勇気の出る名言集

過去に読んだ本で勇気を与えられた言葉のアンソロジーです。

2021年05月

PHP200101


松下幸之助の遺した言葉 (80)
  • 五分まけてくれとか、六分まけてくれというように値切られたら、今までの延長線上で安くしようということを考える。だからなかなかできないのです。けれども、半値にせえとか三分の一にせえとかいうことになれば、普通ではできない。普通ではできない。普通でできないから、根本的に発想を異にせないかん。そうすると、できるかもわからへん。それが正直できたんです。「できる、必ずできる、やってみい」、それでできたわけですな。だから、できないということはないわけです。
  •  “これはできません、と断るのも一つの方法だ。しかし、それではあまりにも知恵のない話である。われわれは今このような要求を受けて驚いているけれども、先方は日本の自動車産業を世界に伍して発展させていくために懸命な努力を続けておられるのだ。われわれも同じ立場に立てば同じ要求をするだろう。この際「できない」という考え方はやめよう”。
     そこで次のように指示を出しました。
    「性能は絶対落としてはならない。デザインも先方の要求通り変えてはならない。しかし、それ以外については、二十を引いてもなお適正な利益が得られるよう、抜本的に設計から考え直して欲しい」それから約一年後、技術陣の心の革命と大いなる努力によって、要求通りの値下げをして、しかも適正な利益が得られるようになったのでした。
「十分間の『朝の読書』」
  • 「人の話が聞けない子どもが増えています。そういう子は結局、自分のことをも表現できない子なのです。自分の頭で考え、自分の言葉で表現する。それがコミュニケーションの基本。そしてその力を養うには読書が最も近道なのです」
森下洋一「『天命に任せて』人事を尽くす」
  • 二十一世紀は、一人ひとりがもっと光り輝いている時代になっていくだろう。そのためには企業も、十万人の社員がいれば、十万人一人ひとりが自分の能力を十分に活かせ、自己実現のできる会社になっていかなくてはいけない。いろいろな適性を持つ社員が、会社の大きな方向に向かって各自の持ち味を発揮して取り組んでいる。松下グループはそうした理想をめざして、本来の「人間大事の経営」に一段と磨きをかけ、二十一世紀の世界の発展に直接的・間接的に役立つように努力していく必要があろう。

「わたしと小鳥とすずと」金子みすず
  わたしは両手を広げても、
  お空はちっともとべないが、
  とべる小鳥はわたしのように、
  地面をはやくは走れない。

  わたしがからだをゆすっても、
  きれいな音はでないけど、
  あの鳴るすずは私のように
  たくさんなうたは知らないよ。

  すずと、小鳥と、それからわたし、
  みんなちがって、みんないい。

サラリーマン・サバイバル: PATHFINDER
大前 研一
小学館
1998-12-03


  • 非常にはっきりしているのは、どんな分野でも変化を拒否するシステムの中にある職業は、これから世の中そのものによって否定されていく時代になるということだ。
  • 要するに、もはや「会社を選ぶ」時代ではないのである。なぜなら、この世の中にサラリーマンにとって「いい会社」はないからだ。会社は社員のために会社は社員のために存在しているのではなく経営者や株主のために存在しているのだ。ということは、会社に勤めるのではなく、自分で気に入った、会社を創るべきなのだ。私は基本的に若い人にサラリーマンは勧めない。自分で友人や仲間と一緒に起業し、失敗したからまた一からやり直して、成功するまで起業にチャレンジしていくのが一番いいと思う。
  • 私は経営というものはユニバーサル(世界共通)なもので、日本企業特有の経営とかアメリカ企業特有の経営というものは存在しない、と思っている。また、私の見てきた限り、そうなっている。状況が違ったから違う現象が出てきただけで、同じ状況になったら日本の企業もアメリカの企業も同じ反応をすると考えている。アメリカが不況に直面した後、リストラ旋風が吹き荒れ、リクルートやヘッドハンティングが盛んになって、社内昇進以外の選択肢がたくさん出てきたのと同じ道筋をこれからの日本もたどるのは間違いない。アメリカ企業の給与体系はその時、能力がある人は年齢が若くても給料が高い、キャリアを積んできた中高年層でも実績を上げなければ給料が安いというケースがたくさん出てきた。それが嫌だったら会社を出て行けというわけだ。日本でも必然的に同じことが起きるだろう。
  • 「吸収型」の頭から「発信型」の頭に変えていくには、今までの教育で身につけてきた「知識」を一度、全部捨てる勇気がいるわけだ。今までの知識と教育を捨てる勇気があるか。もし、その勇気があれば、これまでの知識と教育を一度捨ててみて、「自分で考え始める」というプロセスがどうしても必要になってくる。具体的な方法としては、これを始める時は入ってくる情報をなるべく少なくして、一つのことにこだわって考えてみることだ。これを5年続ければ、誰でも必ず頭の構造を変えることができる。そして、なぜなのか自分で考える癖をつける。自分なりの答えが見つかり、筋道が立ったら、今度はそれを実証するために自分で調査してみる。
  • 30代、40代の人が成功するか否かは、自分の求めている情報を貪欲に探していくことができるかどうかにかかっている。知的に怠惰な人には、本当に欲しいという情報はない。頭で考えてそれでいいやと満足し、そこで思考がストップしてしまうからだ。ところが、知的に怠惰ではない人、つまり攻撃型の頭の使い方をする人は、そこから自分で実際に調べ始める。その結果、大半の人が考えていることと違う結論が出てくるわけだ。「これは本当だろうか」と思った途端に、自分で何を調べれば本当か嘘かが分かるということになるから、そこで求めている情報は一般には出回っていない情報だ。その情報を調べていく過程で、自分の頭の中で今まで使われていなかった“領域”が開拓されていく。
  • 「総合家電メーカー」というのは、大理石のフロアのある銀行だと安心して金を預けられる気分になったように、何となく“総合”と名前がついていると安心感があった時代には価値があったに過ぎない。ところが現在、売れているインターネット上のEトレードを専門にやっていて、店舗は一つもないというような銀行だ。大理石のフロアでなくても、立派な店舗がなくても「信頼」がある。逆に、すでに“総合”ということに価値がなくなっているのに“総合”にしがみついているから、どの分野も虻蜂取らずになっているというのが、日本の総合家電メーカーの現状だ。…今は世界でも1,2位を争うくらいでないと収益が上がらない時代になってきた。「うちは何でもやっています」というのは、何もかも儲からないということでもある。
  • 若い人はトンがっていなければ意味がないからだ。若い人に協調性や順応性は必要ない。そういう処世術的なものは、若さで正面からぶつかって失敗し、苦い経験を重ねながら学んでいくべきものであり、最初から丸いだけが唯一のウリで、いつも周りのみんなと一緒になってヘラヘラしているような人間は一番だめなのである。
  • そういうだめな若者が増えているのは、体制に従順な人間を作り出すことを目的とした文部省的な教育が成功している証でもあるのだが、これは極めて恐ろしいことだ。そういう人間が日本のレベルを上げるということは、まずないからである。自分に誠実でない妥協をして他人と見かけ上だけでうまく付き合っていけることを自慢するような風潮が日本を衰退させている、と言っても過言ではない。
  • 今乗っている船を下りて荒海に泳ぎ出すということは、生きるか死ぬかの瀬戸際に立つということである。その時に上司の覚えをめでたくしたり、社内の人間関係を円滑にしたり、余計な人脈を作ってみたところで始まらない。必要なのは、向こう岸に泳ぎ着くことのできる体力をつけ、生死をともにできる仲間を見つけることだ。SOHOからスタートする場合、新しい海に漕ぎ出す救命ボートに乗れるのは、せいぜい三人ぐらいである。その時に価値観の違う50人の人と人間関係を持っていても、何の意味もない。

サラリーマン・サバイバル: PATHFINDER
大前 研一
小学館
1998-12-03


  • 「論理回路さえ正しければ、実際の社会では答えはいつでも出てくる。なぜなら、時間は十分あるだろうし、コンピュータも使えるからだ。ところが君は論理を軽視している。答えを出そうと必死になって多くの時間をそっちに使っている。そういう人間は危険だからMITは卒業させない」...
     この日米のギャップは極めて大きい。日本の教育だと方程式に当てはめ答えを出すのは得意になるが、アメリカの教育では方程式そのものをゼロから導き出す力が問われるのだ。つまり、私は答えをすぐ書く癖がついていて、深く考える癖がついていなかったわけで、勉強を一からやり直さなければいけないな、という感じになった。
  • 要するに、人生というのはいくらでも変わるものなのだ。そして、悪い方向に変わるのはとても簡単なのだ。だから、常に良い方向を目指して自分に投資し、あきらめてはいけない。私はいまだに「先生」と呼ばれるのが好きではない。まだまだ学ぶことが多く、教えるのを職業にするまでは至っていない。しかし、私の経験を共有してもらうことはできる。
  • 役に立つ人間の使い方のコツは、部下が3しかやらなかった場合に自分が残り97をやる準備をしておくということだ。なぜなら、その部下がギブアップしたのは上司である自分に責任があるからだ。最後は徹夜をしてでも自分でやる能力が上司になかったら、その仕事は受けるべきではないのだ。自分が97をやる覚悟をしていて、部下を指導すれば短期間で有効な指導ができる。方向が分かっていて、ある程度勘どころも分かっているからである。日本の会社の一つの限界は「徒弟制度」にあるのではなかろうか。人の育て方が大学の体育会系のやり方と同じなのである。
  • サービスにはテイラーメードを忘れるな
  • 「知的ホワイトカラー」クラスのビジネスには、共通項が一つだけある。それは、顧客の側に立って顧客の満足度を高めていて、類似の競争がない、ということである。…付加価値を創造し、顧客の満足を高めるということは、どんな業界でもビジネスの基本である。
  • 今起きている日本の現象(家計の“贅肉”を削っていること)は不況ではなく、社会が成熟化したことによる「正常化」の必然の過程と考えるべきだろう。というのは、本当に人々が望んでいる商品は売れているからである。
  • 私に言わせれば、今の状況は、企業がひとりよがりの商品を出し、それが売れないからといって不景気だ、不況だと騒いでいるような気がしてならない。だが、先に述べたように、決して不況ではないのであり、昔ながらのブロード・キャスティング(放送)での、「全国の皆様、カップヌードルです」という売り方が通用しなくなっただけなのである。つまりこれからはブロード・キャスティングではなく、対象グループを絞ったナローキャスティング、特定相手に呼びかけたポイント・キャスティングというふうに、ターゲットを絞り込んでいかなければならないのだ。
  • 本当の年俸制にするには、人を正当に評価することが大前提となるが、日本で人を正当に評価している企業、本当に評価できる企業はほとんどない。正当に人を評価することなしに、本当の年俸制にはなりえないのだ。
  • 個を評価する力のある会社しか、これからは栄えることができないのである。そういう意味で、日本の会社は大きな価値観の転換をしなければならない。これからは個の時代であり、個人能力の集積が企業の力であり、優れた個人を上回る組織はありえないということをトップ・マネージメントが認識し、社内制度から報酬報償まで首尾一貫して個人の能力を最大限に引き出せる体制に変革しなければならないのだ。
  • 「大経営者は消しゴムがでかい」という法則
     これは私が実際に「創業者型」の大経営者と一緒に仕事をして気がついたことだ。なにしろ彼らは朝令暮改を平気でやる。「この前、言ったことと違います」と言うと「状況が変わったんだから当たり前だ」と、ケロッとしている。「創業者型」の天才的な経営者は、本能的に自己否定ができるといった共通点を持っているのだ。
  • 自分を否定することができない人には、それまでの自分を否定したら何もかも失ってしまうのではないかという恐怖心がある。しかし、自分を否定する勇気を持たなければ、個人も会社も産業も国家もイノベーションはない。
     その意味で、今の日本がイノベーションすることは非常に難しい、と言わざるをえない。自分たちでないものを自分たちだと思い込んでいるからだ。
     日本が成功した理由は、自分を否定したことである。まず、日本の戦後は戦前を否定して成り立ってきた。たとえば、財閥が解体された。韓国が苦労しているのは、それまでの自分を否定しなくても順調に経済成長を達成してきたため、本当の構造的な問題である財閥を解体できないまま今日に至ってしまったからだ。
  • 本当は自分を否定することが日本的な普遍性なのに、自分を否定しないことが日本的な普遍性だと勘違いし、したがって我々は変われないと言っている。しかし、我々は変われないと言ったその瞬間に敗北者なのだ。日本は自分を否定して変わることで生きてきた。これからも自分を否定して変わり続けなければ、絶対に生きてはいけないのだ。

サラリーマン・サバイバル: PATHFINDER
大前 研一
小学館
1998-12-03


  • 多くの日本企業のどこが異常かと言えば、個人を信用せず、何でもかんでも統制していることだ。...もし、それが将来、本人や会社のプラスになるのなら、会社が負担すればいいのである。要するに、その個人を信用し、大人として扱うということだ。世界のトップクラスの企業は、例外なくそうしている。
  • これからのビジネスは、世界に向けて自分の知的付加価値を明確に示し、それに対してお客さんが新しい価値を認めて新しい値段をつけてくれない限り、絶対に成長は望めない。後発の会社が従来の値段で市場に参入しても、先発の会社の方が有利で競争も激しいから、利益につながらないのだ。たとえば、新興の出版社が雑誌を創刊しても、その雑誌に新しい価値がない限り高い値段では売れないし、先行している大手出版社ほどの部数も見込めない。つまり、新しい価値を生み出せない人間は、これからの競争に勝ち抜いていくことはできないのだ。
  • これまで自分たちの売りたいものを一方的に押しつけて「提供者の論理」でやってきた企業が、顧客の立場に立たなければ信用されなくなったということだ。「生活者のための国づくり」を唱えて私は10年前からそう言い続けてきたのだが、これまでは誰も真剣に答えてはくれなかった。すべての企業が独占にあぐらをかき、カルテルを組み、護送船団方式によって提供者の論理で売りまくってきた。それがこの2、3年で一気に変わってきた。その現れが、各企業のコンサルタント志向なのである。しかし、コンサルタントは第二次産業型システムでは、絶対に育たない。
  • なぜ最近、新しい会社が元気があるのかというと、顧客の立場に立って付加価値のある製品やサービスを提供するための障害が何もないからだ。デジタル情報化社会の新しいルールのもとでは、新しい会社ほど有利なのである。逆に言えば、壊さなければいかねいものを内側に抱えた古い会社は大変だ。ただし、新しい会社には不利な点も山ほどある。資金がなく、信用がなく、組織もなく、環境もない。ないないずくしだが、唯一、変な秩序がないのが有利な点なのである。ということは、この新しい会社の有利な点に気がついた古い会社が、従来の秩序を壊す勇気を持った時が一番強いのだ。
  • 転ばぬ先の杖はいらない。どんどん転べ!
  • 人生はスキーと同じで、転びそうになったら転んでしまったほうがいい。それを我慢して転ばないように転ばないように滑っていると、いつまでたってもへっぴり腰でしか滑ることができない。つまり、失敗を恐れて思い切ったことにチャレンジする勇気が持てないのだ。そういう人間が今の教育制度ではエリートと呼ばれているわけで、成功するためには失敗しなければいけないこれからの時代は、エリートほど成功の可能性が小さくなる。本当に実力のなる人間とは、失敗しても「必ず次は成功する」と開き直ることのできる人間なのである。
  • もう一つ、これから成功するために大事なことは「知的に怠惰でない」ということだ。自分が間違っていたかもしれないと思ったら、いったんオールクリアの状態にして、違う前提に立ってゼロから考え直してみなければならない。ところが、知的に怠惰な人間はそれをしない。とくにエリートにその傾向が強い。
  • あなたが今、何歳であっても、おかしいと思ったことはおかしいと言い、やろうと思ったことをやればいいのだ。世の中を変えていこうとする人には年齢の潮時というものがない。それに気がついた時にみんながそれをめざして動き出せば、世の中は変わるのだ。
  • 自分に投資する方法は大まかに言って二つある。一つは、会社にいる時に仕事のやり方を工夫する。もう一つは、アフターファイブと休日休暇を活用する。この二つのうちのどちらか、できれば両方同時に実行することが望ましい。
  • 私の生き方のもう一つの特徴は、「もったいない」と思わずにオールクリアボタンを押してきたことだ。「もったいない」と思った途端に人生は負けである。このままいけばそこそこの地位や収入は得られるだろうと考えて守りに入り、上昇志向がなくなるからだ。
  • ダメな人間というのは、自分がそれをできない理由をこじつける。たとえば「社長は先見性がない」とか「部長は無能だ」とか、上司の批判ばかりしているサラリーマンがいる。だが、私の発想は違う。経営コンサルタントという商売は「あなたはこうすれば良くなる」と、良くなるためのアドバイスをしてお金をもらう商売だ。自分が社長だったらどうするか、部長の立場だったらどうするかを考える。私はダメな人間はいないと思っているし、ダメな人をダメと言ったところで何の進歩もない、と思っている。
  • 赤ちょうちんで栄える人たちの生き方は、花開かない人の定型パターンなのである。なぜなら、彼らは現実逃避しているからだ。現実に会社を改善するチャンスがあり、現実に自分も成長するチャンスがあるのにそれを避けて、夜の酒場で勢いがついた時だけ妙に真実に近いことを語る。そいう生き方は社会的な無駄であり、何の意味もないと思う。もし、会社の発展には興味ないし、意味もない、と悟ったら、一刻も早くそのような会社を辞めることだ。意味のない会社に体と時間を売って、金を稼ぐのは問題である。その場合には会社に文句も言えないはず。自分の人生を生きようとするなら、会社を良くすることに尽力しなくてはいけない。その価値なし、と思う会社なら辞めて、自分が価値のあると思う仕事を探すか、始めるかしなくてはいけない。誰のための人生を生きているのか、毎日考えろ、とは言わないが、半年に一回くらいは考えてみたらどうだろうか?
     一方、花開く人というのは、自分の意見を昼間に堂々と言う人だ。それで上司に「ばかやろー、おまえは黙っていろ」と怒鳴られて懲りずにまた言う人だ。それを続けていれば、そのうち「おい、おまえ何かいいアイデアはないか?」と聞かれるようになるはずだ。その時は意見を言うだけでなく、「私にやらせてください」と志願しなければならない。意見だけ言って「じゃあ、おまえが自分でやってみろ」と言われたら「いや、私はちょっと事情があって…」などと尻込みするようでは単なる“社内評論家”だ。意見を言うからには、自分がそれをできるだけの準備と心構えをしておかねばならない。

人間をみつめて (神谷美恵子コレクション)
神谷 美恵子
みすず書房
2004-11-16


  • 私たちはいま少しずつ去って行く
    静寂と至福のあの国へ
    もしかしたらじきに私も出かけるだろう
    この世のがらくたをからげなければならぬ。
    愛らしき白樺の林よ
    これから遠ざかり行く群れへの
    未練を私はおおい得ぬのだ

    私は知っているその国には霧に映え
    金色に輝くこのような畑はないだからこそそこの地上にともに生きる
    人間が私には尊いのだ(ソ連の詩人エセーニン)
  • 要するに自己とか自我とかいっても、そもそも自分からこの世に生まれてきたわけでもなく、いわば「存在させられたもの」にすぎない。それはちょうど、花やけものや天体とまったく同じように「存在させられている」にすぎないのだから、究極的には「存在させたもの」の前に、草木や星のように、素直に存在するほかはないと思う。
  • 小我と大我ということを仏教のほうでいうが、この小我とは自ら意識する自我で、結局は自我の一部にすぎないのだろう。これに反し、大我とは、万物を「存在させたもの」の手に小我をゆだねるとき、初めて自己の全体像として、真実の「本来的自己」としてあらわれるものだと思う。こういう考えかたは仏教にかぎらず、たとえば数学者で哲学者でもあった英国のホワイトへッドの“Religion in the Making"にも打ち出されている。私たちは特定の宗教にとらわれずに自由に思索していきたい。人類の宗教的遺産をひろくふまえた上で、宗教的思惟もまた歴史とともに進歩していくべきものではなかろうか。
     であるから、ひとが何か岐路に立ち、何らかの「主体的選択」をせまられるとき、「小我」によってえらぶことをなるべく避けて、「大我」的な見地からえらぶことを探り求めるべきであると思う。これこそ、私たちの存在のすべてを包容するほんとうの主体にちがいないからである。
  • 個人の生命は限られているし、人類の存続もいつまでのことかわからない。広大な宇宙からみれば、それも小さなことかも知れない。いずれにしても、私たちは死んで宇宙を支えるものの手の中にあるのだから、何をあわてることがあるだろう。
  • せめて意識をもって生かされている間は、自分を支える許しと恩恵の重みを自覚し、それをよくかみしめたいものだ。ただそういう自覚を抱いて生きているだけで、私たちの価値判断は微妙なところでちがってくるだろう。この果てしない宇宙の中で、たまたまふしぎにも人間としての生命を与えられたことをたいせつにし、同類同士の間の、ほんの束の間の出会いをもたいせつにしないではいられないであろう。そしてやがて死の時が来れば、それもまた大自然の摂理の中にあることなのだから、死もまた生と同様に、恩恵として受けとめることになるだろう。
     聖フランシスは太陽も月も星も、みなきょうだいと呼んだが、私たちも、私たちの愛する者も、たとえ死んでも形を変えて、月や星とともに宇宙の中に存在しつづけるであろう。であるから生きることも死ぬこともみなこの大いなるものにまかせて、生の内容を価値あるものでみたして行きたいものだ。生命を支えるものは死をも支え、地球や銀河系や宇宙全体を支えるものだ、としか私には考えられない。
  • 人間というものは、人間を越えたものが自分と世界を越えたものが自分と世界とを支えている、という根本的な信頼感が無意識のうちにないならば、日も安心して行けるはずはなく、真のよろこび真の愛も知りえないものなのだ、と。
     苦しい時の神だのみ、と人はいうかも知れない。しかし、それはこういうことではなかろうか。ふつう、多くの人間は生きていることに何の不安も感じないようにできている。すべてがうまく行っているときには、暗黙のうちに、つまり、そうとは自覚せずに、「内なる自然」と「外なる自然」を信頼して生きているからではなかろうか。それはちょうど、あの原始的な粘菌の生命が、外からの「配慮」に支えられているのに、粘菌みずからは、そうと気づかないのに似ている。
  • まぎれもないことは、人間がみな「愛へのかわき」を持っていることである。その大いなる実体がわからないにせよ、人間を越えたものの絶対的な愛を信じることが、このかわきをみたすのに十分であることを、昔から古今東西の多くの偉大な人や無名な人びとが証明してきた。このかわきがみたされてそ、初めて人間の心はいのちにみたされ、それが外にもあふれ出ずにはおかない。
  • 私はうつわ
    愛をうけるための。
    うつわはまるで腐れ木だ、
    いつこわれるかわからない。

    では愛はいのちの水
    大いなる泉のものだから。
    あとからあとから湧き出でて
    つきることもない。

    愛は降りつづける
    時には春雨のように
    時には夕立のように
    どの日にもやむことはない。

    うつわはじきに溢れてしまう
    そしてまわりにこぼれて行く
    こぼれてどこへ行くのだろう。
    ――そんなこと、私は知らない。

    私はうつわ
    愛をうけるための。
    私はただのうつわ、
    いつもうけるだけ。
  • 人は生きがいを「何かすること」に求めて探しまわる。しかし何かをする以前に、まず人間としての生を感謝とよろこびのうちに謙虚にうけとめる「存在のしかた」、つまり「ありかた」がたいせつに思える。それは何も力んで、修養して自分のものにする性質のものではなく、「愛の自覚」から自然に流れ出るものであると思う。
  • 生きがいがない、となげく人は、自分の主観的な感じにとらわれすぎているのではなかろうか。自分というものに執することをやめれば、目の前に現われ出るしごとや楽しみに身を投げかけて、対象そのものになり切ることができる。そのときには、生きがいを自分が感じているかいないかは問題ではなくなる。
<% for ( var i = 0; i < 7; i++ ) { %> <% } %>
<%= wdays[i] %>
<% for ( var i = 0; i < cal.length; i++ ) { %> <% for ( var j = 0; j < cal[i].length; j++) { %> <% } %> <% } %>
0) { %> id="calendar-476316-day-<%= cal[i][j]%>"<% } %>><%= cal[i][j] %>
最新コメント
<%==comments[n].author%>
<% } %>
アプリでフォローする
QRコード
QRコード

このページのトップヘ

'); label.html('\ ライブドアブログでは広告のパーソナライズや効果測定のためクッキー(cookie)を使用しています。
\ このバナーを閉じるか閲覧を継続することでクッキーの使用を承認いただいたものとさせていただきます。
\ また、お客様は当社パートナー企業における所定の手続きにより、クッキーの使用を管理することもできます。
\ 詳細はライブドア利用規約をご確認ください。\ '); banner.append(label); var closeButton = $('