勇気の出る名言集

過去に読んだ本で勇気を与えられた言葉のアンソロジーです。

2018年07月

ミヒャエル・エンデ「遺産相続ゲームーー地獄の喜劇」

遺産相続ゲーム―地獄の喜劇 (岩波現代文庫)
ミヒャエル エンデ
岩波書店
2008-10-16

  • 『遺産相続ゲーム』は、ーー私の考えではーー楽観的な芝居なのである。つまり、劇場で上演される想像上の「世界の破滅」は――ハエ一匹殺さないのだが――、どんなにつつましきともなんらかの方法で、現実の「世界の破滅」をくいとめる役に立つのではないか。そういう希望が、芝居の出発点だからである。明らかに私の考えは、素朴だった。だがそのさいいずれにしても、当時の私の先生であったブレヒトの素朴さをなんと、信頼していたのだ。彼いわく、「舞台の人物たちではなく、観客を賢くすることが大切である」。ただし、現実の「世界の破滅」よりも、舞台や芸術で見せつけられる「世界の破滅」のほうが、多くの人にとっては、気が滅入るらしい。そうとしか感じられないことが、ときおりあるのだ。じっさい私の作品は、以降、ますます攻撃的でなくなり、私自身は、ますます楽観的でなくなった。
  • 私は生き、私は死ぬ 汝とともに、おお、人の子よ。 それゆえ、愚か者どもの財産相続は 冷たい風になびく煙。 私は花ひらき、枯れる。 汝が枯れ、花ひらくように。 それゆえ、愚か者どもの財産相続は 空虚で荒涼たる奈落。 おのおの、みすがらに起因せし もののみを、獲得するがよい。 それゆえ、愚か者どもの相続財産は 愚か者どもの破滅。 汝自身、汝に贈られる。 賢くあれ、人の子よ! 愚か者どもの相続財産は、風に たなびく煙のように、消えてゆく。 -ヨハネス・フィラデルフィアの宮殿の正面玄関うえに刻まれた銘
  • ヨハネス・フィラデルフィアの遺言
     これは私の最初にして最後の意志である。天にも地にもおまえたち自身をおいて他にはだれひとり、おまえたちに与えることのできないものを、おまえたちに与えたい
     おまえたちはすでに受け取っているのだ、お互いの手を通して――でなければ、いまこうやって私の言葉を読むことはできないであろう――そしてまさにそのことこそが、本来の遺産なのである!
     おまえたちの知ることとなったこの秘密を欠いたままでは、私の財産はおまえたちにとって呪いとなるにちがいない。なにしろこれは、大いなる財宝であり、強大な力であり、多くを支配する権力であり、内密にして公然たるものであるのだから!
     私はおまえたちにおめでとうと言おう!黄金の鍵と黄金の錠、この両者は一体となっているが、それをおまえたちは自力で見いだしたのであるから・・・今度はおまえたちが、世間の人びとを客人として迎える番だ
  • 作者ノートから
    Ⅰ テーマ
     人びとの連帯は、利害が共通していると気づいたときに生じる。この意見には、だれもがうなずくでしょう。意見が食いちがってくるのは、そのあとです。つまり、利害が多種多様で、おたがいに排除しあう場合、そのどれを優先し、どれを従属させるのか、が問題になったときに、意見が食いちがってくる。たとえばかりに、ある船に乗りあわせた人たちが、船とその積み荷がだれのものなのか、について言い争いをはじめたとします。そして口論のさいちゅうに、まさにその荷もろとも、それどころか自分たち自身をも沈めてしまったとします。その場合その人たちの態度は、すこしは正しいとしても、宿命的なほど愚かだとみなせるでしょう!それにもかかわらず、このような分別は、なんとも克服しがたい困難にぶつかっているようです。つまり、私たちが現代の世界の状況をながめたときには。こういう困難をこの芝居は(ひとつのモデルにおいて)描こうとします。

山本夏彦「『室内』40年」

『室内』40年
山本 夏彦
文藝春秋
1997-03

  • 私たちは、ある国に住むのではない。ある国語に住むのだ。祖国とは、国語だ。それ以外の何ものでもない。(シオラン)
  • 魚屋は今日仕入れた魚を夕方までに売り尽くせば幸せで、あとは枕を高くして寝るだけです。生活とはそういうものです。つもりつもって四十年たっただけです。「一日の苦労は一日で足れり」と聖書にある――「明日のことを思いわずらうな」。一日の苦労は一日で、明日まで持ちこさないのが人間の本来です。
  • 盛んな職業はみんな仲が悪い。今後とも盛大になる見込みのない職人は皆かたまりあってね、仲がいい。
  • 今度の写真コラムのタイトルにはね「平和と聞いたら気をつけよ」つて題したんです。自分の国を誹膀してそれを「良心的」だというのは左翼の常套手段です。そして必ず「平和」の二字を冠する。だから平和と聞いたら気をつけよ。
  • 家具に限らずどんなものでものぼり坂が三年のぼりつめて三年くだり坂が三年、長くて十年、ヒトラーは天下をとって十一年目に自殺した。タレント(才能)なんてそんなものですよ。
  • どんな商売でも全盛時代に気をつけなくちやいけない。ダメになる萌芽はすでにそのどこかにある。それなのに賞をもらうと業者は受賞作の前で万歳三唱するのです。
  • 官僚は何十人いても一人なんです。よく民間人を入れて会議するけれども、それはただ聞いているだけ。それが組織ってものなんだ。僕はよく朝日新聞の悪口を書く。朝日の中にもそれを尤もだと思う人はいっぱいいる。いるけれども改められないっていうのは軍隊と同じで、「組織」なんですよ。それがいま動揺しているところです。
  • 要するに新聞は読者の嫉妬心をあおるために書く。・・・ジャーナリズムが賎業だというのはこの一事でも分かるでしょう。売るためには何でもする。ヌードだってヘアだって出す。
  • 出来る人に五人分十人分与えよと組合は言いません。組合は出来ない坊主のためにあります。全員に平等に与えれば一人の取りぶんは少なくなります。即ち給料は永遠に足りないものです。…仕事っていうのは八割は同じなんです。事務なんですよ。編集プロパーとか建築プロパーてものは二割あるかなしかなんです。だからダメな人はどこへ行ってもだめなんですよ。故に日本の会社はできない坊主を全部抱えているんです。
  • 法は破るためにあります。領収書至上主義は人間侮蔑です。人間はその侮蔑に値するか。値するのです。もう一つ税制は親子兄弟の仲をカタキ同志にしました。
  • わが税制は大衆の嫉妬心に立脚している。社会主義の考えです。それに国は作者の著作に何一つ手助けしていない。あんまりくやしいから全部寄付すると言ったら、憎いじやないか、税は所得が発生した瞬間課される、月給だってそうですよ。だから八割五分税金にとられた残り、つまりカスがあなたの取りぶんで、それをどこへ寄付なさろうとあなたのご勝手、ご自由にと国は言うんですよ。
  • 食べられるかぎり革命はおこりません。いま我々は食いものを捨てています、
  • 今の戦後五十年だって、冷暖房完備、テレビあり、電化製品あり五十年前の人が思いもよらない極楽ですよ。ただしそこにいる我々が極楽と感じているかどうかは別です。古人は「足るを知る」と言いました。
  • 肉体が絶頂なら精神も同じです。歳をとったぶんだけ利口になったと思うのは思いたいからで、老人が教えたがるのはそのせいで、歳をとったことを自慢するのは、ほかに自慢するものがないからです。人生教師になるなかれ。
  • 真似をしているうちに退屈するって言ったでしょう。退屈して工夫が生じるんです。この人たちは永遠に退屈しないんです。人は真似するときに真似をするものを選ぶんです。サザエさんの作者長谷川町子は田川水泡の弟子です。・・・あの二人は共に本当の絵が描けない人です。だけどその人を師匠に選んだのはサザエさんの不運ではないんです。サザエさん(の作者)の責任なのです。・・・長谷川町子はやっぱり天才です。ただあれがどれくらいマンガのレベルを下げたか、ついこの間浮世絵を描いた国民の美的レベルを劇画までおとした。だから師匠を選ぶことも才能だというんです。
  • 弟子は常に不肖だっていうのです。どんなえらい師匠でも、師匠を凌ぐ弟子とは衝突して破門します。不肖の弟子が可愛いんです。
  • 婦人雑誌の醜聞を立ち読みするように、人は度しがたいほど、スキャンダルが好きです。マスコミはその劣情に乗じて醜聞で売る。古くは浅間山荘、近くは神戸の大震災、リアルタイムで人が死ぬのを高見の見物するのは人生無上の快事です。人間の卑しい弱点に乗じるからマスコミは賎業だって僕は再三言うんです。見る人と書く人は結局はグルなんです。片っぽだけ悪いってことはない。それで衣食するのは賎業だって言ってもなぜか分からない人が沢山いる。本らしい本を読まない人が本をこしらえているんです。
  • 「戸を出ずして天下を知り、窓をうかがわずして天道を見る」と古人は言っています。私は創刊以来どこへも行かない。諸君諸嬢とつきあっているだけでも天下の大勢は分かる。共に旅しようと誘われても、「旅は友を失う」と言って私は応じなかった。「ロバは旅をしても馬になって帰ってくるわけではない」というのは私の大好きな金言です。あれ(共産党)は正義です、正義は悪徳の変装したものです。

  • 物余り現象の中で、周りの人のもっているものが欲しい、他の人の身につけているものを自分も身につけたいと、あくなき欲望の中で、不平不満をつのらせ、自らを苦しめつづけている現代の日本人の社会は、ひょっとすると餓鬼の世界なのかもしれません。
     阿弥陀仏の智慧の光に照らされて、自らの悲しい姿に気づかないかぎり、餓鬼の世界から出離する道はありません。
  • 「人間」とは、四つの大きな間違いをしている生きものです。四つの大きな間違いを釈尊は「常・楽・我・浄の四顛倒」と教えてくださいました。
    「無常」なるもの、常に移り変わっているものを、永遠に変わることのない確かなもの、「常」と思い違いし、それらによりかかって生きているのが人間です。その結果「こんなはずではなかった」「うらぎられた」「だまされた」と、嘆き悲しまなければならないことになります。
    「苦」なる人生、自分の思うようにならない人生であるのに、どこかに自分の思い通りになる世界、「楽」の世界があるように思い違いして、他の人の居る場を羨み、自らの場をグチりながら生きるのです。
    「無我」の「いのち」、阿弥陀仏の大きな「いのち」につつまれ、他の多くの「いのち」と共に生きているのに、自分一人の力で生きていると思い違いして「我」を通すことにあけくれる私たちは、「あの人はわかっていない」「誰それはつまらない」と、口を開けば周りを責める言葉しか出ない悲しい毎日を生きるしかありません。
    「穢」なる生き方、他の人がどうであろうと、自らの福利だけを求めて生きながら、他の人はもうすこし私のことを考えてくれて当たり前、周りの人間がもっと私の身になってくれて当然と、他の人、周りの人を「浄」なる存在と思い違いして、人間関係の不足にあけくれる寂しいあり方に私たちはなっているのではないでしょうか。
     阿弥陀仏の真言を聞いて、四つの大きな思い違いを知らされないかぎり、私たちの嘆きも、悲しみも、グチも、不足もなくなることはありません。
  • 小さな「我」の殼に閉じこもっている私たちの間違ったあり方を開いて、本当の「いのち」のあり方を回復してくださる南無阿弥陀仏のおはたらき(正定業)が、今、現にこの身にとどいても、それを受け入れるといいますか、そのおはたらきに身をゆだねるといいますか、おまかせすること(信)がなければ、せっかくの阿弥陀仏の本願念仏も、無きに等しいことになります。
  • 私たちをおすくいくださる南無阿弥陀仏は、難しいおはたらきではありません。文字通り「易行」なのです。難の理由は、どこどこまでも私たちの方にあるのです。「邪見・驕慢」が難の理由です。そのことをあきらかにして、どのようなことがあろうと、阿弥陀仏の本願念仏に遇えとおすすめくださるのが、釈尊であり、『無量寿経』の経意です。
     ですから、「難のなかの難これに過ぎたるは無し」と、「邪見・驕慢の悪衆生」をいましめてくださる釈尊のお心は、ひとえに阿弥陀仏の本願念仏を、私たちにすすめずにはおれないという慈悲のお心なのです。

  • 「一念喜愛の心」、すなわち信心といいましても、お念仏を称えながら、阿弥陀仏のよび声をお聞かせにあずかる以外にないのです。煩悩を縁として、お念仏を称えさせていただく、よび声を聞かせていただく、このことひとつで、「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」という素晴らしい人生が実現するのです。
  • 私たちの住むこの社会は、すこしの違いさえ大きくとりあげて、細かく選別し、自分たちと異質なものをもつ人を排斥したりします。そのような選別や排斥によって身の置きどころを失い、自らの生命を断つ人もあります。・・・人間、よく似たものはいても、全く同質のものなどいるはずがありません。ですから、同質集団があるという関係は、閉鎖社会の共同幻想でしかありません。
     十人十色、百人百色といのが人間の本当の姿です。それぞれが、他の人のもたないそれぞれの色を精いっぱい発揮して照らし合う社会こそ、すべてが喜んで生きることのできる世界です。
     念仏は、すべての人が等しく受け入れられ、どのような差別も区別もない、開かれた世界を実現してくださる大いなるはたらきなのです。それは、この世では当然排斥される立場にある人をも、等しく受け入れてくださる世界を実現してくださるはたらきなのです。
  • 人間が一番危ないのは、「自分は一人で生きている」という思いにとらわれた状態にある時です。
     どのような「いのち」でありましても、単独で生きられる「いのち」はありません。人間も、どれほど優秀な頭脳と強靭な肉体を持っていても、一人で生きることはできません。一人の人間が生きるということは、その人間を支えている多くの人があり、多くの「いのち」があるということです。そのことを見失っている状態が「自分は一人で生きている」という思いにとらわれている時です。
     自分を生かしてくださっている「いのち」を見失っているのです。この身、この「いのち」を育み、照らし、生かしてくださる一切の「いのち」の輝きを見失っているこのような状態が「無明の闇」です。
     「無明の闇」の中で、「自分は一人で生きている」と力んでみても、暗闇の中を手さぐり状態で生きるのですから、些細なことにすら、神経をとがらせ、ビクビクと常に何かにおびえながら生きる人生になります。
     「どのようなことがあっても、あなたを一人にすることはない」という「摂め取って捨てることない」大きな阿弥陀仏のお心に照らされ護られてこそ、私たちは堂々と力強く人生を歩むことができるのです。
     阿弥陀仏の「摂取の心光、常に照護したもう」中で、何ものをも恐れることのない力強い人生が実現するのです。
  • 私たちがどれほど逃げようとしても、必ず追わえ取り永く捨てることのない阿弥陀仏のお心が、南無阿弥陀仏のよび声となって、常に私たちをよびつづけ、照らしつづけ、護りつづけてくださるのです。
  • 信心とは、阿弥陀仏の「摂取の心光、常に照護したもう」中で生きるということです。「心光照護したもう」中を生きるということは、「異学・異見のともがらにやぶられ」ない日暮しであり、「別解・別行のものにさへられ」ない生活であり、「天魔波旬にわかされ」ない人生であり、「悪鬼・悪神になやま」されない生き方です。・・・「一人で生きている」と頑張っているものに限って、常にこのようなものとの戦いに悩まされつづけます。「摂取の心光」の中で生きるものは、このようなものに悩まされることはありません。
     私たちは、この身ある間、むさぼりの心(貪愛)や、怒りや憎しみの心(瞋憎)がなくなることはありません。これらが、「摂取の心光」を覆い、遮ることがありましても、それはどれほど雲や霧が日光を覆い、遮っても、闇夜にならないのと同じことで、その下は明るいのです。ですから、貪愛や瞋憎の煩悩に覆われて、自分の目で直接「摂取の心光」を見ることができなくとも、信心の人は「摂取の心、常に照護したもう」中を生きるのですから、なにものにも人生破綻されることなく、悩まされることなく、堂々と自らの人生を力強く生きることができるのです。
  • 「地獄」とは、鬼と亡者の住む世界です。鬼とは、自分のことは棚に上げ他の人の欠点のみに目を向け責めつづける生きものです。亡者とは、どのような場合でも責任をとろうとせず、上手に逃げまわる生きものです。追うものと逃げるものは共に生きるよろこびを知らず、苦悩のうちに生きるのです。このようなあり方から抜ける道もなければ、抜けだそうともしないものの生きる世界が、地獄です。
    「どのようなことがあろうとも、あなたをすくわずにはおれない」という阿弥陀仏の大きなあたたかい心に遇って、自らの姿を知らされた時、恥ずかしくて、鬼は鬼でありつづけられなくなりますし、亡者も亡者でいつづけられなくなるのです。

  • 自らの煩悩を正当化している間は、煩悩の穴から出ることはできません。阿弥陀仏の光に身心を照らしだされ、私たちを案じ呼びつづけてくださる阿弥陀仏のよび声が聞こえたとき、欲や怒りの心にさえ執着している自分の醜いあり方が恥ずかしくなり、自分の煩悩を正当化できなくなります。本願の名号によって煩悩に執着する心が断ち切られるままが、煩悩の穴からたすけあげられていく姿です。
  • 「信楽」といわれる時の「信」は、「思い込むこと」でもなければ、「一生懸命になること」でもなければ、「すがること」でもありません。「信」とは、阿弥陀仏のすくいに一切の疑いが無くなるということです。
  • 阿弥陀仏に遇うには、聴聞しかありません。それで、信心を一番大切にする浄土真宗ではなによりも聴聞をすすめるのです。聴聞では阿弥陀仏の本心、すなわち、ご本願を聞かせていただくことであります。ご本願は常に南無阿弥陀仏のよび声となってわが身に、わが胸に、わが耳にとどけられていますから、聴聞とは、南無阿弥陀仏を聞かせていただくことなのです。
     本願の名号を聞かせていただく、そこに「信楽」といわれる、真実の信心があるのです。わが身、わが胸、わが耳にとどいた本願の名号が、多くのものに縛られて自らを見失い真実を見失っている私たちを「すくい」、お浄土へ人生を開いてくださるのです。
  • 「どのようなことがあろうとも、あなたを見捨てることがない」と喚びつづけてくださる阿弥陀仏のお心にいだかれて、いくつ、何十になっても自らの煩悩を断ち切ることのできない、また、周りの目や俗言・迷信等の束縛から脱出することのできない私たちが、それらを恐れることのない力強い人生を、お浄土にむかってただ一筋に歩ませていただくのです。この喜びが「信楽」です。
  • 誰が何を言おうが、日がよかろうが悪かろうが、何か憑こうが崇ろうが、私を見捨てることのない阿弥陀仏が居ってくださるのだから力いっぱい生きていこう。それが「救い」です。
     確かな阿弥陀仏のお心に導かれ、自分の煩悩を正当化して頑張る必要がなくなります。そこに「救い」がおのずから実現します。
  • このことのためになら「いのち」を捨てても後悔しないという時、「いのち」は最も輝くのです。「いのち」の輝きは、顔の輝きとなり、姿の輝きとなってあらわれます。
  • 命濁とは、莫大な情報の洪水の中で自らを見失い、自制のきかなくなった欲望や怒りの中で自らの「いのち」さえ忘れて生きる、濁った時代のあり方です。確かに肉体がこの世に存在する時間は延びましたが、本当に自らの「いのち」を自らが生きる時間はますます短くなってきています。
     このような時代を生きなければならない人間にとって、なによりも大切なことは、内外のすべての束縛から私たちを解放し、自らの「いのち」を、自らのものとして、他の「いのち」と共に生きる人生を実現してくださる「如来如実の言」を聞くことであります。
  • 一つ屋根の下、一つ地域で生活しておりますと、どれほど仲の良いものでも、ときには衝突するものです。その衝突の原因を、私たちは世代のずれ、考え方の違いによると思いがちですが、本当はそうではありません。
     世代がどれほどずれ、考え方がどれほど違っても、相手を受け入れ、相手の考えを聞く耳をもっていれば、お互いの学びになることはあっても、衝突することにはなりません。私たちが衝突するのは、自分を「善し」とし、相手を「悪し」として、お互いに相手を攻撃することによっておこるのです。
     「よし、あし」の結論は、如来におまかせして、それぞれが、相手を受け入れ、相手から学んでいくなら、衝突のしようはありません。ところが、私たちの日暮しは。
     まことに如来の御恩といふことをば沙汰なくして、われもひとも、よしあしといふことをのみ申しあへり。(『歎異抄』)
    というありさまですから、衝突するはずであります。
     そして相手を「つまらん奴」と決めつけ、腹を立て、その腹を立てるという煩悩をどこまでも正当化しようとします。煩悩の正当化は、煩悩に執着する相です。このことについては先にも述べたところですが、煩悩に執着して、結局、煩悩の穴に落ちこんでいくのです。
     私たち、どのようなものであろうと、執着すれば、その執着したものに束縛されるのです。お金に執着することによって、お金に束縛された人生を歩むことになります。地位に執着すれば、地位に束縛されて身動きできなくなります。 結局、私たちは煩悩に執着するが故に、一生涯、煩悩に束縛され、煩悩に「身を煩わされ、心を悩まされて」の日暮しになるのです。ですから、煩悩の束縛から離れて真の自由を実現するためには、煩悩を滅するか、煩悩に執着する心を断ち切るかのどちらかしかありません。
  • 念仏は、どこどこまでも自分の思いを正当化し、煩悩にすら執着している私たちのありのままの姿を、あきらかにしてくださると同時に、そんな間違ったあり方をしている「いのち」すら見捨てることができないと、つつんでくださるのです。いや、念仏は現に今、このような私たちを見捨てることができないと、よびつづけてくださっている大きな「いのち」からのよび声なのです。
     念仏によって、自分の間違った姿があきらかになってくると、恥ずかしくて、自分を正当化できなくなります。大きな「いのち」の声が聞こえたら、もったいなくて、煩悩に執着する心が消えてしまいます。
     すなわち、煩悩を縁として念仏申し、その念仏によって自分を知らされ、大きな「いのち」のあたたかさを知らされ生きるままが、自分ですら気づかないうちに、涅槃への道を歩まされているのです。「煩悩を断ぜずして、涅槃を得る」人生を歩み出しているのです。
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