勇気の出る名言集

過去に読んだ本で勇気を与えられた言葉のアンソロジーです。

2023年12月




  • 自分の判断は正しい、と自分に言いきかせるとき、人はゆったりと自己満足の心境になる。自分を許す気分にひたるのが、追認の心理とも言うべき情緒であろう。自分は間違っていないと思わなければ、安んじて生きてゆくことはできない。口に出しては言わないけれど、人は常に自分を褒めていたいのである。
  • 当時「一生懸命」がやたら尊ばれた。たんなる一生懸命にはなんら価値がないことを為政者は教えなかった。だから国民は「一生懸命」が価値をもつためには「正しい理論」にもとづくことが前提条件だということを悟らなかった。(本田宗一郎)
  • 私の70年間余りの実験によると、この世にはやはり「運」というものは確かにあると信じている。しかしその運は先方から自分の方へ来てくれるものか、または自分からその運を取りに行くものか、この二つの事の判断のしかたによって、人生の成功と失敗がおのずからわかれるのである。(安田善次郎)
  • 井植(歳男)は、人が困っているときこそ、当面の利害を越えて、相手に便宜をはかってゆくことが、あとあとに大きな信用となって、したがって利益となって、返ってくるのではあるまいか、と回想している。
  • 人はだれども種々様々な能力をもっているものなのに、自分がどんなにすぐれた能力があるかを知らずにいる場合が多いと思う。どの世界でも、偉人というものは、たいてい、自分で自分の能力を発見し、育てていった人であろう。(盛田昭夫)
  • 禍は口から、という。言葉をつつしみ、自分の偉さをあらわそうとはせず、気どらなければかえって人に尊敬され、親しまれ、したがって自分も楽しみ多いが、いばり、虚勢をはる人は他からきらわれて、孤立し、人望を失うにいたる。(石橋正二郎)
  • 業績がそれほどきらびやかでなくてもよい。遣り手であると評判が立たなくてもかまわない。彼奴と会って話したら気分がいい、と優しい目つきで見られるようになったら、いつのまにか総体に物事がうまくゆく。人生で努めるべき最も重要な課題は、これはもう他人に好かれるようになることである。
     人生は長いというけれど、その間に触れあう人の数はごくわずかである。その大切な人たちから好感を持たれるのに、大した工夫も努力も要らない、方向としてはただひとつ、常に謙虚な姿勢を持する心構えである。そうしようと思ったら誰でもできる。精力を消費しなくてもよい。いつも控え目に身を処するだけである。
  • ウソをついた管理職には降格などの罰を与えた。このころ、管理職の人事評価は「人格」を基準にすべきだと思うようになる。成果主義は考え方としては正しいが測定が難しい。ある時期に上がった成果が現任者の功績か、前任者の種まきによるものは、はっきり分けられないからだ。それなら「誠実」「部下の面倒見がいい」といった人間性を重視した方がいい。(小倉昌男)
  • 漢学は国境を越えた人間学である。論語を指して伊藤仁斎が、最上至極宇宙第一之書、と評したとき、彼の脳中のは、この世に生きる人間すべてが学ぶべき第一原理という影像が浮かんでいた。すなわち日本の漢学者は大宇宙のなかに身をおいて、人間学にふけったのである。つまり中国研究に努めていたのではない。
  • 千数百年の間、日本人は漢籍を教科書として人間学に没頭した。けれども、中国の国柄と伝統は何か、中国人のものの考え方にはどんな偏りがあるか、そういう視点からの中国研究を、まったく度外視してきた経緯を、今や改めて認めるべきであろう。
  • 会社でいちばん大切なのは受付と電話交換手であること、自分が先に出ないで、目上の人を電話口に待たせるなどはしないこと、食卓に招いた人の名札を書き違えてはならぬこと、事業の繁栄は自分の力によるものではなく、国家、社会の恩恵によるものだから、報恩の精神を忘れてはならぬことなどの心得を、事にふれ、時に応じ、身をもって教えられた。(大屋敦)
  • もちろん社長の挨拶や上役の訓示にかぎらず、一般にかなりの人数を前にして、少し改まって話しかける講話講演では、これ見よがしに好い気分の、流暢な語り口は避けるべきである。
     とくに社内で社員に語りかける場合、言うて聞かせるという物腰が宜しくない。なぜなら目前の社員一同は、聞きたいという自発的な気持ちでなく、儀式であるからこれも勤務のうちを、多少は迷惑がっているのが通常である。



  • なにか一つをマスターすることが大切だ。技術屋なら製造技術とか設計技術とか、事務屋なら人事でも経理でも、その職種では社内はもちろん、業界全体でも「これならあの人」と評価されるくらい一つの職種を極めるべきだ。(石原俊)
  • 一つの職種に熟達すればどうなるか。その砦に備わっている眼孔から会社の全体が見えてくる。部分に執着する眼力が強いほど視角が明るく広く見えるという逆説が作用するようである。
  • 人を育てるのに叱って叩いて有効という事態はありえない。人を育てるには褒めて煽てて認めて後見するにかぎる、とは昔からたいていの教訓書に記された決まり文句である。
     しかるに世間一般を見渡して、このような姿勢で後進を導いている人のはなはだ珍しいのは、なぜか。残念ながら人の世では、目をかけられたとなるやたちまち怠け、徒花となって朽ち果てる人があまりに多いからである。
  • 創造とは、突拍子もない、桁はずれの、夢や幻みたいな、現実にできそうもない、横紙破りの、上司が一笑に付すような、無茶苦茶の、同僚の嘲笑するような、つまり常識はずれの発想から芽生えて育ってゆく。
  • 競争によってのみ社会は発展してきたとみるのはまちがいではなかろうか。競争というのは、物を生産するよりも、むしろ、奪い合うものだと思う。奪い合った結果は、破壊に落ち着かざるをえない。反対に協調すれば、生産は増えていく。(稲山嘉寛)
  • ひとびとはこれまた常々、有効な投資先と後援し肩入れするに適した有望株とを探している。成功とは世間を味方に引き寄せた段階を言う。あくせくと血の汗を流して苦しんでいるとき、一文貸してくれなかった悪鬼羅刹が、満面に笑みをたたえて借りてくれと躙(にじ)り寄ってくる。当方の人格がすぐれているからではない。すべては信用であり見込みであり賭けであり投機である。
  • 個人のあらゆる不平不満は、自己をこの世の誰かになぞらえ比較して、羨み嫉み妬み恨み憎み呪うからであろう。つまりは五臓六腑を苛んでガンにでも行きつくのが関の山である。
  • 人の世に浮き沈みは避けられない。けれども反省を要するのは、洞察力のある少数意見を蔑ろにして、少数意見を黙殺して、ただもう勢いに乗って突っ走る、わが国民における付和雷同という負(マイナス)の精力(エネルギー)である。
  • 後継者に口出しするのは、ほかならぬこれを卑しめることである。恥を天下にさらすことである。偉そうな顔をしてどうしてとやかく愚かな口出しができるのか、理解に苦しむ。
  • 歴史が進展する根本の動力は親殺しであった。親殺ししかねない根性者を自分の後に据え、すたこらさっさと逃げだすのが男の花道である。
  • 会社経営の要諦は社長個人としての能力がいかにすぐれていても限界があり、多数の部下にその力を十分に発揮させ、その総合力をいかに結集し、活用しするかが大切なのである。社長は事に当たって的確な判断を下し、最終の責任を負う覚悟を堅持すればいいのだ。(土井正治)
  • 私は「軽い経営」が理想だと思っている。「軽い経営」とは、従業員全体の肩に水圧を感じさせない会社のことだ。職制とか人事権とか命令系統とか、何か一つの権力構造をたよりにして、権力をちらつかせながら下を押しまくっていくような経営は「重い経営」だ。(小坂徳三郎)
  • 人をひきいる立場にある者は、いざというときに逃げない度胸が大切である。あの人は逃げない、と見られたとき、はじめて指揮の態勢ができるであろう。
  • 人を非難する場合、お前がコレコレするのは甚だ面白くないという批評家は沢山あるが、しかしそれなら如何したらよいかという対策を用意して、親切に教え得る識者は、千人に一人あるかないかである。(鮎川義介)
  • およそ誰にしても他人を非難する権利はない。資格もない。自分以外のいかなる他人にも、その人が身をおいている立場によって、それぞれにできる行動はかぎられている。世に生きる身に万能の自由はありえない。



  • 人間のカラダは栄養を求めていると知る人が、アタマに滋養を与える摂取を、とかく怠りがちであるのは不思議だ。
  • やり甲斐、働き甲斐は、やってみてはじめて出てくる。やりもしない、働きもしないで、どうしてそのような喜びが得られるだろうか。生き甲斐にしてもそうだ。精いっぱい生きる努力をして、はじめて生きる喜びを知るのだ。(土光敏夫)
  • 紛々たる世の毀誉褒貶を気にしていて何ができる。区々たる世評などに頓着せず、自ら信ずるところに邁進し、自ら好むところに直進し、思う存分のはたらきをなし、倒れてのちやむのが即ち男子の本懐ではないか。(大倉喜八郎)
  • この世にあらゆるひとびとは、他人を褒めるために生きているのではない。地球に生を享けたあらゆる生物は、日もすがら夜もすがら、他種や同身を守り、それゆえ攻めるのに専らである。カラダで攻めるかココロで攻めるか。人間の分明はココロのせめぎあいで成り立っている。
     人間社会における毀誉褒貶は、季節のめぐりと天候の変り工合に等しい。それは絶対に避けることができない。誰でも例外なく、空模様にはおとなしく即応して、適宜に生活しているではないか。ちょっとした悪口を言われただけで腹を立てるのは、今日は雨が降っていると、憤りを発するのに似てはいないだろうか。
  • 人と生まれて最大の不幸は、自分が何をやりたいか、胸のうちに聞いて答えが出てこぬ場合である。一念発起、やりたいことが脳裡に浮かんだとき、その人の人生はすでに半ば成功である。傍の目から見てなんだかオカシイことでもよい。やりたい思い、とげたい願い、その方向に歩むべき道が拓けるからである。
  • 何でもよいから自分のやりかかったことを小でも大でも仕遂げてしまう。小さいことをいくつも成功して行く間に漸々と大きなことにも成功するようになる。(団琢磨)
  • 世の中の人はそれぞれ思想も好みも違う。部下の意見を好んで聞く人もあれば、聞くのをいやがる人もいる。人間というものは自分の個性を殺してまで人に迎合する必要はなかろう。なにごとも私心をはさまないかぎり、正々堂々と自分の意見を述べるのに遠慮はあるまいと思う。(高杉晋一)
  • 世にたいての抜擢人事は、上司の英雄趣味に発し、恩着せがましい挙動につながるから、必ずしも引きあげられた人から感謝を生まない、かえって上下の関係がぎくしゃくする。
  • 企業というものは、社長一人がすぐれていても、たいしたことはないんです。全社員がそれぞれの能力を充分に発揮できるような、一人一人が気持ちよく働けるような職場づくりをしなければ業績はあがりませんよ。(松尾静磨)
  • 現代日本の社会では、花をめざすか実をとるか、遠き慮りを欠いてはならぬであろう。
  • 世間はある人物の値打ちを業績のみで測るほど冷静ではない。仮に本当の実力があって確実な業績があったとして、第三者はその人物を尊敬するだろうか。まわりの人間に、彼奴と話していると気分がいい、と思わせる人、その型がまことの実力者なのではあるまいか。
  • 私は私の能力、それは知的能力であれ、行動的能力であれ、さらに人間的能力について、その限界を、人さまよりは敏感に意識するという性格がつよいのである。私は、過ぎ去った日々の中で、しばしば、そういう孤独感にさいなまれながら歩いてきた。それだけに、私は、ものごとに当面して、私の出る幕であるかどうか考え、私の出る幕でなければ、その渦中から去っていったのである。(川勝伝)
  • 一般に世の人の能力や性格を等身大に評価して、役職や地位を提示するなんて、優曇華の花が咲くほどの珍奇な例である。総体に、他人の才能など見抜けるわけもないし、いわんや将来性を予測する千里眼なんてあるはずもない。すべては不規則に闇雲に廻転している人事の、水車の空廻りのとばっちりである。ただ自分が受けた内示や聞こえてくる下馬評を、ひとえに己が有能であるためと思いこむ、可憐な自惚れが跡を絶たぬだけのことであろう。
  • 人と交渉ごとをする場合、光を背にして位置することが有利であると知った。相手の顔の相の動きがよくわかると、話し合っている途中で、交渉がまとまるかまとまらないかの見当がつく。(司忠)
  • 強い者は必ず酷い。嵩にかかって骨までしゃぶる。向こうになんらかの同情を期待できるのは、こちらにそれ相当の力がある場合にかぎる。商業にしろ製造にせよ、相手に利を与える容易がある場合にのみ、辛うじて対価交換が成立つ。



常識の非常識
山本 七平
日経BPマーケティング(日本経済新聞出版
1986-05-01


  • 大衆社会とは「大衆帝王」の時代である。それが「一朝の念」で憲法に基本的権利を否定するようになれば、七世紀の中国にも劣る状態になるであろう。
  • 欧米の指導者に要請されるのは「能力」である。カエサルもナポレオンもビスマルクも有能であった。だが日本はやはり中国の影響を強く受けているから、指導者に要請される特質はむしろ「徳」である。
  • われわれはしばしま指導者の「人徳」を問題にする。ここにまた問題を生ずる。まちろん「人徳」は国内的には指導者の条件であり、東アジアの伝統的な文化から言えばそれはごく当然である。
     だがその目で欧米の指導者を見て評価を下したなら、それは彼らが日本の指導者に誤った評価を下すのときわめて似た現象を生ずるであろう。
     さらに問題なのは、「人徳」が認められない指導者に対して日本人はしばしば感情的に反発することである。そのことは、一歩誤ればその国への感情的反発となってくる。
  • 「反政府だが反国家ではない」。この差は微妙だが、毫釐の差は千里の差となるのである。占領軍は意図的か本能的かはわからぬが、微妙な点で、野党とマスコミを反国家の方へ誘導している。また国民は戦時中の「国家の重圧」にこりごりした面があり、そこである種の共感をもつ。その結果、後に『国家悪』などという本もあったほどだから、ある時期まで反国家であることが野党の存在理由であるような錯覚をもっていた。これは、確かに占領軍にとっては成功した政策であった。
  • 「刑は士太夫にのぼせず、礼は庶人に下さず」で、士太夫は一般の法の適用はうけないが、それより厳しい倫理に従わねばならず、大きな権限をもっていたが、同時に法の保護をうけられないという位置にいた。
  • 伝統とは不思議なもので、それが全く忘れられているように見えて、外来の思想が来ると「掘り起こし共鳴現象」を起こして、別の表現で復活して来る。
  • 大分前のことだが、故浅野順一先生と対談したとき、先生が「老人問題、老人問題というが、みな言っていることはカネのことだけ、『心の問題』に全く無関心、これでは何の解決もない」と言われた。
  • 新しい状態への対応を怠って、徒に法と制度と権限の保持に汲々としていると、下位制度はぐんぐんと実力をたくわえ、それに応じて本物の制度の形骸化が進んでいくという状態が、すでに現われているように思われる。そうなっても、法と制度の改廃は行なわないと言うのは、ある意味ではまことに日本の伝統にふさわしいことかも知れぬが、伝統の中には保持すべき伝統もあれば、打破すべき伝統もあることを忘れてはなるまい。
  • 三井家の「家法」の面白い三点をあげてみよう。
    (一)今度宗寿居士御遺書をもって家法を相改建置くにつき、其趣子孫永々相守るべきこと。――いわば、自分が創作したのではなく「御遺書」を体系的な法に改めたという態度をとっている。
    (二)手代を見立ること重要なり、小き失をあげて、大きなる益を捨てることなかれ、家来の能あしきも、又主人たる者の心なり、家業にくらき主は、其手代の働をしらず、下に能もの有ても、用る事なし、いたずらに差置けば、其もの主のくらきをうらみ、退く心出来る者なり、上下心を合し事もなさば、成らざる事なし、功有るものを能取立て、立身申付る時は、おのずから外のあしきもの、能成る道理なり。実を以て人を使えば、人又実を以てしたがう。邪なれば又かくのごとし。かれに我有、能く心得うべきこと――これは能力(広い意味の)主義の抜擢人事で行け、それが全体のモラールを高めるということであろう。
    (三)子孫の時代になって、この家訓に追加(改正ではない)すべきことがあれば、同族当主支配人などが協議してつけ加えること。―――特に改正を定めていないのは、朝礼暮改を禁じ、不要となったものは、死文書でよいということであろうが、追加法について使用人側代表を加えているのが面白い。


常識の非常識
山本 七平
日経BPマーケティング(日本経済新聞出版
1986-05-01


  • 価値あるものは必ず、それがマイナスになる半面をもっている。それはわれわれがたとえ心理的に新たな気持になっても、それは決して世の中が新たになったわけではなく、その日もまた、何の変哲もない前日の翌日にすぎず、何ひとつ「あらたまる」わけでなく継続しているのもまた事実なのである。
  • この「世界一」にもやはり失敗がある。だがその失敗は情報機関自体よりむしろそれに対して判断を下す政治家の、希望的観測に基づく「情報無視」によって起っている。この部分を読むと、固定観念や希望的観測がどのように危険なものであるかがよくわかる。この失敗はヨム・キップル(第四次中東戦争)のときに起こり、緒戦におけるイスラエル軍の苦戦になるが、これについて本書(スタンリー・A・ブランバーグ、グウィン・オーエンズ『サバイバル・ファクター』)は次のように記している。
     まず、どれくらい正確な情報がイスラエル政府に提供されているかを述べた後で—―「あと知恵な何とやらというが、アラブの意図の読み違いは、1967年以降のイスラエルの態度を見ないと理解できない。情報が自分の予想する方向と違う方を指し示している時、人間は往々にして自分の好む方に情報を取捨したり或は判断したりする。歴史上の人物で、自分の情報部員の言うことを信じようとしなかった者はいくらもいる」と。
  • 「情報が自分の予想する方向と違う方を指し示す」ことは、過去の新聞を読むといくらでも出てくる。新聞は明らかにある予想をないしは願望をもって記事を記しているが、それとは違った情報が続々とくる。だがそれを取捨して自分の予想に適合する情報だけで、ある時点まで、いわばその予想が完全な破綻を示すまで、情報がつづけられている。
  • 人間というものは、そう愚かな者でもなければ、一切を予知できるほどの知者でもないと私は信じている。従ってそれが個人であれ、国家であれ、人類全体であれ、誤りをおかしつつそれによって「知恵」を獲得していく。そしてそれは、その個人が、国家が、それぞれの経験からどれだけ学びうるかにかかっている。「一度の愚行は許されるが二度の愚行は許されない」。「知恵」を一種「絶対的」なものとしたのは旧約聖書の「箴言」だが、これを学者は古代オリエントの「知恵」の集成であると見ている。この古い伝統はやがて、中東におけるイデオロギーの夢を追い払うであろうと私は思っている。
  • 織田信長を評した言葉に「高ころび」という言葉がある。明治以降の日本を見ていくと、私はいつもこの「高ころび」を思う。ある段階に到達したら次の段階へ、それに到達したらまた次の段階へというエネルギーは確かに貴重であろうが、しかし、文化は常にその中にブレーキもハンドルも内包していないと、結局は、教育のみならず、経済を含めて、すべて「高ころび」するのではないか。私はかつての軍部にこれを感ずるだけに、常にこの「高ころび」にある種の危惧を感じざるを得ない。
  • 新約聖書のパウロの言葉に「それ忍耐は練達を生じ、練達は希望を生ずればなり」というのがあるが、こういう原則は二千年前でも現代でも変わりはあるまい。忍耐の基本は自己抑制である。幼児同様にしたい放題のままで大人になれば、それは「社会的動物である人間」でなく「動物のままの動物としての人間」であるから、座敷牢という名の檻に入れておくか、戸塚ヨットスクールに送るか、それをしなければ親殺し、子殺し、一家心中を招来するか、という事態に陥っても不思議でない。
  • ある要請によって生じた制度が、その初期の目的を達すると重荷になり手足枷となって、将来への進歩の阻害要因となる。だがそのとき制度は逆に「物神化」して動かせなくなる。これは人類の歴史に常に現われて来た現象であり、ブラッドフォードの言葉はその「物神化」へのピューリタンらしい批判であろう。
  • 人間は千差万別である。親子ですら同一ではない。ということは教師も千差万別、生徒も千差万別である。それは、制度を仏神化し固定化し、山のように通達を送りとどけることで解決はしない。その制度にはあらゆる「風穴」があってよい。それなのに、制度を生徒の基本的人権・生存権に優先させ、アジュール法的な「風穴」さえ否定され、「いじめによる自殺」を黙殺するなら、それはもはや「教育以前」の基本的人権・人格権・生存権の問題である。いかなる国家も、またその省庁も人間の生存権より制度を優先させる権利はない。
  • 「何となくタダでもらって来たもの」に親は関心を払わない。だが、自分のカネを出して買えば別であろう。内村の言う通り、ただでもらったものには、人間は関心をもたないのである。
  • 人間には確かに「義憤」といったものがある。だが、それがたとえ誤りなき「義憤」であっても、怒りに基づく言葉は、法のように慎重に審議された客観的尺度ではあり得ない。そして多くの場合、それが本当に「義」「憤」であったのかどうか。時日を経た後に反省すれば感情にかられた「一朝の念」にすぎない場合が多いであろう。その「念」のままに行えば、本人は主観的には「正義の人」のつもりであろうが、周囲にとっては暴君にすぎまい。まさに「法は、国家の大信を天下に布く所以なり、言は、当時の喜怒の発する所なるのみ」なのである。

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