勇気の出る名言集

過去に読んだ本で勇気を与えられた言葉のアンソロジーです。

2020年03月

魂を考える
池田 晶子
法蔵館
1999-04-10





「<魂>の考え方」
  • ひとつは、自分が自分であるというこのこと、ある人がその人であるというそのこと、これら端的な事実としての事柄のそこに、それとは別の何がしか物的な実体を想定していることだ。しかし、自分が自分であり、ある人がその人であるというまさにそのことの他に、なぜもうひとつその意味での<魂>なるものが加わる必要があるだろう。たとえ、自分が自分であるのは、そのような何がしか物的実体的な<魂>がそこにあるからだとして、その<魂>が自分である理由は、やはりそれが自分であるからに他ならないではないか。あらかじめは誰でもないものとして想定された<魂>とは、それこそオバケみたいなものではなかろうか。
  • 人が<魂>と聞いて、反射的に「在るか無いか」と問うてしまうことの大きな理由に、これがある。「在るか無いか」の問いには、明らかに「死後の存続」への問いが含意されているのだ。肉体の死後も存続するところの<魂>である。しかし、たとえそれが死後も存続するものとして、それが自分であることが自覚されるのでなければ、それが「在るか無いか」もないのではなかろうか。オバケにも、そのオバケであるところの彼があろう。
     したがって、先に考えるべきなのは、ある人がその人であるということ、自分が自分であるということ、この同一性もしくは「自覚」の意味の方だろう。それならそれは、とくに死後まで待たずとも、今この場で考えられることではなかろうか、既に自分であるのだから。この、既に自分であるところのこの自分のことを、<魂>と私は呼んでみたいのだが。
  • 誰もが自分のことを一律に<私>の語で呼ぶ、しかし呼ばれているところのその<私>は一律ではなく唯一なのだ、ここに無理がある。たとえば、あるものをそのままもたらしめているところのそれのことを、「イデア」と言うとする。「机」の語によって、誰もが一律に机を思うのは、それがイデアであるからだ。すると、<私>をして<私>たらしめているところのものは、「<私>のイデア」ということになるのか。しかし、<私>の語によって、誰もが一律に<私>を思うとして、そのとき思われている<私>とは、では、いったい、どの<私>ということになるのか。「普遍的な<私>」とは、いったい何を意味していることになるのか。
    「意識」の普遍性は言えるが、<私>の普遍性は言えない。そこで、<魂>の語を使ってみたいと私は考えるのだ。「社会的な<私>」から峻別された「形而上的な<私>」として、そして敢えて、その先のないどん詰まりの意、「<私>のイデア」として、<魂>というこの言葉をだ。
  • <私>の背後に何らかの霊魂的なものを想定しない「記憶なき転生」が、可能でなければならないと氏(渡辺恒夫)は言う。「偏在転生観」とは、<無意識的な妄念とかコンプレックスとか性格傾向といった水準での連続性さえもなしに、成り立つのでなければならないのである>と。「偏在転生観」とは、唯一者としての<私>が、同時にいたるところに転生するという氏の考え方だが、転生する主体が、もとよりそれら社会的心理的水準とは断絶しているところの「形而上的な<私>」である限り、それは当然そう「でなければならない」だろう。しかし、「黙って墓場に持ち去るつもりだった」この奇抜な転生観を、雄を奮って発表した著者・渡辺氏の、「いま・ここ」でのその行為、その行為自体は、それらもろもろとの連続性なしに成り立つものだろうか、説明できるものだろうか。
  • 「形而上的な行為」とは、意味不明である。行為とは、それが行為であるというまさにそのことによって、常に形而下的な行為である。したがって、こう言ってしまえるなら、「転生」とは、それ自体、「唯一者」によって為される宇宙大の行為の謂ではなかろうか。そして、行為とは他でもない、「記憶」の謂ではなかろうか。
    「いま・ここに居る」というこのことが、「<私>が唯一である」というまさにその意味なのだ。だから、「転生」を語ろうとするなら、<私>の唯一性は放棄せざるを得ないのではないか、両者は同時に語れないのではないか。もしも両者を同時に語れたとしたなら、それは「<私>の転生」ではなくて、何か別のことを語っているのだ。
     おそらく、ことこの事柄に関しては、「真実を知る」ということと、「論理が成り立つ」ということとは別のことなのだ。もしも、真実を知ることの方を選ぶなら、それは「記憶」を証拠とする以外にはあり得ないのだろう。なぜなら、記憶のない転生の論理とは、それ自体、<私>によって考えられた論理だからである。しかし、問題は、その<私>とは何か、これのはずではなかったか。氏の論理に欠けているのは、たぶん、観察者としての<私>の視点、「<私>の転生」について考えているこれは誰か、この問いなのだ。
    で、それは誰か。
  • <魂の際限を、君は歩いて行って発見することはできないだろう。どんな道を進んで行ったとしてもだ。そんなに深いロゴスを、それはもっている>(ヘラクレイトス 断片85)

魂を考える
池田 晶子
法蔵館
1999-04-10





「便利の心得」
  • 急げ急げ、乗り遅れるなと、人々は生きている。しかし、いったい「何のために」急いでいるのか、「何から」乗り遅れることを怯えているのか、誰もが一度は、自分にきちんと問うてみるべきではなかろうか。おそらく人は言うだろう、「ビジネス」と。それでは、「何のための」ビジネスか。あなたの人生にとって、ビジネスとは何か。
     忙しがって、競い合って、慌ただしく過ごされて、わけもわからずに死んで終わる一生、そのような一生を「よい」人生と思うことができるのなら、そのような人生にとっての「便利さ」とは、したがって、それ自体が目的である。便利であることそれ自体がよいこと、求められるべき価値なのである。しかし、本来、便利さとは、それによって節約された時間や手間を、よりよい目的のために使うことができるからこそ、価値であったはずである。よりよい目的とは何か。決まっている。よい人生を生きることである。人生の意味と無意味を、自ら納得して生きる人生のことである。
     便利さによって節約された時間を、人はどのように使っているだろうか。おそらく、することのない時間の空疎、すなわち自分自身の中身の空疎に耐えられず、人はさらにビジネスへと走っているのではないだろうか。そして、忙しい忙しいと自分に言い訳しつつ、さらなる便利さを求めているのではなかろうか。すると、人は、いったい何のために何をしていることになるのか、これは見事な本末転倒である。
  • 外界の拡張、外界への欲望は、いいかげん、もういいのではなかろうか。人類はそろそろ、そのようなことの無意味と、内界の意味に、気づいてもいいのではなかろうか。
  • 文明だろうが反文明だろうが、ネット社会だろうが未開部族だろうが、無内容な人は無内容だと言っているだけである。馬鹿とハサミは使いよう、便利さの追求より先に、何ゆえの便利さなのかを、まず考えてみるべきではなかろうか。おそらく、きちんと考えられる人はかなり少ないと思う。だからこそ世の中、こんなふうになっているのだ。
  • 便利とは実は、決して必要からの要請ではなく、所与のものの後からの承認であるということだ。与えられて、初めて人は気づくのだ、「これは便利だ」。便利は、必要に、常に一歩先んじている。人は、ほんとうは、必要から便利を求めたことなどなかったのだ。これをつづめて、はっきり言うと、「便利なものは、必要がない」。
     なければないで全然かまわないもの、それが便利さの定義だ。それが出現するまでは、人はそれなしで十分やってこれていたのである。パソコン然り、携帯電話然り、全自動洗濯機もまた然り。
     必要でもないのに出現したものを、人は「便利」と思うわけだが、その便利さが生活と生存に必要不可欠と思うに至る顛倒がなぜ起こるかというと、答えは至極単純である。なんのために生きているのかを、考えずに生きているからである。
  • 私は、こう問うてみたいのだ。なんのための生存か。あなたは生存するためにビジネスをしているのか、それともビジネスをするために生存しているのかと。この問いは単純であるからこそ、決定的である。ソクラテスという人は、こんなふうに言った。「皆は食べるたまに生きているが、僕は生きるために食べている」
     食べるために生きるとは、生存することそれ自体が目的である。しかし、彼はそうではなかった。たんなる生存には価値はない、「よく生きる」ことにだけ価値がある。よく生きるために僕は生きている、そのために僕は食べている。
「『ソフィー』の効用、哲学の無用」
  • 性格や帰属や来歴や、その他一切の属性とは無関係の<私>、したがって、喪失のしようもなく常にここに在る<私>、これを「形而上的な<私>」と私は呼んでいる。哲学的な思考が対象とするのは、こちらである。デカルトが見いだしたのも、こちらである。「私とは何か」と問うているところのその<私>こそが問われているのだから、あれこれの属性は、もとから答えにはならないのである。そうでなければ、<私>を喪失したと思い悩んでいるところのそれ、それはいったい何ですか。問いはかくまで明瞭だから、人は考えるのだ。
「ポスト・オウムの<魂>のために」
  • かくして、現代という騒々しくも分裂した時代において、<魂>の語が生き延びられる唯一の場所が、宗教という「聖域」だったわけなのだが、見よ、新興宗教オウムの顛末。「信じる」ということと「考える」ということは、一面では似ているが、他面では最も似ていない。人は、「わからない」から考えるのであって、「わからない」から信じるのではない。「わからないから信じる」人は、本当は、自分がわかっていないということを、わかっていない。…つまりその人は、「わからない」と言いながらも、じつはわかっていると思っている。わからないと、わかっていない。したがって、考えない。信じる、「信じ込む」。
  • 「救われる」べきなのは、本当は、<魂>というこの言葉の方なのだ。信じ込まれ、貶められ、手垢にまみれて見えなくなったこの言葉を、その正当な位置へと戻してやることなのだ。戻してやるそのことが、「救われる」という言い方で言われるべきことになるのかどうかを、私は知らない。
     だからこそ私は、それを、知りたい。






  • 竹内(隆夫)先生は「自問活動」に次の五つのステップを設けている。
    第一は「静かな集中(自由)」を学ぶ。まず人間には自発性があることをわからせ、おしゃべりは働く人に迷惑なことを理解させ、…ほんとうの自由とは自分だけが好き勝手なことをすることではなく、他の人にことも考え、おたがいが自分の考えていることをできるようにすることだと教え、そのためには他人に迷惑をかけないように「我慢」することを覚え、自分がなすべきことに「集中」することだとわからせていくステップである。
     第二は「人への気働き(友情)」を学ぶ。…
     第三は「発見と創造(存在感)」である。掃除のどこに発見と創造があるのかと、たいていの人が疑問を持つであろうが、ゴミを見つけようとすること、どうすればきれいにできるか考えることで創造性が伸びることを気づかせる。また、それぞれが考えることは決して一律ではなく、百人百様であることにも気づかせ、独創的な発想をする友達から学力とは別の値打ちのあることを学び、誰もかけがえのないよさを持っていることに気づき、差別しないで、おたがいのすばらしさと大切さをわかりあおうというステップである。
     第四は「感謝の心(平等)」を自分のものにすることである。…人がやるから自分もする、人がやらないから自分のやらないというのではなく、人とは関係なく自発的にすることによって、個人的な身体の都合や精神的な状態などから掃除を休む人を許すことができるようになり、これをさらに発展させ思想的信条の異なる人々をも広い心で受け入れることができるようになろうというステップである。
     第五は「正直(自主自立)」に生きることを学ぶ。人間というものは、ややもすると人の目があると力を入れて働き、人が見ていないとサボるというようなところがあるが、これは裏表のある生き方であり、そうではなく自分の心に正直にさわやかに毎日を過ごそうと呼びかける。そのためには、自分の胸に、何か良くて何か悪いかというモノサシをしっかり築くことの大切さを教える。まず、自分を知り、自分の大切さに気づき、生きる力を身につけ、裏表なく正直にさわやかに生きようと語りかける。これが「自問活動」の最終的な目標である。
  • そもそもボランティアは、それぞれの意志と条件において、手弁当でやるものなのだから、“あの人は速い遅い、この人が長い短い、自分は苦しくてしては楽している”などという次元は超えているはずなのに、人間というものは哀しいもので、比較あるいは競争してみて、自分が優れていて相手が劣っていないと面白くないし、自分か得して相手が損していないとイヤなのである。これは基本的には、差別の思想、競争の論理である。
  • 先生がいると一生懸命やっているふりをするが、いないといいかげんにするような掃除は、心の成長にならないどころか、裏表を使い分ける狡い人間を育てるだけである。形ばかりの掃除や、むりやり押しつけられてイヤイヤする掃除は往々にしてこうなる。「自問の会」の先生たちは、清掃の時間に先生がいようがいまいが、それに関係なく、自分の心に正直に過ごす時間にしたいと思っているし、掃除をやることが子どもに使い分けの生き方を覚えさせることになるくらいなら、しないほうがましだと考えている。「裏表なく正直に生きるさわやかさ」を掃除で身につけてほしいと考えている。これが第五のステップであり、最終的な目標でもある。
     そのためには、子どもたちの胸の中に「モノサシ」が形成されている必要がある。何をしたいのか、したくないのか。何がしていいことでよくないことか、他人に流されるのではなく、一人の人間として自分が判断するための基準が必要である。これがあってはじめて自主的に決断し、行動選択することができるようになる。自問活動は、自主性・自律性のカギとも言うべき「自分の心のモノサシ」をつくる活動なのである。
     まず自分を知り心を成長させ、自分が生きていろんなことを考え行動し、喜び泣き笑い怒ることの大切さを確実に自分のものにし、それが同時に他人の存在と違いを尊重することに発展し、本当の自由と民主主義を理解し、すべての存在の尊厳を認め差別しない心、気働き・思いやり・ボランティアの精神が花開くことを目指すものである。
  • 人間を規制で縛ることは、とても容易なことだと思いますが、それを守る人の心を動かしていいかなければ、規則はどんどん増えていく一方です。自問学習から得られるものは、本来人間が培っていかなければならない原則ですので、それを子どもの心の中に植えつけることによって、自ら自分のなすべきことを考えて行うことができるのだと思います。
  • 我々はよく「雑用に追われて」などといった台詞を口走るが、物事を雑にするから「雑用」になるのであって、この世に「雑用」なんて存在しない。それぞれに意味を持っている。「雑用」などと言って、片手間にするとえらい目にあう。
     大哲学者ヘーゲルは「この世に存在するものは、すべて合理的であり、合理的であるもののみが存在する」という有名な言葉を残している。
  • 以来、周利(槃特)は、雨の日も、風の日も掃除し続け、「払うべき塵とは何か」「取り除くべき垢とは何か」を考え、いつしか「それは他でもない。自分の心のうちにある」とついに悟りを得るに至ったのである。
     これを聞いて、お釈迦さんは、こう話された。
    「みんな、聞いてほしい。悟りを得るのに、万巻の書を読む必要は決してない。お経に一説といったところで、ほんとうに心をこめて読まなければ理解することはできない。いくらたくさんの知識を頭の中に詰めこんだところで、実際に行ないにならなければ理解したとは言えない。周利槃特は、みんなから愚かだ、バカだと言われてきたが、それを自覚したうえで、掃除を続けた結果、悟りを得ることができたのだ」
  • 「掃けば散り払えばまた塵積もる 人の心も庭の落葉も」
  •  「払うべき埃もなしと言う人を 払わんための築なりけり」
  • 「煙管さえ心(しん)のヤニをば掃除せず 雁首ばかり磨く愚かさ」
  •  「手や足の汚れは常に洗えども 心の垢を洗う人は少なし」
     我々は毎朝顔を洗うし、毎晩風呂に入るか、シャワーを浴びるかしている。手足、顔、身体の表面部分は、いちおう洗っている。しかし我々が毎日、ほんとうにきれいに洗い落とさなければならない垢は、身体の表面部分よりも、やはり精神の部分である。
     表面部分のアカやホコリは落としやすいが、心にはヒダやアヤの部分が多いだけに洗いにくい。どうすればいいか、あれこれ悩んでみたけれど、結局は自分の“素”をそのまま見せること、隠さないことと気がついた。そうすれば、自分の汚いところが曝け出されて、改めるべきところがわかる。
  • 「欲深き人の心と降る塵は 積もるにつれて道を忘るる」






  • 我々の親たちがえらかったのは、あえて子どもに苦労をさせただけではない。自分たちも決して楽をしようとせず、どこまでも苦労を共有したことである。朝は早くから起きて働き、夜は子どもたちが寝静まるまで夜なべをして、まさに背中で教えたことである。子どもたちに掃除をしろと命令するだけではなく、自分のいっしょに雑巾をしぼって便所の掃除をしたことである。いま我々に欠けているのは、いっしょに汗を流すこと、苦労をともにすることではないか。
  • ある修行僧が、帯を手にして庭を掃いたりみんなの食事の準備の手伝いをしたりしている高僧の姿を見て、「それくらいのことは私のような修行中の者がやりますから」と言った。
     これに対し高僧は「修行や研鎖などというものは、特別な何かがあるわけではない。日常のありとあらゆることを誠心誠意やることが道に至る道である。掃除、選択、炊事などをそれくらいのこととしてしか考えていなければ、おそらくそれくらいのことしかないだろう。それが一番の問題である。そこから改めなければならない」と諭したという。
     掃除の真髄は、まさにここにある。掃除は、ついつい誰もが軽視する。いや、掃除にかぎらず一般に「雑事」と呼ばれている日常の作業についてはそうである。だが、これらの作業ほど人の誠意が反映されるものもない。それは、これらの作業は機械が主人公ではなく、人が自分の手足で、自分の心でするものであり、大袈裟に言えば全人格をかけてする作業だからである。
    「禮と言う字は、豊かさを示すと書いてある。心の豊かさ、すなわち相手を尊敬する心を形にしたものが礼である。従って、こうした豊かな尊敬の念が心にこもっていなかったら、いくら頭ばかり下げても礼にはならない」(井上正孝「剣道講話 正眼の文化--剣道の精神と格言」)

  • 「アメリカ流の5S」
    「5S」は「ファイブ・エス」とそのまま呼ぶ場合も多いが、「ハウスキーピング」という言葉を当てているマニュアルもある。「家を住みよいようにいつもきれいに整理・整頓・清掃し、その状態をキープ(維持)する」ことを援用し、現場を自分たちがいちばん気持ちよく事故なく合理的に働けるようにすることであるとしているのだ。
    「整理」は「Simplification」と訳されている。「平易化、簡易化」であり、「シンプルにすること」である。「いらないものを現場に置くな、買うな。現場からゴテゴテしたものを取り除け」と日本語で説明するよりも、それこそシンプルでわかりやすい。
    「整頓」は「Organization」である。「組織化」という意味で、人、モノ、機械設備などを組織的に合理的に配置しなさいということである。これも「モノづくりやサービスの流れに即して並べ直しなさい」という日本で使っている意味のエッセンスをつかんでいると言えよう。
    「清掃」と「清潔」は統合されて「Cleanliness」という言葉が当てられている。これは言うまでもなく「きれい」ということである。
    「躾」は「Discipline」という言葉が当てられている。辞書を引くと、「訓練、鍛錬、修養」という訳が出てくる。これは「モノを定められたところに、きっちり片づけるように習慣づける」などのように、決めたことを守ることである。 これは「モノを定められたところに、きっちり片づけるように習慣づける」などのように、決めたことを守ることである。
    五番目には日本の「5S」にはない「Participation」=「参加」を入れている。これがアメリカらしいところである。日本ではよく、「つべこべ言わずに、黙ってやれ」というようなことを言って、「しつけ」にご丁寧に「お」がついて「おしつけ」になってしまっているが、アメリカはデモクラシーの国、個人主義の国であるから納得しないとテコでも動かない。そこで「5S」の意味を説明し、必要性と効果についての資料をディスクロージャーし、納得させる努力をする。命令ではなく、一人ひとりが自覚して行うから「参加」になるのである。
  • 競争力強化などというと、ついつい大層なことを考えたりするものだが、「きれいで、明るくて、親切で、勉強する店」にするのも何も大袈裟なことはいらない。店主や従業員の心がけでできるものである。掃除は、その出発点であると同時に、核でもある。掃除をバカにするなかれ、掃除は金のかからない極めて有効な競争の武器なのである。






  • 大企業になればなるほど、また業務が複雑になればなるほど、上司は部下の勤務状況を管理しきれなくなっていきます。能力主義とか成果主義という言葉が、最近、急に市民権を得てきているのは、競争の激化もさることながら、こうした事情とも無関係ではありません。それをずっと突き詰めると、企業が労働に対して払っている対価は、時間でそこの席を温めたことに対して払うのではなくて、生産性に対して払っているのだから、生産性が上がらない人に、生産性以外の要素で評価をするということは、全く会社の運営基準に外れるということが、ひじょうに明確になってきたといえます。
  • 機密に近い情報でもない限り、一般的な情報は、ネットワーク上のデータベースから車内の誰でも入手でき、しかも、Eメールを使って自由に意見交換できるのですから、たくさんの情報を持っているというだけでは意味がない。問われるのは、情報に対するリアクションです。ほぼ同じ情報は、上から下まで、みんな持っている。その中で、管理職がどう行動するかを、みんなが見ているのです。
  • 企業というのは、どんどんこの原理(ピーターの法則)を使って、処理するほうが楽なんです。一人ひとりの能力に応じて最高のポジションに就かせて、それ以上は出世させないというのが一番人道的で最高の人事ですが、一般的にはそんなことはしていられないわけです。そういう時に、どんどん上に上げておけ、どうせどこかでつぶれるぞというのが、従来の大企業の人事です。
    「ピーターの椅子に座らされたと思ったら、そこで頑張らないといけない。全制動をかけて、椅子が上がらないように、あらゆる手立てを打たないといけません。
  • 可愛げというのは、男女関係のかわいさとは違って、あくまでビジネスを前提としての話ですが、この仕事に対して自分が望まれているものが何か、つまりファースト・プライオリティは何かをすぐつかんで、それにすべてのエネルギーを注いでくれる人が一番ありがたいし、かわいい。「察しがいい」と言い換えてもいいかもしれません。
  • ここのところでむずかしいのは、自分のアイデンティティはしっかり保ちつつ、上の要求にも応えていくという点です。…企業の方針と自分がちょっと違っているとき、これが一番むずかしい。ここが戦いです。上の人をいかに説得していくか。それも、こいつは自分の我を通しすぎると思われるのは得策ではありません。相手の考えのように見せかけて、結論として自分のほうへ導くということができたら最高です。
  • 一番しんどいのは、残って自己実現しようとすることで、ある意味では一番勇気がいることかもしれません。ただ、金銭的な問題を考えたら、スピンアウトして自分で事業を興すとか、そういう事業をしている会社に再就職するということは、別の意味でのリスクがあります。だから残ることが大事なのか、自己実現の優先順位を高くするか、そういうことも全部含めて、自己とは何ぞや、自分の人生とは何ぞや、問題はいつもそこに戻ってくるわけです。
  • 自己実現という自分の意思があり、自分の価値観があり、こうやらなければならないという意思があったら、自分の中に何か信号が入ったとき、それに対する反応も速いし、反応の方法もおのずと決まってくるわけです。
     ですから、自分の意思がひじょうに明確な人は、割合ストレスがないのではないでしょうか。ポーンと来たら、これ。またポーンと来たら、これ。その点で自己意識のない人は、ポーンと来るごとに振り出しに戻って、右往左往する。ストレスもたまるわけです。
  • こうなると自分との闘いです。きちんと頭で考えた価値観と、いつの間にか慣らされ、形成されてしまっている“性(さが)”との闘い。
     理屈から言えば、“性”は外から入ってきたものですから、心の内側深くから湧き出てきた自己哲学のほうが勝るはずです。意思の強い四十代なら、この閉塞状況を脱出できるに違いない。
     問題は、“習い”がすでに“性”どころではなく、内面すべてを蝕んでいる場合です。そうなってしまっていたら“変わる”のはむずかしい。
  • どのみち未来は未知数で、サラリーマンはその不安定な企業の尾っぽの一番先で、振り回されてきただけ、何もかも会社に委ねているだけの生き方など、実はどの時代でも、本当の意味で通用していたわけではないのです。それでも大丈夫だったいままでは、ただ幸運だったのにすぎません。
     もはや幸運はありません。自分を確立したサラリーマンだけが生き残っていける。個人の心構えの上からだけでなく、企業の戦略でも同じことが言えます。
  • 自分の価値観を打ち出すとともに、自分を相対化し、全体を俯瞰した視点から、客観的に観察する努力も必要です。あえて言えば、個人のCS(カスタマー・サティスファクション)とでも言いましょうか。
     他人や環境のせいにするのは、絶対に駄目です。自分の営業成績が悪いのは不景気だから。自分がこんなにみみっちい人間になったのは社会が悪いから。そういう側面も事実あるかもしれませんが、そんなことで納得していては、それまでです。
  • どんなに立派な企業だろうと、しょせんは人間の社会ですから、これは仕方がない。それを耐え抜き、上に認められるようになればなるほど、今度は同期とか、それまで横一線にいた連中の強烈な嫉妬を招き、疎まれるようになってくる。しかし、それくらいのことで潰され、引っ込めさせられてしまう程度の出方なら、初めから意味はないのです。中途半端はよくありません。ここは一番、じっと堪えて、出方を鈍らせるのではなく、より積極的に出ていくことです。
     出る杭は打たれるが、出すぎた杭は打たれようがない。つまり、あいつは出るべくして出た杭なのだ、自分よりワンランク上の奴なのだから、嫉妬なんかしたら自分かみっともないと、まわりを諦めさせてしまうのです。
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