勇気の出る名言集

過去に読んだ本で勇気を与えられた言葉のアンソロジーです。

2024年05月



カミとヒトの解剖学
養老 孟司
法蔵館
1992-04-10


  • 不安とはじつは「なにか」に対する不安ではない。不安に対する気分が先にあり、その気分がただちに「なにか」と結びつくのである。だれにとっても、自分の死の正体は不明である。したがって、不安と死は結びつきやすい。しかし、だからといって、死が存在することがかならずしも不安を生じるわけではない。だれでも自分が死ぬことは知っている。だからといって、だれもが不安になるわけでもない。「不安をかきたてる」という表現があるとおり、不安に怒りのような他の情動と同じようにある程度は自分や他人の操作で増強できるものである。…だから不安に対して、大切なことは、それを増幅しないことである。不安という「心の状態」を変えることである。
  • 現代人はじつは脳の中に住んでいる。
  • われわれの社会では、脳の産物は存在を許される。それを信仰の自由、表現の自由、教育の自由、言論の自由などと呼ぶ。他方、身体は徹底的に統制される。だから排泄の自由、暴力の自由、性の自由、そういうものはない。…なぜか、脳は統御の器官だからである。脳は身体をその統制下に置く。さらに環境を統制下に置く。そしてすべてを統制下に置こうとするのである。
  • 自然である身体には男女の差がある。これはその差異を社会的に固定することによってのみ許される、男女の扱いに社会においてかならず差異が発生するのは、差別ではない。自然がおいた差異をなんとか統御しようとする脳の努力の反映である。
  • 自然はすなわち不測であり、統御不能なものである。それを排除しようとすることにより、人間は理想の室内をつくった。そこでは、すべてが統御できるはずである。そこで「不測の事態」が生じれば、首長は責任を取らなくてはならない。…都市に人と物しか許されないということは、それがすなわち「脳の中」であることを意味する。



雲黒斎

  • 「いまを生きる」というのは「まじめに生きる」ということでも「勤勉に生きる」ということでも「誠実に生きる」ということでもない。観念によって固められた世界から脱して、あるがままの世界を生きるということだ。
     その意識状態が身についていくほど、人生は因果を超えて大きく変わり出す。
雲黒斎1

  •  そもそも自分はスクリーンの中にはいなかった、という事実に気づきなさい。常に真我は「いま」とともにあり、そこから離れたことなど一度たりとも、ないということに気づきなさい。
     ただ、自分というものをスクリーンに見えるキャラクターに重ね合わせていただけなのだから「いま」戻ったとき、おまえの人生は時間や因果(計画)を越えて、瞬間に好転を迎えることだろう。
     現実創造の起点は「時間(思考)」の中ではなく、「いま(現実)」の中だ。そこでなら奇跡を受け入れやすくなる。だからこそ、「いまとともにある」という状態へ帰りなさい。
  • 経路はともかく、人は自分で解釈できる方法をもってでしか世界を認識できない。
     だからこそ、同じものを目の前にしても、その印象に違いが現れるんだ。
     古くから「その花が美しいのではなく、その花を美しいと思うあなたの心が美しいのだ」などと語られているとおりなのだ。
  • もし、意味や価値が「そのもの」に付随しているのであれば、誰にとっても同じ意味や価値になるが、そのように絶対的・普遍的な価値をもつものはこの世に存在しない。
  • 人はみな本来一つである存在を、無理やり無数のものに分けてとらえようとしてるってことなんだ。
  • ありとあらゆるものに「意味」や「価値」を与えているのは、自分自身なのだと気づいたら、そこから人生の意味や価値を書き換える自由を得ることができる。
  • 感情解放のコツは、その感情に自分自身を責めることなく、その感情の存在を認めること。
    「〇〇だから、腹が立つんだ」と苛立ちと状況を結びつけることなく、ただ、そこに怒りがあることを感じきること。誰かや何かに罪をなすりつけるのではなく、味わうこと。
  • 第一ステージで活用されてきたモチベーションは「3G」。
    それは「義務」「犠牲」「我慢」の三つだ。
     それが第二ステージに入ると、それは「LTE」に切り替わる。
     これは「LOVE」「THANKS」「ENJOY」の三つ。
     通信業界だけではなく精神世界においても、「時代は3GからLTE」へ移行していく。
  • 「マーヤー」の第二ステージでは「神であることを思い出していくゲーム」だ。
    第一ステージで経験した数々の呪縛から解き放たれ、奇跡を経験していく時代だ。
    恐れることなく、自分の気持ちに正直に、「うれしい」「楽しい」「大好き」をアンテナとしてゆったりと人生を楽しみなさい。
  • 本当にうれしい出来事は、いつもサプライズ(想定外)で訪れる。それなのに、僕たちはついつい予定を立てたがるんだ。予定どおりに事が運んでも、さほどうれしくないと知っておきながら。…
  • 必死になる必要はない。もっと単純になってごらん。単純でいいということを認めてごらん。どんなにバカバカしいと思えても、おまえ自身が単純に喜べることを選んでいく。
    自分の本当の心、素直な気持を、もっと開放しよう。
     それこそが、タネを芽吹かせする太陽の光となろう。
  • 「幸せになろう」とするその前に、「不幸でありつづけよう」とする自分のクセに気づきましょう、ということです。



雲黒斎

  • では、なぜ存在の根源(全体意識)は、さまざまな存在次元や自我(分離意識)をつくり出す必要があったのか。
     実際にそこに「目的」は存在しないのだが、あえて、それを言葉にするなら、その表現の一つとして「意識が意識であることをより強く意識することを望んだ」ということができるだろう。
  • ゲームの第一面に「記憶喪失ステージ」を追加したんだ。自分で開発したゲームを存分に楽しむため、このゲームはプログラミングしたシナリオやさまざまな仕掛け、自分の正体に至るまでありとあらゆる情報を隠蔽するステージを用意したんだ。
     そのプログラムを数えきれないほどの転生を繰り返しながらじっくりと確実に重ねられてきた。

     私はクリエーター(神)ではない。
       キャラクター(人間)である。
    私は無限ではない。
     有限である。…

    そういった「神らしからぬ自分」という自己暗示を入念に繰り返していった結果、おまえは無事このゲームの創造主であることを忘れ、「キャラクター」としての自意識(自我・顕在意識)を獲得した。
     そしてその暗示をより強固なものとするため、さらにたくさんの固定観念や思い込みを重ねて真実を覆い隠し、自らがもつ神としての記憶と無限の創造性を封印していく。
     この自己催眠強化プログラムによってどれだけ上手に自分が神であることを忘れることができているか(キャラクターと自己同一化できているか)が、このステージの目的。神であることを忘れれば忘れるほどハイスコア達成だ。
  • 神が神あるがゆえに経験できなかったそのエキサイティングな挑戦(ストレスの経験)ことがこのステージで求められているおもしろさであり、醍醐味だ。
  • 人間(顕在意識)は何かと(思いどおりの現実)」を引き寄せようと躍起になりがちだが、「すべてを思いのままにすることができる」ということや「不可能、不都合、不満、不足といったものがまるで存在しない」という状況を、潜在意識は求めていない。
     それらは、神の意識領域においては、当たり前のことで実はもう、おまえ(神)はその状態に飽き飽きしていたんだ。
     だからおまえは、自分が当たり前に実現できるようなことを叶えても、おもしろいとも、ありがたいとも思えない。逆に、なかなか叶いそうもないことが実現することの中に喜びを感じる。
    「そんなこと不可能だ!」という難題を乗り越えていく人を称賛し、その努力や成果に感動する。
雲黒斎1




昭和のエートス (文春文庫 う 19-13)
内田 樹
文藝春秋
2012-08-03


  • 貧乏は金の不足が生み出すのではない。貧乏は「貧乏コンシャス」が生み出すのである。
     誰でも他人の所有物を羨む限り、貧乏であることを止めることはできない。
     そしてたいへん困ったことに資本主義経済とは、できるだけ多くの人が「私は貧乏だ」と思うことで繁昌するように構造化されたシステムなのである。
  • 他者の欲望を模倣するのではなく自分自身の中から浮びあがってくる、「自前の欲望」の声に耳を傾けることのできる人は、それだけですでに豊かである。なぜなら、他者の欲望には想像の中でしか出会えないが、自前の欲望は具体的で、それゆえ有限だからだ。
     自分はいったいどのようなものを食べたいのか、そのような声で話かけられたいのか、どのような、肌触りの服を身にまといたいのか、そのような具体的な問いを一つ一つ立てることのできる人は求めるものの「欠如」を嘆くことはあっても「貧乏」に苦しむことはない。
  • 参加者のほとんど全員が敗者であるイベント(高校野球)が教育的でありうるとしたら、それは「適切に負ける」仕方を学ぶことが人間にとって死活的に重要だということを私たちが知っているからである。
    「適切な負け方」の第一は、「敗因はすべて自分自身にある」というきっぱりとした自省である。…
     第二は、「この敗北は多くの改善点を教えてくれた」と総括することである。…
     第三は、「負けたけれど、とても楽しい時間が過ごせたから」という愉快な気分で敗北を記憶することである。
  • 貧しさ、弱さ、だらしのなさ、…そういうものは、富や強さや傲慢や規律によって矯正すべき欠点ではない。そうではなくてそのようなものを「込み」で、そのようなものを涼しく共生することのできるような手触りのやさしい共同体を立ち上げることの方がずっとたいせつである。
  • 学校教育、とりわけ公教育は市場原理を貫徹させるために生まれてきたものではない。むしろ、市場原理が人間生活の全場面に貫徹することを阻止し、親と企業らによる収奪から子どもたちを保護するために誕生したものである。
  • 人間は他者の身体を破壊しようとするとき、必ずそれを「記号化」する。「異教徒」であれ、「反革命」であれ、「鬼畜」であれ、「テロリスト」であれ、それはすべての人間の個性性と唯一無二性を、その厚みと奥行きとを一瞬のうちにゼロ化するラベルである。そこにある体を短時間に「効率的に」破壊することはできない。
  • 逆説的なことばだが、死者はあたかも、そこにいるかのように語りかけられると立ち去り、あたかもそこにいないかのようにふるまわれると立ち去ることができない。
  • 「この問題の発生は私は責任があり、この問題の解決についても私に責任がある」という言い方が存在することを日本人は忘れてしまったかのようである。しかし本来組織の長に求められているのは「その言葉」を誰に要求されるより、先に進んで口にすること、ほとんどそれだけなのである。
  • コンピュータを使えば私たちはほとんどあらゆる情報を瞬時のうちに検索することができる。しかしコンピュータにもできないことがある。それは「私たちが知らない」キーワード」で検索をかけることである。




  • 「共同体」や「歴史」や「伝統」や「性差」のような社会的制度がなぜ存在するようになったのか、その起源を私たちは知らない(とレヴィ=ストロースは書いている。私も同意見)。しかしどのような社会制度を持った集団だけが今に生き残っているという事実から推して、そのような制度には何らかの人類学的意味があると考えた方がよいのではないか。
  • 人間というのは、とても複雑で精妙で、主に幻想を主食とする生き物だ。だから扱にはもっと慎重であるべきだと私は思う。
  • 経験的に言えば「審問の語法」によって誰かを告発したものは、いずれ必ず同じ語法をもって、別の誰かに告発されることになる。放った矢は必ず自分に戻ってくる。
  • 私たちは、嘘をつくことによってしか漸近線的に「真実」に近付くことができない。だから、私はこまめに嘘をつかないと語れないことが嘘をつかないと届かない言葉がやまのようにあるからだ。
     私には自分が「嘘つき野郎」という「病識」がある。
  • 芸道において達人の域に達することはきわめて困難である。多くの修行者は、その域に遠く及ばないうちに生涯を終える。しかし、その至芸の域に達したときおのれの体感をリアルに想像しえないものは、初心の修行にさえ長く耐えることはできない。それと同じように、他者とのコミュニケーションは不可能な夢に近い。しかし、それを激しく夢見ることのできないものは、ついにコミュニケーションの不在に耐えることはできないだろう。
  • それ(コミュニケーションのこと)は「力仕事」だからである。毎日、毎日、身体を動かして、額に汗して、誰にも代わって貰うことのできない自分の責務と果すように、こつこつと自分の言葉を鍛え上げていくことである。それはたとえて言えば「コミュニケーションの修行」ということである。
  • 弱さを根拠としつつ、それを決してパセティックな語法では語らないという、決意を私は「とほほ」と擬音化する。そして、自分の愚かさ自分の弱さ、自分の邪悪さが世界にどのような災厄をもたらすかを優先的に配慮するような知のあり方、そのリスクを制御することで自分が世界にどのような貢献を果たしうるかを計量することのできるような、知のあり方を「とほほ」主義と呼称しようと思う。それは、「善を為す」ことよりも「悪いことをこれ以上しない」ことを優先的な課題として自己省察する倫理的態度のことである。
  • みんな自分の中にペストを飼っている。誰一人、この世界の誰一人ペストに罹っていないものはいない。だからちょっとした、気のゆるみでうっかりと他人の顔の前で息を吐いたり、病気をうつしたりしないように、間断なく自分を監視していなければならないのだ。自然なもの、それは病原菌だ。(カミユ「ペスト」)
  • 「ペスト」とは、「私」が「私」として存在することを自明であるとする人間の本性的なエゴイズムの別名である。おのれが存在することの正当性を一瞬たりとも疑うことのない人間、「自分の外部にある悪と戦う」という話型によってしか正義を考想できない人間、それが「ペスト愚者」である。
  • 人間は「他の人々と同じ」ように、生きているだけでは、ペストへの加担から逃れることができない。相手と「同じ条件である」ことにとどまっている限りペスト愚者であることからは逃れられない。人間が「より人間的になる」ためには、自らへの倫理的な負担を「他者よりも高く」設定しなければならない。自らのうちに「選び」を感知しなければならない。そのことをタルーは「紳士」というきわめて平凡で日常的な語に託したのである。

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