勇気の出る名言集

過去に読んだ本で勇気を与えられた言葉のアンソロジーです。

2020年11月






  • (女性は決して直接的に比較してはいけない)そうした心遣いをした上で女性をうまく使えば、これは大きな戦力になる。ある意味では男性以上に信頼できる部分もあるだろう。男の場合は、常に心のどこかで出世ということを考えている。しかし女性は出世というよりも、今の仕事を充実させたいという気持ちが強い。だから邪念が入ることなく仕事に集中できる強みもあるのだ。 とにかく、できる男と才能ある女性をうまく使う。これが四十代に求められることだ。そしてそのためには、何よりも自分自身ができる人間であるよう努力しなければならない。“できる男”と“才能ある女”は、“できない上司”には決してついてゆかないものである。
  • 時代は変わった。これからは人物やビジョンに対して投資する時代なのだ。
    「私はこういうキャリアと実績がある。それを武器にこういう会社を起こせば、世の中はこう変わる。そして事業計画書はこれだ」というハッキリしたビジョンさえ持っていれば、投資してくれる銀行はいくらでも出てくるだろう。
  • 会社の大きな方向性は変わらなくとも、小さな改革は常に起こってくる。いや、昔ならば大改革と言われていたものが、今では小さいものとしか思えなくなっている。それ程、変化するのが当然になってきた。その中で四十代の人間は何をすべきか。それは改革をするメンバーの一員にならなければいけない。会社の方針が変わったから、バイバイとそれに合わせていく。これでは会社にいる意味がない。自らが方針を打ち立て、会社を変えていく側に回るべきなのだ。もちろん最終判断をするのは役員会であり、社長である。しかし四十代の人間が真剣に提案したことを、経営陣は決しておろそかには扱わない。それくらいのパワーを四十代は持っているのだ。
  • 会社を自分の力で変えてゆけるというのは大きな喜びである。これ程のやりがいはビジネスマン生活の中で他にはないだろう。それが可能な立場にありながら、ひたすら守りの姿勢でいること程寂しいものはない。ただ命令されたことだけをやっている中に、やりがいなど生まれてくるはずはない。やりがいのない生活からは、決して夢は育だないのである。
  • 給料は誰しも沢山欲しいものだ。だが、給料のためだけに我々は働いているのだろうか。イヤなことばかり押しつけられ、毎日つらい思いをして五十万円の給料をもらうより、たとえ三十万でもやりがいを感じたいと私は思う。ひたすらつらいことに耐えて、ただただ給料を家に運ぶだけの生活。これでは人生が台無しだ。何のために生まれてきたのかさえ分からなくなる。ゲッそり疲れ果てて帰ってくる父親。会社のうっぷんを妻にぶつける夫。こんな人間は、たとえ百万円稼いできたとしても家族は受け容れないだろう。“豊かさ”の意味は確実に変わってきている。言い方を換えると、何か豊かなのかは自分で決める時代なのである。少し前までは、豊かさを社会が規定していた。大企業に入って、家を建てて、車を買って…。それが豊かさの象徴であるかのように思われていた。今はそんなもので豊かさは測れない。物質的なものだけでなく、たとえば社内の出世にしてもそうだ。何も部長になることが成功ではないだろう。夢もなく、ひたすら耐えて人生を台無しにしている部長は、その辺りにゴロゴロいる。
  • 夢を持つことだと私は思う。
    まず、自分に対して。そして次に会社に対して。自分の夢と会社の夢が合致して始めて、ビジネスマンとしての豊かさを得ることができるのである。“まず会社ありき”ではない。“まず家庭ありき”でもない。“まず自らの夢あり”なのである。
  • 仕事の能力。組織をまとめる力。上司や部下からの人望。選ばれる人間に必要な要素は数多くあるだろう。同じ能力を持ち、同じように人望があるのに、選ばれる人間と選ばれない人間が出てくる。そのわずかな差は何なのか。それは一言で言えば情熱だと思う。「自分がこの会社を伸ばすのだ」という情熱があれば、肩書きは後からついてくるものだ。自分が部長になりたいと願うから部長になれるのではない。仕事や会社への情熱の結果として、周りが部長にしてくれるのだ。
     その情熱が、「この会社は自分でもっているのだ」という自信を生み出す。
  • 40代になれば、投げかけられる仕事の量も増え、質も高くなってくるだろう。日々判断しなければならない事は、量だけで言えば社長以上に多いくらいだ。その一つ一つの問題に対し、的確にかつ自信を持って対処していくことが重要なのである。的確な判断力はキャリアが育ててくれる。そして自信ある態度は情熱が育ててくれるのだ。
  • 40代はまだまだ名刺で仕事をする時期ではない。肩書きではなく個人を売り込む時なのだ。…宣伝部の部長だからつき合おうというのではなく、中邨だから付き合う。相手にこう思わせることが大切なのである。
     そうなれば「吉本には中邨という面白い男がいる」と評判になる。口伝えに名前が業界の中で知れ渡る。つまり「会社の顔」になるのである。40代こそ、この会社の顔にならなければならない。そして会社はこの人間を大切にする。当たり前だ。なぜならこの人間に辞められたら、会社の顔がなくなってしまうからである。肩書きが付くのはそれから後の話だ。会社の顔には、それにふさわしい肩書きを会社が勝手に付けてくれる。だから…私には昇進辞令などただの紙切れに過ぎなかったのである。それは吉本の何とか部長として仕事をしてきたのではなく、吉本の中邨としてやってきたからなのだ。


  •  「相談できる人間を三人つくれ」
    三人の相談相手をもつことを私は勧める。三人の何でも話せる友人と言い換えても良いかもしれない。一人は10歳ぐらい上の人生の先輩、一人は同輩、そしてもう一人は10歳くらい下の若者だ。そして三人共、異業種の人間であった方がいい。何だかんだ言っても、同業種はすなわちライバルでもあるからだ。ライバルに本音は言いにくいものである。そしてこの三人はいずれも運の強い人間たちでなければならない。運のない人間とつき合っていると、こちらの運までなくなってしまう。
  • 年下の人間を軽くみたり、彼らの発言に耳を貸さない人間はダメだ。常に新しい発想をしようとするのなら、若い透き通った鏡に自分の姿を映してみることだ。そこからクリアになることや、悩みが消え去ることも往々にしてあるものなのである。
  • 要は服装にしても、声の出し方にしても、同じエチケットの問題である。少しでも相手に不快な思いをさせれば、そこでビジネスは途切れてしまう。三十代までは、たとえそいつがいい加減でも、後ろに四十代が控えている。そこでカバーができる。しかし四十代の後ろにはもう五十代の役員クラスしかいない。つまり第一線部隊の最後の砦なのだ。ならば最後の砦らしく、完全な鎧を着ていなければならないのである。
  • おごるというのは一種の投資だからである。飲みに行くというのは情報を収集することである。飲みながら色んな話をして、こちらに有益になる情報をもらう。その情報料として飲み代を払うのだ。これは年上、年下関係ない。
     みんなが師匠だという気持ちで接することだ。師匠に教えてもらうのだから、それに対してお金を払うのは当たり前のことなのである。
     だからこそ、ツマらない奴とつき合ってはいけない。ツマらない奴に金を払うのは、それこそ金をドブに捨てるようなものだ。…四十代はツマらない人間とつき合っているヒマはない。
  • 特にトラブルが生じたときにはこれ(判断を瞬時にできること)が大切だ。二十代、三十代の人間がうろたえるのは、それは仕方がない。しかし四十にもなってうろたえるようではダメだ。そんな姿を見せれば、部下の信頼もいっぺんになくなってしまうだろう。まして、「お前が犯したミスなのだから、お前が解決しろ」などと責任を部下に押しつける上司は上司とは呼べない。
     なぜなら選択する責任やトラブルの責任をとるために四十代は存在し、それで給料をもらっているからである。部下がミスを犯した時に叱るのはかまわない。しかし同時に、的確な解決策を提示してやるのが上の人間の役割である。
  • 四十代は同時にいくつもの仕事を抱えている。一つの仕事に捕らわれていたら他が進まない。長くかかりそうなものは一旦見切りをつけ、次へ次へと移っていくスピードが必要なのだ。そうすると仕事と仕事の間にも、わずかながらのインターバルができるものである。それが頭の切り換えの早さにもつながってくる。
  • 「四十歳を迎えて考えること10ヶ条」
    1.孤立を恐れるな
    2.責任に対する気構えを持て
    3.自分を客観的に把握しろ
    4.自社と社会の五年後を常に見ろ
    5.年下の人間のアドバイスを聞け
    6.初対面の印象を大切にしろ
    7.身だしなみは鎧だと思え
    8.割り勘などみっともないことをするな
    9.一人で考える時間をつくれ
    10.どこででも寝れる図太さをもて
  • 「人間、志を立てるのに遅すぎるということはない」(ボールドウィン)
  • もちろん和は大切である。が、プロジェクト時代では、モヤッとした大きな和ではなく、しっかりとした小さな和が大切なのである。この小集団の中でゴマスリ人間はやってゆけない。そんな人間だけは決してモデルに選んではならないのである。
  • もちろん一人の人間を可愛がれば、残りの人間からは不満がでる。これは当然のことだ。それをどうすれば良いか。その他の人間もみんな評価してやることだ。評価の方法はいろいろとある。お金であるかもしれないし、気持ちや感情であるかもしれない。どんな形であってもいいから必ず評価したやることだ。それが存在感につながってくるのだ。一つの組織の中で存在感のないことくらい寂しいものはない。みんなに存在感さえ持たせてやれば、後はできる人間をひいきしてもかまわないのである。


  • 初めて対面する相手のことは、おそらく事前に情報があるだろう。〇〇会社の人だとか、肩書きは部長であるとか。しかしそんな情報は、実は大した問題ではない。大切なのは会った時のその人の顔の印象である。顔を見た瞬間に、その人の持ち味を想像するものだ。「肩書きは立派だが、何となく信頼できないな」。「まだ若そうに見えるが、この人間と一緒に仕事をしてみたいな」などと、一瞬のうちに顔で判断してしまう。顔を見ればいろんなことが分かる。能力や育ち、人柄など、その人間のバック・ホーンが不思議と分かるものだ。新しく出てくる芸人を見ていても、顔を見れば将来売れるか売れないかが何となく分かる。…生まれつきのサギ師でもない限り、そうそう人を欺けるものではあるまい。生き方や考え方は、やはり顔に出てくるものだ。
  • 顔にはその人の生きた染みが全て現れてくる。築いてきた自信。引きずってきた過去の失敗。根底に抱える不安。自分だけの夢。そんなもの全てが、言葉ではなく顔に表れるのである。
  • 不安もあるだろう。自信のない時もあるだろう。しかし40代は、それを表に出してはならない。いつも堂々とした顔で人と接しなければならない。なぜなら、会社の人間や家族から頼りにされているからである。頼りにしようとする人間が、何となく自信のない顔をしたらどうだろう。周りは浮き足だってしまうだろう。周りを安心させ、引っ張っていくためにも、自分の顔を大切にしなくてはならない。無理やりにでもかまわないから、自信に満ちた顔をつくることだ。その意識が、またいい顔をつくってくれる。
  • 終身雇用が崩れるということはすなわち、自分の人生におけるビジネス・プランを創れるということだ。何もしてくれない会社に対しては、義理や忠誠心など持つ必要はない。会社の方向性に縛られることなく、自分の方向性を信じて生きれば良い。
     家族のデザインも同じように自由にすればいい。これまでのように会社の都合で5年に一度転勤を命ぜられ、その都度毎に家族にストレスをかけるようなことはしなくてもいいのだ。10年先、20年先の家族のことを考えながら、夫婦二人でライフ・プランを立てていけば良い。
  • そのためには自分自身の目標や夢を40歳で決めておかねばなるまい。その夢は、会社や周りが与えてくれるものではなく、自分が決めるものだ。それさえしっかりとも持っていれば、どんなに世の中が変化しようと、恐れるものなど何もない。
  • 課長から部長になったその日から、少し大きな机になったその瞬間からコロッと態度が変わる人間がいる。おそらくその人間の頭の中には部長とはこうあるべきというイメージがあるのだろうが、見ているほうからすればまことに滑稽なものだ。もちろんこれは本人の責任だけではない。昇進辞令を受け取る時に、役員からは“これからは部長らしく云々”という言葉を贈られる。
     この“部長らしく”に惑わされてしまうのだ。
     では部長らしさとは一体何なのか。そんなものが果たしてあるのか。もしあるとしても、それはその入らしさであり、自分で築いていくものだと思う。もともと肩書きなどというものは便宜上のものに過ぎない。社外に対しては責任の所在を明らかにするために必要であろう。もし全社員の名刺全部に肩書きがなければ、受け取った方としては困ってしまう。しかし社内に於いては不必要なものかもしれない。役割分担が明確に分かれば、それで良いのではないだろうか。
  • 自分が偉くなったような錯覚に陥ってしまうと、会社を離れてまでもその弊害が出てしまう。会社で雑用は全て部下がやってしまう。自分で簡単にできることまで、わざわざ若い女性社員を呼びつけてやらせる。
    “俺はこういう責任の取り方をする”という信念を育てるのが40代ではないだろうか。責任とは上司から「こういう責任をとれ」と言われるものではなく、自らの考えでとるものだと思う。「失敗しました。どうしましょう」これは単なる逃げである。もちろん全て自分の判断だけで動くものではない。会社に頼った方が良い場合もいくらでもある。責任をとろうとして、かえって悪い方向に行くこともある。そこはあくまでも冷静に考えねばならない。要は責任に対する気構えをしっかり持つことが大切なのである。気構えのないところに大きな仕事はやってこないものだ。
  • 何も自分の夫を偉いと思えと言っているわけではない。比較をするなと言っているのである。ビジネスの世界で、いやと言う程比べられているのだ。それをまた家庭に帰ってまでやられたのでは夫の立場がない。これが続けば夫は妻に何も話さなくなるだろう。悩みがあっても口を閉ざすようになるだろう。そして、こうして深まった溝は60歳になっても元へと戻らないのである。
  • 周りが変化した時に、自分もそれに合わさなければならないこともある。期待が大きくなれば、その期待に添えるように自分を変えていかなければならない。それは当然のことだ。しかし、いくら周りが変わろうが、決して変わらない自分をもつことも必要である。もう揺れている時期ではない。“俺はこういう人間なんだ”というスタンスをしっかりと持つべき時期なのである。自分の才能や性格などもしっかり把握し、それを信じれば良い。これから自分はどこまで伸びるのか。そこを見つめることが大切だ。これは決して諦めなどではない。40代を闘い抜くための一つの武器なのである。
  • 経営者がワンマンで、役員連中はみんなイエスマン。何かを提言しても聞く耳をもたない。こういう会社はこれからは絶対に伸びていかない。一人の人間の判断でやっていける時代ではないのである。社員一人ひとりが的確な判断力をもち、その総合力で戦っていく時代なのだ。
     そしてもし、自分が会社を変えられない。変えようとする連中もいない。そういう会社だと判断するならば早く見切りをつけた方がいい。いずれ下向きになる会社にしがみついたところで、人生を台無しにするだけだ。今は、未来の姿を想像する時代ではなく、未来の姿を創造する時代なのだ。変化と創造を恐れる会社は確実にダメになってゆく。
     こういう時代を乗り切る方法は一つしかない。それは常に変化と創造に向かって自らの足で歩き続けることなのである。

人生の意味

  • 我々こそ意志だ、とショーペンハアーは主張する。我々の生はその表現にすぎない。死ねば我々のなかにしばし現れた個人的エネルギーは宇宙の力によって再処理され、ほかのものに現れる。こうした見方からすれば、死がもともと持ち合わせていない我々の個人的人格を破壊することはない。死は意志にとって大して重要性のない過渡的な瞬間である。知性は死に不当な重要性を与えており、それが我々の恐怖を生むのだ。死の恐怖が不合理なのは誤謬に基づいているからである。死は否定的なものまたは望ましからざるものであるどころか、迷いを払拭することに役立つ。それは知性が愚かにも浸透させた誤った考え――我々には独自の実体がある――を取り除く。意志は生き残るし、我々はそれの局地的顕現にほかならないとあって、それがほかの存在者に移り変わることを恐れる理由はない。以上が死んだときに起こることの全てである。
  • 我々がたまたま満足すべきものと思った目的ならばどれでもいいのではなくて、本当に高貴で立派な目的でなければならない。加えてそれは単に再現もなく追求されるだけではなく、実際に達成されるものでなくてはならない。しかもそれには永続性があること、最後にそれは他から吸収したものでなく、自分のものでなければならない。要するに有意味な唯一の生き方は創造的である。(リチャード・テイラー:哲学者)
  • 18世紀世紀のモラリスト、ジョンソン博士は、社会的失策を犯して気に病む人々に向かって、一年経ったらどんなに些細なことに見えるか想像してみよと言って慰めた。人前で恥をかいた当座は穴があれば入りたい気持ちになもなろう。しかしその思いはしだいに薄れ、やがて消えてしまう。たとえ本人がその経験を忘れなくても、他人の記憶からは消えてゆく。続いて起こるさまざまな出来事が重なり、最後にはそれを忘却の彼方へ押しやってしまう。我々の失敗についても似たようなことが言える。未来のある時期、または世界のどこか遠い片隅からそれを眺めれば、悔しい悔恨やジェイムズ・ジョイスのいう「良心の呵責」から解放されるだろう。「これもまた過ぎ去る」と考えれば心も休まろうというものだ。
  • ソーントン・ワイルダーの『我が町』という芝居の最後の幕に…出産中に死んで地元の墓地に埋葬されたエミリーは、生前の生活の傍観者としてこの世に戻ってくる。彼女は死者たちの助言に従い、幸福だった比較的平穏無事な時代を選ぶ。時は12才の誕生日、彼女はその日の出来事を傍観しつつ、昔の写真に出くわしたときよくあるように、家族の若さと美しさに驚く。しかし、彼女と観客の目に涙をもたらすのは、人間は時間のなかの自分の存在を決してしみじみ味わったり完成したりはしない、ということに彼女が忽然と気づいたことだ。それはまるで我々の生きている時間が十全には経験できないかのようだ。時間はいつも我々から逃げて行く。我々の感情と欲求は支配できない時間の推移とは位相が異なり、同時性をもたせることができないように思える。
  • 無意味なことを言う危険を冒しつつも、人間はつねに世界の全体像を捉えるべく考察し続けねばならない。その努力を阻むつもりは私にはない。生の意味に関して提議されたあらゆる解決策が意味のある生き方とは何かについての我々の知識と矛盾していないか、と問うているだけだ。そうした探求の領域において、我々ははっきりした進歩を遂げることができるからで、恐らく生の意味は生命であり、我々自身、および生命全体の有意味な生と達成し増大せしめる所以であるからだ。
     この推測が正しければ、生そのものに関して意義のある生き方をするときにはいつでも基本的人間性を達成していることになる。あらゆるものにおける愛を愛し、これの贈与に心を用い、それに献身する者は生に対する真の愛を経験する。それは独自の幸福を生み出し、多くの喜びの機会を与える。自然界や現実にはたしてそれに勝るものがあるだろうか?

人生の意味

  • 生の意味や価値を詮索すると、途端に気分が悪くなりますが、理由は客観的に言ってそのいずれも存在しないからです。そういう問題を考えること自体、充足されない余剰の性的衝動があるという事実の容認にほかなりません」(フロイトが最晩年にマリー・ボナパルトに送った手紙)
  • 彼(ルードヴィッヒ・ウィトゲンシュタイン)は、「人生の意味、つまり世界の意味を我々は神と呼ぶことができる」と述べたあとで次のような考察を加えている。
    幸福な人間は生きることの目的を果たしている、というドストエフスキーの言葉は正しい。
    あるいはまた、生きること以外の目的をもつ必要がなくなった人間は生きることの目的を果たしたといえる。
    主語を、満足している人間は、と置き換えてもいい。
    生きるという問題の解決策はこの問題の消滅のなかに見られる…
    しかし、生きるということが問題でなくなるような生き方がはたして可能であるだろうか?つまり時間ではなく永遠のなかに生きることが。
    永い間疑問を抱いたあとで人生の意味が明らかになった人に、この意味が何であるかが言えなかったのはこうした理由によるのではないだろうか。
  • ウィトゲンシュタインは、人生の意味を知っている人々は、その構成要素を分析することはできないけれども生き方のなかにそれが表れる、と暗に述べている。これは確かに当たっている。経験――わけても肯定的で満足のゆく経験――は必ずしも詳細な検討に向いていないからだ。しかし、人生問題の「解決」には問題の消滅が必要だ、ということは、いつの日か哲学者がこの問題を一切放棄することを可能にする決定的な解決への道を拓くものだ。ウィトゲンシュタインは、人ははたして生きることが問題ではなくなるような生き方をすることができるかと疑問を抱いているが、幸福な人や、満足している人や、「生きること以外のいかなる目的」にも依存しない人にはこれが起こりうる、と考えているようだ。
  • 個人は現世でちっぽけな役割を果たして消滅するが、彼らは全て宇宙の発達に寄与している。彼らはそれを自我の目覚めと価値を探求することによって行なっている。この探求は道徳または精神的目標への憧憬であって、宇宙の基本をなすものだ、というのがヘーゲルの考え方だった。この努力が意識的人間の闘いばかりでなく、事物の物質的秩序を説明する。ヘーゲルは、全ての現実は絶対的精神との完全な結合する、と信じた。そうした結合は根本的な調和への回帰を伴うから再会でもある。それぞれの新たな特殊性は単にそれ自身として存在することにおいて一種の分離を経験する、ということはあるが。
  • 人間は本来価値を認めた目標を達成したいという目的追求の欲望と、世界は自分や自分の価値観の何れにも全く答えないとする認識をもつ自己超越的傍観者としての存在に分裂している。世界は人間が関心を寄せること全てを晩かれ早かれ破壊して顧みるところがないかに見える。したがって彼の不条理感は知性による人間の虚偽の苦渋に満ちた証明である。
  • 我々は通常の問いかけを言い直さなければならない。生きることの意味が前もって存在しており、それを探し求めているという考え方を捨てて、我々のような生物が独力で意味を構築することを可能にする知的行為と肉体的反応の自然史を研究しなければならない。我々は意味のある人生を「発見する」という言い方をしている。しかし、意味は発見するのではなくて我々が創造するものである。現実には意図のシステムが前もって作り付けになっていると信じようが信じまいが、問いかけ方を変える必要がある。例えばそれは実際にはどうやって意味を創造するのか?であり、私の人生に意味を与えるのは何か?人生を有意味にするものは何か?本当に重要なものが何かあるのか?人はいかに生きるべきかを学ぶことができるか?できるとすればその方法は?等々となるだろう。
  • 生の終わりは死だといえば悲しげに響くだろう。しかし、何にせよほかにどんな終わり方ができるだろうか。夜会が終われば寝るだけである。けれども、夜会の効用は気心の合った者同士が一同に会してしばし歓談することにある。踊りが永久に続かないからとて舞踏会への招待がアイロニカルになるものでもない。どれほど若さにあふれ、意気込んでいても、ものの二、三時間も跳ね回れば倦み果てる。事物の一時性はそれらの物理的存在に欠くべからざるもので、それ自体決して悲しむべきことではない。悲しくなるのは感傷的な幻想のせいであって、幻想が我々に事物は永続することを願っているから終わりはつねに時期尚早だと想像させるからだ。しかし、健全な自然にあってはそうではない。真に悲しむべきは衝動が途中で挫折し、所期の目的を達成しないで終わる場合である。また、痛ましいのは、器官が活力に満ちて自然の眠りまたは消滅の準備ができぬうちに傷つくか破壊されるかする場合だ。
    …要は我々のなかに潜在しているものを全て放出することだ。この完全な除去にさまざまな気質や伝統が異なった名称を与え、全盛時代、義務の履行、理想の救済、などと呼んでいる。我々が認識するしないにかかわらず、何れの場合にも課題は明確で、自然によって我々に課せられる。したがって我々は真の道徳的進歩を遂げられるか、真の誤謬に陥るかだ。指示されたこの課題を識別し、積極的かつ清潔に、脇目もふらずに実行するところに天才と叡知がある。これに反して愚行とは、どんな臭跡も追う価値があると想像し、我々は無限の自然を所有している、ないしはこれといった自然はもたない、とか、生命は他者に依存することなく始まり、資本がなくても事業を始めることができる。意志は空虚なまでに自由であって、特殊な負担であったり解かれるべき固い遺伝的結節ではない、などと考えることである。(サンタヤナ「炎の消滅に至る長い道程」)
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