無利息貸付の仕法をくりかえし行ってやまなければ、荒地は開け、借金は償還され、惰農は発奮し、窮民は更正し、野火はやみ、山林は茂り衰廃した国も復興する。一国一家の利益でこれより大きいものがあろうか。
  • 「汚穢を清浄とする道」
    人が清浄を好んで汚穢をきらうのは、わがまま勝手である。およそ穀物でも野菜でも、肥やしをやらなければ生長しない。いま大根を洗って座ぶとんの上におけば、幾日もたたぬうちに腐ってくるが、これを肥やし土に作れば大喜びで大きくなる。してみれば、人がきらって汚穢とする物は大根が好んで清浄とする物だということが知れる。清浄と汚穢は一つなのだ。この道理を推してゆけば、善悪も正邪も、禍福も吉兆も、上下も貴賤も、損得も多い少ないも苦楽も存亡も、みな一つであることがわかるわけだ。人はそれらが一つであることを知らないから、片方を好んで片方をきらう。なんとわがままな、一方的なものではないか。さて汚穢の下肥で清浄の米麦野菜をつくり、それで人命を養うのが、人道の功用の極致である。同様にわが法は、人のきらうものを引き受けて、人の好むところのものを与える。すなわち借金を変じて無償とし、荒地を変じて良田とし、貧を変じて富盛とするのが、わが道の功用の極致である。
  • 「禍福吉兆は人道のわがまま」
    禍福吉兆は一つである。ちょうど米にはぬかがあるし、魚には骨があるようなものだ。まぐろの刺身を見て骨がないなどと言うのはこどもの見方で、肉の多い魚には必ず大きな骨がある。その肉は食えるが、骨は食えない。そこで食えるのを吉として食えないのを凶とし、肉を食うのを福としてのどに骨が立つのを禍とする。米とぬかとも同じことで、米は食えるが、ぬかは食えない。その米の飯も、いのちを養うことでは福とせられ、すえてからだの毒になれば禍とされる。野菜は食えるから吉で、雑草は食えないから凶というわけだ。ところが天道ではそうではない。野菜のように手入れしないと消滅するものは消滅するにまかせ、雑草のように手入れしないでも繁茂にまかせる。禍福吉兆は、要するに人道の立場から人間が勝手につくるものだ。この道理をはっきりわきまえた上でないと、わが道を行うに足りないのである。

二宮尊徳

  • 「夕立に遇った気持ち」
    わが道を行う者が、時として事変に遇うことがあるのは、ちょうど天地に寒暑風雨の変化や、春生じて秋枯れる移り変わりがあるのと同様、順調逆調の移り変わりであって、のがれることのできないものである。それで、いったん事変に遇ったならば、夕立に遇った時の心持で、じっくりと構えてかかるのがよい。決して驚きあわてて、しくじってはならぬ。さもなければその事業をなし遂げることはできないのだ。
  • 「善人はなまくら刀」
    善人はなまくら刀のようなもので、悪賢い連中を使いこなすことができない。けれども賢い君主があってこれを用いれば、善政が行われて人民は安息する。悪人は、よく切れる刀のようなもので、悪賢い連中をよく使いこなす。愚かな君主はこれを用いなければその国を支配することができないが、そうすれば悪政が行われて人民は困苦する。だから、わが興国安民法のごときは、悪人を退けて善人を挙用しなければ、その功業をなしとげることはできないのだ。
  • 「わが道は大街道」
    東海道が大街道と言われるのはなぜかといえば、上は王侯から、下は武士平民および瞽女・乞食、さては牛馬に至るまで、みな通行するからである。そのように、一人は行えても十人が十人行うことのできないものは、みな大道とは言えないのだ。わが日掛縄綯法のごときは、女こどもでも実行できない者はいない。なんと、まさに大道ではないか。
  • 「挙用される道」
    君候や重臣が人を取り立てたり退けたりするのは、たとえば、くだものを買うようなものだ。くだものを買うときは、なるべく熟してしかも傷のないものを選んで取り、またそれを食う段になって、もし未熟なものにぶつかれば必ず吐き出す。わずか五、六文のくだものでさえ、こんな風だ。まして貴重な人物の場合はなおさらである。そうしてみれば、用いられると用いられないとは、君候や重臣のせいではなくて、自分のせいなのだ。人は君候や重臣の明暗を論ずることなく、よろしく自己の賢愚を反省するがよい。まじめに身を修め、たゆまず善行を積んでいれば、用いられまいと思ってもそうはいかないのである。
  • 「まいたものがはえる」
    世人の要求することは、その実行することと反対である。だから求めても得ることができない。種まきにたとえてみると、ひえをまけばひえがはえ、米をまけば米がはえる。同様に、悪いことをすれば禍が来、善いことをすれば幸いが来る。これは当然の道理だ、今もし、ひえをまいて米を求め、悪事をして幸いを求めても、得られるわけがない。ひえをまいてひえがはえ、悪事をして禍が来た、これこそ実行によって望みどおりのものを得たのだと言うべきであって、その応報は一分一厘の違いもない。これこそ神明の加護だと言ってもよいくらいなのだ。人はこの道理をわきまえて、米がほしいと思えば米をまき、幸いが得たいと思えば善行をするがよい。詩経に「永く言に命に配し、みずから多福を求む。」とあるのは、このことを言うのだ。
  • 「むかしの徳に報いよ」
    今日において後日のことを考えないのが小人の通弊である。だから私は、過去の得失をかかげて将来の貧富を明らかにし、はっきりわかりやすいように説くのだ。いったい、むかし善を積めば今日幸福を得る。善とは、たとえば財を施し譲ることである。施し譲る者は徳を得たことになり、それを受ける者は徳を失ったことになる。徳を得た者はその家を保ち、徳を失った者はその身を滅ぼす。これは理の当然である。そうだとすれば、無利息金の徳によってその家を興した者は、よくむかしの貧困と今日の安楽とを思いくらべ、今日譲る徳によって、むかし施された徳に報いるべきである。こうして徳をもって徳に報いるならば、今日の幸福はずっと子孫に及んだだけにとどまって、子孫に及ばない。たとえば嫁が来たのに亭主がいなくなるようなものだ。よくよく考えねばならない。
  • 「人道とは恩徳に報いること」
    報いることを思わない者は、必ず過去の恩を忘れて、目前の徳をむさぼり受けるものだ。だから貧賤がその身を離れない。報いることを思う者は、必ず過去の恩を覚えていて、目前の徳を追い求めようとしない。だから富貴がその身を離れないのだ。なぜかといえば、恩を返しに徳に報いるということは、百行の本、万善の源だからである。まず、からだの隅々まで自由に動かせるのは父母の恩である。その恩に報いるのを孝という。録位があって人に敬われるのは主君の恩である。その恩に報いるのを忠という。わが田を安らかに耕し、わが家に安らかに住んで、父母妻子を養うことができるのは、国家治世の恩である。その恩に報いるのを納税という。穀物や野菜を産み出して、人の身を養い、安らかに生活させるのは、田畑の徳である。その徳に報いるのを、農事に励むという。日用の品物が、何でもほしい時に手に入るのは商人の徳である。その徳に報いるのを、代金を払うという。金を借りてを足すことができるのは貸し主の徳である。その徳に報いるのを利息を返すという。その他一々数え上げたらきりがない。こうしてみれば、人徳とは、恩を返し徳に報いるということにつけた名前なのだ。人たるものは、どうして報いることに努めないでよかろうか。
  • 「財貨は風のようなもの」
    天下の財貨は風のようなものである。風は天地間にいっぱい満ちているものだ。だから扇子であおげば扇子に相当する風が生じ、うちわであおげば、うちわに相当する風が生じ、唐箕でもってあおげば、唐箕相当の風が生ずる。あおぐことをやめても、風は天地間になくなったわけではなく、更にあおげば、更に生ずる。同じように、財貨は世の中に満ち満ちているものだ。だから豆腐屋を営めば豆腐屋相当の財貨を得、造り酒屋を営めば造り酒屋相当の財貨を得、呉服屋をやれば呉服屋相当の財貨を得る。それぞれの商売を休んでも財貨は世の中になくなるものではない。また商売を始めればまた得られるのだ。

二宮尊徳

『二宮先生語録』(抄)
斎藤高行 原著
  • 「開国の術は譲道にある」
    思うに、天照大神の術は、譲道にある。わが開墾の法は、一両の金で荒地一反歩をひらき、その産米を一石と見る。これを全部食って譲りのこすことがなければ、百年たってもその田はただの一反にすぎない。ところが、もしそのうちの九斗を食い、あとの一斗を譲って、雛形のとおり年々起し返してゆけば、六十年の後には、積んで相当の反別になる。あるいはそのうち二斗を譲り、あるいは三斗から五斗と、多く譲るにしたがって、その数はますます大きくなり、天下の荒地という荒地がひらきつくせるまでになる。これが天照大神の術にほかならない。まったく、太古の時代には、貨幣はもちろん、鋤、鍬、鎌などの農具もまだ備わっていなかったのに、譲道一つによって、ちゃんと開けたのだ。まして、あらゆる器財がそろっている今の世で、荒地をひらき、廃国を興すのに、なんのむずかしいことがあろうか。
  • 「壕の水と分度」
    城の壕を見れば、水が青々とたたえて、その深さも測り知られずに、実に一城の固めである。けれどもその水源をたずねてみると細い流れにすぎない。その落ち口も同様である。もしこれを平地に流したならば、一筋の小川にすぎず、決して要害とするに足りるものではない。およそ壕の水というものは、細い流れで入り満ちたたえてまた細い流れで出てゆく。だからいつも満ち満ちていて、干あがるおそれがないのだ。わが興国の道も同様である。国君が衰時の分度を守って、分外に生ずる財貨を分内に入れるようなことをせず、それを興国の資金として、荒地をひらき、貧民を恵み、衰えた国が復興して税収がもとどおりになるのを待ってから、そこで盛衰平均の天分に応じて、入るを量って出るを制し、つつしんでその分度を守ったならば、その国は常に繁栄を保って、決して衰廃するおそれはない。これに反して、もしも国君が衰時の分度を守ることができず、分外の財をあわせて分内にいれ、それを眼前の費用にあててしまい、衰えた国が興って税収がもとどおりになるまで待つことができないようならば、その国は、ついに衰廃の憂いを免れることができない。実に、国家の興廃、わが道の成否は、ただ分度を守って税収が回復するのを待つか、分度を失って税収の回復するまで待てぬか、二途いずれかに係っている。君主たるものは、よろしく壕の水を見て戒めとすべきである。
  • 「鎌と砥石」
    農夫が野草を刈るには、必ずまず鎌をとぐ。鎌をとがなければ草が刈れない。この場合、砥石は鎌に対して、みずから譲ってその身を削るのである。そこで鎌の刃はよく切れて、どんな草でも刈れるようになる。そこで野草を刈って稲麦の肥やしとするから、収穫は年々に増して、その家は必ず富むのである。わが法で国を富まし民を安んずるには、必ずまず分度を立てる。分度が立たなければ人民は安堵ができない。この場合、国民が分度を守るには、みんなから節倹してその身を約(つづ)めるのである。そこで余財が生じて仁沢が下に及んで、人民はすべて安堵する。そうして荒地がひらけ田畑はよくととのうから税収は年々に増して、その国か必ず富むのである。
  • 「借金とたらいの水」
    貧者は分度を守るか分度を失うかによって生ずる。分度を守って、みだりに分内の財を散らさなければ富に至るし、分度を失い、他から借財して分内に入れれば、やがて貧に陥るのである。負債によって分内を補うのは、たとえばたらいの水に石を入れるようなものだ。一つ石を入れれば石一つだけの水が減り、十個の石を入れれば石十個分の水が減り、百個千個の石を入れればたらいの水は皆なくなってしまう。実際、負債が家庭を減ずるのはこういう具合で、ただ貧乏に陥るだけではすまない。ついに家を滅ぼし身を滅ぼすようになる。用心しないでいられようか。
  • 「荒地を惜しめ」
    人の食物で米より尊いものはない。だから人は、それが地上に散らばっているのを見れば、ほんの五、六粒でも惜しがる。それなのに、荒地を見ても惜しむものがないのは何としたことだろう。これはほかでもない、泰平の世になれて根本を忘れているからだ。ここに一町歩の荒地があれば、年に米十石の損になる。十石といえば二千人の一日分の食糧だ。地上にちらばった米粒とは、まるで比べものにならない。それに、地上に落ちたものはすずめなどが拾って食うが、荒地で損する米は、いわば川水に投げ込むようなもので、知らず知らず人命を害するのだ。世人は、天照大神が豊葦原を開かれた御苦労をかえりみず、祖先が田産を作り上げた辛苦も思わず、いたずらに荒れるにまかせている。なんと大きな過ちではないか。人々がよくその過ちを改めさて、わが開墾法によって一畝一歩ずつでも開発し、つとめてその功を積み重ねて行くならば、それによって上は国恩にむくいることができ、世の人の食糧を足すことができ、下は一身一家を養うことができるのだ。どうしてつとめずにいられよう。
  • 「万古の国に万世の道」
    ある人が、わが道のことを迂遠だと言い、私のことを気の長い先生だと呼んだ。私は笑って、こう答えた。わが国は万古に存して、わが道は万世かわらない。万古に存する国にあって、万世かわらぬ道を行う以上、これを自己一代の短さにくらべて迂遠だなどと言っていられようか。今日にわかに道が行われなくても、何も気にすることはない。なぜならば、これは天照大神以来行われてきた道であって、国を興し、民を安んずるには、このほかに方法がないからだ。それからまた、世間の人は、人生六十などといって、もっぱら今日の暮らしを営み、現世のことを謀って、後世のことを考える者とてないくらいだが、しかし朝飯を食えばすぐ小昼になり、昼飯をたいたと思えば午後になり、今日はたちまち明日になり、今年はたちまち来年になり、父祖の代はたちまち子孫の代となり、百年もまた一瞬間にすぎないのだ。そこで、たとえばわが開墾法では、一両の金によって荒地一反歩をひらき、その産米一石として、半ばを食って半ばを譲り、くりかえし開発してやまなければ、六十年の総計は、開田二十四億五百四十八万二千二百五十三町歩に及ぶとするのである。行わないなら仕方がない。いやしくもこれを行う以上は、わずかな一生にくらべて、どうして迂遠だなどと言っていられようか。

現代の覚者たち (致知選書)
真民, 坂村
致知出版社
2011-09-16


森信三/平澤興「生きることは燃えることなり」(続き)
  •  (平澤)私はいまこの世の中に生きているというか、これは全く不思議そのものだと思います。
     人間は三十数億年前に地上に現れた原始的生命が進化に進化を続けてできた素晴らしい存在で、地上のみならず、全宇宙でも最高の生命ですね。こういう過程はいまは大体わかるんですが、しかし、その変化を起こす元に力はなにかということになるとね、わからないんです。わからんが、そこまで来ると、わからんということが、また有り難いのです。それほど不思議な命をいま、戴いておるわけですから。
    (森)そうですな。この地球上には人間以外にも無数の生き物がおるにもかかわらず、われわれは特に、人間として、この世に生まれてきたわけですから。これは、努力したわけでなくてね。それなのに一切の生き物のうちで一番高い地位にある人間としての生命を与えられておる。それだけにどうしても、それに値するような生き方をしなければね。
    (平澤)いま思い出したが、そういえば、この間、こういう句をつくった。「あな尊と不可思議光のこの命八十路の旅に欣喜雀躍」
    (森)ああ、いいですね。
    (平澤)仏さまも尊いけれども、われわれ一人ひとりも仏さまなんですよ。人間というものを研究すればするほど、そう思う。不可思議光というのは決して不遜の言葉ではないと思う。人間というものを本当に知ったらね、やっぱり、不可思議光です。
    (森)ごもっとも
    (平澤)人間は凡夫だから、なかなか思う通りにはいかん。私などもいたる所で失敗を重ねてきたが、まあ余りくさらずにやってきました。そう思うと、「ようやってきたな、有り難う」という気持ちになり、至らぬ自分をも拝むことになるのです。人も拝みますが、自分も拝む。
     それは決して自分が完全であるとか、偉いとかいう意味じゃない。細かくいえば、へまばかりやって来たようですけれど、まあそれでも、自分をごまかさないでやってきた。ご苦労であったと、私が私にお礼をいうのです。そのことはね、ちっとも私は不遜でもないし、傲慢でもない。尊い人間に生まれてね、せめて自分に手を合わせるぐらいの感激を持たなければ、ぼくは淋しいと思いますね。
  • (平澤)情熱というのはやはり、遺伝が一番大きいでしょうな。しかし、心の習慣でもあります。それと、あんまり細かく考えすぎるとね、情熱は減るだろうな。何よいっても、老子の生き方などには魅力があるね。要するに」道なんていうものはあんまり型のごとく決まってはね、窮屈になる。
     とにかく、なにをいわれようとも、楽しみながら過ごすという考えが一番、人間的な尊いことですね。型のごとき真似をして生きるなんてのは、もう二流の生き方だろうと私は思うな。
    (森)「人生二度なし」というのが、私の人生観の根本原理です。これは真理というより、絶対的事実です。われわれの人生は一回限りのもので、絶対にくり返しのきかないものです。それだけにわれわれは、それぞれが人生の決勝点に達するまでは「一日一日を真に充実して生きねばならぬ」と思いますね。
     マラソン競争なら一瞬一瞬を全力こめて走り抜く。そのためには現在、自分は決勝点まで一体どれほど手前のところを走っているか、ということをつねに心の中に忘れないということが大切でしょう。いっぱしの人間になろうとしたら、少なくとも十年先の見通しはつけて生きるのでなければね。そうでないと結局、平々凡々に終わるとみてよい。
     ともかく、われわれ人間は「生」をこの世に受けた以上、それぞれ、分に応じて一つの心願を持ち、最後のひと呼吸まで、それを貫きたいものです。
【オマケ】「PHP 2001年7月号」
PHP200107

「とらわれず、こだわらず」松下幸之助の遺した言葉(86)
人に注意する場合でも、一ぺん言うてわからなければ二へん言わないといかん。二へん言うてわからなければ、三べん言わないといかん。三べん言うてもわからなんだら、ちょっと一服しようかというわけです(笑)。それを何回か繰り返してもあかなんだら、それはしかたがない。とらわれずに、もう頭から忘れてしまう。「縁なき衆生は度し難し」こう言うてお釈迦さんはあきらめた。それと同じことをやったらいい。
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