「ニーチェ、ベルクソン」 神を殺したわたくしの死
- 赤い花を赤い花と思うな、何かを何かであると思うな、主語と述語を固定したとき無限の可能性が失われる、しかし全ての自覚的な表現者と自覚的な生活者は皆、脂汗の滲むような行き止まりのその認識に耐えているのだ。耐えてそこから還ってきているのだ。「AはBである」という形式を信じるために、神やイデアを連れてくるのも方策なのだ。そうとでもしなければこの世の誰が、思考すること、語ること、自分が居るというこのことに、平然としてなどいられるものか。認識の行ったきり、その人はニーチェでなくとも、どこかの病院の一室で、ひたすら絶句しているのだろう。
「善悪」の問題ではない、還らなければならない理由が見つからないというこのことが、まさに彼らが彼岸から還ってきていない理由なのだ。
- 無いものは考えられない、在るものしか考えられない、しかしその在るもの、この思考形式でしか考えられないのだから、考えられた途端にそれはウソになる、こういう当たり前のことを大発見のように騒いでいるから、気のひとつも変になるのだ。少なくとも一神教の伝統をもたない国では、彼が行ってしまった向こう側のような意識の在り方は、そう珍しいものではないのだが、彼はたったひとりの生涯でもってプラトン以降二千年の論理(ロゴス)をひっくり返してしまった、と、自分で思った。
- ギリシア人は「在る」とは何かと考えた。中世、「在る」は神と同じになった。デカルトが、「神」のこちら側に「自分」が在ることに気がついた。そして、ニーチェは「神」を殺して「自分」が神になった、なろうとした。確かになったのだろう、じじつ還って来なかったのだから。「神」とは、認識すなわち行為するための仮留めの釘に他ならないのであって、釘がはずれてタガがバラけてしまえば、私たちは何ひとつ、認識できない。より正確には、神である自分には敢えて認識する「必要」が、もうないのである、もちろん、そんな自分が「在る」ことの理由も見事に霧散する。近代的自意識なるものを徹底すると、人生は再び自然現象に似てくると私が言ったのはその意味だ。それでも、ふいと、「在る」ことを持て余すようなときには、何でもよい、その都度自分で価値をでっち上げながら、世界は最初からそのようであるか、そのようであるべきであるかのように振る舞ってみるがよい、そうすれば世界はそのようであるだろう、ニーチェが「力への意志」と言っていたのは、そのことに他ならない。道徳の神は死んだが、「在る」の神は決して死なない。すなわちそれは、「在る」の神なく生きている自分である。
「キリスト教哲学」 知らんがためにわれ信ず
- 信仰心の昂じるところ、人は、罪のないところにも無理矢理罪を見つけ出そうとするようになるから、それは、卑屈さ、ずるさと時に表裏なのだ。じじつ、こんなにも熱く神に罪を告白しているアウグスチヌス、しかし、実はそこには神は、ない、としたら、神はいったいどうやって自分と想いを処するつもりか。神は裁くものだという観念自体が、人間の救いなのだ。神は裁きも罰しもしないという想定に、人はよく耐えられない。
- 音声以前の言葉とは何か。それは、言葉の「意味」である。万物の存在、それは名付けである。「光」と言って、光は、在った。「光」と言えば、光に染まるこころ。私たちが、言葉の機微にふれて感応することができる存在である限り、創造の業は、この今をも貫く永遠であると言えるのだ。むろん、アウグスチヌスが、こんなふうにそれを言ったわけではない。彼は、「ヨハネ福音書」冒頭の、あのすばらしい行文。「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった」を、ギリシヤ人がそうしたように素直に「言(ロゴス)」と読むことは、もはやできなかった。彼にとって「ことば」は「御言」、肉身キリストによって伝えられるべき教えと決まっていたからだ。にもかかわらず、うそをつききれない誠実なアウグスチヌスは、前の音声についての考察のあとで、ちらっとこぼしている。<では、主なるわが神よ。それはいったいなぜでしょうか。ある程度、私にもわかります。けれどもどうしてそうなのか、はっきり説明することができません>
- つまるところ、『神学大全』は、壮大な辻棲合わせの書と言っていい。合理であろうと不合理であろうと、信じる人は信じるのだから、信仰に論証など、あっても同じ、なくてもいいのである。(じじつトマス(・アクィナス)自身、グレゴリウスの言葉を引いて、のっけから厚かましくも宣言しているのだ。「人間理性によって検証されうることならば、わざわざ信仰するに値しない」と!)
ならば彼は、「神の存在証明」とは、「存在の存在証明」に等しい無意味のはずなのだが、仔細に読んでみると、神が証明したかった神の「存在」とは、人間知性のうちで捉えられる概念的存在のそれではなくて、人間知性の外に実在する神、その「存在」であるらしい。考えられたり考えられなかったりする概念的存在の神よりも、そんなことにかかわりなく存在する実在的存在の神の方が、「神」なしと言う者に対して協力であると考えたのだろう。
しかし私はいまだかつて、誰であれ「実在する」という言い方で言おうとしたそのことを、理解できたことがない。哲学の仕事とは、思想を構築することになく思想の方法を問うにあるとするなら、神についての問いは、「神はありやなしや」ではなくて、「神はありやなしやとは何か」であるべきなのだ。 ところが、中世哲学の目は何よりもまず、存在することが証明されることに決まっている神の「存在」へと向かい、その存在を認識する人間知性の分析へは余り向かわない。(それはカントを待つことになる。)しかし私たちが、概念的存在にせよ実在的存在にせよ、そも「存在するとは何を意味するか」と正当にも問うことができるのは、それを認識する人間知性の形式が知られてからのことではないのか。
- キリスト教が、断固として「無からの創造」を手離さないのも、このためだ。つまり、raison d'etre。 世界の存在は、意志された、在ったことには理由があるのでなければ、絶対に困るのだ、じじつ私は困っている。神を信じることのできない私には、この人生の日々が、いったい何のために何なのか、さっぱりわからない。「生きんがためにわれ信ず」、しかし、それは、何がため?
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